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ある国の政府や生活様式を判断する唯一の指標は、
そうした活動の基盤をなす国民の質である。
政府の掲げる目標がいかに高貴であろうと、
それが国民の品位や親切心をくもらせ、
人間生活を安っぽいものにし、悪意や猜疑心を育むなら、
その政府は悪である。
自尊心が自身の潜在能力と業績から引き出されるのに対して、
プライドはもともとわれわれの一部でないものから引き出される。
架空の自己、指導者、聖なる大義、集団的な組織や財産に
自分自身を一体化させるとき、われわれはプライドを感じる。
プライドは不安と不寛容によって特徴づけられ、敏感で妥協を許さない。
自分の将来の見通しが暗く能力が乏しいほど、プライドをもつ必要性は高まる。
プライドの核心は自己の拒絶である。
しかし、プライドがエネルギーを発し、成功へ拍車をかける場合、
自己との和解と真の自尊心をもたらしうることも事実である。
ある国民の愛国的熱狂は、彼らの享受する自国の福祉や
政府の公平さに、必ずしも直接呼応するものではない。
ナショナリストがもつプライドは、他のさまざまなプライドと同様、自尊心の代用になりうる。
それゆえ、政府の政策や歴史的事件が、国民一人ひとりの自尊心の形成と維持を困難にするとき、
国民全体のナショナリズムが一層熱烈かつ過激になるという逆説が生じる。
ファシズムや共産主義の体制下にある民衆が盲目的愛国心を示すのは、
彼らが個々の人間として自尊心を得ることができないからである。
信仰と恐怖はともに、人間の自尊心を一掃するための手段である。
恐怖は自尊心の自律性を破壊し、信仰は多かれ少なかれ自発的な降伏を勝ちとる。
両者がもたらす結果は、人間の自律性の除去―すなわち、自動機械化である。
信仰と恐怖は、人間の実存を意のままに操作できるひとつの定式にしてしまう。
エリック・ホッファー「魂の錬金術」から