08/05/07 10:12:21 QUlYnSMI0
URLリンク(sun.ap.teacup.com)
「アメリカはいかにして日本を滅ぽしたか」
ビル.トッテン著”日本は日本のやりかたで行け”から、マィヶル・ハドソン氏の
{1985年プラザ合意の教訓とその影響}と題する諭支の要約です。
プラザ合意の真の目的とは……
1985年9月22日、ニューョ-クのプラザ・ホテルで、日本は金利を引き下げることにより、
ドルの為替相場を支えることに同意した.いわゅる「プラザ合意」である。これは世界経済安定
のために、先進諸国が協調して相場に介入した事例として語られているが、ハドソン氏によれぱ、
それは表向きのことにすぎないという。
当時大蔵大臣だった竹下登以下日本の高官は、日銀を含む日本の投資家にアメリカの貿易赤字の
資金援助を行なうよう働きかけることにより、日本経済を歪めることに合意したのである。
具体的に言えば、日本が輪出で稼いだドルを米財務省証券(米国債)に投資させたのだ。
日本人は余剰ドル(日本の貿易黒字)を円に換えて日本国内(おょぴ海外の新しい生産設備)に
投資するのではなく、そのドルをアメリカへ融資するょう求められたのである。
アメリ力の狙いは、これによって「ドルの還流」を刺激することであった。
アメリカ側は、もしこの要請を日本が受け入れなけれぱ、円に対するドルの価値を引き下げると
脅かした。ドルの価値が下がれば、海外における日本製品の価格が上がり、日本の輸出業者が苦し
むことになる。またアメリカや他のドル地域(カナダやラテンアメリカ)に、日本がすでに投資し
た円換算の投資価値も目減りしてしまう。そのため日銀は、価格の高い(すなわち、金利の低い)
財務省証券を購人せざるをえなかったのだ。そして、それはさらに別の副産物を生むことになる。
この取引によって日本は低金利政策を敷くことになり、またアメリカでも日本から大量の資金が流入
してきたことが低金利につながった。そこに銀行の安直な融資が加わり、両国内で金融バフルが膨らんだ。
こうして日米は1980年代後半、バブル経済へと突人したのである。