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>>380のつづき
男の不在
女性誌をかれこれ四半世紀以上読んできて、私が見たことがないのは、ライフスタイルにおける「セックスと家族の相関関係」だった。
親子や子供像がっ出てくることはあっても、そこに夫はいない。日本の女性誌はもともから、女と子供だけのものだった。もともと
日本の家族は、カップの関係より親子の縦の関係を基軸にすると言われていて、その正確な具現でもあった。いや真実を言ってしまえば
もともと、ないのだ、セックスと「家族」の因果などは。セックスと生殖の間にはあるけれど、セックスと家族の間には、ない。ないと
言えば、あっさり、ない。------しかしより重要なのは、女とその子供にフォーカスする限り、女の生活の内実が変わろうと
表面的に見えるものにはなんの変化もないということなのだ。夫が変わってても問題ない。子供の父親が全部違っても、同じ
母親の子に変わりない。視覚芸術においては「関係性」は写らない。女性誌にはずっとずっと「恋人」も「夫」も出てこない。
「モテ」とあんなに騒いでいながらも男の姿はほぼ絶無だった。日本人はキリスト教圏の一夫一婦制に憧れ、欧米的カップル文化
にあこがれたが、男は本当の意味で女と対話しようとなんかしなかったし、その男を女は責めたが、女も似たり寄ったりだった。
そしてその間じゅう、女性誌には男性は存在しなかった。日本の女性誌は「どう気を引くか」「自分が他人にどう見えるか」という
かたちの関係性には過剰なほど敏感で、そのためのノウハウも独自の言語規格も作り上げたが、「恋人やパートナーとどう対話するか」
ということは何も語ってこなかった。だから「ノウハウ」はみんな脳内妄想じみるのである。あれだけ「モテたい」と言いながら
男性への思いやりや共感のかけらもない。利用できるものはカレ友でも利用する。男を金で値踏みする。さらには男性の好みさえ
ろくに研究せず、同性の視線を意識したつばぜり合いを繰り広げる。細かいところで差異を競ううち、男性からはただ異様に
見えるものが流行ったりする。恋人やパートナーとの対話について語らなかったのは「FRaU」に限ったことでなく女性誌は
みんなそうだ。そうした女性誌において、女性が結婚したら、対話できるのは夫ではない。子供である。話の筋道としては整然
としすぎていて寒気がする。