1907年のアメリカ人になったつもりで書き込むスレ★ [408277373]at POVERTY
1907年のアメリカ人になったつもりで書き込むスレ★ [408277373] - 暇つぶし2ch162:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/26 13:54:42.11 kCfJKldNQ
  1907年異変   おまけの 63

 米英は様々な競技で張り合い、陸上ではその配置や判定でもめた。特に大綱引き大会
では、踵が金属製の軍用靴でのイギリスは、ランニングシューズのアメリカを圧倒し、
大きなトラブルになった。こうした状況にアメリカ選手団に随行していたペンシルベニ
アの大司教エセルバート・タルボット(Ethelbert Talbot)は、危惧し、大会後にミサ
を開いて演説した。「オリンピック競技大会において、重要なのは勝利することよりも
、むしろ参加したことであろう。正に人生においてそうである様に、戦って勝ったかど
うかより、良く戦ったどうかが大事なのである。」と説教した、これを知ったクーベル
タンはオリンピック精神の表現としてこの言葉を引用するようになった。初めて国旗を
先頭にした入場行進では、ニュージーランドからも初参加したが、単独ではなく、同じ
オセアニアのイギリス自治領で第1回アテネ大会から参加していたオーストラリアとの
合同チーム、オーストララシアとしての参加となった。その為大11回ベルリン大会で
マラソン選手としての孫 基禎(そん きてい)は日本代表として走っている。1936年の
ベルリンオリンピックでアジア地域出身で初めてマラソンで金メダルを獲得した。大韓
民国建国後は韓国の陸上チームのコーチや陸連会長を務めたが、オリンピックの男子マ
ラソンで、世界記録保持者として出場した選手が金メダルを獲得した例は、彼と2020年
東京オリンピックのエリウド・キプチョゲだけである。実はこのベルリンオリンピック
は1916年のオリンピック開催都市として一度は開催が予定されていた。第一次世界大戦
によって中止されたものだったのだ。この第一次大戦には、クーベルタン男爵も後方の
兵糧の兵站隊長として出兵している。その年の冬の塹壕戦の凍傷は 兵士の精神病疾病
赤痢やその他で4分3は病死とされている。つまりあんなに最新兵器を開発しているの
に、戦って死んだのは2~3割だったのだ。不思議な事だ。更に不思議なのは戦争相手
の国王はみんな縁戚だったののだ。話し合いしないで国民に戦争させた。この現実は、
歴史的事実だから仕方ない。

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21/11/26 13:59:48.13 kCfJKldNQ
  1907年異変   おまけの 64

 第5回ストックホルム大会の開催地は1909年に決定したが、ストックホルム以外には
立候補した都市はなかった状態だった。参加選手は28か国2408名(女性48名を含む)で
、14競技102種目が行われた。開会式は7月6日に行われたが、テニスは5月5日から
、サッカーと射撃は06月29日から開始された。この大会で日本は、アジアの国で初めて
オリンピックに参加した。共に陸上競技で短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2
名が出場したが、三島も 400メートルの準決勝で棄権、金栗も10000mを棄権してマラソ
ンに出場し、逸話の54年8か月6日5時間32分20秒3で、世界一遅いマラソン記録を残した
。また、このマラソンでは、日本と同じくオリンピック初参加だったポルトガルのフラ
ンシスコ・ラザロが走行中に倒れて翌日に死亡し、オリンピック競技による 初の死亡
事故となった。このほか、エジプト、セルビア、アイスランドもオリンピック初参加と
なった。さらにドイツは第一次世界大戦に敗北し、国土が荒廃し経済危機に陥ることと
なった。しかし、1931年にフランスのパリで行われた第11回夏季オリンピックの開催地
投票においてベルリンが、スペインのバルセロナを43対16で破って再び開催地の地位を
獲得したことで、開催に向けての準備が進められた。(夏季五輪は開催が取りやめと
なった場合でも開催地に選択されたことが「みなし回次」として残るため、今回のベル
リンでの開催決定は公式上は2度目として形式的な記録に残った)日本のオリンピック
参加は次のストックホルム大会からであるが、日本人の観戦者がいた。記録では、相嶋
勘次郎(大阪毎日新聞通信部長)、岸清一、永井道明の3人が観戦している。相嶋は、
海外派遣員記者として同時開催の英仏博覧会を見物したついでに、オリンピックを観戦
して記事を書いた。岸は当時イギリス出張中で、永井は欧米留学中であった。永井は、
帰国後、大日本体育協会の創立委員となって、委員の中で唯一オリンピックを見た者と
して、加納嘉納治五郎先生を補佐し、死去した後は次ぎ2代目の会長となって活躍した

