09/02/11 01:10:43 lfMlF9U90
この田中氏のルポではこれまで知られていた、竹中大臣の生い立ちのエピソードとは変わった一面が紹介されているのだ。
彼は3人兄弟の次男として和歌山市に出生。一橋大学に進学する18歳にまで同市内で過ごした。
学園紛争が原因で東京大学の大学入試が実施されず、彼は一橋大学に進学し、開銀に入行するわけである。
この田中氏のルポでは、竹中少年が、「部落差別問題」に非常な関心を抱いていたこと、履物商をやっていた父親が、
貧しい生計を立てていたことについて描かれている。
竹中という人は、もともと頭は良かったものの、苦学生であり、貧困問題について真剣に考えていた。
開銀に入行したのは、高度経済成長理論の生みの親である、官庁エコノミスト下村治氏に憧れたため、ということは既に説明した。
記事は、その和歌山市内は現在は、行政改革の「地方切り捨て政策」によって疲弊し、現在の日本に跋扈する「ヒルズ族」や
外資系の進出、そのマネーゲームの現状について触れて、「これが差別と貧困を憎んだ竹中が目指したものだとすれば、
『変節』との謗りは免れえない」と締めくくっている。
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ここで私達が知ることができるのは、竹中大臣には「二度の屈折」があったということだ。
一つ目は、部落差別という、いわれなき差別に怒り憤り、自分の貧しい生活をくやしんだ少年時代。
もう一つは、竹中ほどの優等生であれば、受験すれば合格したであろう、東京大学の受験が叶わず、
1ランク下の一橋大学に入学した、ということである。