09/02/13 11:29:01 0
(>>1のつづき)
携帯電話の利用アンケートを読んでも、喋る派より打つ派が圧倒的に多い。出前や医者の予約もネットで済ます。
会社でもナマが減っている。退職のあいさつを電子メールで済ますことは普通になってきた。
上司が部下をメールで叱責する。メールなら打つ方も読む方も最低数メートルは離れているから
冷静になれる。でも会議室に呼び、1対1で諭すのと、どちらが効果的なのだろうか?
デジタル産業やオタク市場、マンガだけではない。家事ロボットやセルフレジのような機械化にも、
飲食店の個食ブースも非婚現象にもその匂いを嗅ぎ取れる。ブログの炎上も、コールセンターへの
言葉の暴力も、ナマだったらとてもできない。今、ディズニーランドが盛り上がるのは、非ナマ
(非日常空間)とナマっぽいサービス(キャスト)がうまく混合しているからでもある。
ネット内の世界観だった“ナマからの逃避”が実生活にあふれてきた。ナマというノイズへの恐怖心を
和らげる道具やビジネスが増えてきた。もはや「バーチャルな体験は不健康で、ナマの体験こそ
素晴らしい」と単純化できない。
アニメはファンタジーだから非ナマ女でいい。うーん、否定はしないが、“ナマの裸体”を直視しないで、
本当の女が描けるのだろうか? 数々の美人画の巨匠、風間完氏は「美人画は人間を描くこと」だと言う。
自分好みの“いい女”を描こうとひたすら手を動かし続ける。「この女の額には何がつまっているんだろう」
と思いながらコンテを動かす。するとハプニングが起きて、画面に“いい女の表情”が突然出てくる。
自分好みのいい女を描く点では、風間画伯もアニメ志望学生も同じ。違うのはナマ(現実のモデル)と
非ナマ(自分の好み)を一緒にさせようという努力だろう。アート分野だけでなく、ビジネス分野にも
通じるのだが、私たちが生涯を通じてやることとは、自分と市場との折り合いをつけること。
2つの世界のギャップを減らし、歩み寄らせることだ。そのためにはナマを直視する必要がある。
ただ画伯はこうも言う。「いい女の前でいいかっこしたいと思う気持ちがあると描けない。年をとって
女への想いがある程度麻痺してから、ようやく美人画を描けるようになった」。(以上、抜粋)