14/07/23 15:51:55.28
『家族のこと話そう』
フィギュアスケーター H生Y弦さん
東日本大震災から十日たったころ、母に「スケート靴を修理しよう」って言われたんです。
仙台市のリンクで練習中に被災しました。
スケート靴のまま逃げたから、靴が駄目になっていたんです。
フィギュアの最初のコーチがとても怖くて「本当は野球がしたかった」って、よく母に愚痴っていました。
そしたら「やめればいいじゃん」って言うんです。そう言われて、逆にやりたい気持ちが大きくなったんですよ。
姉は大学受験を機にやめてしまったんですが、姉弟二人にフィギュアをやらせたのは、両親には大きな負担だったと思います。金銭的にも、試合の送り迎えなんかも。
母は今でも国外遠征や練習に全て一緒に来てくれます。個人競技なので、体調管理や食事の面で支えてくれる存在として、とても大きいんです。
母とは、ずっと行動を共にしているので、けんかもよくします。
中学生のころは、周りの選手が自立しているのを見て「ついて来なくていい」って言っていた時期もありました。
演技のことも「もっと、こうしたら」とか言われたりすると「できないんだって」って反発したり。
姉はその点、経験者だから「できないよね」って理解してくれます。
でも、だんだんと母がいてくれるから結果が残せているんだって思うようになって、反発する気持ちもなくなっていきました。
震災の前まで、衣装はほぼ全て母の手作りでした。試合前は、何日も徹夜して作ってくれるんです。
それを着ると「やるぞ」って気持ちになりますね。震災の後は、各地の練習場を転々としていたので、
ミシンを持って移動することもできず、作ってもらえませんでしたけど。
「夢はオリンピックで金メダルを取ること」と、ずっと言ってきました。
実現したら次はプロになって、お金を稼げるようになったら両親に恩返ししたい。
被災した東北の人たちのためにも、自分がもっと力になれる存在になれたらいいな、と思います。