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・687年(鼠→狐)
持統天皇元年(この時期にはまだ元号はない)。
*中の人注:実はこのあたりから史料が極端に少なくなり、記紀などに記された年号や事象の信憑性が極端に低下する。
よって年号や登場人物においても存在が事実かどうかすら確定しておらず、考古学的知見を交えて「最も可能性が高い説」に沿うことにする。
大化の改新、壬申の乱と続いた古代動乱期を経て、天智天皇の娘であり天武天皇の后であった?野讚良(うののさらら)が
天武天皇崩御後に自ら女帝として即位した。
壬申の乱は天武によるクーデターとの見方が強く、天智の死後に大友皇子(持統の弟)を攻め滅ぼし、天武政権を打ち立てる。
しかしと言うかやはりと言うか、その内情はどろどろの権力争いの繰り返しであった。
持統は息子を跡継ぎとするため、姉(大田皇女)の皇子・大津皇子を謀反の嫌疑をかけて殺し、自分の息子である草壁皇子を皇太子とした。
しかし草壁は即位する前に早世、やむなく自身が女帝として飛鳥浄御原宮で即位。
694年には、藤原宮に遷都した。697年、草壁皇子の遺児、軽皇子(文武天皇)を15歳で立太子させた。同年譲位し、自らは天皇を後見した。
しかし彼も持統の死後24歳で崩御。元明天皇(女帝、草壁皇子の后)、元正天皇(女帝、文武天皇の妹)とワンポイント・リリーフを繰り返し
聖武天皇即位まで迷走を続ける。
もし狐の使い番が持統に近しい者(もしかすると軽皇子か?)だったとしても
即位の願いを聞いてやっただけで、その後の人生までは保障しなかったのかもしれない。神はやはり気まぐれである。