09/01/17 12:24:10
誰も「立証した」なんて言ってないと思うが。
なぜそうも頑なに事件自体の検証を回避しようとするのかなぁ。
「可能性」→「疑惑(仮説)」→「捜査(検証)」→「証明」→「結論」
この道筋は左から右への一方通行だよ。
可能性のないところに疑惑はない。あれば「トンデモ」。
疑惑のないところに捜査はない。あれば「無意味」。
捜査のないところに証明はない。あれば「杜撰」。
証明のないところに結論はない。あれば「間違い」。
でも、この逆はないんだ。
結論がなくても証明はあるかも。
証明がなくても捜査はあるかも。
捜査がなくても疑惑はあるかも。
疑惑がなくても可能性はあるかも。
つまり左の存在は、それより右が成り立つ必要条件だが、右の不在は、それより左の存在や真偽を規定しない。
証明がないことは、疑惑や可能性の議論から逃げる口実にゃ使えないし、疑惑が妥当でないことや、可能性が存在しないことの論拠にもならないってことだ。
オレは疑惑の存在を示し、その根拠を挙げて妥当性を主張し、次のステップすなわち捜査を要求している。
反論するなら、論点は「疑惑の妥当性」という一点になるべきだろう。
もちろん、それより左の「可能性」を完全否定できるなら、どんなに本当っぽい疑惑もトンデモだと言えるが、このケースじゃ、それは無理な話である。
代わりに証明の不在を訴えても、それは「捜査」より右にあるものだから無くて当然だし、現段階では無くても良いものなのだ。
「証明せよ」という要求は、「あり得ない(可能性がない)」という嘘の強弁と同じで、決して疑惑への反論などではなく、単に疑惑の検証を回避しようとする者の言い訳、もしくは妨害しようとする者の詭弁にすぎない。