09/01/31 17:33:06 +O24QOlz0
穢多とは、江戸時代、単に皮屋を意味する公称に過ぎなかった。現代風に言えば皮革産業者である。
皮革産業の現場基地は、百姓村の枝村として点在した。
農村部の皮革業者は、農業を兼業とするケースが多かったが、百姓ではなく、あくまでも皮革産業者であった。
農村部の皮革業者で特筆すべき点は、弊牛馬の取得権であろう。
逆に考えれば、百姓が勝手に牛馬の屍を処理する事が禁じられていたのだ。
行政上、皮革産業が保護されていたと考えるべきである。
因みに、江戸時代、皮屋は儲かる商売だった。
農村部の皮革業者は、兼業で農業を営む事を禁じられなかった。
だが、本格的な農業進出は抑制される傾向があった。
行政上、皮革産業者として公認されていたのであり、百姓として公認されていた訳ではなかったから。
穢多は、公役として牢番役、刑吏役といった役人を務めた。
特に関東では、自らを長吏(役人)と呼んだ。
別に自称役人だった訳ではない。公認された役人だった。武士でないから、あくまでも下級役人であるが。
非人は、補助的なものであり、役人として公認される事がなかった。
非人は乞食身分であり、残念ながら身分内賤民であった。つまり帯刀など認められる訳もなかった。
穢多と非人は、刑務関係の公役業務として交わる。ただ格があまりにも違いすぎる。
穢多(下級役人)が、非人(身分内賤民)を公的に労使した、という関係だった。