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21/11/26 14:24:10.30 kCfJKldNQ
  1907年異変   おまけの 65

 一世紀前の1920年に、オリンピックがベルギーのアントワープで開催された。当時は
世界で何百万人もの人が命を落とした二つの恐ろしい大事件から抜け出したばかりだっ
た。それは第一次世界大戦とスペインかぜのパンデミックだった。「その二大惨事の後
に初めて開催されたスポーツイベントとして、アントワープオリンピックは多くの人々
に心に刻まれ、再び希望を与えた。我々は東京オリンピックがそれと同じメッセージを
届け、現在の厳しい状況を抜け出すターニングポイントとして人々の希望を取り戻した
いと願っている。」と宣言された。第一次大戦は 1914年7月28日、当時のオーストリア
領サラエボ(現・ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)でオーストリア=ハンガリー帝国
の皇太子が、セルビア人の民族主義者に暗殺されたことが発端となった。オーストリア
がセルビアに宣戦布告すると、セルビアの後ろ盾であるロシアが総動員令を出して対峙
した。オーストリア側に同盟を結ぶドイツが大きくバックにつき、一方でロシアでは、
対ドイツ同盟としてフランス、英国に条約を結んで、自動的に応援参加をする仕組みを
敷いていて、国際条約上加勢した形で戦火が広がった。こうして25カ国が参戦するなか
で、ベルギーは永世中立国としての立場を貫く姿勢だった。がしかし、それがドイツの
侵攻の壺となり、簡単に占領下におかれ、国土を蹂躙される。より大きな損害を被った
のである。1914年07月28日~1918年11月11日、長きに及んだ戦が止んだ。その間、1916
年にドイツのベルリンで開催が予定されていた第6回オリンピックは中止。1912年第5
回ストックホルム大会に日本人初のオリンピック出場を果たしたものの途中でリタイア
、生活のすべてをかけて雪辱を期していたマラソンの金栗四三が悲嘆の涙にくれたこと
はよく知られる。

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21/11/26 14:24:35.84 kCfJKldNQ
  1907年異変   おまけの 66

 そんなアントワープにオリンピック開催の道を開いたのは再びIOCを活動させて、
引っ張っていくIOC会長に復帰したピエール・ド・クーベルタンの強い意向であった
。戦争紛争によりかかる世相だからこそ、平和を希求する「オリンピック・ムーブメン
ト」を提唱してきたクーベルタンは、ぽっかりあいたIOCとの空白の期間がある。そ
れは見事に第1次大戦時代と重なる。1915年、クーベルタンはパリの自宅に置いていた
IOC本部をスイスのローザンヌに移し、国家紛争や戦火を避けるための移動させた。
その翌1916年、彼は突如として信頼するIOC委員、ゴドフロワ・ド・ブロネを会長代
理に指名し、オリンピックに関わる活動を休止してしまう。そして自ら志願しフランス
軍に従軍、ドイツとの戦いに身を投ずる。1863年1月1日生まれ、50歳を超えた彼が前線
に送られることはもちろんありえず、戦闘意欲高揚のために学校などを巡り、いわゆる
銃後教育を担っている。50歳で前線に出る貴族と言うのは殆ど軍人の宰相以外有り得
ないものだった。1912年第5回ストックホルム大会の芸術競技会で、自らは金メダルを
獲得していると言われ、この時彼は「ホーロット&エッシェンバッハ」という匿名を使
い芸術競技文学部門に参加して優勝した。と言われる。この時の出品作品は、仏語で「
オド・オ・スポール(Ode au Sport、日本語で『スポーツ賛歌』)」とされる。ただし
、これが本当にクーベルタン本人の作品なのかは確証がなく実際は今も不明のままだ。
またこの時、彼の考案・提唱によって、近代五輪の旗や近代五種競技が1912年のストッ
クホルムオリンピックから種目に採用される。などとなった。クーベルタンが身を引き
軍人になる前に反戦思想と指弾されて著書が発禁処分になった。ベルリン大会開催中止
によりドイツの好戦的傾向に「オリンピックによる平和」が断たれた絶望があった。と
される。第一次大戦とスペイン風邪。死臭のするヨーロッパにあって、ドイツに占領さ
れて甚大な被害を出したアントワープで開催することこそ、オリンピックを復興の象徴
、光明にあった。と解釈されている。ルギーもまた政治的配慮を感じて、ドイツとオー
ストリアの排除を条件に開催要請を受け入れた。

