2043年7月25日へようこそ [606483924]at POVERTY
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24/03/17 19:13:50.23 b52yeLNkK
 ドシャラ神は 七曜神である。  151   改めてドジャラ神に捧ぐ

 絵画や彫刻では、9つの頭を持つ蛇・竜王アナンダと、寝そべるシーンがよく描かれ
ています。ヴィシュヌの臍からは、蓮が伸びて、その花の先からブラフマーが生まれて
いる。と言った場面です。ヒンドゥー教のトリムルティの考え方では、世界の創造者は
ブラフマーですが、ヴィシュヌ派神話ではブラフマーは、ヴィシュヌから生まれたもの
であり、ヴィシュヌが、より偉大な存在である。とされ、逆にブラフマー派の神話では
同様の場面でブラフマーの臍から、ヴィシュヌが生まれたとするものもあると言う神話
である。妻のラクシュミーは富と幸運の女神で、日本では吉祥天として、日本仏教にも
取り入れられている。10月末から11月初めに行われるヒンドゥー教の祭典・ディワリは
、もともとはランカ島から凱旋するラーマ王子を祝う祭りに由来する。が、現代では、
ラクシュミーを祀る新年の祭りとして、北インドを中心に盛大に祝われている。この、
モチーフとしてのサラスヴァティー、ガネーシャと共に描かれる「ディワリ・ラクシュ
ミー」は、2頭の像に、水をかけられている「ガジャ・ラクシュミー」という吉祥図が
良くとられる構図だ。ヴィシュヌが乗る神鳥ガルーダは、インド国内のみならずインド
ネシアやミャンマー、タイなどでも信仰されていて、日本仏教でも迦楼羅天として八部
衆の一つとして登場する。ガルーダは、母にかけられた呪いを解くために神々の天界へ
攻め入って不死の薬・アムリタを手に入れ、風神ヴァーユや神々の王インドラを退けて
、ヴィシュヌと共に、帰還を果たし、母の呪いを解く。猛禽、又は人間の体に猛禽の頭
と羽をもつ姿で、ヴィシュヌの下方、またはヴィシュヌを乗せて飛ぶ姿で描かれるのが
主である。インドネシア・タイでは、国章に用いられ、非常に人気のある神の一つだ。

237:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/03/17 19:15:57.87 b52yeLNkK
 ドシャラ神は 七曜神である。  152   改めてドジャラ神に捧ぐ

 瞑想の本来の意味とは、「目を閉じて静かに考えること」を意味する。しかし、ただ
目を閉じているだけではなく、現代では、心を平静にして、自分自身の心の動きを見つ
め直すことを言う。とされる。ここでインドでの瞑想する対象として上がるの要素が、
アグニ(火)、ヴァーユ(大気)、アーディティヤ(日)、カーラ(時間)、プラーナ
(呼吸、あるいは活力)、アンナ(食べ物)、そしてブラフマー、ヴィシュヌ、ルドラ
の9つである。聖仙サティヤヴラタが河で祭祀を行っていると、一匹の魚が手のひらに
飛び乗って、サティヤヴラタが魚を河へ戻そうとすると、その魚は、他の大きな魚に食
べられないように保護してほしい。と願い出る。サティヤヴラタは、魚を連れて帰り、
壺に入れて飼い始めたものの、日ごとにどんどん大きくなる。魚をとうとう飼いきれな
くなり、海へと戻そうとする。と魚は、「7日後に大洪水が来るので。私が船を、用意
するから、すべての生物と植物の種、7人の聖仙を集めて、待てばよい」と、告げて、
サティヤヴラタと別れる。と7日後には、魚の予言の通りに、サティヤヴラタが指示の
様に、生物を集めて待つ、と、正に言う通りに大洪水がやってくる。金色の巨大な体で
現れた魚が、サティヤヴラタ達を乗せた船に、大蛇・ヴァースキを結び付け、ヒマラヤ
まで船を引っ張りあげて助けた。巨大な魚として登場するヴィシュヌは、ノアの箱舟に
通ずるような この大洪水神話において、聖仙を救う存在として描かれます。ここで、
登場するヴァースキは、蛇王(ナーガ・ラージャ)のひとつ。神話上ではヴィシュヌの
乗るガルーダの母親の姉妹・カドゥルーは、1000のナーガ(竜/蛇)を生み、ヴァースキ
はそのうちの一つと言う。ガルーダとは、従兄弟に当たる存在である。蛇王ヴァースキ
は外に紹介するクールマの神話にも登場する。また、聖仙はサンスクリット語で「リシ
」と呼ばれて、厳しい修行によって時に神々をも凌駕するほどの力を持つ事もを指して
いる。

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24/03/25 09:46:28.69 impRJIdIm
 かつて昔

 かつて昔、満州国建国以前には、日本人はこの地が、ソ連共産党の共産主義の南下が
行えなければいい。と言う、極めて安易に、極左の緩衝地や停戦の空白地帯でいい。と
軍部は考えていた。と言うのも、今だ朝鮮半島の経営は行き詰まりのままだったからだ
。つまり、中国大陸や満州どころでない。と言うのがもっぱらであった。しかし、ここ
で、国連に「ユダヤ人救済」の声が英国から上がって、割り当ての収容意見がでるのだ
。ソ連邦でポグロム ( погром)が、チェコを始め東欧で頻発してるので、収容
し、移動させ国作りさせよ。と言うのである。ロシア語で「破滅」「破壊」を意味する
この言葉は、特定の意味が派生する。加害者の如何を問わず、反ユダヤ主義において、
ユダヤ人に対し行なわれた、集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)が、有無を言
わさず行われいる。と言う報告と対処であったのだ。これに幾つもの国が名乗りでた。
ドイツは、アフリカの拡大領地を表明し、アメリカは南米を、カナダやオーストラリア
は自国の未開地を表明していた。がいずれの土地も一からの建設地であった。当然なが
ら日本も手を挙げた。それが新規の満州の土地だった。これが河豚計画(ふぐけいかく
)である。1930年代に日本で進められた「ユダヤ難民の為の移住計画」である。1934年
に、鮎川義介が日本に持ち込み提唱した計画に始まる。とされ、1938年の、五相会議で
政府の方針として定まっていった。実務面で、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重ら
が、選出され主導していった。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き
入れ、自治区を建設する計画であった。が、思いもよらず、ドイツ危機が起こる。大戦
の賠償金インフレである。最悪の状況が1923年である。戦後賠償金の遅延に怒った
フランスが、ベルギーを誘って、借金のカタにルール工業地帯を軍事占領する。これに
対してドイツは、ストライキで抗議。結果、フランス軍も立ち往生し、ドイツ国内経済
は、生産力を失くし、世界史上に最大のハイパーインフレと化した。インフレはモノの
値段が上がることですが、この時の物価が1年で25,000倍に上がりました。つまり去年
の品物が、2万5千円で売られた。と言うものでした。

