08/04/02 23:16:04 5RfCTS/G0
【リチャード解説】
藤原先生も述べておられるように、推古天皇には即位状況や政治実権については相当な疑問があるのです。
まず有名なのが中国史書である『隋書』。この中の有名な一文「日の出ずる天子から・・・国号を日本とする」のくだりでは
「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」とあり
また「倭王の姓は阿毎(あま)字(あざな:名前)は多利思北孤(たりしひこ)」と記されているのです。
つまり隋は女帝推古の存在について、一言も述べてはいません。
また多利思北孤に該当する倭王も、記紀には一切記述がありません。
そのためこれが厩戸皇子のことなのか、それとも蘇我馬子のことなのかは未だに大きな謎となっているのです。
また聖徳太子として今も崇められる厩戸皇子の業績も、すべてをそのまま鵜呑みには出来ません。
冠位十二階の制定は、実は天智天皇の時代であったとする説が今は強く
法隆寺も飛鳥時代には今よりも規模が小さく、一度焼失した後に天智期以降に再建されたことが発掘調査によって判明しており
奈良文化財研究所による年輪年代測定法によって、建材のヒノキやスギの部材は668年(天智7) - 685年(天武14)ころに伐採されたものであると発表されているのです。
なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって594年(推古2)に伐採されたと推定されており、これも文献上の建造時期とずれがあるのです。
馬子・蝦夷・入鹿についても、日本書紀では相当な悪役に書かれておりますが、飛鳥時代がクーダター合戦であったことや
2007年2月1日に奈良県明日香村東麓遺跡において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘され
それが日本書紀にあるとおりに飛鳥宮を見下ろす位置に建つ、皇宮をはるかに凌ぐ大邸宅であり、かつ政庁と思われる建物跡を持ちながら
なんと激しい火災によって焼失し、その後人為的に埋められたことが判明していることから、日本書紀が勝者の立場から書かれたものであるとの説が一段と強くなっているのです!
そうです!鼠の運び番は・・・私、いや蝦夷ですっ!
皆さん・・・よくここまで・・・読んでくれましたねぇ・・・。