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21/11/27 15:36:51.36 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 67

 1920年08月14日、完成間もないオリンピック・スタジアムに史上最多の29カ国が集い
、国王アルベール一世が高らかに開会を宣言した。クーベルタンは「信じがたいほどの
暴力の嵐が去り、オリンピックは再び始まった。」と喜びに涙した表現が記述される。
自らデザインし、1914年にパリの百貨店ボンマルシェで製作された「白地に青、黄、黒
、緑、赤の5色のつながる輪」いまの五輪色模様が描かれたオリンピック旗が、初めて
観衆に披露された。そして史上初めて、ベルギーのフェンシング選手、ビクトル・ボワ
ンがユニホーム姿で選手宣誓した。華麗な演出は、「平和と復興を讃える祝祭」として
世界に発信されていく。アントワープ大会こそは、「平和の祭典」「成功したオリンピ
ック」と、今も称される。ただ、それはIOCの思いである。前回、1916年の第6回の
ベルリン大会が第1次大戦によって中止、この大会も開催中止ならばオリンピック活動
は足場を失い霧散しかねない中にあって、やっと国王の承認を受け、是が非でも開催す
る必要がクーベルタンにあった。しかし、ベルギーは最大の被害国で再建途上。財政に
事欠き、人々の暮らしもままならない中で1年ちょっとの期間では準備もままならなか
ったのが、素直な実情だった。未完成の競技会場も多く、スペイン風邪流行直後にも関
わらず、その衛生面は配慮も足りず、選手たちに不評だった。何より、資金難で宣伝の
不足は市民、国民の関心を呼ばず、空席ばかりが目立つ大会だったのだ。日本からは、
陸上、水泳、テニスの3競技に16選手を送りこんだ。しかし、日本でも農業不作が続き
1918年に米騒動が起きるなど財政難であり、三井、三菱両財閥から 協賛金の前払いを
うけて、やっとの参加である。テニスの熊谷一弥がシングルスで、柏尾誠一郎と組んだ
ダブルスで2位に入り、帰国子女の連中で日本のオリンピック史上初のメダルを獲得し
ている。1920年アントワープ大会のテニス男子シングル日本初のオリンピック・メダル
(銀)を獲得した熊谷一弥と、1920年アントワープ大会のテニス男子シングルで日本初
のオリンピック・メダル(銀)を獲得した熊谷一弥である。

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21/11/27 15:38:59.32 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 68

 熊谷は、自伝『テニスを生涯の友として』で、こう書いている。「設備も全く不完全
、秩序不整頓」「これがオリンピック大会の晴れ舞台とはお世辞にも申しがたい。」―
決勝で敗れた腹いせではない。左利きの、軟式出身の熊谷はスピンをかけたショットを
得意としていた。表面が整えられていないコートでは、思うように技術を発揮できず、
決勝ではこれまで負けたことのない相手に敗れたのである。ちなみに、この熊谷は三菱
合資、柏尾は三井物産のそれぞれニューヨーク支店勤務。海外勤務で技を磨いてきてい
たふたりだった。ともかくこの時代、日本選手と外国人選手との実力に大きな隔たりが
あった時代でこの二人は他の大会でも同じテニス選手として間違いない上位者だったの
である。ともあれ、このアントワープ大会によってオリンピックは隆盛に向かう足元を
固め、日本はオリンピック初メダルによって国際舞台での飛躍につなげていく。やはり
継続することの重要さを確認する大会であったことは疑うべくもない。いまだ、新型コ
ロナウイルスの脅威から解放されたわけではない。まだまだ開催に光の見えない状況が
続く。それでも「スポーツが国際舞台に返り咲く素晴らしい祝祭」としたい思いは続い
ている。昭和7年(1932年)ロサンゼルス・オリンピックに向けてIOC(国際オリンピッ
ク委員会の米国組織委員会が来日した。昭和4年(1929年)の国際陸上競技連盟会長の
エドストレームの来日である。昭和6年(1931年)には、東京市議会でのオリンピック
招致活動の開始が正式に決定された。開催予定年は昭和15年(1940年)、この年は日本
では紀元2600年祭、つまり『日本書紀』に書かれた神武天皇の即位から2600年目の政府
としてこれを記念する一大行事として、オリンピックをやる事が位置付けられたのです
。しかし、それが その後に共産党毛沢東のテロ行為で日中戦争をして幻の五輪になる
とは、誰も思ってはいなかったのである。

