08/08/06 09:29:42 0
米国による第二次大戦中の原爆開発計画に携わった女性科学者、
ジョアン・ヒントンさん(86)が初来日し5日、広島を訪れた。
数万人の命を一瞬で奪った科学に絶望して米国を離れ、中国へ渡って60年。
科学者であることを捨て、酪農に従事したが、苦悩がなくなることはなかった。
「自分がつくったものがどんな結果をもたらすのか。それを考えず、純粋な科学者であったことに
罪を感じている」。しょく罪の意識から、広島訪問をかねて望んでいた。
「オーフル(awful、ひどい)……」。5日午後、原爆ドーム。ヒントンさんは鉄骨がむき出しの最上部を仰いだ。
ドーム脇の英語の説明文を一語一語かみしめるように読んだ。
「私はただ、実験の成功に興奮した科学者に過ぎなかった」
1945年7月16日、米国南西部のロスアラモス近郊。
立ち上る人類初の核実験のきのこ雲に、ヒントンさんは胸を躍らせた。
原爆を巡るドイツやソ連との開発競争に打ち勝つため、42年に米国が始めた「マンハッタン計画」。
最大時で12万9000人を動員した原爆開発計画が結実した瞬間だった。
「科学を信じていた」。大学で物理学を専攻した21歳のころ、放射線の観測装置を完成させた才女は44年春、
請われるまま同計画に参加した。ヒントンさんはプルトニウム精製を担い、全資料閲覧と全研究施設立ち入りを
許可される「ホワイト・バッジ」を与えられた。約100人しかいなかったという。
核実験の2カ月前にドイツは無条件降伏しており「研究目的の原爆開発であり、使われないと考えていた」。
ソース(>>2以下に続きます)
URLリンク(mainichi.jp)
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