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24/03/25 09:47:06.58 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・02

 こうして、1923年秋に、共産党と右翼が同時に決起した。このデモ鎮圧にあたる
のが国防軍である。この時には、極右団体ナチスを率いるアドルフ・ヒトラーが、ルー
デンドルフを招いて、決起しミュンヘン一揆を起している。大戦の英雄を連れてくれば
何とかなる。と、思ったのでしょう。が、国防軍は政府に忠誠を誓っていて、国民的な
英雄ルーデンドルフも、銃弾の中で、最後まで行進を続けるほどに価値がなかったのだ
。此の時ヒトラーは、真っ先に逃げ出して、骨折し、逮捕された。ミュンヘン一揆が、
収拾すると、シュトレーゼマン政権は、総辞職し、外交に専念します。そしてフランス
の外相の、ブリアンに頼み込み『払うから、賠償金をまけてくれ』と交渉する。ここで
醜悪なアメリカが出て来て、1924年、ドーズ案が成立した。チャールズ・ドーズは
アメリカ政府と民間の双方で、経験を積んだ財政家で、1925年にアメリカ副大統領
なった政治家だ。このドーズが、とりあえずの二年間の猶予を示したのだ。実はドイツ
は、この頃まだ中央銀行がなく、小公国の集まりで、各地方で紙幣を発行していたので
税収も市中通貨も混乱していたのであった。ドーズ案では、1921年の最後通牒での年間
支払額の、20億マルクと輸出額の26%の返済を、低くし、決済面でもドイツ側の便宜を
図る物だった。ドイツ帝国銀行の口座に、マルクでそのまま払い込むだけで搾取され、
外貨による送金は、連合国の賠償管理委員会がマルク相場を害さない範囲で行うこと。
とされていた。これはつまり、マルク相場が悪化したときに外貨での送金が延期される
ことを意味した。ドーズ案は、核心の賠償金額について未定のままで当初の2年間を、
予算からの支払を免除したものだった。以降は年間の支払額を10億マルクにまで引き下
げ段階的に支払額を引き上げる計画を示した。ドーズ案はドイツの金本位制復帰を命令
し金準備の強化が必要となった。そこでいわゆる「ドーズ公債」を1924年10月に起債し
、額面総額5千万ポンドの外債はロンドンのイングランド銀行とニューヨークの、JP
モルガンが連携して発行された。このうち1200万ポンド、現金払込で1000万ポンドが、
ロンドンでの起債分であった。

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24/03/25 09:47:50.25 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・03

 起債を見越しドイツは8月末に、貨幣法・銀行法を改正して10月 1日に施行させた。
新通貨としてライヒスマルクを制定し発行しこれが標準通貨となった。レートは1兆マ
ルク=1レンテンマルク=1ライヒスマルク=2.79分の1グラム の金塊と規定された。
ヒャルマル・シャハトは、イングランド銀行の支援をうけて金割引銀行を設立したが、
ドーズらの反対で、目的の業務を行うことができずにいた。輸出金融機関として、機能
するにとどまったものの、帝国銀行の下部組織として、しかし、帝国銀行自身では行え
ない業務を代行した。此処にカラクリがある。つまり、ドイツはドイツ紙幣発行と共に
ドーズ債の買い付け者であるし、不足分はアメリカの主要な企業が買って、大型工場を
次々と建設して行ったのである。ディポンやフォード、その他幾多の企業が、ドイツの
安い労働力に生産基地を作る投資をした。アメリカ企業とナチスドイツとの協力関係を
話すには、最初にドイツの企業IGファルベン、について触れなくてはならない。この
I.G.ファルベンは、1925年に、ドイツの化学工業企業8社合併で出来た巨大企業で
あった。当時世界屈指の化学産業はドイツにしかなく、それは、先行したガラス容器の
伝統からだった。I.G.ファルベンの株主はユダヤ人が多く、社長はユダヤ人カール
・ボッシュだった。ヒトラーから「国際金融資本の手先」と言われて非難されたが、カ
ール・ボッシュは、フリッツ・ハーバーと共にハーバー。ボッシュ法の開発を行なって
いて、現代化学の源を作った。高圧化学的方法の発明と開発で、1931年にノーベル化学
賞を受賞し、ナチスが勢力を強めるにつれて、ヘルマン・シュミッツ会長やゲオルク・
フォン・シュニッツラーなどの 取締役は、ヒトラー支持の尖兵に変化して、カール・
ボッシュとヒトラーとは軋轢があった為、追われてしまった。IGファルベンの幹部は
、1933年2月ドイツ産業界の重鎮数人とともに、ベルリンでヒトラーやゲーリングと、
会談し、ナチズムに対する政治的・財政的支持を約束させられている。

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24/03/25 09:48:27.73 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・04