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21/11/27 15:42:06.64 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 69

この アメリカで五輪をやるので 東京もやったらどうだい。って言う働きかけは実に
微妙な日本の位置付けである。昭和7年(1932年)に、東京市長は外務大臣に対して、
この年の夏に行われる ロサンゼルス・オリンピックに際して、各国の有力者が集まる
機会を利用して、大使や領事から東京へのオリンピック招致を国際的に働きかけて欲し
いと要請しました。この時の文書の一部は明確に残っている。東京オリンピック開催の
狙いとして、1940年が紀元2600年にあたり、その記念として絶好の機会であることや、
「国民体育」の上で大きく役立つこと、世界の人々に日本に対する理解と関心を深めて
もらうこと。などが挙げられています。昭和7年のロサンゼルスでのIOC(国際オリ
ンピック委員会)総会において、日本は正式に開催地への立候補を表明しました。昭和
10年(1935年)のIOC総会では、1940年のオリンピック開催地候補は、東京、イタリ
アのローマ、フィンランドのヘルシンキの3つにしぼられましたが、その後、東洋での
日本による働きかけによりローマが辞退し、結局、昭和11年(1936年)の、ベルリン・
オリンピックの際のIOC総会で、1940年の第12回オリンピックの開催地が東京に決定
された。東京でのオリンピック開催が決まると、本格的な準備が開始された。資料では
、昭和12年(1937年) 4月15日に発行された「第十二回オリンピック東京大会組織委員
会」の『会報』第1号の1ページ目のこの冒頭に「第十二回オリンピック東京大会組織
委員会ハ 昭和十五年東京市ニ於テ開催セラルル 第十二回オリンピック東京大会ニ関
スル一切ノ計画ヲ決定ス。」と記されている。開催準備は、昭和11年(1936年)12月に
東京市長や大日本体育会長、各省庁次官などを中心に組織され、法律まで運用した用意
が、この委員会のもとで進められていきました。東京市内ではさまざまな整備工事が行
われ、宿泊施設も次々と建設され、もちろん、会場の建設も開始されていくのだが…。
しかし、日本も第一次大戦中のシベリア派兵では、大きな財政損失があり、その埋め合
わせにオリンピック開催などは、実は雲をつかむほどの巨大出費の話だったのである。

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21/11/27 15:44:19.32 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 69

 ところがこの東京大会の決まる ベルリンオリンピックは、ナチス政権のヒットラー
が国家の威信をかけて 大々的に魅力的開催を仕切って推し進め、その自信の下に隣国
を攻め入り、第二次世界大戦を行ったのである。更に松岡外相がバカの様に外交失敗を
繰り返し、国際的地位を落としその上に国際連盟まで脱退し、日本の運命を坂道から、
転がり落として行くのである。日本では、昭和13年(1938年)4月6日付の『写真週報』
では、「準備は進む、東京オリンピック」と題された記事が華やかに本文や写真が掲げ
られた。添えられた文章には会場計画などの準備状況について書かれて、既に記念品が
多数販売されていることも紹介されている。主競技場には、明治神宮外苑競技場を作り
変えて使用する案や、駒沢に新たに建設する案などがあり、この時点では検討中だった
。他にも、駒沢にプールを建設する計画、芝浦の埋め立て地に自転車競技場を建設する
計画など、さまざまなものがあった。しかし、この『写真週報』が発行された頃には、
実は、オリンピックの実現に向けた道のりには大きな影が差していました。国内外で、
開催に反対する動きが起こっていたのである。東京オリンピック開催に対する反対の動
きは、ソ連共産党発信の国際旅団の公約にある。コミンテルンは、1919年~1943年まで
存在した 国際共産主義運動の指導組織である。第1インターナショナル(国際労働者
協会)から分派して、ソ連政権をもぎ取った第二インターナショナルを形成して主な、
司令塔とした政治結社である。ソ連革命によって共産党組織として存在した。ところが
、この第二インターナショナルは、ナチスの復興財政やオリンピック活動の、対共産党
政策で駆逐されるのである。そして、英国共産党・米国共産党・中国共産党と組織して
、ソ連内の第二インターナショナルの資金源の下でコミンテルン活動を行って行く。各
国での共同生活組合としての組織し、暴力革命を呼び掛けたのである。その為に危険な
、第三傭兵部隊の、国際旅団は第三インターナショナルとして存在し、第三インターナ
ショナルは、国際共産党(こくさいきょうさんとう)と称した。

