1907年のアメリカ人になったつもりで書き込むスレ★ [408277373]at POVERTY
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21/12/17 18:23:00.44 /E7DerQLv
   1907年異変   この頃 141    「世界の基盤」

 法輪功系マス・メディアの看中国は、2020年11月29日に東京の日比谷公園で行われた
「トランプ米大統領再選支持デモ」は、日本沖縄政策研究フォーラム、統一日報、新中
国連邦、大韓民国自由民主主義を守る在日協議会(韓自協)など、約30の団体と1000人
以上の参加者があったと報じていた。デモは北海道から沖縄まで全国各地から参加者が
集まり、さらには中国人、韓国人、ポーランド人の参加もあった。とも報じているのだ
。先のトランプ信奉のデモの実行委員長は、トランプと反トランプの戦いは「善と悪の
戦い」である。と演説して人気を博した。デモに参加した仲村覚は看中国のインタビュ
ーに対して「もしバイデンが本当に勝ったんでしたら、おそらく日本は沖縄が中国に乗
っ取られてしまう。という強い危機感を持って参加した。問題はアメリカもそうですし
、日本も、事実上中国の統一戦線工作の革命ツールとして利用されている。もはや、乗
っ取られてしまっている。ということに日本全体が、気が付いていない人が多い。と思
います。」と答えている。日本の右派系メディアの文化人放送局は、このデモを好意的
に報じたがそう時間は割いて報道していない。また、日米を中心に、旧満州国の継承を
自称して現在も活動する満洲国政府もジョー・バイデンの当選を認めていないという。
 2020年01月17日に福岡市内で行われた「トランプ米大統領支持デモ」で、開始前集会
で参加者の男性が「ディープ・ステートは、ロスチャイルドやロックフェラーデ、中国
共産党と気脈が通じて結託しており、GAFAを丸め込んでバイデンを支持しているの
は明らかだ。」と言う趣旨のスピーチをする。デモ隊の中に「ピザゲート事件」に関す
るプラカードを掲げたり、「トランプの票を盗むな!」、「トランプは、法と秩序を守
る善の大統領だ!」などの掛け声が、デモ隊から上がり。巨大なトランプ神輿を担ぐ者
がいたりした。マスクをつけずに旭日旗を持ち、チベット旗、東トルキスタン(ウイグ
ル)旗、南モンゴル旗、満州旗と「人権・信仰」と書かれた文字がプリントされた腕章
を付けた男性もいた。台湾旗など多様な顔ぶれが参加し人権問題の国際的救援が、殊更
、日本で加熱した状況のようだ。

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21/12/18 18:51:42.17 l+7kyIZQC
   1907年異変   この頃 142    「世界の基盤」

 聖書的には「最後の審判」、スピリチュアル的には「アセンション」で人類が選別さ
れるという手はずになっている。と言う妄想者がいる。終末の日を待たずとも、実は、
その選別はすでにはじまっているという主張のそれが大選別(The Great Culling)だ。
と言う。よく見ると 中国から逃げて来た民に多い。なんだ支那人か。と安心もできな
い。まさにNWO(新世界秩序)、世界統一政府の実現が暗に示されているともいえま
す。なんて 危機を煽っているからだ。そしてこの“理念”がアジェンダ21に反映され
ており、この“理念=ガイドライン”を2030年まで実現することが世界のエリート層の
間で2015年に決まった。ということです。・・・と平気な顔でいう。この馬鹿さには、
ちょっと追(つ)いていけない。そもそもが、国連成立も日本がやった事で、アジェン
ダの「持続可能な世界の構築」は、世界への祈りを作ろう。と世界宗教会議を開いた事
が発端だ。これはイランにまだパーレビ国王がいた頃だから1965年頃であったろう
。私設仏僧の原田氏が、アラビア石油の社長と共に世界を渡り歩いた末の結果である。
しかし、原田氏が死去しても、同胞だった作家の五井昌久が、宗教指導者として悩める
多くの人々の為に新興宗教を創って後を継いだ。「真理の普及と、祈りによって平和な
世界の創設」を目指し、祈りによる世界平和運動を提唱する。また各界の指導的立場の
人々と親しく意見を交わす五井会を主宰した。昭和24年に神我一体を経験し覚者とな
ったと自称し1955年(昭和30年)白光真宏会を主宰して、祈りによる世界平和運動を唱
えた。個人人類同時成道を説き、その後の世界宗教者会議を知り1970年(昭和45年)に
京都における世界宗教者会議に日本の代表の一人として出席している。この「世界人類
が平和でありますように。」は、神界において、神と五井が約束した「世界平和の祈り
」の冒頭の一節だとされる。この神道理念こそ、実は縄文以前の、言葉の無い時代から
の信仰で、八百神(やおろずのかみ)の信仰宗教なのだ。この八百屋と言う名称でも、
日本は自然現象を恩恵と捉えていて、それがやっと今国際的認知に至ったのである。

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21/12/19 15:19:09.89 j0cLt5jL+
   1907年異変   この頃 143   「合理主義が作る陰謀論」

 オーストリア出身のイギリスの有名な哲学者、カール・ポパー(1902~94)が
、「陰謀論(conspiracy theory)」という言葉を、尤も初期に使っ
た一人でもある。とされている。著書によれば、陰謀論は、世俗化によって失われた神
の意思を「陰謀」によって埋めるものだ。と説く。容易に呑み込めない出来事に原因や
意味を求めるとき、人にそれを説明してくれるのは、かつては「神の意志」だった。と
する。その中で世俗化は、社会の近代化とともに 宗教の影響力が衰退していくことを
意味する。それに伴って、神は世俗的事象の説明概念としては不適当となったいった。
しかし、代わってその座についたのが、何か強力な人間による計画、つまり陰謀、とい
うことで人は納得する。現在も流通する、ユダヤ人、フリーメーソン、イルミナティを
主役とする陰謀論では、そのような近代への移行期のフランス革命前後のヨーロッパの
中で成長した。それらは、近代化の過程で、宗教的・社会的秩序を崩壊させるための、
邪悪な陰謀集団の計画である、と創造し主張したのである。ルターの宗教改革で、人は
信仰を捨てた訳ではなく、新たな科学と言う事象の説明の理解で、神以外の信仰を持っ
た。しかし、教育によって理解の出来る層と、それに理解のない庶民とに差があったの
である。ポパーは、陰謀論を多くの「合理主義者」が抱く妄想理論である、とも言う。
合理主義とは、世界は理性的にできていて、理性的に解き明かせる。という考え方だが
、これは、出来事には明確な因果関係があり、人間の理性はそれをコントロールできる
、という信念で解を求める。しかし、実際の社会では、常に意図しない結果に満ち、私
たちの目的を持って行動する事が打ち砕かれる。たいていは望んで結果を手に入れてし
まい、後悔と疑念に満ちる。陰謀論は「誰がそれを望んだのか?」と問うが、事実上の
すべてを説明できると想定した合理主義者は、現実を理解する理論として「陰謀論」が
ある。

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21/12/19 15:21:25.95 j0cLt5jL+
   1907年異変   この頃 145   「合理主義が作る陰謀論」

 世界に意味はないと考えるよりは、意味があると考える方が、人は生きる望みがある
。特に「なぜ、こんなことが」と思う出来事や状況に直面し、「意味などないが、そう
なんだから仕方ない。」と受け入れるのは難しいものだ。なぜ?こうなるんだ。という
疑問の答えが欲しいし、答えが無いと自分の価値すらも削がれてしまう。「こんな風な
出来事が起きたのは、世の中がこうなっているのは、明確な原因や意味がある筈だ。」
と理解したい要求がそこにある。つまり、私たちは世界を自分の認知可能なコントロー
ル下に置きたいのである。多くの心理学的研究でも、自分自身や環境に対してのコント
ロール要求の不満が陰謀論的信念を増大させるとされている。ある調査では、疎外感、
無力感、敵意、不当に不利益を被っているという感情は、ほぼ陰謀論的信念の成長と、
正の相関があった。とされる。人は陰謀を信じることで世界が混沌としていると考えて
済んでしまう。なぜ自分の人生をコントロールする力がないのかを理解する理由になる
のである。とその調査は示唆している。フランス革命期の、陰謀論ではまさに、「旧来
の秩序の変化を認められない人びと。理解が出来ない庶民」が、現実を陰謀の仕業(し
わざ)として解釈し、自己の価値観を正当化する営みがモアアンドモア(More&More)」
に続く重要な行動となった。「More and more people(ますます多くの人々)」をひと
つにした塊がここにあったのである。自分にとって受け入れがたい物事に対して、それ
がなぜそうあるのかを、自分が受け入れやすい形で合理化する。・・・そうした意味で
、陰謀論は秩序の回復の試みであり、自己のコントロール感や不安を解消する。という
。簡潔に救いや癒やしの方便とも言ってもいい。と説かれれる。それは既存の世界観を
脅かすような出来事の意味を理解するための、ある種の宗教的機能を果たしている。と
も言われているのである。

254:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/19 15:22:22.32 j0cLt5jL+
   1907年異変   この頃 146   「合理主義が語る陰謀論」

 しかし、注目を集めたトランプ前大統領とQアノンの行動はこれに値するかは、又も
違ってくる。Qアノンに関する動画が掲載されたサイトには、最近にわかに陰謀論とは
違った現実の映像によって注目を集めている。その大きな原因はトランプ前米大統領と
Qアノンにかかわる騒動の基本的不満の真実が埋め込まれている。そもそも陰謀論には
初期の学術的研究が幾つかに分かれて存在していた。1950~60年代のアメリカに
は、共産主義陰謀論の隆盛が背景にあった時期もある。さらに2001年アメリカ同時
多発テロ事件(9・11テロ)や、08年大統領選挙の際のバラク・オバマの出生には
多くの疑念から、幾多の陰謀論の蔓延(まんえん)が見られたが、現実的にその解明に
よる救済策には至っていない。例えばそのテロリストの行動に加担しただろう手引き者
の捜査や、他のビルに影響のない倒壊など、数々の不合理に合理的説明の解決はなされ
ていないので、そのまま近年の陰謀論研究の批判を加速させた形に終わっている。この
「9・11テロの発生には米連邦政府が関与している。」という陰謀論の支持者の言明
は、「真実(truth)」に「人」を表す接尾辞 「er」を付けて「真実の徒(truther)」と呼ばれ
る。米シンクタンクの米国エンタープライズ公共政策研究所の調査機関の米国生活調査
センターと、同じ米シンクタンクのアメリカ進歩センターが 合同で20年09月に行った
調査は、「ブッシュ政権はイラク戦争を始めるため9・11テロを故意に見逃した。」の
意見が17%、どちらとも言えないが32%だった。「オバマ大統領は米国生まれではないので
大統領になる資格がない。」と主張する人々も、同じように「誕生(birth)」に 「er」を
付けて「不居権利民(birther)」と呼ばれるが、11年に出生証明書の原本コピーが公開
されているにも関わらず、同調査では15%が支持しているのである。同調査では、Q
アノンが主張する「ディープステート(覆面政府)がトランプ政権弱体化のために活動
している」との主張への支持は29%、「新型コロナは中国政府の生物兵器である」と
の主張は22%となっている。

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21/12/19 15:23:06.40 j0cLt5jL+
   1907年異変   この頃 143   「合理主義が語る陰謀論」

 あえて 煽情(せんじょう)的な表現をすれば、アメリカの歴史は陰謀論と共にあった
。建国直後には、高名な聖職者ジェディディア・モールスが「フランス革命は秘密結社
イルミナティによって、すべての宗教と政府の破壊を目的とした陰謀があり、アメリカ
もその標的となっていた。」と主張し、ワシントン大統領が否定的コメントを出す必要
があるほどに広まった常識だった。モールスは、エリート主義的な中央集権を主張する
連邦主義者で、彼が「無知な大衆」とみなす州権主義者たちの反乱を恐れたのである。
南北戦争期に、北部と南部がお互いに陰謀策略を練り戦い、その結果にも非難し合った
。北部の指導者達は、南部の富裕な奴隷所有者達が、奴隷制度を拡大・保護するために
連邦政府を非合法的に乗っ取ろうとしている。というプロパガンダを宣伝し「奴隷権力
(Slavocracy)」の陰謀を主張した。一方で、南部も、1861年ジョージア州の連邦離脱の
宣言では「彼らが公言している目的は、我々の社会を破壊し、我々の財産を 失うだけ
でなく、我々自身の妻・子供を破壊し、我々の家、祭壇、炉辺を荒廃させることにある
。」などと主張して止まなかった。19世紀末から20世紀初めに南欧・東欧から「新移民
」が増加するが、そこでも「国家ではなく ローマ教皇に忠誠を誓うカトリック教徒が
アメリカを脅かす。」というカトリック陰謀論が流布した。1950~60年代の共産主義の
陰謀論もあった。9・11陰謀論は先に触れた通りだが、連邦政府自体が陰謀論を助長
や主張する主体でもあったのだ。「赤狩り時代」の下院非米活動調査委員会の活動や、
イラク戦争の口実となった大量破壊兵器疑惑などは、その好例だろう。ここに陰謀論は
アメリカ文化の主要な一部である、と主張される。その要因は色々ある。社会の階層や
党派性などによる分断もその一つだろう。例えば調査によれば、新型コロナの中国政府
生物兵器説の支持は民主党員は1割だが、共和党員ほぼ半数が信じている。

256:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/19 15:31:02.69 j0cLt5jL+
   1907年異変   この頃 148   「合理主義が語る陰謀論」

