08/08/06 09:29:54 0
(続き)
しかし8月6日。広島上空で原爆がさく裂する。新聞で原爆投下を知ったヒントンさんは声を失った。
「知らなかった。本当に知らなかったの」と、まゆをしかめて話した。
戦後は核兵器の使用に反対する動きに加わった。48年、内戦が続く中国・上海に渡った。
内モンゴルに移住し酪農を営んだ。消えた足跡に、米国の雑誌は「原爆スパイ」と書き立てた。
健在が知られたのは51年、全米科学者連盟にあてた手紙が中国の英字紙で報じられたからだ。それにはこうあった。
<ヒロシマの記憶--15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。
そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ>
あの朝から63年。今なお後遺症に苦しむ人がいる。今なお米国を憎む人がいる。
「なんと言えばいいか……」。ヒントンさんは絶句し、宙を仰いだ。
(記事終)