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交易の窓口を長崎などに絞り、諸外国との交わりを極端に制限していた徳川政権下の日本。
しかし当時の欧米列強の間では、ロシア、中国、トルコ、神聖ローマ帝国などと並ぶ
「世界の七帝国」の一つとして認識されていたらしいことが、東北大の
平川新教授(日本近世史)の研究で明らかになった。
「七帝国」に関する記述があるのは、蘭学者・桂川甫周が1794(寛政6)年に
編集した『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』だ。
10年のロシア生活の後、1792年に日本に送り返された漂流民・大黒屋光太夫への
聞き取りなどを基にまとめられた本で、光太夫がペテルブルクで聞いた情報として、
「帝号を称する国をイムペラトルスコイといい、王爵の国をコロレプスツウといふ。
(中略)帝号を称する国僅(わずか)に七国にて、皇朝其一(そのひとつ)に居る」
というくだりが出てくる。漂流民の歴史に詳しい平川教授が確認、
先頃開かれた研究者向けのセミナーで発表した。
「帝号を称する国」とは帝国、「王爵の国」とは王国のこと。ここで
「帝号を称する(略)僅に七国」と書かれた日本以外の国々は、
ムガール帝国(インド)、ロシアなどといった大国ぞろいである。
では、「帝国」と「王国」はどう違うのか。蘭学者・山村才助は『訂正増訳采覧異言』(1803年)で、
「威徳隆盛にして諸邦を臣服する大国」のことを「帝国」と呼んでいる。
つまり複数の王国を支配する国というわけだ。
2008年06月03日12時18分 朝日新聞
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18世紀にアムステルダムで発行された「日本図」。欄外に「EMPIRE」の文字が見える
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