 研究者達は、植民地時代からの神の国を興す為に新天地に来た。正義と自由を広める
という宗教的使命感、民族的多様性と統合の必要性が強めて、祖先はやって来た。とい
う者もいて「非アメリカ的」なものへの疑心、アメリカの中心的指導の理念、「自由と
独立」を奪う中央集権への伝統的な警戒心を止める事は無い。と見ている。これが世界
的に陰謀論が広がる要因になっている。しかし、この物語には日本も無縁ではないのだ
。アメリカだけが特別に陰謀論にまみれた国なのかどうかは断言はできない。米国は、
世界で名だたる国で他地域の陰謀論の実情については、研究が緒についたばかりだ。あ
る研究者は、「バルカン半島では文化的・政治的領域に陰謀論が深く浸透している。」
と指摘し、別の研究者は「陰謀論的な語りが東南アジアのいたるところで見られる。」
と述べている。イギリスの調査会社YouGovが2020年夏に行ったいくつかの一般的な陰謀
論の支持する割合について、21ヶ国の比較調査では、アメリカはおおよそ中程度に位置
している。この調査では、9・11テロに米連邦政府が関与したと信じる割合が最も大
きかったのはトルコの55%で、アメリカ20%、日本18%である。日本はどの陰謀
論でも、一番低い割合に位置しているが、調査項目に「ウォー・ギルド・インフォメー
ション・プログラム」あたりが入っていれば、結果も変わっていただろう。アメリカに
は陰謀論を助長するアメリカ特有の要因がある。他の諸地域もその地域なりの特殊要因
があることは十分考えられる。当然、日本にも日本の要因があるだろう。少なくとも、
1930年代後半から40年代前半と、80年代後半から90年代前半の日本で 流布したユダヤ
陰謀論は、西洋コンプレックスのひとつの形式だった。ともみられている。つまり米国
は、建国時代から 陰謀と陰謀論に覆われた社会であったのだ。此の成り立ちは、テロ
の集団国家中国とも全く同じで、欧州の列強国も時間が千年以上もたったとは言え同じ
で、日本や東南アジアのみが純粋に民の幸福の願いとしての国家なのかもしれない。

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21/12/19 18:21:15.14 j0cLt5jL+
   1907年異変   この頃 149   「合理主義が語る陰謀論」

 しかし、残念ながら、西洋コンプレックスなどとは片づけられない真実が、ウォー・
ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program)である。
太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は日本の
占領政策の一環としておこなった日本国民に対する再教育計画を考えた。「ウォー・ギ
ルト・インフォメーション・プログラム」で主に行われたのは、連合国(米英中等)に
とっての都合のいい解釈のプロパガンダの流布であり、戦争の経過を振り返る新聞記事
を10日間も掲載させて、米国および連合国にとって都合のいい解釈での説明と、戦争の
経過を振り返る事を強要した。週1回のラジオ放送を約2ヶ月間放送しその後も聴取者
からの質問に答える番組を九か月間も放送させた。この名称は、江藤淳が1989年に自著
で紹介したのが最初であったが。公式の日本語として独立行政法人の国立公文書館に、
「戦犯裁判(ウォーギルト)広報(インフォメーション)計画(プログラム)」という
のがあるが、これ自体は戦犯裁判の記録・情報等を公開するだけのものとなっている。
保守論壇ではWGIPという略称も用いているこのウォー・ギルトとも略される戦争作戦は
「戦争決断(ウォーギルト)広報(インフォメーション)計画(プログラム)」で基本
的にはちょっと違う。米国では、戦中・戦後を通じて、陰謀論流行が起こっていた。移
民でありながらも白人優位主義で、一流国であるという自負と自尊心、それに基づいた
行動の結果としての国際的摩擦、 相応ふさわ しい待遇を得られないことへの不満など
、その責任を転嫁するための陰謀論的解釈といった点で、日本とも共通した土壌を抱え
ていた。典型的に、日本の文化・精神の優秀性あるいは独自性を誇示した時、それらが
欧米の陰謀勢力によって脅かされてしまう形で、日本移民が排斥されると、欧米の影響
を排する形で愛国主義の鎖国化が始まっている。国際的地位をそれを取り戻さねばなら
ない、といった主張で覆われたのである。

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21/12/19 18:45:27.61 j0cLt5jL+
   1907年異変   この頃 150   「合理主義が語る陰謀論」

 近年のQアノンの方向性は、日本で受容し新型コロナ関連の陰謀論として成り立って
はいるが、日本独自の要因よりも、世界的潮流の影響の方が大きいと思われる。2010年
代から世界的に見られるようになったグローバリズムやリベラル的な価値観に対する揺
れ戻しが、ネオナショナリズムとも呼ばれる行動になって、世界中に襲ってきているか
らだ。、保守層に強い求心力を持っていた安倍政権は、トランプ政権との親密な関係を
築き日本人に安心感を与えていた。安倍氏の退陣に伴い、政権だったこの間の無進歩に
彼への失望感が高い。世界的にも、期待感からのトランプ氏に重ね合わされたことで、
経済的・政治的な中国脅威論などが台頭し、反グローバリズム・反共産主義的な反ユダ
ヤ主義が台頭し、Qアノンの主張受容の、CCアノンの設立要因ともなっている。先の
WGIPの戦後のGHQ指導要領は、基本的には日本人よりはアジア人に向けてのオペ
レーションだった。しかし、ベトナム戦敗退で、もはや紙屑とも思われて来た。しかし
従来には、リベラルと親和的と見なされてきたニューエイジなどの層は、米国の国内に
おける内乱を想定していたホワイト計画は進められていた。と信じ、日英同盟に対した
レッド・オレンジ計画が世界を破綻させた。と信じている。素直にとっても、日中戦争
における北京の防衛および上海の確保の第二第三の防衛線ラインはイエロー計画として
中国での戦争を扱う中にあったものだ。こうした事で、香港・上海計画は終わり台湾を
手中にと画策する様は、スピリチュアル界隈からも、Qアノンの支持者が多く見られ、
歴史を正確に理解し、過去の記録を知っている若者層である。妄想教徒化の一現象とも
見受けられる事には大きな間違いがあるのが、こうした過去の書籍で良く解る。このよ
うな陰謀論とスピリチュアリティの合流は「陰謀論的コンスピリチュアリティ」として
近年、注目を浴びている。多くは中国からの避難民の支那人サークルから発しているが
、その為中国政府は敏感に拘束連行母国での処刑を行う。いわゆる法輪功虐殺である。
帰化人系で、オーストラリアで作られたサークル形態のまま、日本の大学や若者に多い
活動もかなりにスパイ活動や啓蒙活動つまり、共産党プロパガンダ化している。

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21/12/19 19:01:53.72 j0cLt5jL+
   1907年異変   この頃 151   「合理主義が作る陰謀論」

 新型コロナ関連の陰謀論も、「人類の奴隷的一括管理を 目論もくろ む少数エリート
が新型コロナで人口を適正な数まで削減している。」「ワクチンによってマイクロチッ
プを埋め込んでいる。」といった典型的な「新世界秩序」陰謀論から、代替医療方面の
ワクチン有害論、「ワクチンを打つとアセンション(地球の次元上昇)に取り残される
」などといった、スピリチュアル界隈のものまで、あらゆる物が電波に乗る。複合的な
ものも流布され、新型コロナの流行に伴う社会不安感を煽っている。陰謀論で悲観的な
ものでも理屈をつけることで、認知している良識的なコントロールを奪ってしまう。が
、米国からの、企業スパイ報告は、さらに奇妙な事で人々を驚嘆させている。つまり「
ヒューマンテクノロジー・アーマノイド研究所」の技術がハッカーに襲われたと言う物
だ。ヒューマン・テクノロジーとは聞こえはいいが、要は機械人間でAIやロボットと
の融合である。日本的にはアンドロイドの研究といった研究所だがアーマノイドつまり
兵士の為の機械人間を創ると言う研究所で、一般に全く認知されていないこの研究所が
ハッカー攻撃されたと言うから穏やかではない。噂では、脳の中にチップを埋め込んで
人を操作する研究をしていて、現在レーザ開口手術でチップ埋め込みが成功している。
とされる。脳は、左右対称でそれぞれ脳幹で整理され補完し合っている。ところが、そ
この交差点で上手く処理出来ずに、時々痙攣をおこす症状がある。てんかんとされるも
のだ。色々な症状や起因はあるようだが多くは成長期や幼児期の先天的疾患とされる。
ところが、この症状に電気通貫による治療が目覚ましい発達を遂げ、先のレーザー分割
でのLSIシートでの治療が成功していた。と言う物だ。この研究の最先端技術が盗ま
れたというのだから中国人のハッカー恐るべしである。ウイグル収容所は、確実に生体
実験の手術が行われている。とされこれまでも不妊施術や臓器移植での数々の人権侵害
の情報は多い。ここにきてアメリカと競って のアンドロイド兵士作りとなると、末恐
ろしいとしか言えない。これまでも無人飛行機技術などさんざん盗まれて兵器が中東で
使われている。

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21/12/24 10:51:01.50 jfiUgtKW5
   勘違いする現代のMMC理論    ・・・・152

 謀略は国際社会につきものなのだが、日本に対するアメリカの政府並びにユダヤ金融
は恨みの様に日本を攻め立てて来たのが戦前だった。嘘の限りを尽くして広報活動し、
秘密裏の諜報活動に、多くの将兵がその手先になった。そうした者らが、日本政府の議
員として名声を得、2世3世4世が今の国会の椅子に座っている。そして戦争に突入す
れば国際法などお構いなしの戦いである。ヘンリー・ルイス・スティムソンやクリスト
ファー・スティールなど MI6をも使ってアジア占領に邁進しエリフ・ルートの父親
などは、ナンシー・ホイットニー・バトリックと結婚して、TVで活躍しているパック
ンの家系の中では遠縁の英雄だった。父親オレンは、ハミルトン大学の数学教授を務め
て1878年にクララ・フランシス・ウェールズと結婚している。クララは科学雑誌サイエ
ンティフィック・アメリカンの編集長セイラム・ウェールズの娘で、ルートはクララと
の間に、3人の子供をもうけた。1891年にウォール街の法律事務所「ルート=クラーク
事務所」に就職したが、2年後に共同経営者となったエリフ・ルートは、スティムソン
にとっての理想像で、大いに影響を与えていたようだ。彼も陸軍長官と国務長官となっ
ている。1972年にアメリカ国定歴史建造物に指定された。「エリフ・ルート・ハウス」
は、このルートが1893年に購入した自邸である。エリフ・ルートは1937年2月7日にニュ
ーヨーク市内において死去し、ルートの遺体はハミルトン大学墓地に埋葬された。チェ
スター・アーサーが大統領に就任する時代に、ニューヨーク州南地区担当の連邦検察官
として任命され1883年~1885年まで連邦検察官を務めた。ニューヨーク州憲法制定会議
のメンバーとなって後は、ニューヨークのユニオン・リーグ・クラブに参加し、1898年
から1899年かけて、および1915年から1916年にかけて、会長を2度も務めた。ウィリア
ム・マッキンリー大統領やセオドア・ルーズベルト大統領の下で、信任を得て1899年~
1904年まで陸軍長官を務めあげ、陸軍組織の再編成を行ったのである。まあ奴隷船貿易
は終わっても、中華クーリーの陸送時代の話だった。馬より安い労働力と定評だった。

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22/01/08 16:13:56.07 SsxW7B/3s
   1907年異変   この頃 151   「合理主義が作る陰謀論」

 新型コロナ関連の陰謀論も、「人類の奴隷的一括管理を 目論もくろ む少数エリート
が新型コロナで人口を適正な数まで削減している。」「ワクチンによってマイクロチッ
プを埋め込んでいる。」といった典型的な「新世界秩序」陰謀論から、代替医療方面の
ワクチン有害論、「ワクチンを打つとアセンション(地球の次元上昇)に取り残される
」などといった、スピリチュアル界隈のものまで、あらゆる物が電波に乗る。複合的な
ものも流布され、新型コロナの流行に伴う社会不安感を煽っている。陰謀論で悲観的な
ものでも理屈をつけることで、認知している良識的なコントロールを奪ってしまう。が
、米国からの、企業スパイ報告は、さらに奇妙な事で人々を驚嘆させている。つまり「
ヒューマンテクノロジー・アーマノイド研究所」の技術がハッカーに襲われたと言う物
だ。ヒューマン・テクノロジーとは聞こえはいいが、要は機械人間でAIやロボットと
の融合である。日本的にはアンドロイドの研究といった研究所だがアーマノイドつまり
兵士の為の機械人間を創ると言う研究所で、一般に全く認知されていないこの研究所が
ハッカー攻撃されたと言うから穏やかではない。噂では、脳の中にチップを埋め込んで
人を操作する研究をしていて、現在レーザ開口手術でチップ埋め込みが成功している。
とされる。脳は、左右対称でそれぞれ脳幹で整理され補完し合っている。ところが、そ
この交差点で上手く処理出来ずに、時々痙攣をおこす症状がある。てんかんとされるも
のだ。色々な症状や起因はあるようだが多くは成長期や幼児期の先天的疾患とされる。
ところが、この症状に電気通貫による治療が目覚ましい発達を遂げ、先のレーザー分割
でのLSIシートでの治療が成功していた。と言う物だ。この研究の最先端技術が盗ま
れたというのだから中国人のハッカー恐るべしである。ウイグル収容所は、確実に生体
実験の手術が行われている。とされこれまでも不妊施術や臓器移植での数々の人権侵害
の情報は多い。ここにきてアメリカと競って のアンドロイド兵士作りとなると、末恐
ろしいとしか言えない。これまでも無人飛行機技術などさんざん盗まれて兵器が中東で
使われている。

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22/01/08 16:14:31.25 SsxW7B/3s
   1907年異変   この頃 152   「合理主義が作る陰謀論」

 最初に述べたように、陰謀論は、世界の「分からなさ」を理解するための手段の一つ
だ。その意味では、人びとの陰謀論に対する需要は今後増加こそすれ、衰えることはな
い。グローバル化が進行し、技術が高度化し、社会のシステムが複雑になればなるほど
、世の中がどう動いているのか人びとには捉えにくくなる。自分の専門領域外のことは
何もかも分からなくなる。その過程が巻き戻ることはない。そうであるなら、常に身近
にあり続けるだろう陰謀論に、どう 対峙たいじ すべきか、ということが問題となる。
自分が陰謀論に 嵌は まらないために、また拡散源にならないためにはどうすべきなの
か。何よりも、自分を過信しないことや、証明された真実を知る事やが重要だろう。と
思う。ところがその真実の足かせに、中国や共産党や政府の中央集権国家が位置する。
陰謀論を信じる人々はしばしば、「マスメディア等の情報を鵜呑みにしてはいけない」
「自分の頭で考えることが大事」「自分で調べて真実に 辿たど り着いた」と、いった
趣旨の主張をする。しかし、個人が処理できる情報量は、たかが知れているし判断能力
には限界がある事も事実だ。ある事象について、「自分の頭で考える」のに、どれだけ
の知識や材料が必要なのかすら、見積もることは難しい。9・11テロにおける 世界
貿易センタービルの崩壊過程について本当に「自分の頭で考える」ためには、一編の、
ビデオ映像ではなく、土木工学・建築学の専門知識が最低限必要なはずだが、陰謀論の
主張はしばしば、検証すべき仮定あるいは疑いを、一足飛びに既定の事実と確信してし
まう。ところが、この崩壊事象が全く現代建築学の理論や強度計算に合致しない崩壊だ
ったのである。およそこのビルの設計に置いて 各国が見習うほどの 強高度な計算に
支えられてつくられた エキスバンド広報でのそそり立つビルだったのだ。所謂網目の
密な鉄骨構造で維持されている躯体は、世界最高峰の躯体だったが、実はそこに給水や
電気などの設備は、残念ながら追いついていなかったとされる。ここに疑惑がある。

263:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/08 16:17:07.15 SsxW7B/3s
   1907年異変   この頃 154   「合理主義が作る陰謀論」

 一般的なマスメディアや公式発表に疑念を持つのは良い事かも知れない。が代わりに
動画サイトやSNSで流れる情報を信じるのであれば、それは依存先が変わっただけだ
。前者に対して恣意的な偏向報道や捏造、隠蔽。など拡散防止の大きな組織的野望は、
疑うに値する。だが非難する人々が、後者に対して、同じだけの基準を求めた情報では
ないのも確かだ。SNSなどで発信される情報は、決して無色透明な一次情報とはなっ
てはいない。たとえ本人にその意図がなくとも、しばしば マスメディア以上に、発信
者のフィルターによって加工されていることにも注意すべきだし、恣意的な情報にもな
り易い。このことは、自分が発信者の立場になった場合も同様で「メディア」というと
マスメディアばかり思い浮かぶが、情報の媒介という意味では、何かを発信した時点で
自分自身もメディア媒体となる。情報発信者としての自分に、マスメディアに求めるの
と同様とまではいかずとも、事実検証や発信した結果についての責任があり可能な範囲
で賠償と贖罪を受け、常にそのリスクは負うのである。さらに言えば、インターネット
・SNSの発展では、自らが望む情報を集め、同じ考えとつながることを、格段に容易
にする。しかし。それは誤りで、不都合な情報を遠ざけ、目を背け、自分の価値判断を
正義にすり替えて、維持・強化できる空間に引きこもりかねない。この意味する処を、
自ら意識して「見たくない」情報に目を向ける努力が、常に試され必要になるだろう。
この自分の判断力や情報への信心を過信してはいけない。意識的に自分の価値観と異な
る意見や情報に触れることは大事な行為だ。しかし、何時でも後戻りする余地を残す事
の注意などは一般人で個人レベルでの修養は不可能にちかい。気を付けることができる
事の、レベル認識やその情報によって起る社会現象に、予想するのはプロの記者すらも
難しい。何より、何者かが陰謀を企んでいると主張することは、その何者かを犯罪者だ
と糾弾するということで、強い主張には、強い根拠と責任が求められるのだ。

264:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/08 16:19:11.77 SsxW7B/3s
  1907年異変   この頃 155   「合理主義が作る陰謀論」

 身近な人々が陰謀論を信じてしまった場合はどうすべきだろうか。現在、家族や親し
い人々との関係に悩んでいる方々に対して、安易な解決策を 提示する覚悟も資格も、
私らにはないであろう。それでも何かしらの役に立つかもしれないのであれば、いくつ
か私見を述べたいと思うのだが、身も 蓋ふた もない話ではあるが、他人の考えや人生
に責任を取る必要はない。というのが現代資本主義の答えのようだ。こんだけ話をして
も、おそらく解った人は 1人か2人ではあるまいか。特に竹中金融論でも、プライマ
リーバランスが 企業で無く国の財政執行にそれが必要だ。と言う話を竹中本人が全く
理解してないのには驚くのだが、このように経済学者すらも無能にも理解していない。
陰謀論でも、政治信条が異なっていて、友人ではいられるようには、対立する話題には
触れず人間関係を維持する。という選択肢が最も多く取られる。もちろんある種の皮肉
で、日本でも、例えば国家政党として自民党がある。その中で蠢いているのは利己主義
であって 政党方針の民主主義の飽くなき追及とか 民衆の幸福とか国家運営の未来と
かでは全然ない。小泉純一郎の様な国賊が のうのうと原子力発電反対を 今時に掲げ
全国行脚するのだ。ふざけている。と他人が思っていても、本人は至って真面目なのだ
。これが人間だから仕方ない。陰謀論も、本当に真っ向から論じれば多くの証拠探しと
膨大な量の真実を突き付け、相手を打ち負かす程の弁舌がいる。逆に言えば、それほど
他人の信念に真っ向から向かい合い否定するうには相応の覚悟がいる。そこまでするの
が正しいのか必要があるのか、ということは、をまず最初には考えておかねばならない
。ここに、例えば中国やロシアとの国としての向き合い方や、米国から利用されない程
の国になる必要性。などの技術的な手法が必要なのだが、日本人はそれが苦手である。
中国やロシアや米国、あるいは欧州の先進国……これらの国に一体どうやって正義を、
或いは普遍的愛を届けるのかは、至って難しい難問で、正面から言ってベルサユ宮殿で
嘲笑され戦争に至ったのは、米内が連れて来た若き近衞文麿の3回に及び呼びかけは、
ベルサユの外にいた民衆には受けたが 条約参加者には白い目が放たれた。

265:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/08 16:27:36.50 SsxW7B/3s
   1907年異変   この頃 156   「合理主義が作る陰謀論」

 近衞文麿は、1934年(昭和9年)5月に横浜を発ってアメリカを訪問した事がある。大
統領フランクリン・ルーズベルトおよび国務長官コーデル・ハルと会見している。帰国
後記者会見の席上で、「ルーズベルトとハルは、極東についてまったく無知だ」と語っ
ている。ベルサユ宮殿で意見は抑えられ 米内などから止められた後の会談だったが、
思わしい結果は得られず、既にアメリカのエスタブリッシュメントは極東制圧に傾き、
欧州はイギリスがドイツを押さえる筈だと試算していたのだ。1934年は日本では、帝人
事件がスクープされ騒動の最中に、1月15日には、日本共産党内部の裏切り事件が起き
スパイ疑惑に関する査問事件を「赤色リンチ事件」として公表した。これは張作霖事件
の真相解明に向けた動きなのだったが、日本にスパイがウジャウジャいた事が解った頃
だったのだ。この辺の見識と政治と社会情勢は、全く国民騒動ばかりで噛み合わないが
、当の中国大陸では、既に満州国が建国され、帝政実施。執政を溥儀が皇帝となっての
行おうとしていたので、まあ、総じてジャンジャン建国欲や愛国臭にあふれた人情生活
で熱かったんだろう。文部大臣・鳩山一郎は、多分にアメリカやソ連との軋轢を受けて
いたのだろう。些細な理由で、綱紀問題が起き辞任している。戦後、厳しい評価の近衛
内閣の政策の「真意」は、戦争回避だった。と言われる。しかし、アメリカ工作と中国
の抑圧発散、更に、日本国内の軍部の要求や、スパイの暗躍にと、民衆は無知に振り回
されていて 調和を見出す暇や時間を持つ事が不可能だった。近衛家で1891年に産まれ
、旧華族でも家格が高い「五摂家」の一つが近衛家である。西園寺公望とも縁戚の筈だ
ったが、遠縁で首相になるまで会ってないのだ。貴族院議長を経て1937年第一次内閣が
発足と共に、盧溝橋事件が勃発で日中戦争に発展。時期としては不運の首相であった。
国家総動員法制定や日独伊三国同盟締結、南部仏印(現ベトナム南部)進駐など、昭和
史の転換点となった首相である。ある意味持ち上げられた神輿だったが力がなかったの
である。地位より負ける人間とは多い物だが、これが悲劇の日本の典型例であろう。

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22/01/09 19:57:30.77 gJwnJA77C
   1907年異変   この頃 157   「合理主義が作る陰謀論」

 近衞家には、荻外荘がある。寺社の名建築で知られる伊東忠太の設計で、大正天皇の
侍医だった入沢達吉の別邸を37年に近衛が譲り受けて住んだ。第二次内閣の時に方針
や対米開戦回避を探る重要会談に使われ、敗戦後、A級戦犯の指定を受けた近衛は45
年12月に、ここの書斎で服毒自殺した。ブレーンの松本重治は、第二次内閣組閣直前
の1940年07月19日、荻外荘での会談は、日中戦争解決をはかるためだったと説明する。
日独伊三国同盟はそのためで、大政翼賛会につながる政治新体制構築については軍を抑
える狙いがあったと述べている。大政翼贊會(たいせいよくさんかい)は、昭和15年に
発足した日本の政治結社である。公事結社として「大政」は、天下国家の政治、「天皇
の政治」という意味の美称で、「翼賛」は、力を添えてたすけること。を意味する。つ
まり天子を助くる天皇を護る政治を望んだ政治家の倶楽部であり、如何に軍部の台頭で
政治の危機がひっ迫していたかがわかる。近衛文麿は1936年(昭和11年)3月4日、宮内
省で西園寺公望と会談した際、二・二六事件後に辞職した岡田啓介の後継として西園寺
から推薦され大命降下があった。が、表向きは健康問題を理由に辞退している。真因は
、近衞が親近感をもっていた皇道派が陸軍内において粛清されることに、不安と不満が
あったからとされる。一木喜徳郎が広田弘毅を推薦すると、西園寺はすぐに賛成して、
近衞を介して吉田茂に広田の説得を任せた。3月5日に広田に組閣の大命が下った。が、
吉田茂ら自由主義者を、外務大臣にする広田の組閣案に対して寺内寿一大将などの陸軍
首脳部が難色を示し、干渉した。軍の粛清と引き替えに大幅に軍に譲歩した形で3月9日
に広田内閣が成立した。この広田弘毅内閣もまた不遇な波乱の中にいた。東洋は合議制
であり、西洋は多数決主義だ。この違いは大きい。この国と国民の合議制に於いての軍
の役割は集団が個を攻撃する事には、古今東西全く同じであった。これを避けたい為に
広田は閣内の一致を試みた。

267:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/09 19:58:01.81 gJwnJA77C
   1907年異変   この頃 158   「合理主義が作る陰謀論」

広田弘毅内閣では、すぐさま会議を開き、「国策の基準」を決めた。1936年(昭和11年
)に広田内閣のもとで確認され、日本国の目標や今後目標を達成するための外交や軍事
、国内政策に関する基本方針を決めた。この「国策の基準」は、広田内閣の五相会議に
よって内容が決められた。五相会議は、五人の大臣(総理大臣、大蔵大臣、海軍大臣、
外務大臣、陸軍大臣)の5大臣会議の事だ。内閣の会議、閣議の枠組みの会議は1933年
に初めて行われるほどの政治体制は遅れていた。海軍出身の斎藤実さんが首相をやって
いた頃にやっと出来た会議という形態だった。この時の五相会議の参加者は、広田弘毅
(ひろたこうき)総理大臣、馬場鍈一(ばばえいいち)大蔵大臣、永野修身(ながのお
さみ)海軍大臣、有田八郎(ありたはちろう)外務大臣、寺内寿一(てらうちひさいち
)陸軍大臣の5名であった。会議決定内容は、それ程長々と書かれたものではありませ
ん。日本が東アジアの安定勢力になって東洋の平和を確保し、人類の安寧福祉に貢献し
、日本の理想を実現する。といった内容の壮大な目標がまず掲げられ、その目標を実現
するため、当面の日本の国策を東アジア大陸での日本の基盤を固める。ということと、
南方の海洋に進出すること。としている。更に基準となる方針が東アジアでの欧米列強
の覇道政策を排除して、共存共栄の考えに従い幸福を分かち合おう。ということの合意
や、日本が東アジアの安定勢力という立場を確保するために 日本の軍備をしっかりと
整備することや、日本や満州国の安全を保障するために、ソビエト社会主義共和国連邦
の脅威を、まずは除去し欧米列強との友好関係に留意しながら英国や米国に備え日本、
満州国、中華民国が緊密に連携して日本の経済発展を目指す。ということや他国を刺激
しないように配慮しながら徐々に平和的に南方の海洋へ進出し経済的な発展を目指す。
こと、以上の4つである。つまりは西洋列強対策そのものだったのだ。如何に列強国の
覇道が 日本に迫っているかの現れで、ソ連の南下対策、中国大陸の権益確保、アジア
の共存共栄方針 更に防衛軍備の補強 この4つに終始していたのだ

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22/01/09 19:58:45.17 gJwnJA77C
   1907年異変   この頃 159   「合理主義が作る陰謀論」

 この方針実現の軍事面増強で、陸軍の軍備はソ連が極東で動員できる兵力に対抗出来
る事だった。ソ連と開戦した場合にでも、即座に攻撃をおこなうことが出来るよう満州
国、朝鮮半島に駐留する兵力を、しっかりと整えることを合意した。また海軍の軍備に
ついてはアメリカ海軍を 敵にまわしても日本が 太平洋西側の制海権を確保できる様
な軍備を整える。こととなっている。制海権というのはこの場合で言えば日本が軍事力
によって確保することが出来る、一定海域の自由行動であり、管理制御できる実質的な
権限を持つことであった。その他外交、経済政策、行政機構、国民に対する措置(生活
安定、体力増強、思想健全化など)、航空、海運業発展のための注力、外交機関刷新、
情報宣伝組織の整備などについても簡単な表現で言及してはいる。この1936年国策
の、大きな問題は、国策の基準について「陸軍が北進論(ほくしんろん)」を唱えて「
海軍が南進論(なんしんろん)」を主張し、二者択一ということが出来なかった事だ。
結局、両論併記の内容となった。その為、国策の基準というものがどんな内容かと取り
あげてても、西洋列国の、特に英国や米国の「英米に備え」といった表現でこれらの国
を新たに警戒している様や雰囲気がにじみ出るようなものであった。東アジア大陸では
当時の日本で一番警戒されていた「ソ連」ではあったはずだが。平和的に、南方海洋に
進出する事が必要となって、アメリカ海軍を意識した軍備を整える必要を指摘している
内容に変化したのである。この頃には既にアメリカが仮想敵としてそれなりに意識され
ていた。ただ、従来通り欧米各国との友好関係に留意することも、当時の基準内として
書かれている。この事から、米国に対し著しく強い警戒をしていた。ということでもな
く、米英の情報やプロパガンダ工作などには至っていない。この決めきれない八方美人
で面妖な言葉で覆った日本人癖が、実はシンギュラティなトピックスで、一番の大罪の
もとなのである。

269:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/09 19:59:13.75 gJwnJA77C
   1907年異変   この頃 160   「合理主義が作る陰謀論」

 よく吉田茂さんのような英国や米国と協調した外交を主張する人物が外務大臣であっ
たなら、このような内容の国策基準にはならなかったかもしれない。とされる。ところ
が、外務大臣の有田が西洋や欧米を軽んじていた訳ではない。外務省でアジア局長を務
め、オーストリア公使や外務次官、ベルギー大使、中国大使などをつとめている。どの
くらいの奥深さかは不明だが、1936年(昭和11年)に広田内閣の外務大臣で初入閣した
頃は、既に軍縮会議や欧米との交渉は行われている。又兄の悌二郎は、高等学校教授や
、日本勧業銀行鑑定課長を経て、明治33年(1900年)台湾製糖(三井製糖の前身)設立
に参画し常務取締役支配人となり大正10年(1921年)社長に就任し、明治37年(1904年
)、衆議院総選挙に立憲政友会から立候補し当選し国粋主義に熱中している。以後当選
11回。政友会内で重鎮として重きをなし少数派閥を率いていた。昭和2年(1927年)に
田中義一内閣で、また昭和6年(1931年)に犬養内閣で、それぞれ農林大臣として入閣
し2度目の入閣のときに農相秘書官を務めたのが、政界デビュー直前の河野一郎であっ
た。こうした影響で国粋主義的な考えではあったろうが吉田茂も収監されるまで、その
国民的流行にはどうする事も出来なかったであろう。有田も戦前は「欧米協調派」に対
する「アジア派」の外交官と言われ、1936年(昭和11年)広田内閣時代に何度も蒋介石
の国民政府との防共協定を提案し、近衛内閣時代に「東亜新秩序建設」を推進したが、
。松岡外相の日独防共協定に締結や、日独伊同盟の締結には最後まで反対していた一人
である。追放解除後は革新陣営に属し、日本の再軍備に反対した。有田は東京・白金台
の料亭「般若苑」の経営者・畔上輝井と再婚した。1959年(昭和34年)に有田が都知事
選に出馬すると、畔上は料亭を閉めて有田を支援。料亭を担保に選挙資金を得ようと、
五島慶太との間で話がまとまりそうになったが、岸信介首相の圧力で白紙になった経緯
がある。、三島由紀夫の長編小説。全19章から成る。『宴のあと』(うたげのあと)は
高級料亭「般若苑」の女将・畔上輝井と、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎を、
モデルにした作品であるのは明らかで 長期の裁判となった。

270:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/14 17:39:09.09 D/zQHMmLF
   1907年異変   この頃 161   「合理主義が作る陰謀論」

 有田が、英米協調のような考えを持った立場の人ではなかっただろうが、英米の協調
意見を持っていたとしても、恐らく日本は戦争に向かってはいたであろう。当時の軍部
特に陸軍大臣の寺内寿一などはその後の行動でも随分とバカをやっている。戦後批判は
帝国陸軍上層部は、陸軍で著名な軍人もいたが、2・26事件以降は、失脚したり左遷され
たりで、事実上優秀な人材が枯渇していた状況にあった。特に優秀な逸材は東條英機に
疎まれた為に前線で死んで行った。とされる。逆に東條のお気に入りの木村や牟田口、
富岡などが、のさばりやらかした結果が、戦争敗戦の結果であった。陸軍が愚将だらけ
と言われる一因である。海軍人事の方は硬直の極みで、戦時でも適性を無視した慣習を
挙行し法や決まりを守って、真珠湾攻撃でも空母破壊に至らなかった。通り通り一遍の
人員配置で、色々問題と敗戦の要因ともなった。戦後に海外のアメリカで、「陸軍省の
三馬鹿」と嘲笑された有名な3名の陸軍幹部は、寺内寿一大将、牟田口廉也中将、富永恭
次中将である。因みに彼らは特にイギリスでは、日本兵を大量に見殺しにしてくれた。
ので「勲章を与えられた3人」とのブラックジョークまで出ている。牟田口廉也中将の
愚将ぶりは、死傷者2万人日本兵だけでも 80000人を出したとされるインパール作戦で
の作戦遂行で語られる。①大局を知らず②地域を知らず③天候も解らず③作戦指揮隊員
の声も聴かず④補給路がないという杜撰な戦略の元進められ、⑤その尻拭いもせずにい
た。この奇襲作戦は「太平洋戦争で最も悲惨で愚劣な戦い」と評され、参戦した日本兵
のおよそ9割に当たる約7万8000人が命を落とした。とされている。しかも、主な死因は
戦死ではなく餓死。餓死と自殺だった。敗走路となった現在のアジアハイウェイ1号線
には、夥しい数の遺体が積み重りその痛ましい光景から”白骨街道”という名がつけら
れる。このインパール作戦の責任者、牟田口廉也は戦後に、中華レストラン「ジンギス
カンハウス」の社長として、ぬけぬけと経営者にのし上がってた、という話はあまり知ら
れてはいない。

271:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/14 17:59:38.64 D/zQHMmLF
   1907年異変   この頃 162   「合理主義が作る陰謀論」

 日本側は、北京議定書(中国側呼称・辛丑条約)という国際条約に従って、国際法の中
に従って、中国に駐兵していた。その日本軍を攻撃するという事は、例えれば現在に、
日米安保条約で駐兵している米軍に自衛隊が攻撃するようなものだ。全くとんでもない
事を中国はしでかしていた。それも親日政府とされた、正規の政府軍がやったのだから
、自衛隊が米兵に突然宣戦布告もなく密かにテロ行為をするような、卑怯な手をつかっ
たのである。だが自分達が卑怯であるのは織り込み済みで、自分の領地良民に向けての
空爆をアメリカに依頼までしているのだ。それに米国も対応し、民間の整備員としての
募集をかけ、更に集まらないので、生え抜きの兵士をOBとして送り込んでいる。戦後
になって勝手に身分を変えられ、年金が少額だと裁判されて、その詳細が発覚している
。又、ドイツの軍事顧問団は、既に第一次大戦の敗戦で解消していたが、対抗ナチスの
共産党員として、粛清される恐れから、殆どが米軍の指令下でドイツの顧問団としての
身柄を保持して残った。これにより防御陣地を敷きトーチカまで設置した。普通の国で
は、当然起こりえない事である。日米安保で駐兵している米軍に、わざわざ要望し駐留
させて北伐に行って、帰ってきたら駐留兵を攻撃する。なら普通なら日米安保を破棄し
、正々堂々米軍に出ていってもらえば済む。では、何故中国は そうしなかったのか?
そうしなかったと言うよりできなかったのである。まず、中国に於ける権益は、国際的
に完全に、日本は法規内で認められていた。借金返済の肩代わりと言う 正当な宗主国
移譲は出来ていたからだ。日本の権益下、治安の悪い国土で自国民さえ中国政府は守る
事が出来なかったからだ。中国国内に日本軍要請は、それは日本がいなくては、他の、
どこかの国に守って貰う事が必然で、西洋の決めた国際ルールに従い、ベルサユ条約の
以降は中国の自主独立は、日本の動向にあったのである。当然権益の及ぶ協定条約の、
保護下で、他国の軍隊もいた状態で国内経営していた。もし日本軍に出ていってもらい
たかったら、治安回復し日本に出てくれと協定を結べば済んだのである。

272:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/14 18:05:53.01 D/zQHMmLF
9ヶ国条約締結国に、改めて条約改正の手続きを取れば良かったのだが、ところが平和
裏にそうした事では、援助も無くなり国際社会にもアピール出来ず、なによりも市民の
評判も人気も実力もない政府は、そのまま市民に着き上げられるくらいの悪性だったの
で、それができなかったのである。そこで日本の駐留部隊をわざわざ呼んで、そして、
あえて米軍機で日本が空爆し攻撃するような映画を作り、現実のリアルシーンを映像に
納めて、米国の映画会社に配布すると言う暴挙に出たのである。イエロージャーナルの
商業主義の資本家達も、これに全面的に参加して協賛したのだ。911と同じである。

273:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/14 18:07:07.99 D/zQHMmLF
着き上げられるくらいの悪性 → 突き上げられるくらいの悪政

274:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/14 18:18:40.69 D/zQHMmLF
   1907年異変   この頃 163   「合理主義が作る陰謀論」

 1652年、ネーデルラント連邦共和国は、イギリスとの貿易戦争に敗れ、スペインとの
大海貿易にも敗れている。このオランダの民の植民地が、ニューアムステルダムで現在
のニューヨークの元である。つまりネーデルランド王の管轄していたオランダ西インド
会社は、インディアンや、ニューイングランドに入植したイギリス人からの攻撃に備え
て壁を作り、木材などを利用して築いた砦がここのニューヨークの始まりとされている
。この対策防護壁(wall)に由来する街が、ウォール街である。もっとも、実際の戦闘
で利用されることはなく済んで、闘いのない砦は、1699年に解体された。1606年にトマ
ス・スミスを中心とするロンドン商人達は、北アメリカ大陸への植民を目指し、イング
ランド国王ジェームズ1世の、植民事業の会社設立に勅許状のお墨付き貰って着く港が
ここであった。この会社のジョイント・ストック・カンパニーはロンドンに本社設立し
ている。間もなく会社はバージニア会社と名を改めて、出資者を募って12月に、最初の
植民者105人を 北アメリカ大陸に送って行く。当時船旅は危険で、途中1名を死亡させ
ながらも 渡航者104名をスーザン・コンスタント号3隻に乗船させ船団は、翌1607年4
月に、ヘンリー岬に上陸した。植民者たちは新天地で、入植に適した土地を求めてさ迷
い、ジェームズ川をさかのぼる。5月に河口から約50㎞ほどさかのぼった地点に生活を
決めて、そこを入植地と定めた。国王ジェームズにちなんでジェームズタウンと命名し
、タウンは北アメリカ大陸におけるイギリス白人の最初の永続的植民地となっていった
。しかし、この場所は川に突き出る半島となっており、先住民族であるインディアンの
襲撃を防ぐには好都合な地形であったが、この一帯には、潮水がせまる湿地であって、
飲み水に塩分が含まれ、またマラリアなどの疫病が発生しやすい地形だった。しかも、
入植者達は、共同生活の基盤を固める十分な用意がなかった。こうして白人たちは同地
苦労の地で生活し、インディアンの襲撃にも備えた生活をした。白人達のいきなりの、
生活は、生活基盤も無く、インデアン襲撃という暴力行為で生活し、彼らにその存在を
知らしめた。

275:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/14 18:29:29.12 D/zQHMmLF
   1907年異変   この頃 164   「合理主義が作る陰謀論」

 この入植からわずか半年あまりで、入植者達は、飢えとマラリアで半分以下に減少し
て行った。「飢えの時」と言われた時代の到来である。1608年に38人にまで減少した。
そのような混乱の中にあった入植者を救ったのは、なんとインディアンのポウハタン族
の人々の優しさであったのだ。ポウハタン族は「すべてを分け合う」という インディ
アンの本来の共同生活の理念に基づきて暮らしていた。飢えた白人侵略者達にも、生活
の仕方を教え、食料や水を与え、彼らを援助していくのである。当然大きく内部には、
反対者もいただろうが酋長はよくこの集団を治めていたらしく、丁寧に教えているのだ
。がしかし、白人の入植者側では、植民請負人のジョン・スミスが、入植者に対して、
全力で開拓にとりかかるよう説得を試み、勇ましい規制を敷いて自由を制限し、入植地
の実権を人殺ししても握っていった。イギリスの母国が期待したような黄金は同地には
なく、白人入植者達の生活も、はインディアンから恵んでもらったトウモロコシなどの
穀物を栽培して、やっと食料の確保に努めるのが関の山だった。しかしながら、慣れな
い地でのトウモロコシ栽培は、全くうまくいかず、スミスは周辺を船でうろつき、沿岸
のインディアン部族を、鉄砲や大砲の武力で強迫し、食料を略奪して回っていく生活を
している。イギリス本国のバージニア会社は、会社の運営機構の改革に着手し、新たな
勅許状獲得を行い、黄金を求め会社の権限が及ぶ地域の境界を広げた。が重要なことは
、この時、植民地経営と当地の決定権が、明確に会社の評議会に附与された点である。
会社側は移住者の送迎資金の確保するために、株式公開をし、大きな富がない者でも、
渡航費を支払ってくれる者には、バージニア会社の株主の地位を与えて渡航させていた
。その資金さえないものには、植民地で7年間の働く条件で、会社の年季契約奉公人と
して登録し渡航させた。植民地では、株主も奉公人も、ともに労働が要求され、奉公人
の年季が明ける7年後には、奉公人は自由になり、株主は会社が上げた利益の配当と、
少なくとも百エーカー(ちなみに東京ドーム9個分)の土地の配分を受けることが約束
される。と勝手に販売までしだしたのだ。これがアメリカの始まりである。

276:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/14 18:43:23.59 D/zQHMmLF
  1907年異変   この頃 165   「合理主義が作る陰謀論」

