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(>>4のつづき)
「人間は認識してから定義するのではない。定義してから認識する」。
リップマンは『世論』の中でこう書きました。だから定義を与える「物差し」の一つで20世紀初頭に
影響力を増した新聞という新興メディアの力に期待しました。しかし、今の日本でメディアは
そうした価値判断を提供する力を失いつつあります。
情報技術の進展で大量の情報に瞬時に接することができるようになり、人々はメディアの情報を
選択するようになっています。これは当然の動きである半面、問題もはらみます。ただでさえ難しい
社会の合意の集積が、一段と難しくなっています。
社会全体が一つの方向にまとまって向き合わなければ、解決できない問題があります。温暖化
問題はその典型です。解決のためにCO2を削減しなければなりませんが、それは私たち
一人一人の行動に、制約と負担を加えます。そうした「痛み」のゆえに、国民の合意づくりは
非常に難しいものです。
社会が単一になることは、少数者の意見を潰すという「危うさ」もはらみかねません。だから
国や一部の人による強制的なルール作りは、非常に危険です。そのために、一人一人が
納得する負担についての合意作りが必要です。
しかし、メディアにはもはや意見をまとめる「軸」となる力はありません。それでは、それに
代わる存在はあるのでしょうか。
ネットの言論が少しずつ、深みと広がりを増しています。しかし、ネットは玉石混交であり、
「まとまりのなさ」が特徴で、かつ魅力でもあります。世の中を長期にわたってまとめる軸を
提供することは不可能でしょう。
政治のリーダーシップも軸になることは難しいでしょう。福田首相は、温暖化対策を政権の
重要課題に掲げています。ですが、支持率は上昇していませんし、世の中の流れが変わったとも
思えません。「オピニオンリーダー」と称する人の影響力も限られたものです。
温暖化をめぐる意見をまとめる「軸」となる存在はありません。そして、この問題の解決は人々に
負担を求めます。それなのに温暖化は進行し、早急な対策づくりが求められています。「合意」を
作るための道のりは、難しさを増しているように思えます。(以上、一部略)