07/10/06 12:06:17
突然だが私は現代社会に大きな疑問を投げかける。
一般的倫理観として自己主義や格差社会が視点とされているが、
その論を述べるにあたって根本的に認知されていないことがあるのだ。
人間は利他主義として生きるのが理想とされている。
確かにこれで現代における政治経済の概念も正常に作動される。
しかし、そこには多大な擦れ違いが生じているのだ。
それは我々が生きる最中に自他の格差関係が生じていることである。
そもそも、個々の人間相互には時間的、思想的な差がある。
例えば他人を使おうとする能動的な人間もいれば
逆に他人から使役される受動的な人間もいる。
また、能動的に使われるという特殊な存在も人間界になくてはならない。
実は以上に挙げた例のうちどれが正しいとも取れないのである。
何故なら人間は均衡に、利他的に生活をしているなら
使役的な存在にはなり得ないからである。
これはある意味、数学的な仮定として受け取られるであろうが、
第三者からすればこれは均衡がとれた言わば「理想の未来像」なのである。
しかしこの倫理を肯定するということは、
これまで否定されてきた偽善者の肯定につながってしまう。
偽善者とは外面と内面に違いが生じる人物観である。
均衡のとれた「理想の未来像」の中には当然、偽善者が紛れている。
法に強制され、関係を前に溢れ出す欲動が自分を支配する。
偽善者としての苦しみはつまり意識である。
自分が偽善者とも知らず、事実上の価値観とは違う評価を受ける。
利益のために他人からの受動を強制している、特殊型の均衡ということになる。
「理想の未来像」を背景としての偽善者は否定することができない。
偽善者とはまさに、その倫理的な利他社会から生まれた産物だからである。
その内面が外観によって人間的な評価の対象となるならば、
人類は今まで否定を続けてきた偽善者を積極的に 受け入れる必要性がある。
それでこその利他社会、均衡社会であり、このような社会的知性の向上は
人生観の根本的変革まで考慮しなくてはならない。