 I.G.ファルベンは1939年までに、ドイツの外貨の「90%」を稼ぎ出し、ドイツの
化学工業製品の「85%」を製造した。その従業員は10万人に達していて、世界の大企業
の中でも アメリカのGM、USスチール、スタンダードオイルにつぐ、4番目に化学
工業企業としては、世界最大の企業にのしあがっている。このIGファルベンはドイツ
のみならず、化学工業の最先端を、ほぼ独占していた。ナチスの戦争経済を維持する上
で、不可欠だった2つの製品がここで作られ、供給した。それは、合成燃料と合成ゴム
である。その大半はアウシュヴィッツにあった 同社の巨大化学工場での、被収容者を
労働力として製造されたと言われる。アメリカ戦争省は、のちに 次のように語った。
「IGファルベンの巨大生産能力、その徹底した調査能力の、巨大な国際的つながりが
なければ、ドイツの戦争遂行は考えられなかったし、実現することもできなかった。」
と言ったとされる。ナチス・ドイツの崩壊後には、破壊つくされたフランクフルトの町
に入って、IGファルベンの建物が、全く無傷で、工場まで建っていたことで米軍兵士
たちを驚かせた。IGファルベンは、敵国最大の、要衝企業だったのに、アメリカ空軍
は、その建物に一切の攻撃を加えなかったのであった。建物は戦後CIAのドイツ本部
となり、復興の中心となった。実はイギリス化学工業界では、このIGファルベンに、
実践対抗し、1926年に「ノーベル産業」「モンド」「ブリティッシュ染料」「ユナイテ
ッド・アルカリ」の4社を合併させて、わざわざICI(Imperial Chemical Industries
)を設立しさせている。イペリットガス。いわゆるマスタードガスはこのゴム製品まで、
浸透するガス開発。或いは、ナイロン爆薬。いわゆるプラスチック爆弾や、C4爆弾も
ここで開発されたからだ。

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24/03/25 09:49:37.89 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・05

 IGファルベンは、世界最大の石油企業であるスタンダードオイルと、密接な関係に
あった。スタンダードオイルはロックフェラー財閥が作った石油精製で巨万の富を得て
いた。スタンダードオイルにいたウォルターティーグル会長は、IGファルベンのヘル
マンシュミッツ会長とは、早い時期から友人関係で、アメリカのIGファルベンの、子
会社のGAFの取締役に就任している。ティーグル会長は、このGAFに多額の投資を
し、シュミッツ会長もスタンダードオイルに多額の投資をして協業していた。ティーグ
ルが1938年にGAFの取締役を退いても、IGファルベンとの協力関係を維持し続けた
。当時の戦闘機や爆撃機には、テトラエチル鉛(ガソリンエンジンのノッキングを防ぐ
為のガソリン添加剤)が必要で、これが無いと飛ぶことが出来なかった。テトラエチル
鉛の権利を持っていたのはスタンダードオイルで、イギリスのエチル社を通じ、テトラ
エチル鉛をIGファルベンに供給し続け、ドイツ空軍の戦闘機や爆撃機が飛べるように
していた。更に、スタンダードオイルはテトラエチル鉛を日本にも供給していて、日本
軍の戦闘機や爆撃機が飛べるようにした。1939年に、アメリカでは合成ゴムが不足し、
アメリカ軍は、軍用航空機や軍用車両の車輪を完成させるのも困難になっていく。が、
しかし、スタンダードオイルは、アメリカ軍に対して合成ゴムの供給を一切しなかった
。この時期、スタンダードオイルは、ヒトラーと契約を結び、ヒトラーはスタンダード
オイル製の 何種類かの合成ゴムを取得することができた。この契約は真珠湾攻撃の後
まで継続している。スタンダードオイルとIGファルベンとが石油と化学製品の独占権
では、世界市場を二分していて、スタンダードオイルとIGファルベンが協定していた
。この為、アメリカ政府は、真珠湾攻撃の後でさえ、アンモニアの合成工程や天然ガス
から水素を取り出す技術を取得できなかった。こうしたいら立ちに、ウォルトディズニ
ーは、自らのバンビの像を、破壊し供出する姿を映像に撮ったのである。

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24/03/25 09:50:06.08 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・06

 実は戦争が起こる前に、イギリスのチャーチルは渡米し、ルーズベルトと会談したが
、そのお膳立てをしたのは、財界人でロックフェラー達であった。戦後世界の羅針盤と
なった「大西洋憲章」は、当時のその成立においては、単なる理想だけを並べた米英に
よる宣伝ビラのプロパガンダに過ぎないものであった。それは一皮剥けば、白人の抱え
ていた植民地主義の補強であって、人種差別の根深さが、見えたものだ。内容選出には
、米英が、寄り添って大西洋憲章を世界に示し、チャーチルの、政治的策略を意味して
いる。参戦する。という明確な言葉こそないものの、米英が一体となって大西洋憲章を
出すことで、アメリカの参戦意図が、世界あるぞ。と言う意思表示の場となったのだ。
今だ参戦もしていない「アメリカ」の国内が、枢軸国との戦争目的を示し、戦後世界の
在り方にまで口を出すからには、参戦の意志を 固めたと見られても仕方ない目論見で
あった。チャーチルにとって、対独戦にアメリカを引き込むことも重要で、日本軍南進
の危機が深まる太平洋での、新たな対応についても、ルーズベルトと早急に話をつける
必要があったのである。石油の供給を絶たれた日本が蘭印に侵攻するのは、時間の問題
と、最初から計算され、見られていたのだ。この事で、サミエル商会は大きく困ってい
た。つまり、早い時期から、この政府系ユダヤ人達は戦争を画策して、独自にもってい
たサミエル商会のシェルの持つ、油井もタンカーも国王海軍の接収によって、ロイヤル
を冠した、ロイヤル・ダッチ・シェルと名を変える事になった。事の発端は、スタンダ
ード石油と、シェル石油に、独占支配されるようになった東洋市場に、1890年代後半に
、強力な新勢力としてロイヤル・ダッチ(正式名称 Royal Dutch Petroleum)が登場し
た。1890年に設立されたオランダの石油会社ロイヤル・ダッチは、蘭印(オランダ領東
インド:現インドネシア)に属するスマトラ東海岸に、随分前から生産される原油を、
精製するため、パンカラン・ブランダンに製油所を完成させていた。