 しかし、地主であるインディアン達先住民の全く預かり知らない与らないことであり
当然軋轢を持った。この1609年改革は、短期的に、政治的に経済的にも、大きな効果を
全く上げなかった。しかしながら、改革に含まれる年季契約奉公人や土地配分の考え方
は、その後の植民地発展には重要な折点を果たした。この年から、バージニア会社では
新たな植民者の送り出しにせっせと努力し、約400人ずつがジェームズタウンに到着して
人口を増やして行くのである。こうした、新たな入植者を迎える現地で、ただでさえも
食料が不足していた中で、困窮を極めてしまう事は当然だった。1610年バージニア植民
地総督に任じられて着任した第3代デラウェア男爵「トマス・ウェスト」は、同年夏に
ジェームズタウンに到着した。この困窮からの脱却の指令での着任である。デラウェア
は戒厳令をもって統治に当たる、入植者を強制的に労働に従事させた。白人奴隷の様相
である。家屋が集団行動で建てられ、トウモロコシも計画栽培され、植民地はどうにか
存続が可能な集団共同生活にまでなった。しかしながら、本国に送られた毛皮や材木で
、植民地投資がなされても、それに応えた利益を生み出せる見通しは、全く立たなく、
植民開始から10年を経た1616年を迎えても、さしたる利益の配当は出来なかった。それ
どころか会社は破産の危機に瀕した。そんな中で、バージニア植民地に恩恵をもたらし
たのは、インディアンの儀式の煙だった。集団生活でとりあえずの自立とインデアンの
労働者を得ていた中で、タバコの喫煙習慣は、本国に知らされ、瞬く間に流行した。お
りしも黒死病の病原菌退治にまで使われて評判の品となった。この煙草栽培は恵みの、
逆転経済をもたらした。イギリスではエリザベス1世時代に、ウォルター・ローリーに
よって、タバコが嗜好品として知られ、バージニアではジョン・ロルフがインディアン
が植えていたタバコに目をつけ、ロルフはタバコ栽培を唱導した。ただし、バージニア
土着のタバコは悪臭が強かったので、人々は、西インド諸島で開発された風味ある品種
を栽培していった。

277:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/14 18:52:20.03 D/zQHMmLF
   1907年異変   この頃 166   「合理主義が作る陰謀論」

 ここのバージニア植民地の生活は、このタバコ栽培の産業によって、大きく改善され
ていった。植民地におけるタバコ栽培と商品化は、1614年にはじめて、イギリス本国に
4樽のタバコを送ることで結実したのだ。この輸出量は6年後には27トンにまで達し、
タバコの輸出で利益がもたらされることがわかると、入植者たちは競ってタバコを栽培
するようになった。タバコ栽培の成功は、バージニア会社に植民地経営を見直す機会を
もたらした。そして1619年、ジョージ・ヤードリーやエドウィン・サンズらによって、
バージニア植民地の大規模な改革が実施されて行き。土地の共同経営が廃止されて、か
つて、人頭の権制による土地の私有が、ここで認められた形になった。以前からの住民
中、株主の権利を有する自由民には、約束通りの 100エーカーの土地が与えられ、新た
に自分の費用で移住する者には、1人につき50エーカーの土地を所有する権利も持てた
。さらに、奉公人を連れてくる者には、奉公人1人につき50エーカーが与えられて新規
の移住者も移り住んだ。人頭権制により、資金のある者には、奉公人の数に応じて、広
い土地が与えられ、会社は、付与した土地から 小額ではあるが、免役地代を徴収して
利益を得ることができた。税金の始まりである。人頭権制は、バージニア会社が廃止さ
れた後も存続して、大地主のプランテーションを形成する基盤ともなった。これらの、
大きな改革により、植民地の基礎は確固としたものになった。バージニア植民地は、北
アメリカ大陸に設立された「一番古いイギリス領植民地」である。1607年にバージニア
会社によって設立され、1624年にバージニア王室領植民地(1624年~1776年)を経て、
そして1776年のアメリカ独立宣言により、アメリカ合衆国最初の13州「13植民地」の1
つの、バージニア州となった。チェサピーク湾に面し、現在のバージニア州・ウェスト
バージニア州・ケンタッキー州の全域、およびオハイオ州・インディアナ州・イリノイ
州・ミシガン州・ウィスコンシン州を領域とした。同じくチェサピーク湾に面する北隣
のメリーランド植民地と併せてチェサピーク植民地とも呼ばれる。今日竜巻災害に見舞
われた地の昔話である。

278:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 02:11:28.17 ILsGHGz3S
   1907年異変   この頃 167   「合理主義が作る陰謀論」

 インディアンに対しては、白人たちに多くの誤解がある。まあ黒人に対しても奴隷を
して置いて家畜とみなした時代だったから、当然ではあったのだろうが。バージニアの
会社の入植者がジェームズタウンに上陸した当時は、バージニア植民地南東部のタイド
ウォーター地域には、既に2万人近くの先住インディアン部族が居住していたのである
。そしてその中心となっていたのがポウハタン族であり、周囲のアルゴンキン語族系の
インディアン部族と連合国家「ポウハタン連邦」を築いていたのだが、欧州の白人族に
それらの詳細を知る由もなかった。ジョン・スミスら白人入植者(インディアンから見
れば侵略者達)は、このポウハタン族の有力な酋長であるポウハタン酋長を、「ポウハ
タン連邦すべてを支配する指導者」つまり勝手に王様だと思い込んだ節がある。スミス
らはポウハタン連邦を「帝国」と捉え、ポウハタン酋長を「皇帝」と思い込んだまま、
大英帝国の本部や国王議会に報告した。このために、「インディアンの酋長は部族長で
ある。」とイギリス人たちは誤認したまま、以後の植民地侵略行為を推し進めることと
なっていった。白人達はまず「酋長(白人には大指導者に見えている)を屈服させれば
すべての部族民はこれに従う。」と考え、酋長に対する威嚇と懐柔、脅迫、交渉を始め
て行く。しかし、アメリカ・インディアンの社会は基本的に合議制民主主義であって、
酋長とは、その合議の中での「調停者」で「議長役」なのであって、独任制のある代表
での首長というのは存在しない。ポウハタンの連邦においても、すべての政治決定では
「ロングハウス」という会議場で、「会議の火」を囲んで合議で決定するシステムで、
「部族長」や「指導者」による上意下達のシステムは存在しないのであった。ジェイム
ズタウンの入植者は当初、インディアンとの友好関係を重視したが、ジョン・スミスが
指導者となり、インディアンに、強腰でなければ有利な交渉ができないと、銃の威力を
もって威圧した。白人たちはポウハタン酋長を「王」だと勘違いし、すべての要求を彼
に対して行ったのである。

279:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 02:11:52.41 ILsGHGz3S
   1907年異変   この頃 168   「合理主義が作る陰謀論」

 この合議制のなかの、調停者を「指導者」と思い込んだ白人たちの要求は、インディ
アンには理解不能なものだった。また、インディアンの社会は「大いなる神秘」の下、
森羅万象を、すべてを共有する平等社会であって、土地はだれでも利用できるものであ
り続けてその日まで生きて来たし、それが共通認識であり道徳だった。基本の意識の、
だれのものでもない。という共通土台がインディアンの社会なら、侵略者たちは常に王
や支配者が物を統治する。と言う考え方で、相入れなかった思想だった。酋長(部族の
代表ではない)のに贈り物をして、土地を彼らから譲り受けたつもりになっていたが、
そもそもインディアンは「土地を恒久的に譲る」という白人の考えを理解していないま
ま時が過ぎて行った。当然、理解不能な行為を繰り返す白人入植者と、ポウハタン連邦
との関係は次第に険悪な状態になった。第1次アングロ・ポウハタンの戦争が起こるが
(1610年~1614年)詳細は「第1次アングロ・ポウハタン戦争」を参照しても解る様に
、銃器や軍隊を持たないバラバラの特攻的攻撃は、白人たちにとっては、只の襲撃に過
ぎず、意味を持たなかった。そして1609年、対立は戦闘へと発展し、ジョン・スミスは
とうとうポウハタン族の酋長たちを武力で脅迫し、略奪と虐殺を繰り返した。しかし、
反撃により、その年の大爆発事故で負傷し、同年12月には帰国を余儀なくされたのだっ
た。翌1610年、バージニア植民地総督で第3代デラウェア男爵トマス・ウェストは同年
夏にジェームズタウンに到着し、遂にインディアン部族との戦闘に備え、デラウェアは
アイルランド方式の戦略形態を導入した。そしてポウハタンの村へと侵入し、家屋を燃
やし、食料を略奪し、トウモロコシ畑に火を放って焦土作戦を推し進め、暴力の限りを
尽くす。ポウハタン酋長としては、入植地が拡がらなければ、金属製品などの入手を続
けられるので、連邦の利益になる。との考えで受け入れていた者らが、謀略の侵略者で
あるのは困り物だった。調停者であるポウハタン酋長は友好回復の機会を伺い、そして
、そのような機会を作ったのは、ポウハタン酋長の娘、ポカホンタスであった。

280:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 02:12:52.02 ILsGHGz3S
   1907年異変   この頃 169   「合理主義が作る陰謀論」

 1612年、ポカホンタスはポトマック族を訪問中に、イギリス船に、誘いを受けてる。
誘い出されて、拉致監禁される事件が起こった。イギリス側では、彼女を人質として、
捕虜となっていたイギリス人兵士の解放、奪われた武器の引き渡し、トウモロコシなど
による多額の賠償の支払いを要求する事が目的だった。ポウハタン側から数ヶ月回答を
留保している間に、ポカホンタスは入植地で宣教師からの英語を習って、洗礼を受け、
語学の理解をさせられた。1614年、ポカホンタス側は、釈放を条件にジョン・ロルフの
求婚に応じ、「レベッカ・ロルフ」という英名をつけられ、ポカホンタスの拉致は政略
結婚で終了する。結婚式には彼女の親族も何人かが出席し認めた。ポウハタンも2人の
結婚を認め、儀礼用の鹿革の衣服を贈って祝福した。これが契機となり、入植者とポウ
ハタン連合との和平成立が起こった。ヴァージニア植民地の出資者たちは、ジェームズ
タウンにイングランド本国からこれ以上新しい入植者を募るのも、このような冒険的な
事業に対して、投資家を募り探すのも困難になったことを悟った。そこでポカホンタス
をマーケティングのエサにして、「“新世界”のインディアンが文明に馴らされたため
、もはや植民地は安全になった。」とイギリス本土の国民を納得させようとした。1616
年、ポカホンタスはロルフとともにイングランドに連れ去られ、ジェームズ1世とその
家臣たちに謁見させられる羽目になった。彼女はそこで「インディアンの姫」と、紹介
されイングランド国内にセンセーションを巻き起こした。新世界アメリカの最初の国際
的有名人の誕生だった。しかしそれが、より多くの投資と王の関心をヴァージニア植民
地にもたらす試みを、大成功にさせ終わった。

281:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 02:13:24.79 ILsGHGz3S
   1907年異変   この頃 170   「合理主義が作る陰謀論」

 インディアンの社会において、「王族」など存在しないから、ポカホンタスを「姫」
とするこのプロパガンダは、全くの誤りであるし、騙りであった。イギリス白人は終始
一貫してポウハタンを野蛮な帝国と見なし、そのように扱った歴史をもつ。しかし残念
ながら、インディアンの土地で育った彼女にとってロンドンの空気は汚れすぎてて、肺
を侵され病気を患った。ロルフは、彼女の健康回復のためバージニアに帰ろうとしたが
、病状は急速に悪化して、ポカホンタスは、このイギリスの地で1617年3月に死去した。
(死因は天然痘、肺炎、または結核など、異なる記述が各種の資料となっているようだ
。)ポカホンタスの死を知らされたポウハタン酋長も、この報に元気を失い、病床につ
いて調停者の役割を 弟のオペチャンカナウに後を引き継いでもらった。そして1618年
に死去している。引き継いだオペチャンカナウは、かつて人質時代に、スミスに短銃を
突き付けられて、トウモロコシ20トンと引き換えに開放にされたことがある人物だった
が、それでも寛大にも「白人入植者」に対しは、ポウハタン族が住んでいない地域への
入植を認める事をやっていく。彼の心中は複雑だったが、当然先進国の技術に適う事は
無く、敵対して、住民を危険にさらして、命を奪う行為は、族長として出来なかった。
植民地側には、終始、好意を示し行動した。共に生きる事を選んだのである。オペチャ
ンカナウはまた、白人のインディアンに対するキリスト教の布教にも、協力的な態度を
とった。もちろん酋長は支配者ではないので、これはオペチャンカナウ個人の好意にす
ぎないものだった。部族内には当然反対者もいただろうが、文化や西洋社会を知る上で
の 仕方ない行為でもあったのだろう。こうしてアメリカ合衆国が築かれて行ったのだ
が、その後もウォール街はこうした諸事情から塀を解き、1792年、材木の取引のために
商人や投資家が集まり非公式に取引所を開設した。これがニューヨーク証券取引所のは
じまりとなった。一重にインデアン部族の英語習得などによって開かれたのがニューヨ
ク証券取引所の 真の姿だったのである。

282:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 12:13:16.36 d/u6dELO/
   1907年異変   この頃 171   「合理主義が作る陰謀論」

 もし日本が、アメリカ型の政体を真似ると言う議論ならば、この悪行悪態にハマる。
と言う愚かさを背負っている事になる。実はこれ以上の共産党社会があっての対抗措置
であろうが、同じ土俵にしかいない。日本の様に公共心や公徳心あるいは道徳と言う形
がしっかりしていても、ソ連からやって来たお馬鹿なコミンテルン思想で、中国民に、
手を貸して叩いた。中国共産党の陰謀と米国の悪行に敗けた日本なのだが、まあ歴史は
変えられない。米英戦争をきっかけに 民主党選出の第七代大統領の、アンドリュー・
ジャクソン大統領は、州立銀行を奨励して、米国を蝕み牛耳ろうとするウォール街の中
の資本家に、危険を感じ成長を阻んでいた。州立銀行での株や債券は、シティ・オブ・
ロンドンの資本家に購入されていたが、1837年恐慌が起こって州立銀行が兌換停止に追
い込まれた。その時、第二合衆国銀行の特許更新を阻止していた事がたたり、最後の貸
し手を欠いてしまう。この反省から、ボストン経由のウォール街への資本集中が進んで
いったのだが、南北戦争では実際にジューニアス・モルガンとジョン・モルガンの親子
が、大きく貸し出し暗躍したのだ。後者は1907年恐慌の立役者となり、また金ぴか時代
に台頭したロックフェラー家と共に、連邦準備制度の創設に参加している。モルガンが
第一次世界大戦では、政府に融資をするが、この密約は、カナダのオタワが舞台となっ
ている。その縁からブリュッセル・ランバートのグループには強力なカナダ資本が参加
して狂騒の20年代に、メロン財閥が勢い力をつけて国政に関与したのである。そして、
ウォール街の大暴落 (1929年) が始まる。ペコラ委員会で、ジョン・モルガンの息子の
ジャックのインサイダー取引を暴いた事がきっかけで、ウォール街に対する規制熱は、
第二次世界大戦に参加するまで続いて行った。

283:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 12:15:01.50 d/u6dELO/
   1907年異変   この頃 172   「合理主義が作る陰謀論」

アメリカ独立戦争と南北戦争の間の、その時代に「エイジ・オブ・ジャクソン」とか「
ジャクソン・エラ」と呼ばれた彼が、死んで行く頃の 1950年代を通じて株価が上昇し
、インサイダー取引が復活し、うまみにつられて、これらフロンティアエイジと言われ
た、ちょっと金持ちの野良のブローカーがウォール街に押し寄せ、それで活発な商いの
株取引になっていたのだ。しかし、その陰で市民から金を集めた銀行や保険の投信業界
が、構成がほぼ同一の取締役会での決め事を謀り、グループのファンド・営業・運用と
各部門を全て操り支配していた。証券取引委員会は、この投信業界がファンド購入者と
利益相反して三部門を統括している問題には、全く手が回らなかったのだ。これら活況
の値上げに、ドイツやソ連などの資金を集めた欧州銀行業界が介入して、利潤のこぼれ
を拾いに行かない筈も無かった。当然参入となれば二次曲線以上の上昇を迎えた。そも
リスクというのは、「損害や危険な事象の可能性」のことだ。日常社会にも企業活動に
多くのリスクが存在する。天変地異もあれば、盗難や事故もある。病気や怪我をはじめ
、保険や証券などの金融関連、環境関連など、あらゆる事象や活動にリスクが伴ってい
る。むしろリスク・ゼロという事があり得ない事だ。無闇(むやみ)に無謬(むびゅう
=誤りがないこと)性を追求するのではなく、リスクを、実害のない程度に小さくして
安全を確保することが重要なのだが、米国にはそうした管理処方どころか、逆にリスク
を煽った商法で潤っていたのである。その後に、管理手法としてリスク管理(あるいは
リスク・マネジメント)の概念が生まれ、予防的にあるいは事後的に低減したり回避し
たりして損失を極小化することが行われる様になったが、基本的に西洋主義では。投資
そのもののリスクを信じてはいない。日本の様に常に起こる天変地異に備えるなどとは
しない。備える事が 経済損失を産むリスクと捉えているからだ。

284:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 12:31:47.98 d/u6dELO/
   1907年異変   この頃 173   「合理主義が作る陰謀論」

 情報システム関連業界でも、リスクという言葉がよく使われる。開発のリスク、運用
のリスク、セキュリティーのリスクなど、さまざまなリスクが語られ、テクノロジーと
人とが絡む複雑で脆弱(ぜいじゃく)な仕組みであることを示唆してもいるようである
。特に情報システムの、開発段階でのリスク問題は深刻であり、計画通りに進む事案は
3割も満たないと言われる。特に今回大銀行のみずほが、ショートアセッションのプロ
グラムで機能全停止が行われた。ショートつまり焦げ付きで、アセッション昇華や次元
移動、プロムグラムの処理が追いつかなくなってプログラムエラーの前に停止したのだ
。この安全弁に金融庁は、警告を発した。しかし、こんな巨大企業にし合併を進めたの
は金融庁本人で許可したのも金融庁である。こんな馬鹿な省庁の話はない。実際問題と
して、このショートアセッション、巨大化による自壊作用は色んな所に出ている。今の
地球温暖化の気候変動も同じだし、中国・ロシア・米国の悪態も同じである。常に襲う
巨体のリスクがそこにあり、人々の目をそらそうと政府は躍起になるが、一方で企業側
はその巨大さゆえのリターンと利潤を貪り喰うのが常だ。こうした状況から見て、周到
なリスク管理が必要になってくる。情報システムの 開発におけるリスクは思うような
機能や性能が発揮されないリスク、予定通りの費用で収まらないリスク、計画通りの、
工程で開発が進まないリスク、いわゆるQCD(Quality:品質、Cost:費用、Delivery:
引き渡し=工程)にまつわるものがほとんどだろう。そしてそのリスクの大半が要求と
要件の段階から起こっているという指摘があるくらいだ。リスクを小さくすれば、問題
が生じてもコストを最小限に抑えることができる。リスクとコストは密接な関係にある
からこそ、リスクのコントロールがコスト削減にも重要になってくる。ここに矛盾があ
る。つまりコスト削減の一環として電脳化や無人化を進め、でその為のコスト捻出には
至らないリスクが世界を覆う。例え銀行員を減らした所で、ATMが放置されて機能を
果たす訳でなく、より多くの人員と機材とコストで、メンテナンス要員が必要なのだ。

285:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 13:30:56.80 d/u6dELO/
   1907年異変   この頃 174   「合理主義が作る陰謀論」

 リスクを取る(=リスクテイク)ということは、何の勝算もなく 危険を冒すこと、
などではないし、リスクに対して腹をくくる。ということでもない。ハイリスク・ハイ
リターンの言葉があるように、リスクを認識してあえて挑戦する。このことによって、
リターンを得ることができる。と言う西洋型の思考である。リスクを取るということは
、現状におけるリスク要素を認識し、発生するリスクに対する対応を準備し、常に損害
を極小化できるように責任を持つことになる。最もリスク問題として課題の多いのは、
システム開発の例では、システム開発責任の開発する側、つまり、ユーザーである側の
システムオーナーの認識にある。外部委託になるだろう開発の依頼をするのであれば、
当然、発注者側は、システム開発の要件と意味と無駄と利益を、充分に認識して、それ
を共有すると言う事のリスクを取らなければならないのである。ユーザーの取るべき形
がどうであれ、リスクとコストの関係は当然あるし、それは生半端な物ではない。合併
で、つまみ食いしてシステム開発に及び統合型のテレテレした情報交換システムでは、
各システムの良さはあっても、統合して活かされる事は無い。ユーザーが全面的にリス
クを取れば、ユーザーリスクは高いがコストを抑えるが、専門性の高いプログラムは、
安易なものになって、ハッカー達の餌食になる。が逆にセキュリティ対策満載だと業務
は はかどらず更にフレキシビリティや発展性のない常に改革改善の必要な物となる。
要求や要件を自己責任で確定し、外部設計くらいまでしっかり仕上げることができれば
、詳細設計以降を委託開発しても、コストを最小化して品質の高い情報システムを予定
工期、予定費用で作り上げることができる。が、そこはそれ以前のしっかりとした形の
制定が必要である。リスクを取るということは、先においそれと進まないと言う事にな
る。リスクを取りきれない場合、要件定義段階から外部サポートを委任すればユーザー
リスクを下げることはできるが、リスクはコストに転嫁されてコスト高になっていく。
ましてベンダー丸投げや強度のベンダー依存は、開発リスクがベンダーに移転され大き
くコストに転嫁されている。

286:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 13:31:17.37 d/u6dELO/
   1907年異変   この頃 175   「合理主義が作る陰謀論」

 ここに国家リスクや 地球リスクは、誰が取るのか。と言う問題がここにある。経済
学者のトーマス・カリアーは、「偏見の強いノーベル賞選考委員会は、知名度・人気も
抜群の20世紀の経済学者を一人はジョーン・ロビンソンと他の一人を、賞の対象から外
してしまった。」批判した。20世紀を代表する経済学者の一人ガルブレイスの事である
。「リベラル過ぎる」「数学的でない」などと、理由はどうであれ、巨匠ガルブレイス
の名がないことは、受賞者名簿の不備を際立たせる一例である」と指摘しているのだ。
20世紀経済学を俯瞰しながら、ガルブレイスの思想と行動を位置づけた稀有の評伝に
の中で、資本主義にガルブレイスはいかに向き合ったのかは、初期の名著『アメリカの
資本主義』(新川健三郎訳、根井雅弘解説)『新しい産業国家』にある。ガルブレイス
は既成の「通念」(「制度的真実」)にとらわれることなく、まず現実を直視し、その
現実の分析ないし理解に必要と考える場合、自ら新しい概念を創造した点にユニークさ
と魅力がある。産業国家を支える大企業として登場するのは、GM、GEといった製造業の
企業と、「テクノストラクチャー(Technostructure)」という言葉は、今では一般化して
いるが、初めてガルブレイスが定義づけ使われている。「ゆたかな社会」を含む三部作
の一つだが、一貫して株主から専門家集団への権力シフト、企業の売上高の最大化行動
などを評し、今ではむしろ当たり前となった様な発見を行っている。それだけに、分析
の鋭さが光っている。「拮抗力」「依存効果」「社会的アンバランス」「テクノストラ
クチャー」など独創的な概念で資本主義の本質に迫ろうとした異端派の意見だ。しかし
1969年のピータードラッカーの『断絶の時代』での経済学から、『恒例維持からの断絶
』から『計画予測の不確実』へと世の中を眺める意識が変化したのは、ガルブレイスの
登場において『不確実性の時代』の提言からだ。ここにリスクとコストの根源問題が、
敷き積まれている。経済学でガルブレイスはルーズベルトを擁護しフリードマンはマネ
タリズムのフーバー論を行った。この1930年代の世界恐慌時の政府対応に関する見解の
相違に関係すれば、庶民の愚行を、誰がどのように面倒みるのか、見れるのかである。

287:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 15:29:44.71 d/u6dELO/
   1907年異変   この頃 176   「合理主義が作る陰謀論」

 日本でも実は開国時、つまり江戸の末期の動乱期は、大きな不況が訪れていた事を、
知ってる人は少ない。かつて江戸時代は、平和になり始め、元禄好景気の時代が訪れた
。(1688~1704)、田沼期(1772~1786)、文化文政期(1804~1830)である。経済が
活況となり町人文化も花開く時代の後、火山噴火などで、農作物被害が出ると、途端に
大不況が訪れて、享保改革(1716~1745)、寛政改革(1787~1793)、天保改革(1841
~1843)と質実剛健を説いて、質素倹約のお触れを出す始末になる。武家に儒学者が、
朱子学に基づいて統制する時代を築いていく。葛飾北斎は、田沼時代末期から天保年間
まで、時代に翻弄されながら絵師として生きた。江戸の三大改革時代では、武家社会の
規範の朱子学が重視されたが、多くの武士層にも喰えない厳しい時代だった。政治批判
を含む出版物や、浮世絵などは、町人文化は「風紀を乱す」ものとして厳しく統制され
、同時に物価上昇を抑える経済的抑圧も強まったが、なんせ米と言う生産物が不足する
ので、米の通貨性からも、藩財政もろとも逼迫する。そのために景気も冷え込み、相乗
効果で文化も没落していく。特に文化統制は激しく、寛政の改革では「白河の 清きに
魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき。」という有名な狂歌も詠まれました。
 この、文化文政年間の町人文化が花開き、空前の好況に沸いた頃に、北斎(田中珉)
は総白髪となって、妻を亡くし娘お栄と老後を暮らしていた。創作意欲は全く衰えずに
画業に勤しみ、脳卒中を患いながら、手に後遺症が残っても諦めずに克服し、なんと齢
70を過ぎてから「富嶽三十六景」を描く旅に出かけた。とされている。以前から親交の
あった武家出身の戯作者・柳亭種彦(永山瑛太)と交流を深め、時代が天保の改革期に
入ると 再び出版物への規制が厳しくなり、高屋彦四郎(種彦の表の顔)の上司である
小普請組の永井五右衛門(津田寛治)は、彦四郎の裏稼業に気付いて戯作を止めるよう
迫った。

288:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 15:30:07.83 d/u6dELO/
 が、しかし、老齢であるが故に、頑なに拒否し、何かに突き動かされるように創作に
没頭していく。例え命に危険が迫っても表現(執筆)を自粛することが出来ず、ついに
種彦は公儀によって粛清された。北斎の晩年の肉筆画「生首の図」は、出版元の種彦の
死を悼んで描かれたものであるとされる。また、富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」を始め
とする波の絵は、晩年の「男浪」「女浪」にも表れている通り北斎のライフワークとも
なって、浮世絵版画は、陶磁器の包み紙として欧州の輸入雑貨の店に置かれていたとも
言われる。

289:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/15 15:30:37.89 d/u6dELO/
   1907年異変   この頃 177   「合理主義が作る陰謀論」

 日本では、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に、宝永大噴火が富士山の火口で大噴
火を起こしている。噴火により降下した焼け砂は、富士山東側の広い耕地を覆い尽くし
。農民たちの田畑の復旧を目指し、焼け砂を回収して砂捨て場に廃棄して作業するまで
何十年もこの地に不作が襲った。砂捨て場の大きな砂山は雨のたびに崩れて河川に流入
し、白洲の川とされた。この不作を受けて、享保改革(1716~1745)が行われている。
又、その後に、天明大噴火(てんめいだいふんか)が起こっている、江戸時代の1783年
8月5日(天明3年7月8日)に発生した浅間山の大噴火である。これは、浅間山史上 最も
著名な大噴火であり、天明の浅間焼け(てんめいのあさまやけ)とも呼ばれる赤富士の
光景を産み、浮世絵の版画の題材にまでなっている。その後天明の大飢饉が起こり寛政
改革(1787~1793)の、大型の引き締め財政改革も又、この時の農作物の不作と、時折
襲った豪雪と冷夏などで緊縮の財政が行われ街には当然多くの人の獄送りに至っている
。この浅間山の大噴火後も、安政5年(1858年)前後には、江戸幕府が外国奉行を設置
するに至るぽど、噴火と地震が人々の不安を掻き立てた。中でも安政の大地震(あんせ
いのだいじしん)は、江戸時代後期の安政年間(1850年代)に、日本各地で連発したと
される大地震である。この前年にあたる1854年(安政元年)に発生した 南海トラフの
巨大地震である安政東海地震、その後に安政南海地震も含めさらに飛越地震、安政八戸
沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に、大発生した顕著な被害地震も含めて
「安政の大地震」と総称されている。およそ1853年7月8日の浦賀沖のペリー来航や1853
年8月22日プチャーチンの長崎来航から1859年7月1日の横浜港・函館港・長崎港開港やら
1860年3月24日桜田門外の変。井伊直弼が暗殺されるまでに実に記録されているだけでも
二十数件の大地震が発生している。正に活動期と言えるほどだった。

