20/01/25 21:16:17 BmVYuLyW.net
>>301
『尾なし犬』 佐野良二 (1)
何かがぶつかる音がした。暗闇の中で目覚めた克夫は耳をそばだてた。
低く尾を引く唸り声、 この野郎、という人間の声。
母の向こうに寝ている父が起き、障子を開けて縁側に出ていく。克夫も
布団を跳び出した。父は縁側のガラス戸を透かして外を覗いていた。
その後ろにしがみついて克夫も覗いた。雪のなかに棍棒を振り上げた
人影が動く。棍棒は何度も振り下ろされ、同時にけたたましい悲鳴が
起きる。克夫は雪の上をのたうつものから眼を逸らすことが
できなかった。やがてそれは動かなくなった。
「やっつけたか……」
父はかすれた声で言い、それから便所の電灯を点けた。薄明かりが
裏庭一面を白く際立たせ、雪のなかに横たわる犬の形を映した。
鼻の辺りに血が飛び散っている。
「手こずらせやがって」
忠夫の声は白い息になって何度も闇に吹き出した。寒いのか怖いのか、
克夫の体は震えてとまらなかった。
「バツじゃないよね、兄さん」
克夫は最も気になっていたことを聞いた。忠夫は克夫を見た。
それから雪のなかから尾をつかんで見せた。黒い犬だったが
長い尾がついていた。
「おれが間違うもんか」 「ああ、よかった」
それは克夫にとっての実感だった。強張った体の奥にほっとしたものが
灯 (とも) った。