08/06/17 11:43:35 0
・約20年前、幼女四人の命を次々と奪い、猟奇的な手口で日本中を震撼させた宮崎勤
死刑囚(45)。公判では不可解な言動を繰り返し、事件について「良いことができた」と
振り返ったことも。本心だったのか、精神障害を装うためだったのか。17日の死刑執行
まで謝罪や反省の言葉が拘置所の外に聞こえてくることはなかった。
埼玉県入間市などで1988年夏以降、幼女が相次いで行方不明となり遺体が発見された。
「今田勇子」名で犯行声明を新聞社などに送り付けていたのは、当時26歳の宮崎死刑囚だった。
90年3月の初公判。「覚めない夢の中でやったような感じだ」。色白の宮崎死刑囚は淡々と
殺意を否認。「女の子が泣きだすとネズミ人間が出てきた…」。意味不明な言動が続いた。
拘置所ではほとんど面会に応じなかったとされるが、月刊誌「創」(創出版)に送り続けた
手紙の一部が出版された。2006年1月の最高裁判決の直前には、「無罪です」「(事件は)
良いことをしたと思います」と記した手紙を共同通信に寄せた。
最高裁判決当日、宮崎死刑囚は東京拘置所で臨床心理士に面会。判決を聞かされると
「そのうち無罪になります」と答えたという。この約1カ月後に出版した2冊目の著書では、
最高裁判決を「『あほか』と思います」と批判。判決が大きく報道されたことに触れ「やっぱり
私は人気者だ」と感想を語り、「良いことができてよかったです」と事件を振り返った。
一方、その後に創編集長にあてた手紙は「絞首刑は恐怖で残虐。薬を使った執行でなければ
いけない」と死刑を強く意識した内容だった。薬物使用の場合は「余裕があり、反省や謝罪の
言葉を述べる確率も断然高い」とも書いたが、反省や謝罪の気持ちが芽生えることがあった
のかどうか不明のままだ。
URLリンク(www.sponichi.co.jp)
(>>2-10につづく)