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・原爆開発計画に携わった女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が初来日し5日、広島を訪れた。
「自分がつくったものがどんな結果をもたらすのか。それを考えず、純粋な科学者であった
ことに罪を感じている」。しょく罪の意識から、広島訪問をかねて望んでいた。
「オーフル(awful、ひどい)…」。5日午後、原爆ドーム。ヒントンさんは鉄骨がむき出しの
最上部を仰いだ。「私はただ、実験の成功に興奮した科学者に過ぎなかった」
1945年7月16日。核実験のきのこ雲に、ヒントンさんは胸を躍らせた。米国が始めた
「マンハッタン計画」。12万9000人を動員した計画が結実した瞬間だった。
「科学を信じていた」。物理学を専攻した21歳のころ、放射線観測装置を完成させた才女は
請われるまま同計画に参加。プルトニウム精製を担い、全資料閲覧と全研究施設立ち入りを
許可される「ホワイト・バッジ」を与えられた。約100人しかいなかったという。
核実験の2カ月前にドイツは無条件降伏しており「研究目的の原爆開発であり、使われないと考えていた」。
しかし8月6日。広島上空で原爆がさく裂する。新聞で原爆投下を知ったヒントンさんは声を失った。
「知らなかった。本当に知らなかったの」と、まゆをしかめて話した。
戦後は核兵器の使用に反対する動きに加わった。48年、内戦が続く中国・上海に渡った。
内モンゴルに移住し酪農を営んだ。消えた足跡に、米雑誌は「原爆スパイ」と書き立てた。
健在が知られたのは51年、全米科学者連盟にあてた手紙が中国の英字紙で報じられたからだ。
それにはこうあった。
<ヒロシマの記憶--15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。
そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ>
あの朝から63年。今なお後遺症に苦しむ人がいる。米国を憎む人がいる。
「なんと言えばいいか…」。ヒントンさんは絶句し、宙を仰いだ。(一部略)
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