08/04/20 20:38:01 GpHDrtYa0
劉備は他国からの侵略に遭い、逃げ落ちた。
その夜、劉安という漁師の家に宿を借りたところ、肉を煮た料理が振る舞われた。
「何の肉か」と尋ねると「狼の肉です」との答えだった。
ところが翌朝、何気なく覗いた部屋に女の死体があった。
劉安に訳を聞くと、泣きながら「貧しくて何のおもてなしも出来ないので、妻の肉を
煮たのです」と打ち明けた。劉備はいたく感傷した――という。
―読者へ
作者として、一言ここにさし挟むの異例を許されたい。劉安が妻の肉を煮て劉備に
饗したという項は、日本人の持つ古来の情愛や道徳ではそのまま理解しにくいこと
である。われわれの情美感や潔癖は、むしろ不快をさえ覚える話である。
だから、この一項は原書にはあっても除こうかと考えたが、原書では劉安の行為を、
非常な美挙として扱っているのである。そこに中古支那の道義観や民情もうかがわ
れるし、そういう彼我の相違を読み知ることも、三国志の持つ一つの道義でもある
ので、あえて原書のままにしておいた。
読者よ。
これを日本の古典「鉢の木」と思い比べてみたまえ。雪の日、佐野の渡しに行き遅
れた最明寺時頼の寒飢をもてなすに、寵愛の梅の木を切って、炉にくべる薪とした
鎌倉武士の情操と、劉安の話とを。話の筋はまことに似ているが、その心的内容
には狼の肉の味と、梅の花の香りぐらいな相違が感じられるではないか。
―吉川英治「三国志」より