08/10/28 21:10:02 rk2Bov/z0
>>147のつづき
正確な数は未知だが、それは数千人に登る。、特に1932年の麻生鉱山で400人の鉱夫が
有名なストライキを行った後は多かったと見られる。
1939年以後の数年間、日本政府の公式発表では724,287人だが、歴史家は筑豊地域では
100万人以上に増大したとして、1,120,000という数字をあげる。
鉱夫の仕事は、もっぱら軍事用の石炭を掘るために困難な層へ下降することだった。
かれらの給与は日本人労働者の給料の3分の1未満だった。朝鮮人の月給は約50円だったが、
独身労働者は食物、衣服、住宅および強制貯蓄が義務的に差し引かれ、月に約10円未満になった。
こうして若い独身者が頻繁に起こった逃亡者の仲間に入らないように罰金を科された。
しかし、そのときでさえ、「貯蓄」はしばしば貯金口座に入っておらず、ただ差し引かれて
ポケットから消えただけだった。
つづく