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24/03/25 09:50:54.45 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・07

 1892年にシンガポールやマレー半島向けの灯油の輸出を開始し、その4年後に、蘭印
からアジア・大洋州(日本、中国、東インド、オーストラリア)向け 輸出量300万バレ
ル以上に達して、米国からの同地域向け輸出量にほぼ匹敵するに至っていた。この三者
は激しい販売競争を行う。と同時に、提携相手の模索にも力を入れた。1901年、シェル
はスタンダードとロイヤル・ダッチの双方と、並行的に提携交渉を進めていたが、同年
12月、スタンダードとの交渉を打ち切って、ロイヤル・ダッチとの提携について原則的
に合意し、いわゆる「英蘭協定」(British-Dutch Agreement)を 締結した。この協定
だけでは、シェルとロイヤル・ダッチの 販売競争は収まらなかったが、1903年6月に
、両者にロスチャイルドが加わり、「東方でのお互いの競争をやめるために」三者合弁
(出資比率は対等)のアジアチック・ペトロリアム(Asiatic Petroleum Co.)が 設立
される事になった。ロスチャイルドは、ブニトによって東洋市場向けロシア灯油をシェ
ルに供給していただけでなく、ロイヤル・ダッチにもロシア灯油を供給していたのであ
る。また、1907年にはロイヤル・ダッチとシェルの一本化が成立し、前者60%、後者40
%の持ち分によって、両者の事業を共同化することになった。これにより、ロイヤル・
ダッチ/シェルグループ(以下シェルと略す)が形成され、アジアチックもこの新組織
に組み込まれた。ところが、これを良しとしなかったのが、当時アジア進出していて、
船の燃料に競争による安価な燃料サービスが受けられなくなった英国海軍がそこにいた
。このようにして、米国の、石油資源基盤の巨象ロックフェラーのスタンダードグルー
プと、東南アジアの石油資源に基盤をおくシェルグループが二大勢力となったのである
が、協調していた。

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24/03/25 09:54:31.70 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・08

 ここに、1908年、英国人ウィリアム・ノックス・ダーシー(William Knox D'Arcy )
が、ペルシャ(現イラン)で最初の油田を発見し、1909年には、これを母体として、後
のブリティッシュ・ペトロリアム(現在のBP)の原形である アングロ・ペルシャン
石油会社(Anglo-Persian Oil Company)を設立した。もう一つの国際石油企業勢力が、
設立されていた。この頃は、米国で、テキサス、カリフォルニアの各州で新しい油田の
発見が相次ぎ、スタンダードグループ以外にも大きな石油会社が出現してきていたのだ
。1901年にテキサス燃料会社(Texas Fuel Company:1903年にTexas Oil Company に社
名変更、後のテキサコ)、1907年にはガルフ石油会社(Gulf Oil Corporation)が設立
された。そして、1911年に米国のシャーマン反トラスト法(Sherman Antitrust Act of
 1890)の適用により、持株会社として、スタンダード石油グループを 統轄していた、
ニュージャージー・スタンダード石油会社(Standard Oil Company of New Jersey:後
のエクソン、現在のエクソンモービル)は持株会社の地位を失い、スタンダードグルー
プを構成していた30を超える石油会社は解体されて、独立した石油会社として、互いに
競争することとなった。中でもカリフォルニア・スタンダード石油会社、(Standard
Oil Company of California:後のシェブロン)や ニューヨーク・スタンダード石油
会社(Standard Oil Company of New York:後のモービル、現在のエクソンモービル)
が発展し、勢力を伸ばしていった。後に、スタンダード石油3社(ニュージャージー/
カリフォルニア/ニューヨーク)に、シェル、アングロ・ペルシャン、テキサス、ガル
フを加えた国際石油企業は、後に一般には、7大メジャーズ(Majors)と呼ばれる様に
なった。20世紀初頭に、7大メジャーズを中心とする国際石油産業の体制はほぼ整った
のであるが、この頃のイラン産石油は、英国独占だったのである。つまりペトロシアン
グループは単独で、当初は世界メジャーに仲間入りしていないのだ。

246:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/03/25 09:55:16.71 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・09

 ところが、チャーチルは、何度も、この中東の地を制圧したり、交渉して独占権を、
行使するのに失敗し、第一次大戦前も大戦後も、第二次大戦前にも、無駄骨を負ってい
た。大西洋会談の初日に米国務次官サムナー・ウェルズと英外務省事務次官アレクサン
ダー・カドガンとの事前協議がもたれているが、もはや米国の参戦と日本の南方進出は
間違いない処であった。「アメリカが介入しなければ、イギリス本国と、英連邦の生命
線は寸断される。チャーチルは、このように述べ、私(ウェルズ)に対して、アメリカ
が声明を出すよう懇請したのだった。つまり『これ以上の南下は、イギリス、アメリカ
、オランダとの戦いになる。」と。ソビエトも参戦の可能性があること。このことを、
はっきりと謳った声明を 望んだのであった。もし声明が出ない場合、英国が受ける(
日本の攻撃による)衝撃はきわめて厳しいものになろう。」と語ったと言う。英国では
騎士道について語れば、第二次世界大戦を不屈の「ジョン・ブル魂」で勝利に導いた。
戦勝国英国の「歴史上で最も偉大な人物」として名宰相、ウィンストン・チャーチルを
挙げられ尊敬されている。「ジョン・ブル魂」=英国魂=紳士の熱意である。この概念
は、いわゆる日本の「大和魂」やドイツの「ゲルマン魂」に相当するもので、一言で言
えば、アメリカ流の「不屈の精神」を意味する。「イギリス人固有の、頑固で律儀で、
こつこつと、自分の思いを追求する姿勢。」とされる。チャーチルに重要な国としてあ
ったは、アングロサクソン兄弟国の米国と、欧州制覇の野望を抱いたヒトラーのナチス
のいたドイツだったであろう。アジアで、数少ない独立国で文明国、天皇を戴く日本に
、歴史上も、一定の親近感と理解を持っていたチャーチルにとって、日本は、重要な国
だったとしても、アジアの遠い国だった。1894年、世界周遊の旅に出た両親が、日本に
立ち寄り、離日直後の95年、父ランドルフ卿は死去した。日本からの送られてきた、母
の手紙には、日本の写真が同封され、日本は忘れがたい国であったのだ。

247:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/03/25 09:56:47.48 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・10

 日英両国は、1894年に治外法権を、西洋列強で初めて撤廃する日英通商航海条約を、
締結して関係を深めた。明治の開国後においての親密さからだ。1902年に、日英同盟を
結び、これを評価したチャーチルは、日露戦争でも、同盟国日本が勝利し、英国艦隊が
中国から安全に帰国できるようになったことで、大歓迎を示していた。14年に勃発した
第一次世界大戦で、日本は参戦すべきでない。と主張した外相のグレイ卿に対し、海相
のチャーチルは、太平洋から、ドイツ海軍が立ち退くことを熱望する由を説く、同盟国
の日本の参戦は死活的に、重要な事と考えた。しかしながらも、チャーチルは、21年の
日本との同盟解消を巡る議論では、「米国の反発を忘れてはならない。」と同盟解消を
主導している。現実的で戦略的な、対日観を持っていた。リアルティ主義として米国に
追随し、精神的には日本に望郷の念を持つ。そんな姿がある。米国の雑誌「コリアーズ
」に、「日英同盟の廃棄は、歴史の悲劇的な一章となるかもしれない」と寄稿し予測を
もち、「日本は、同盟廃棄を 日本の人種差別撤廃要求に対する 侮辱的な回答として
受け取っていた様だが、英米は、この点については、かなりに理解不足であった。」と
、その後に悔恨した事を書いている。「廃棄したのは間違いだった。」と戦後には、考
えるようになっていた(関榮次著『チャーチルが愛した日本』)つまり元々「日本は、
軍事的な脅威ではない。」と軽視していて、1931年9月の満州事変でのチャーチルは、
「日本人が中国で行っていることは 我々がインドで行っていることと同じ」と支持し
たし、(ロバート・ペイン著『チャーチル』)、日本が36年に日独防共協定を結ぶと、
事実上の「日独軍事同盟」と警戒し、反日に転じた。37年の日中戦争(支那事変)で、
日英の利害が衝突すると、英国の世論が反日に傾く中、チャーチルは、英国にとっては
、日本は軍事的脅威ではない。と日本を軽視する姿勢を示し、英国に対抗する財力も、
工業力も持ち合わせていない弱国である。とみていた。

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24/03/25 09:57:38.62 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・11

 帝国主義時代の、七つの海を支配した輝ける英国の、貴族の家に生まれ、「白人が、
最も優れている。という、白豪主義の信念を隠そうとしなかった」(リチャード・トイ
英エクセター大学教授)だけに、日本人に対して「東洋の黄色い小人」と蔑視する気持
ちを持ち合わせていたのだろう。39年9月1日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によっ
て始まった第二次世界大戦で、ドイツの攻勢に、劣勢に立たされたチャーチルは太平洋
での日本が、米国に戦争を仕掛けるよう仕向ける「迂回作戦」を取った。石油国有化で
の、ABCD包囲網の構築である。経済封鎖された日本には、残された道はなく、国連
違反しても尚、兵器や砲弾を中共に送り続け、ボートや砲弾すら、ソ連に与えていた。
41年12月8日、真珠湾を攻撃、マレー半島に上陸し、69日後の42年2月15日、英領シンガ
ポールを陥落させて、第一報が伝えられると、これで米国は参戦する。とつぶやき寝室
に入ったと言われている。ところが米国は、既に隠れて参戦していた。英国と同じに、
中国には空軍を義勇軍として送っていたし、合成ゴムの原料やその他、日本が送って来
ていた原料船やタンカーを、新造潜水艦6隻ほど試験走行させて、重商封鎖作戦を指示
して、結構な量の日本船籍の貨物船が秘密裏に沈められていたのである。これらはカラ
ー作戦或いは、オレンジ作戦として、第一次世界大戦直後からの、政府方針だったのだ
。アジアで数少ない独立国で文明国、天皇を戴く日本には、一定の親近感と理解を持っ
ていた英国に対して、米国は常にしたたかであった。世界初の核兵器開発プロジェクト
であった、チューブ・アロイズ計画では、ウラン原料は、ドイツがフランスで接収した
量のみ、と思っていたのだ。その後アメリカのマンハッタン計画に引き継がれのだが、
此の時、その何倍かの量を米国が確保していたと言うウラン鉱石を、決して明かしては
いない。また、太平洋の対岸で「軍事衝突の危機」が迫り、緊張が増し、刻々と平和が
脅かされる。と言った危機感も、持ちながらも、おくびにも出さずに、原爆開発後は、
英国とて敵だ。と、その開発成果を、一切英国に渡さない条約違反も起こっている。

249:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/03/25 10:06:23.38 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・12

