08/11/09 23:55:06 qeqT4PKP0
>>224
●田は詳しくないし、あんまり土地勘もないので、資料をそのまま要約しますね。
青砥周辺一帯、戦前は日本飛行機関連の軍需工場が広がり、作業員宿舎に朝鮮人10余名がいた。
そして妙法寺の土地埋め立て工事にも朝鮮人が従事したという。
戦後昭和23年には海辺になっていたあたりに約60世帯の朝鮮人が集住しており、
これは日本飛行機の軍需工場の裏山に高さ4~5mはある巨大地下工場を掘るためにできたもので
計76~77戸ぐらいの家があったという証言もある。自力で建てた住宅が軒を連ね、
一度入ったらなかなか出られないような規模であったが、下水道もなく穴を掘って汚水を捨て
上水道も共同水道が1つしかないような生活であった。
敗戦後は廃品回収や豚の飼育やドブロク作り、また春にはアサリを、冬には海苔や海藻を
拾って仲買いに売り日々糊口をしのいでいた。この大きな集住地域も昭和34年には
北鮮帰還事業により半数ほどが北に渡り、昭和36年頃からの区画整理で立ち退き、
中村などに散って行き消滅。いまでは住宅地や市バスの車庫になっており
往時を想像するのは不可能である。
この頃、根岸湾埋め立て工事がはじまり、このあたりの朝鮮人も多数働いたらしい。
敗戦後、市電の●田駅あたりの古い旅館の二階屋で「国語講習所」を開き、
子供たちに朝鮮語の教育を始める一方、在日朝鮮人連盟●田支部をここに置いて
日本飛行機の労働者ストライキを支援したり、メーデーに参加したり、
活発な行動を進めていたとの証言がある。