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22/01/15 15:31:02.07 d/u6dELO/
   1907年異変   この頃 178   「合理主義が作る陰謀論」

1847年05月08日(弘化4年3月24日)- 善光寺地震。
1853年03月11日(嘉永6年2月2日)- 小田原地震。
1854年07月09日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。ディアナ号遭難。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。
1855年03月18日(安政2年2月1日)- 飛騨地震。
1855年09月13日(安政2年8月3日)- 陸前で地震。
1855年11月07日(安政2年9月28日)- 遠州灘で地震。東海地震の最大余震。
1855年11月11日(安政2年10月2日)- 安政江戸地震。藤田東湖・戸田蓬軒圧死。
1856年08月23日(安政3年7月23日)- 安政八戸沖地震(巨大地震)
1856年11月04日(安政3年10月7日)- 江戸で地震。
1857年07月14日(安政4年閏5月23日)- 駿河で地震。
1857年10月12日(安政4年8月25日)- 伊予・安芸で地震(芸予地震[28])。
1857年12月20日(安政4年11月5日)- 吉田松陰が松下村塾を引き継ぐ。
1858年04月09日(安政5年2月26日)- 飛越地震。
1858年07月08日(安政5年5月28日)- 八戸沖で地震。
1859年01月05日(安政5年12月2日)- 石見で地震。
1859年07月01日(安政6年6月2日)- 横浜港・函館港・長崎港開港。幕末の通貨問題。
1859年10月04日(安政6年9月9日)- 石見で地震。
1860年03月24日(安政7年3月3日)- 桜田門外の変。井伊直弼が暗殺される

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22/01/16 16:14:07.10 yh5HVVqbb
   1907年異変   この頃 179   「合理主義が作る陰謀論」

 こうして 日本は自然現象を伴って 開国を果たすのだが、年表の通りに1854年は、
急速に日本は開国する方向に向かう。3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
5月2日(嘉永7年4月6日)京都大火。禁裏より出火、炎上。5月17日(嘉永7年4月21日)
下田了仙寺対談。マシュー・ペリーと幕府側との交渉が始まり、1858年7月29日(安政5
年6月19日)には、日米修好通商条約締結し、続いて蘭、露、英、仏と五者と協定を結び
先に進んだ。しかし、グラバーが来日した頃には、すでにかなりの数のフリーメーソン
が入り込んでおり、幾つもの商会が存在していました。グラバーは、長崎の大浦海岸に
グラバー商会を設立し、日本茶の輸出商売を始めたのは、アヘン貿易より利益があった
からだ。当時筑後にしかなかったお茶も、薩摩や岡山更に嬉野と栽培場所が増えていた
。中国にも多く出来て次第に、アメリカへの輸出に代わって行った。中国のアヘン戦争
で売るべき武器弾薬、艦船の販売を日本へ切り替えて、と手を広げるようになりました
。しかし、先住の商人達が幕府と密接な取引をしていたため、幕府側に入り込む余地が
なかったので、倒幕諸藩に絞って取引をしたことで、大きな成功を収めていった。この
時、英国系フリーメーソンは倒幕派に、フランス系フリーメーソンは幕府側につき、ど
ちらが勝っても、欧州のフリーメーソンが食い込めるように作戦を建てていて、日本を
内戦で弱らせた後に、植民地にしようと計画していたのが実情だった。その中の一人、
1859年に来日して、倒幕側についたトーマス・グラバーは、この時代の日本に大き
く関わっていく。当時のグラバー邸には、伊藤博文や坂本龍馬など、明治維新での重要
人物が数多く出入りしている事は知られている。そこでイギリスの議会制民主主義思想
を伝授され、当時としては斬新な言動や行動を起こした。とされている。

292:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/16 16:14:55.61 yh5HVVqbb
   1907年異変   この頃 180   「合理主義が作る陰謀論」

 かつて、旧約聖書では、フリーメーソンが憲章の第一部「歴史編」で、述べている説
があり、ソロモン神殿建設の際に、最高責任者であるヒラム・アビフが、3306人も
いる労働者を、『親方』、『職人』、『徒弟』の小集団に分けて組織化した。それぞれ
に秘密の合言葉や、符牒を使用させるといった、工夫を凝らして、聖地エルサレム建設
に7年半かけて従事したといわれる。その後紀元前10世紀頃、出来上がったソロモン
神殿にて、フリーメーソンの象徴的な階位や、入社儀礼が誕生した。だがそれは消えて
行くが中世時代『テンプル騎士団』が1118年頃に守備隊として登場し、その入団式
に復活する。聖地エルサレムへの巡礼者の保護を目的として結成されたこの騎士団で、
現在の銀行システムを作り、金融業などで膨大な富を、フランスで、築いたとされる。
当時、この権力に目を付けたフィリップ王は、彼らに異端の罪を着せて弾圧しました。
弾圧から逃れたテンプル騎士団の一部は、海に出て海賊になった。海賊たちは、いずれ
陸に上がりましたが、無宿人という扱いなので、『教区』に住むことはできず、離島を
根城とするしかなく。そして、職人(特に石工)となって、ヨーロッパ全土に、略奪品
の売却などを目的とした市場を形成していく。これがロッジ(集会場・支部)起源で、
会員たちの職業斡旋、金融、保険業などを行った。海賊船の船長には、ジャック・ド・
モレー船長がいた。ある時スペインが送ったフランスワインはシャンパンに代わる事件
が起こった。嵐にあってイギリスに着かなかったのだ。フランスは困り、イギリスは、
スペインに損害賠償を申し立てたが、時の大航海時代の最強のスペイン艦隊である。や
って来る戦争に議会は怯えた。オスマン帝国を打ち破り、スペインで「大艦隊(アルマ
ダ)」と呼ばれてイギリスでは無敵艦隊と風評にあった。ガレオン船20、ガレー船4、
ガレアス船4、その他武装キャラック船とハルク船で構成された、130隻に大艦隊である
、航海士8000人と兵士1万8000人を載せて大砲は真ちゅう砲が1500門、鉄砲砲が1000門
の重装備の船団だった。しかしこの時海賊汪ドレイク船長を起用し無敵艦隊に勝利した
のだ。そこから此の海賊はイギリスの海軍中将となった。

293:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/17 13:55:43.12 SYMTzEZgd
   1907年異変   この頃 181   「合理主義が作る陰謀論」

 1571年のレパノンの海戦に勝利したスペインは、このアマルダの海戦で、小さな船の
海賊に敗けたのだった。イングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に
英仏海峡で行われたこの諸海戦である。しかし、イングランドの優位性は、翌1589年に
実行されたポルトガルおよびアゾレス諸島遠征の失敗によって、簡単に失われてしまっ
た。ノリス=ドレークの遠征またはイングランド無敵艦隊と呼ばれる遠征は、ポルトガ
ル人との連携に失敗して多大な損害を出して帰還している。又無敵艦隊の再集結を阻止
し出来なく、艦隊に兵を配置し続ける必要があった。艦隊には疫病が発生し、チフスや
赤痢、飢餓によって数千人の水夫や兵士が死亡する。又、政府の資金不足により、彼ら
には給与を支払われることなく解隊された。ハワードが戦利品や私財を使って乗組員を
救済したが到底足りず、イングランドの守護者は、無給のまま何か月も放置されたこと
で、士気を低下させる論争が引き起こされた。これはスペイン政府が艦隊の生き残りに
援助を与えたこととは対照的でもあった。スペインの方は、ほぼ艦隊を再建し、1596年
以降にイングランド攻撃を目指す4回の無敵艦隊を編成している。1596年10月に派遣さ
れた2回目の無敵艦隊は約100隻、1万2,000人の陣容で、アイルランドを目指したが、
悪天候によって 75隻3,000人を喪失して失敗した。船は出来たがベテランの船員が死亡
して、経験の船長が居なかったのだ。1597年10月にも 112隻からなる第3回無敵艦隊が
派遣された。敵に気付かれずにイングランド本土に迫るが、嵐に巻き込まれて頓挫して
いる。1599年に編成された第4回無敵艦隊は、出港直前に作戦を変更してオランダ艦隊
を迎撃すべくアゾレス諸島へ向かった。最後の第5回無敵艦隊は、1601年春にアイルラ
ンドの反乱軍を支援すべく派遣されて、アイルランドに兵の3,000を上陸させることに
、やっと成功したが、その後の陸戦において敗れて撤退している。荒れ狂う北極海では
いずれも失敗し、日本の神風と同じに、自然が守れる島になっていた

294:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/17 14:02:51.32 SYMTzEZgd
   1907年異変   この頃 182   「合理主義が作る陰謀論」

 こうして、海賊メーソンりーはドクロの看板から、メーソンをあらわす石工の定規が
描かれ、陸地に上がり表の社会に溶け込んで行った。メーソンのシンボルマークである
『プロビデンスの目』は、いろいろな歴史的建造物に描かれている。実際にどこが発祥
なのか特定するのは難しいが、古代の使った軍隊式ピラミッド組織をここで体系化して
大航海時代を迎えた。特にブドウ酒の農場主や流通を背負ったマッソン結社は坂本龍馬
とは関係が深く、亀山社中にライフル銃や軍艦などを扱わせたグラバーが肩入れして、
日本での専属のグラバー商会の守備防衛をさせ、パン焼きや御菓子工房や配達や連絡係
として利用していた。有名な、龍馬の仲介で成立した薩長同盟の背後にも、グラバーが
いて、本来なら、薩英戦争や下関戦争した彼らに武器を預けるなど出来ない事であった
。しかし、まだ開国間もない、世間知らずの長州と薩摩に、ヨーロッパを見せるべく、
海外渡航が国禁とされていた時代に密航留学を斡旋したり、1863年、長州藩士の井上馨
、伊藤博文、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助が、英国領事の紹介で英国商船ジャーディン
・マディソン商会の船に乗って横浜からロンドンへ出航させたりしている。2年後の、
1865年にも、同じくグラバーの手引きで、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則な
ど17名がイギリスに密航留学した。もちろん、他のフリーメーソンたちも暗躍して、
多くの資金調達や武器調達をしていた。シャルル・ド・モンブランは、万博開催時の、
悪質外交官として登場するが、薩摩藩の五代友厚に近づき、1865年にブリュッセル
で共に商社を設立、薩摩藩からは、パリ万国博覧会の事務総長に任命されている。他に
もエドワルド・スネルは、長岡藩の河井継之助に近づき、ライフル銃や弾薬、ガトリン
グ砲などを販売し援助していった。ここらは、合本主義を唱えた渋沢栄一の万博日記で
も解るだろう。まあ日本のドラマがこのフリーメーソンの視点やユダヤ金融の目での、
動きが語られないのが不思議なのだが。実は借金王の野口英世の様に、世界金融は資本
を砂漠バッタの様に動くさまに、日本に帰化した外国人には辟易していた人物像があっ
たのだ。

295:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/17 14:45:25.63 SYMTzEZgd
   1907年異変   この頃 183   「合理主義が作る陰謀論」

 ジュール・ブリュネは、榎本武揚ら徳川家臣とともに、五稜郭に立て籠もった、戊辰
戦争の最後の戦いで官軍に抵抗したが、敗れ去ってしまう。この時に、明治維新では、
フリーメーソンにより操られ、ある意味支配されていたとも言える状態だった。では、
なぜこのとき、フリーメーソンの思惑通り、日本は植民地にならずに済んだのでしょう
か。一つは海峡戦争と対馬露冠にあった。海峡戦争は、尊王攘夷運動で桜田門の変に、
炊きつけられた長州が、天皇勅諭として外国船撃ち払いした事件である。嘉永6年ペリ
ーの黒船が浦賀沖に来航して、幕府に開国を迫って翌年(1854年)幕府は日米和親条約
を要求され、仕方なしに締結した。ペリー来航である。その後もアメリカの強い要求に
より、幕府は日米通商修好条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも
同様の条約を結んで、安政五カ国条約を締結するが、この幕府の鎖国体制は完全に崩れ
た事に、孝明天皇は和親条約はともかく通商条約には大反対であった。此の為安政条約
に対する勅許を与えなかった。この事は、幕府に不満を持つ攘夷派は尊皇思想から朝廷
の攘夷派公卿たちと結び付き、幕府の弱腰と、権力乱用の批判に至った。世論というか
各藩の応援よろしく、勝手な外国船の下関海峡通過に阻止を叫んで大砲を薩摩から調達
し幕府恫喝に出た。しかし、この時既に薩英戦争に至っているのである。孝明天皇の強
い要望により将軍徳川家茂は、文久3年5月10日(1863年6月25日)をもって攘夷実行を
約束し、幕府は攘夷運動を軍事行動とはみなしていなかった。が長州藩は、馬関海峡(
現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。これを愛国主義と取ればかなり
勘違いする事になる。孝明天皇は明治天皇の父だが、。ペリーが現れる10年以上前の、
1840年~1842年、中国はアヘン戦争で負けて、清王朝に勝利したイギリスは南京条約で
香港、朝鮮やベトナム・台湾などを中国外のもの。と制定した事で、琉球や日本にやっ
て来た事を、知っていたのである。ここで清王朝中国さえも敗けた事に焦ったのだった


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22/01/17 14:46:38.12 SYMTzEZgd
   1907年異変   この頃 184   「合理主義が作る陰謀論」