 ナチス・ドイツの無条件降伏後の、1945年7月、ベルリン郊外ポツダム宣言を行った
、トルーマン米大統領と、初会談でのチャーチルは、窮地に立たされた日本に、一定の
理解を示す発言を行った。米国の劇作家で歴史家、チャールズ・ミーは『ポツダム会談
の日本の運命を決めた17日間』で、次のように描いている。「チャーチルはトルーマン
に『日本は、無条件降伏は受け入れられないが、他の条件については妥協してもよい、
といってきたそうですよ』と知らせた。・・・・(中略)・・・・私はもしも日本に、
『無条件降伏』を、無理強いした場合には、(戦争続行で)アメリカが被る大変な人的
損害と、それよりも少ないでしょうが、イギリスの損害も、考えてみたんです。将来の
平和と安全のための必要物を 全部入手し、日本に軍事的名誉を保たせる何らかの、見
せかけや、日本の国家的存在の国体のなんらかの保証を残してやるような、なんらかの
他の形式で、これを表現できるかどうかを考えました。」・・・(中略)・・・彼は、
(トルーマンは)、チャーチルが『日本の名誉』といった物を捉えて『私は真珠湾以後
、日本にはいかなる軍事的名誉もない。』と答えた。」と書いている。どういう事か。
と言えば、天皇制維持に固執する日本に、頑として胸襟を開かない米国に、チャーチル
は「日本が最後に求めている『国体護持』を認めて、降伏条件緩和も想定して好いでは
ないか トルーマン君。」と提案したのだった。これこそ日本の武士の美徳として称賛
されてきた、敗者に対する慈悲の情を示す「仁」と言える英国の紳士的境地だったのだ
。アメリカは「挙国一致の大和民族の一体性」とを、非常に気にして危険視していた。
そして又、今後の陸上作戦の兵員の、死傷者の拡大にも懸念を示していたのだ。そこで
、こうした提言をしていた。英国立公文書館所蔵の内閣合同情報小委員会報告書では、
日米交渉が佳境に入った時の41年11月18日に小委員会が開催されて、「日本の政策」と
して、「交渉が決裂すれば、英米蘭との戦端を開く。直ぐに進攻作戦を行う判断を迫ら
れる。」と日本の軍事作戦を予測していた。日本の動向を的確に予測しても尚、日本を
過小評価したと言われるチャーチルは、実は既に英国は余力が無く、東南アジアを米国
にゆだねる決心をしていたのだ。

250:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/03/25 10:12:00.94 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・13

 日本の不幸は 松岡洋右が外交官になり総理に登り詰めた事と 原爆開発の成功であ
る。チャーチル提案は、原爆開発の成功の報で却下される。原爆投下による終戦を企画
し構想したトルーマンは、世界最大の悪行の安易な決断に走った。チャーチル自身も、
その構想を 一応は容認するのだが、この新型爆弾の威力も現実も未来も、まず認識が
なく実情的にも米国を敵にして論ずるほどの馬鹿でもなかった。一時とはいえ絶体絶命
の、この日本のピンチに、惻隠の情を示し、武士の名誉を守ろうとする「武士道精神」
が、そこにはあった。と言えるだろう。ポツダムにおいて、トルーマンに示した日本の
軍事的名誉への配慮は、日本人としては記憶に留めて置くのも善いだろう。大戦後に、
エリザベス女王の戴冠式に、訪英した皇太子明仁親王(上皇陛下、当時19歳)を、支援
するなど、反日感情の強かった英国に、日本を再び結びつけたのもチャーチルだった。
このことは、胸に刻んでおくべきだろう。「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも、
車2台を!」との、スローガンを掲げて圧勝し大統領となったさしものフーヴァーも、
世界恐慌に対しては、有効な政策が取れずに、1932年の大統領選挙で、対立する民主党
のルーズベルトに40州以上で、敗北する歴史的大敗を喫して政界引退した。退任後は、
スタンフォード大学に「フーヴァー研究所」を創設して。真珠湾攻撃の際、参戦に賛成
。後にハル・ノートの存在などを知って、ルーズベルトこそが対米戦争を画策した張本
人である。とするルーズベルト陰謀論を唱えていた。フーヴァーは、広島への原爆投下
を強く非難し、「トルーマン大統領が、人道に反して、日本に対して、原爆を投下する
ように命じたことは、アメリカの政治家の質を、疑わせるものである。日本は繰り返し
和平を求める意向を、示していた事を無にした。これは、アメリカ歴史において未曾有
の、残虐行為を行った。アメリカ国民の良心を、永遠に責むものである。」と綴っている

251:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/03/25 10:13:13.45 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・14

 さらに彼は、英日両国の戦いになれば、日本の保有する多数の巡洋艦が、インド洋や
太平洋にあるイギリス商船を捕獲するか破壊するだろう。と述べていた。占領下の日本
を視察した際にも、マッカーサーとの会談において、ルーズベルトを指して太平洋戦争
は、「対独戦に参戦する口実を、最初から欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」
と、歯に衣を着せぬ批判で酒をのみ指摘した。開戦前の、1941年7月に行われた、在米
日本資産の凍結など、経済制裁については、「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な
戦争に引きずり込もうとしたものだ。」と語ったエピソードは有名である。大統領とし
ての評価は低いものの、多くの大統領の下で閣僚として辣腕を振るったことから、歴代
大統領はそろってフーバーを高く評価している。現実にフーバーの言う通りだったのだ
。こうした連合で、両国は、対独戦を優先するために、日本との衝突をできるだけ避け
ることは、合意していた。しかし、アメリカとイギリスでは、日本の牽制の仕方におい
ては対立している。アメリカは、日米交渉を続けることで、日本と戦争できる準備を整
えるための時間稼ぎを謀る。といったことを提案していて、此の時既に日本を、ただな
らぬ脅威と捉えていて、敵国日本を鮮明にユダヤの軍人と共に出していた。イギリスは
、この強国アメリカから、強い警告や声明を発することで、日本は怯むはずだし、力に
よっての、日本の南進を抑える防衛を行うべきだ。と反論している。つまり南シナ海の
海洋防備を強くすれば、出てこない。と見ていたし、それが希望だった。チャーチルの
本音は、ウェルズ国務次官に語った次の言葉に、よく表れている。「何らかのはっきり
とした声明が必要だろう。アメリカのそのような明確な声明だけが、日本のこれ以上の
南方進出を止めることができる。と信じる。日本が南下すれば、イギリスと日本の衝突
を避けることは出来ず、絶望的となる。」これがチャーチルの考えだったのであった。

252:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/03/25 10:19:00.22 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・15

 実は、アメリカが参戦する前(1941年12月8日以前)の頃、ヨーロッパにおける戦争が
長引くにつれて、ドイツ国内には 深刻な石油不足に陥っていた。石油の備蓄は、ごく
僅かしかなかった。そこで、要請に答えスタンダード・オイルでは、ルーマニアの油田
をドイツにリースした。更に、ハンガリーの油田をドイツに売り渡して、ナチス政権を
助けている。これは、ドイツが既に米国商社の工場、言うなれば米国企業で成り立って
居た事を示す。また、スタンダード・オイルは、タンカーでカナリア諸島のテネリフェ
島に燃料油(ガソリン・軽油等)を運び、その燃料油をそこでドイツ軍に供給したり、
ドイツのタンカーに移し替えたりしていた。アメリカ政府がUボートヘの燃料油供給を
容認できない。と言明した時は、大西洋でアメリカ国籍の商船がUボートに、次々撃沈
されていた。にもかかわらず、スタンダード・オイルはUボートに燃料油を供給してい
たのだ。この時まで、ドイツのイギリス封鎖作戦に、賛成のアメリカと反対のアメリカ
が共存していたのである。また、スタンダード・オイルはナチス政権のために毎週1万
5千トンの航空燃料を生産する製油所を、ハンブルクに建設していた。1941年 7月15日
、アメリカ陸軍情報部チャールズ・A・パローズ少佐は、スタンダードオイルがオランダ
領もアルバ島からカナリア諸島のテネリフェ島へ、燃料油を輸送している。と、陸軍省
に報告した。「スタンダード・オイルは、この燃料油の20%をドイツ軍に供給している
。この航路に就航している 約6隻のタンカーに乗船している高級船員のほとんどは、
ナチ党員のドイツ人であると考えられる。船員たちは、カナリア諸島の、すぐ傍で潜水
艦を、何回も目撃し、また潜水艦が、カナリア諸島で燃料補給をしていることも知って
いると、我々の情報提供者に話している。」と。此の時チャーチルとヒットラーおよび
ルーズベルトの関係は、殆ど第一次大戦前の、イギリス皇太子・ロシア皇太子・ドイツ
皇太子の関係と同じである。先の大戦は「従弟たちの闘い」だったが今度は「白豪主義
の闘い」であったのだ。

253:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/03/25 10:24:13.29 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・16

 「スタンダードオイルのタンカーは、魚雷攻撃を 今日まで1回も受けたことがない
。にも拘わらず、異なった航路やこの地域の就航している 他の多くのアメリカの会社
は魚雷攻撃で、多くのタンカーを失っている。と、この情報提供者は述べている。」と
激しくアメリカ財務省に詰め寄った。財務省は、この報告を受けて、1941年 7月22日、
スタンダードオイルが行なっていた タンジール向けの石油輸出についてを、アメリカ
の国務省と会議をしたが、スタンダードオイルに対して圧力をかけることはしなかった
。というより、出来なかった。結局、真珠湾攻撃(1941年12月 8日)の後も、アメリカ
財務省とアメリカ国務省は、スタンダードオイルや、他のアメリカ大企業が、ナチス・
ドイツと取り引きすることを許可したままで、次々と航海の証明書を、発行していた。
実は、スタンダードオイルは、第二次世界大戦を通してファシストの国であるスペイン
にも、堂々と燃料油を輸送していたのだった。スペインヘの燃料油輸送は、間接的には
、枢軸国側であり、枢軸国を援助することだった。ここに、アメリカ共産党の力が見え
る。スペインのタンカー船団は、定期的にドイツに航行していて、ドイツ大使館やドイ
ツ軍に 燃料油を供給していた。更に、ソ連軍と戦っているスペイン軍にも、燃料油を
供給していた。この状況を憂えた経済学者ヘンリー・ウォルドマンは、1943年2月26日付
の『ニューヨークタイムズ』に、次のような意見を載せた。「考えても見てください。
戦争の真っ最中に、敵国を実際に助けている国がアメリカなのであります。そればかり
か、スペイン大使が詳細に述べているように、アメリカはこのような援助を続けるばか
りか、援助を拡大する準備までしているのです。スペインは敵国です。しかしそれでも
、アメリカはスペインを援助しているのです。」と嘆いている。先の大戦前に、ロシア
の皇太子は、国民が食えない為のデモで退位し、革命に亡命先も無く死亡した。が米国
も、実は大帝や国王こそ居なかったが、此の石油王の抵抗で、給油が止まれば国情分断
は、容易に想像できた。つまり、他国での戦争どころでなく第二の南北戦争が見えてい
たのである。

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24/03/25 10:37:06.16 x9TSV6kCi
 かつて昔・・・・・・・・・17