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21/11/27 15:50:42.26 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 70

 日本ではあまり知られてないが、1817年、デヴィッド・リカードによって『経済学お
よび課税の原理』が発刊された。この事でユダヤ主義とされる、投資利潤における習得
、つまり金融家や投資家の搾取経済は、即ち不労所得のブルジョワ主義金満家文化とし
て社会に叩かれる位置にあった。ロバート・オウエンは経済論で「労働価値説」を説き
搾取される経済を批判した。チャーティズムは、チャーティスト運動とさるが19世紀
の、イギリスで起こった選挙法改正と社会の変革を要求する運動である。今で言う普通
選挙法の要求である。これは奇妙な事に欧州の社会構造に由来する、永遠の矛盾論理の
総括であった。そもそもが、キリスト教やイスラム教は一神教であるがゆえに、他者の
信心を認めていない。その上に虐げられたイスラム支配からレコンキスタ運動でやっと
地位を得て、多くの科学技術を獲って大航海時代を迎えていた。大航海時代にある活力
は、取りも直さず兵力や体力だった。その維持の為に宗教界の寄付構造で資金を得て、
奴隷の支配で交易をし、科学的裏付けで国家を運営する。と言う至って簡単な仕組みを
求めた。此処に国王の苦悩があった。旧来の権威主義の維持である。経済を吸い上げ続
けないかぎり、グローバル経済競争に他国に敗けてしまうのだ。当然ながら庶民は税の
取り立てに苦しむ事になり改革開放の狼煙が上がる。一方で国民や庶民が求める平等や
人権は、黒人奴隷や底辺の異教徒の仕事によって支えられ、我々違うのだ、と言う選民
思想や白豪主義といった人種差別意識が信仰によって植え付けられていた。その信仰心
には、金融では利子や利潤などの、投機的浮浪利益は不当なものであり罪である。とさ
れていたのだ。これは多くの教会や宣教師の自己矛盾だったのである。1940年大会
の幻の東京五輪は、実はこの幻影の西洋主義が色濃く影響してた。中東イスラム教を、
718年~1492年までに行われたキリスト教国家の イベリア半島の、再復権活動、再征服
の活動700年かけてやっと追い出しての強い意気込みと白豪主義に満ちていたのであ
る。

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21/11/27 15:57:19.30 olpHpHz86
 1907年異変   おまけの 71

