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このように私たちは、ひとつのできごとに対して、それぞれの立場から異なる評価を下し、
その結果、互いに誤解している、されているといって落ち込みます。
しかし、重要なことは、誤解もまた、当事者にとっての真実であると認めない限り、解決には至らないということです。
小鳥は、卵から孵(かえ)って、目の前に動くものがあると、それを親であると認識し続けます。
サルや人間も同様ですが、小鳥との違いは、生後の生活経験を重ねていくことによって、認識の補正ができることです。
しかし、それにはかなりの時間が必要です。たとえば、初対面の印象は、およそ15秒できまるといわれていますが、
それを修正するには、その何百倍もの時間が必要です。
ということは、誤解は話し合いによって直ちに氷解するようなものではないということです。
なぜなら、「誤解」だと評されることであっても、その時点の当事者にとっては、真実だからです。「思い込み」、「直感」の怖さです。
私たちは、この世のすべてのものが、原子という粒々からできていると信じていますが、
原子のひと粒をつかみとったという人はどこにもいません。しかし、ある現象を説明するのに、私たちが日常、
目にしている粒子のようなものから世の中ができていると考えることによって、うまく辻褄(つじつま)があえば、
「世の中は原子という粒からできている」と表現してもいいわけです。
私たちの日常生活は、誤解の海の中にあります。そこには、百人百様の真実があります。
となると、誤解を解くには、それが相手の真実であると認めた上で、相手の意思で認識の修正ができるまで、
辛抱強く待つしかありません。それが、「クレメンティア」、つまり「寛容」ということの意味です。
(終わり)