 こうした報告がなされ問い詰められた。それでも、状況は改善されなかった。 毎月4
万8千トンのアメリカ産の燃料油がスペインを経由し、ナチス・ドイツに供給され続け
た訳である。このような状況の中で、イギリスは苛立った。イギリス情報機関は、秘密
作戦を駆使し、アメリカのマスメディアを操って、スタンダード・オイルと、IGファ
ルベンとの 提携関係を暴露し始めプロパガンダ工作を行った。すると予想通りに、ス
タンダード・オイルの組織で、首脳陣はアメリカ国民から猛烈な非難の声を浴びること
になっていった。この、イギリス情報機関が仕掛けたネガティブキャンペーンによって
、スタンダードオイルのティーグル会長と、彼の跡を引き継いだビル・ファーリッシュ
新社長は裏切り者扱いされ、国賊というレッテルを貼られて行った。ビル新社長は思い
悩み、ストレスのあまりにまもなく心臓発作で死んだ。とされている。残されたティー
グル会長も、老齢の中、顧客の信用を一気に失い、精神状態が不安定になり失意のうち
に第一線を退いた。この反スタンダード・オイルキャンペーンを受けて、アメリカ政府
は、自信が付いて、次々にキャンペーンによる運動が張られた。戦時国債によりスター
を入れたし、映画が作られ、中国支援にも上海空爆の映画を全国上映させた。もちろん
これらに蒋介石夫人の工作も重なっている。米国政府は調査が開始された。しかしアメ
リカ陸軍省と戦略情報局(OSS)には、スタンダードオイルの協力無しにはアメリカ
は、戦争遂行どころか、国体維持の経済を継続できないことを、熟知していた。この為
、スタンダードオイルに対する攻撃をある程度のところで止めるように働きかけていた
。と言われている。同じに、ITTのソスサニーズ・ベーン会長がいる。通信網を世界
中に張り巡らし、世界の電話王になったベーン会長も、ファシスト政権の国々で政治家
をITTの取締役にすると約束し、電話網を急速に広げ、それらの政府からも支持され
ていた。ITT(International Telephone & Telegraph Corp.)は1920年に設立され
たアメリカ企業である。

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24/03/25 10:58:15.37 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・18

 ITTは、現代の電子通信事業の草分け的存在である。つまり1931年までに、世界的
な大恐慌にもかかわらずに、6400万ドル強の資産を持つ大企業に成長した電気通信の、
事業体である。彼はナショナル・シティー銀行の役員にも就任している。1933年 8月、
ベーン会長はヒトラーと会見ししている。ベーン会長は、ヒトラーとの会見を許された
最初のアメリカ人実業家であったと言われる。この会見でベーン会長はドイツとITT
の、政治的な関係を、第二次世界大戦が終了するまで続ける。と約束をした。ヒトラー
もITTに対して、常に助力と保護を惜しまないと約束した。ベーン会長はSS(ナチ
ス親衛隊)に資金を与え、更に友人であったナチス航空大臣ヘルマン・ゲーリングの、
重要な支援者にもなった。航空大臣ゲーリングはドイツのみならず アメリカを初めと
する各国の財界人に幅広い人脈を持っていたのであり、その人脈の中にあった各国財界
人は、ナチス・ドイツを資金的に大きく助けていた。ベーン会長は戦争中も、ドイツに
あるITTを、完全に自分の支配下に置いていたばかりでなく、中立国のポルトガル・
スイス・スウェーデンのITT工場も管理していた。これらの国々のITT工場は枢軸
国向けの軍需品を製造・販売・輸出をしていた。というのも、第一次大戦後期までは、
戦争というのは、実質的にも政府の公共事業であって、権威や威光のつばぜり合いで、
庶民には、政府が軍人を使ったどうでもよい領地合戦と見ていた。というのも、領地に
は、領主いて、その領主の税金がどちらに行こうが、あまり差はなく、逆に領主が善人
かどうかの方が、断然大きいことであったのだ。いわゆるウクライナの以前のドンパス
の散発の砲弾が飛んで迷惑する。その程度の戦争がもっぱらの大戦だった。だが、第一
次世界大戦が終わって、戦車・戦闘機・機関銃・強力化学兵器・毒ガス兵器・細菌兵器
・・・。と次々に発展して、電信や魚雷、と発達し、状況が一変してしたのである。

256:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/03/25 11:13:38.52 impRJIdIm
 かつて昔・・・・・・・・・19

 真珠湾攻撃後、ドイツの陸海空軍はITTと契約を結び、その結果、ITTはドイツ
軍向けに、電話交換機・電話機・警報機・ブイ・空襲警報装置・レーダー装置を製造し
輸出し売り込んだ。また、ITTは、砲弾用の導火線をドイツ軍向けに月間3万本製造
した。更にITTは、ドイツ軍向け砲弾用導火線を1 944年までに月間5万本製造する
。又、ITTは、ロンドンを空襲する為の ロケットの原材料・乾式整流器用の、セレ
ン光電池・高周波無線装置・要塞および、野戦用の通信セットをドイツ軍に供給した。
これに、作家チャールズハイアムは次のように述べる。「この戦略上非常に重要な資材
がなかったならば、ドイツ空軍は、アメリカ軍とイギリス軍の将兵を殺傷できなかった
だろうし、ドイツ陸軍は、アフリカ・イタリア・フランス・ドイツで連合軍と戦うこと
が出来なかっただろう。また、イギリスは空爆されなかっただろうし、連合国の艦船が
海上で攻撃を受けることもなかっただろう。ITTとその関連企業の助けがなければ、
ドイツ海軍の、レーダー提督がパナマから南方の国々を猛攻撃しようと計画したときに
、ドイツ側が中南米の国々にこの計画を連絡することができなかったはずである。」と
。ところが、これらは、逆である。ITTの前身テレフォニカ・スペインはスペインの
企業で、ドイツでの最新式試験所で数々の発見と特許を取っているのだ。ドイツでの、
子会社のC. Lorenz AGを通して、ルフトヴァッフェの戦闘機生産にもかかわり企業拡大
した。1930年にソスシーンズは、AEGと合弁し、スタンダード・エレクトリック・ゲ
ゼルシャフト(SEG)を設立し、更にローレンツ社を フィリップスから買収してドイツ
での本格的な事業展開に乗り出した。その後ナチスドイツ下で大きくなったが、傘下の
フォッケ・ヴルフや自社の生産設備を通じ、ナチス・ドイツの軍用機材や原料を供給。
中立国から、ナチス・ドイツへの情報提供を請け負い一方でフランスから亡命の技術者
を雇用し、連合国向けに防空システムを開発するなど、ソスシーンズは第二次世界大戦
を通じて連合国側と枢軸国側双方に対してビジネスをやり続けたきぎょうである。ただ
これに接触出来なかったのが日本であった。


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