 1817年、デヴィッド・リカードの『経済学および課税の原理』が 発表された頃の、
近代経済学の発展は、目覚しい意識変化を見せた。かれは地代論を展開して、商品価値
は労働力と関係がある。と指摘した。また、多くの商品を生産している労働者は、対価
として賃金を受け取るが、商品生産のためには、資本(土地・工場・機械・道具)など
が提供され、それを行う資本家は労せず利潤を受け取る、この社会の仕組み(資本主義
)になっていることを明らかにした。ここで英国の国王はアメリカすら支配して、地代
である供給を税として受け取っていた社会であったのだ。この時代に、この経済論は、
「労働価値説」を説明するものであった。と同時に 搾取の存在を示唆するものであり
、後の時代の「社会主義思想」つまり搾取のない夢の社会構造の出発点になる考え方で
あった。このような考え方を発展させたのが、ロバート・オウエンである。オウエンは
、産業の発達を真に担ったのは「労働者」自身であり、その労働者が貧しいのは資本家
が搾取するためである。と論じ、従って、労働者救済のため強固な組合組織と教育活動
による社会の改良が必要である。と訴えていた。こうした事は協同組合運動への労働者
の結集へとつながっていく。また時代は、資本家も機械化の為に他者に追い越されての
地位の圧迫があり、労働者も大量の移民や貧民層に仕事が奪われる地位にあり、生産性
も、農業の「食糧」においては 戦争による不作や、競争による「豊作倒れ」という、
アンバランスが起こっていた上に、国同士も、国力や国富に於いての軍事力競争に明け
暮れていて、その中の資本投下の発展に挑まなければならなかったのである。なのに、
世界的天候不順の中で、当時は不作に次ぐ不作で疫病すら出ていたのだ。これらは非常
に人々を暗くした。だからこそ万博や五輪に興じたのであって、支配し搾取する貴族も
愉しみに餓えていたのである。その一つが製本技術の普及による読書であり、発刊で、
当時は、やっとこれで宗教から離れて、知識を継いでいく事が出来て科学が生まれてい
た。対して日本は 既に江戸時代の平和を満喫し、中国発祥の思想教育は完成されてい
たのである。

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21/11/27 16:09:28.82 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 72

 チャーティスト運動は、急進派知識人が加わって、急速に下層の労働者たちの運動と
なった。食糧難の中で、1830年~1850年代末まで、およそ30年渡る英国の全国的に展開
された政治運動であった。1838年に運動の指導者たちが選挙制の改革を要求して、成人
男子選挙権を軸に起草した『人民憲章』を起草し、その名からのチャーティリズム運動
と称された。『人民憲章』の内容は以下の六項目からなった。チャーティスト指導者の
多くは議会への請願運動を重視し、三回にわたって「国民請願」を行っている。なお、
一回目は反対235対賛成46、二回目は反対287対賛成49、三回目は賛成票15票という結果
で要求の ①成人男子選挙権、②秘密投票、③毎年選ばれる一年任期の議会、④議員の
特権財産資格の廃止、⑤議員への歳費支給、⑥国勢調査により調整される平等選挙区。
などは、もろくも崩れ去った。全くおかしな要望ではなかったが、地方の有力部族者の
支配的地位によって支えられた封建社会の移行期に、前述の如く全く相手にされず否決
された社会だったのだ。このチャーティズムの主力は次の3つのグループと指導者に、
1838年には、次第に離合集散し合併醸成がなされた。繊維工業地帯で活動していた商店
主の下層中産階級を基盤にした急進派は、その地バッキンガム派とされた。田舎で宿場
町の比較的良い賃金をもらっていた熟練労働者の中で産まれの集団は第一次選挙法改正
運動の初期に指導者を作った穏健派。更に田舎の最終領土となり経済活動の少ない北部
やアイルランド系の住民のファーガス・オコーナーを指導者とする過激派。などある。
理性派は、法律の範囲内でゆっくりと組織を作ることを目指したが、過激派は領土闘争
の禍根が残り、暴力派とされ、一層急進的にストライキや武装闘争も含む実力行使を行
い、熱狂的に改革の実現を志向した。後半「全国憲章協会」は、政府の弾圧に次ぐ弾圧
で、次第にに空洞化し、チャーティストの分立状態が進行し穏健派は「人民連盟」を、
新たに組織し、食糧危機に於いての 派生した暴力デモ「カール・マルクス」主義や、
「共産党宣言」などを唱える一派と袂が判れていく。が、ブルジョア急進主義と言われ
る改革運動との提携を試みて失敗をする。こうして英国の社会主義運動や、共産党は、
自然消滅していった。

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21/11/27 16:19:21.96 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 73

