09/02/01 15:22:22 3VL/Ev/p0
>>350
空襲で実家は焼けた。
食うものも満足にない名古屋には居れず、母親に手を引かれて列車に乗ったり
長い距離を歩いて母方の実家の長野の佐久まで逃げ、そこで終戦となった。
長野では親戚の世話になったが、やはり食料はあまり豊富でなく、薪や水を汲みに谷底にある
川まで上り下りしたり、親戚の家の赤ん坊の面倒をみたりして手伝ったものだ。
名古屋でのことは、ひもじかったことと、空襲でサイレンが鳴って大人が取り乱して
叫んでいるような風景をよく覚えている。家の斜向かいの防火水槽の水を頭からかけられて
手を強く引かれたことを覚えているが、妹がいつ死んだか、その姿は見ていない。
空襲後に家の跡から妹の亡骸が出てきたと後で涙を浮かべた母親から知らされた。
歳の離れた兄は疎開していて死なずに済んだ。
その後名古屋には戻れず、母親が何度か出向いて知人や親戚に父親が復員したら長野の
実家まで問い合わせてくれるように頼んだりしていたがなかなか戻ってこなかった。
復員局へ問い合わせて、フィリッピンで戦死したと知らされた。
母親も昭和33年、私が17歳の頃死んだ。
兄を頼って東京まで出て、兄が始めた商売を手伝った。