 文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・
オランダ艦船に対して、無通告で砲撃を加えた。約半月後の6月、報復としてアメリカ
・フランス軍艦の連合が、馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的
打撃を与えた。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して
新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行する。元治元年(1864年)7月、前年からの、海峡
封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは、長州に対して懲戒的報復措置をとる
ことを決定して船団を送った。フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ
、都合艦船17隻で、連合艦隊を編成しての運行だった。同艦隊は、8月5日から8月7日に
かけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃を開始する。各国の陸戦隊
がこれらを占拠・破壊し、一応の決着をみた。戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張
したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府
のみが負う事となっていった。馬関海峡の砲台を、四国連合艦隊によって無力化されて
しまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷運動を放棄して、海外から新知識や
技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの、
仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩
と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。また少し前の薩英戦争でも
文久2年旧暦8月21日の武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件で、イギリス人殺傷の
賠償交渉が暗礁に乗り上げ、解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治
権のもとに、兵制の近代化で培った実力で、この要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩
が、鹿児島湾で激突した事件を起こして、薩英戦争を起こした。この頃孝明天皇は、決
して外国嫌いでは無かった。しかし、夷狄にまで宮中参拝を許す事は他の者でも、到底
許されない行為であった。徳川幕府が米国との日米修好通商条約に調印することには、
そうした意味で、宮中が申し合わせて反対して、勅許を与えなかったのだ。

297:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
22/01/17 14:47:05.78 SYMTzEZgd
   1907年異変   この頃 185   「合理主義が作る陰謀論」

生麦事件は、当時の横浜港付近の生麦村で、薩摩藩主の島津久光の大名行列に、行列を
乱したイギリス人の4名のうち、3名を島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが
、殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)事件で外国人居留地とも、規制された日本とも
つかずの場所の殺傷事件だったのだが、生麦事件発生以前にも、2度にもわたって、イ
ギリス公使館襲撃(東禅寺事件)の事件が起こっていて、本国イギリスでの対日感情が
悪化している最中にあった。生麦事件の発生にジョン・ラッセル外相(後の首相)は、
激怒し、ニール代理公使及び、当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた 東インド極東
艦隊司令官のジェームズ・ホープ中将に対して、強く対抗措置を指示した。2度目の、
東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは、既に連絡を取り合い、更なる外国人襲撃
が続いた場合に、関門海峡・大坂湾・江戸湾などを艦隊で封鎖して、日本商船の北回り
の廻船航路を封鎖する制裁措置を検討していた。と言われる。当時、日本での砲台は、
幾つか存在してはいたが、それらの射程距離は外国艦隊の艦砲射撃の射程距離よりも、
遙かに短く、ホープはそれらの砲台さえ無力化できれば巨大な軍艦の無い江戸幕府や、
諸家にはもはや封鎖を解くことは不可能であると考えていた。ホープは海上封鎖を行っ
ても賠償に応じない場合を想定して陸軍と協議して京都・大坂・江戸を占領する計画を
も検討していたが、当時の英国では十分な数の陸兵を日本に派遣する余裕はなかった。
 薩英戦争では、横浜出航が、早馬などで、戦闘に行く船は、薩摩に一報が届けられて
いた。7月2日夜明け前に5隻の艦隊は、薩摩の蒸気船の天佑丸、白鳳丸、青鷹丸を重富
の脇元浦(現在の姶良)においていた3隻の舷側に接舷し、イギリス側の艦の50,60人の
兵が乱入して鹵獲して行った。文化露寇(ぶんかろこう)が、文化3年(1806年)と文
化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ北方の拠点を攻撃させた事件が起こり、錯綜
する海外対応の中で、生麦事件(なまむぎじけん)は、文久2年8月21日(1862年)に起
こって居るのである。世界の様々な国に一様のレッテルは貼れない。が一様の対応が、
求められたのである。

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22/01/17 14:53:50.85 SYMTzEZgd
   1907年異変   この頃 186   「合理主義が作る陰謀論」

。薩摩の蒸気船で薩摩兵士が抵抗すると、銃剣で殺傷するなどして、3隻の乗組員を、
強制的に陸上へ排除して、船を奪取鹵獲した。このとき、天佑丸の船奉行添役五代才助
(五代友厚)や青鷹丸の船長松木弘庵(寺島宗則)も捕虜として拘禁された。捕獲され
た3隻は、「コケット」、「アーガス」、「レースホース」の各艦の舷側に1隻毎に結
わえられて牽引され、桜島の小池沖まで曳航された。これを、イギリス艦隊の盗賊行為
とみなし、薩摩方は7箇所の砲台(台場)に追討の令を出した。正午、湾内各所に設置
した砲台の中で薩摩本営に最も近い天保山砲台へ追討令の急使として、大久保一藏が差
し向けられ、到着する間もなく旗艦ユーライアラスに向けて、砲撃が開始された。一方
、対岸の桜島側の袴腰砲台は、発砲を知ると、眼下のイギリス艦「パーシュース」に対
して砲撃を開始する。この砲台の存在を知らなかった「パーシュース」の艦長は、砲台
からの命中弾に慌てて錨の切断をし、艦はその場から逃走した。不意を突かれたキュー
パー提督(海軍少将)は艦隊の戦列を整えるために、桜島小池沖の艦隊5隻へ「ハボッ
ク」一艦のみを残して、薩摩船3隻の焼却命令を信号により発令、イギリス側の乗組員
は、天佑丸、白鳳丸、青鷹丸から貴重品を略奪すると、砲撃を行った上で蒸気船3隻に
放火し「ハボック」が焼却・沈没を見届けた。その後湾内の商船が燃やされ戦闘は続き
、城下では、先の戦闘艦のロケット弾などによる艦砲射撃で民家(350余戸)、侍屋敷(
160余戸)、寺社(浄光明寺、不断光院、興国寺、般若院)などの街の多くが焼失した
。翌日、前日の戦闘で戦死した旗艦艦長や副長などの11名を錦江湾で水葬にし、艦隊は
戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して、市街地および島津屋敷を延焼させ、
砲撃により第11台場(赤水台場)および突出台場(天保山砲台)の火薬庫が爆発させて
帰っていった。こうして 薩英戦争は、現場の砲艦外交の武力闘争から、本来の賠償金
の、外交交渉に移って行った。仲介したのは、当然徳川幕府であり、朝廷の勅諚した、
各藩への「外国船打ち払い」の要請を行った事を伏せている。徳川幕府も、日本を統一
意識での対応しようと右往左往する中にあった。

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22/01/17 14:57:03.96 SYMTzEZgd
   1907年異変   この頃 187   「合理主義が作る陰謀論」

。天保山砲台(砂揚場)など反撃があったが、反撃は収まり砲撃に応戦しながら湾内を
南下、谷山沖に停泊し艦の修復を行って出て行った。7月6日の夜に他の艦が来て曳航さ
れて行き、7月11日、全艦隊が横浜に帰着した。薩摩側の砲台によるイギリス艦隊には、
損害が出ていた。大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長
や副長の戦死を含む死者13人、負傷者50人内 7人死亡)に及んでいる。一方、薩摩側の
人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主
つまり部隊長の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷していた。他の砲台では沖小島砲台で
2名の砲手などが負傷した。しかし、市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3
人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡している。物的
損害は大きく、台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等の損壊、集成館
、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻
が焼失と、軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は
城下市街地の「10分の1」になった。朝廷は島津家の攘夷実行を称えて褒賞を下した。
横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で
募っていた。この結果、当時の最新鋭兵器として大いに期待されていたアームストロン
グ砲の採用では、この戦闘により、暴発や不発(不発弾)が多い事が実戦で判明した。
イギリス海軍から全ての注文をキャンセルされ、さらに輸出制限も外されて海外へ輸出
されるようになり、後に日本にも輸入される原因になった。当時の事件を伝える新聞で
は(1863年8月26日鹿児島戦争之英文新聞紙 翻訳)され、イギリス艦隊側の負傷者氏名
や、傷の詳細や戦闘の様子が掲載されて、戦死者の負傷状況などから破裂弾の着弾爆発
による被害を記事を語っている。しかし、この新聞記事(従軍記者の記述)で、アーム
ストロング砲の暴発については、一切触れられていない。ところがこうした光景には、
恐らくは幕府とかの隠密もつぶさに見て、将軍や朝廷には恐らく報告されていたであろ
う。そして各藩の藩主にも届いていたに違いないのである。

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22/01/27 03:08:12.17 dddcqs3J7
   1907年異変   この頃 188   「合理主義が作る陰謀論」

 アヘン戦争では、清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた中国人は
限られていた。北京から遠く離れた広東が主戦場であったことや、中華が異民族に敗れ
た事は、まま歴史上に多く見られていし、中国には日本の様には、そうした伝播する様
な優れた文化もなく、国が巨大であったことがその原因である。広東システムに基づく
管理貿易は廃止させられたものの、清の王朝では、依然として中華思想を捨てておらず
、イギリスをその後も「英夷」と呼び続け敵視した。この条約で清王朝は、香港割譲や
不平等条約を結ばされて大きく転落する国になったが、それでも大多数の国民は無理解
のままの敗戦だった。そしてその情報は、徳川幕府の老中にも もたらされている。実
は、一番驚愕して狼狽したのが日本だった。そのため、外国船が来ることを恐れた老中
は、1828年に出してた「外国船打ち払い令」を緩和してしまっている。すなわち、それ
までは難破などして食料や水などを支援することさえも禁止していたのが日本であった
のだが、緊急の場合には支援することを認めた。これは徳川幕府の開府以来の処置で、
本来の日本人の慣習とは異なっていたのである。何故ならキリシタンの磔などすらも、
幕府方針で行って来ていて密貿易摘発の慣習があったからだ。しかしながら、当時まだ
鎖国をしていた徳川幕府だが、黒船との講和の情報をひたすら隠し、京都の朝廷の天皇
には報告していません。朝廷側にどれだけの知見があったのかは不明だが、およそ幕府
との共通認識の土台ははなく、その上で、各藩すら藩主と藩中の武士や浪人達が、それ
ぞれバラバラの断片的知見しか持ち合わせていなかった時代だったのだ。中国でアヘン
の輸入量は1800~01年の約4,500箱(一箱約60kg)から 1830~31年には2万箱で、大変
な量である。阿片戦争前夜に1838~39年には約4万箱にも達している。このアヘンの、
購入代価で、清朝国家歳入の8割相当する銀が国外に流出したと言われる。つまり市中
の通貨が無くなる程の勢いだったらしい。

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22/01/27 03:08:41.44 dddcqs3J7
   1907年異変   この頃 189   「合理主義が作る陰謀論」


 当然中国では 銀流通を著しく減少させて銀貨の高騰をもたらし 市中は物価高を起
こしていく。清王朝は 銀本位制で、銀貨と銅銭が併用され、日本と同じに交換比率は
相場連動制である。乾隆時代、銀1両(約37g)は 銅銭700~800文との交換だが、銀の
必要性から 1830年代末には最大で2,000文に達している。この時地丁銀は、税額で指定
される王朝用の貨幣で、農民が使うのは銅銭であったが、納税の際には銅銭を銀に換算
し届ける事が要求された。銀貨が倍に高騰することは、銅銭でも納税額が倍に増える事
を意味したのである。つまりは理由なく租税が高くなったのだ。これが庶民に不評なの
は当然で、田舎では官史の厳しい取り立てとなった。こうした 中国動乱の兆しの頃、
清朝の敗戦は、長崎に入港していたオランダや清の商船員を通じて、幕末の頃の日本に
も伝えられたのである。この西洋諸国の黒船の軍事力が東洋に比して、圧倒的に優勢で
あることが、いよいよ明白になった事は、大きな衝撃をもって迎えられた。この時に、
さく裂弾が使用された事で、日本は開国やむなしに動いたのは当然である。かつては、
漠然とではあるが、巨大な隣国で強くあったはずの清王朝の敗北は、さらにその先の、
東アジアへ進出するための西洋の旗印となったし、その優性は大きく危機的な懸念があ
り、速やかな日本の国体の変革が急務であることを幕府に悟らせた。この頃、西洋思想
とは何たるか西洋人とは如何なものか。と庶民でも活発に興味をひいている。中国国内
では、重要視もされなかった魏源の『海国図志』の国際地図も、すぐに日本に伝えられ
、吉田松陰や佐久間象山らの、幕末における重要人物に影響を与え、改革の機運を盛り
上げる一翼を担っている。林則徐の抱いた西洋列強への危惧は、中国ではなく、日本に
おいて活かされることになったの訳である。天保14年(1843年)には、昌平坂学問所に
いた斎藤竹堂が『鴉片始末』という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力
の恐るべきことを憂えている本すら出されている。

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22/01/27 03:09:11.35 dddcqs3J7
   1907年異変   この頃 190   「合理主義が作る陰謀論」

先に言った様に、西洋や米国には、日本の様な領土経営や、幕府財政で経済を考える。
と言った事はしない。計算するのは国王ではなく、もっぱら資金を預かり運用する貴族
かユダヤ商人であり続けた。その為、管理手法としてのリスク管理(あるいはリスク・
マネジメント)の概念は、日本では藩内での農地の生産拡張や殖産新興で、予防的に貯
めたり、事後的に損失低減したり回避したりを考え、自然現象からの影響を極小化する
事だったが、ロシアを始め西洋では全く違って領地領域を広げ、戦って奪う事であった
。西洋では、小国が生まれて常に収穫の簒奪に明け暮れ、食糧と兵士や捕虜の交換の取
り決めすらあった為賠償金と言う概念が産まれて居る。基本的に西洋主義ではそうした
、戦争や投資そのもののリスクを信じてはいない。日本の様に常に起こる天変地異に備
えるなどとはしない。備える事が 経済損失を産むリスクと捉えている。つまり、食糧
を貯めている事で、敵が襲ってくるので無駄だ。と言う発想で、それなら戦争に強い国
で行こう、大勢の兵士を雇って他を攻めて食糧を得る。と言った事だった。日本流での
攻撃は最大の防御。といった事である。そこで兵器もドンドン進化していった。善処や
手の先と言うリスク管理は持たない。そうした管理処方どころか、逆にリスクを煽った
商法で、潤う方法に終始する。日本は、これまでリスクを下げることはできたが、黒船
リスクでは、防備のコストに転嫁されてコスト高になっていく。リスクのコントロール
がコスト削減にも重要になってくる。ここに矛盾がある。つまり、コスト削減の一環と
して鎖国に至っていたが、海防には 船を沈めれば済むと思っていたのが崩れたのだ。
黒船来航後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めた江戸幕府は、オランダ
商館長の勧めにより幕府海軍の士官を養成する機関の設立を決めた。オランダ海軍から
の教師派遣などが約束され、ペルス・ライケン以下の第一次教師団、後に ヴィレム・
ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の第二次教師団が派遣された。さらに練習艦
として蒸気船「観光丸」の寄贈を受けた。


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