 しかし、この後、国際的協調主義を呼びかけて、第一インターナショナルまたは国際
労働者協会が、全ヨーロッパの労働者、社会主義者をかき集め、1864年09月28日に創設
されたのだ。世界初の国際政治結社を作りロンドンのセント・マーティン・ホールでの
発足集会(1864年)が起こり、直ぐにジュネーヴ大会(1866年)に移り、ローザンヌ大
会(1867年)、ブリュッセル大会(1868年)、バーゼル大会(1869)や、ハーグ大会(
1872年)が開催されるのである。「IWA」は国際主義に立って国家的枠組みを超えた
社会主義運動に関する決議を採択し発足し、各国政府に提言しその上で、世界初の社会
主義革命というべきパリ・コミューン革命を採択した。これは革命運動を支援するなど
横断的な挑戦を試みた。1872年以降はブリテンの労働組合指導者と確執やフランスでの
影響力行使をもち、アナーキズムとの対立によって二派に分裂し、本拠をニューヨーク
移転して組織の再建を試み 1876年7月解散した。実はこの、チャーティストの残党が、
1860年代の革命的な時代潮流に刺激され復活を遂げ、1860年代の大英帝国の世界支配が
進行する中で、しぶとく社会主義運動が支援されていくのである。新興国の工業化や、
近代化が急速に進展し始めて、視察して出来上がったものが共産党だった。この時代の
動きはアメリカにおいて南北戦争、南欧でイタリア統一運動、東欧でのポーランド蜂起
(1月蜂起)などでの数々の残党が集まってより具体的先進的先鋭的に理論化された。
これらの事象に対する労働者の反応は、国際的な労働者組織を創立する大きな直接的な
うねりや契機となった。1861年アメリカの南部諸州が連邦からの脱退を宣言し、アメリ
カ連合国を結成し、アメリカを二分する南北戦争(1861-1865年)を起こして、南軍が
連邦の軍事拠点に攻撃した。これを戦端に、リンカーン大統領は1862年9月『奴隷解放
宣言』を発し、リンカーンは「奴隷制に対する戦い」を大義として戦争を展開していく
。戦中、大英帝国は公的には中立を保っていたが、南北戦争に介入寸前の状況に置かれ
ており、南部連合も英仏の介入を期待していた戦争になった。各国とも自国にも奴隷や
他の人種を抱えており、この中で工業化が進んでいった。

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21/11/27 16:31:04.84 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 74

 1862年にロンドンで開かれた万国博覧会に、300名のフランス労働者、ドイツから12
名の労働者の代表団が派遣されて会議が開かれた。この時フランス代表団を組織し費用
を出したのはナポレオン3世であった。この時期、ロンドンでは、他国の支援集会が盛
んに開かれた。活発な政治運動が展開された。資本家が脅しとして使う外国人労働者の
輸入手段に規制し、対抗するために、労働者の方でも国際組織が必要であると唱えた。
英国で、1851年の機械工のスト、1859年のロンドン建築工ストなどが、労働時間の短縮
、労働条件を争点に展開されると、フランスでもベルギードイツでも同じに展開した。
。アメリカでも1866年の全国労働同盟の創立大会で、この問題が討議されるなど海を渡
り闘争劇が演じられる。中でもブリテンの労働運動は、これまでも長い闘争の歴史があ
った。1866年の恐慌によって、ストライキにはきな臭い激しさを増し、暴力殺人事件や
武装蜂起の噂が巷に広まり、社会不安が生じていく。しかし、第一インターナショナル
または国際労働者協会は、この不安に「暴力革命の陰謀には、決して組みせず」の声明
をだし政府の動揺を避けた。1859年頃、酷いストライキに徐々に変化し1865年、長らく
政界に強い影響力を及ぼしたパーマストン首相が急死後、この年結成された改革連盟は
、一気に非常に狡猾な方策で選挙法改正を決定的なものに導いていった。その後、第二
次選挙法改正とその後に続く1871年労働組合法の制定によって労働組合指導者の目的が
達成されて、闘争運動の本分削がれていく。次第に英国での運動は終息したがところが
、この英国の終息に、発言権を増したのがフランスのブランキ派やマルクス派であった
。集産主義者が連携して、1)土地国有化、2)「反戦」を決議し、決議は圧倒的多数
で採択された。この連携はその後に起きる普仏戦争後、突如として歴史の表舞台に浮上
したパリ・コミューンで結実する。国際組織網は、反戦運動がフランス全土へと拡張さ
れ、工場労働者の間に広がっていき、各地での続発するストライキとの連帯を深めて、
リヨン、ルーアン、マルセイユまどの大都市にも、支部が設置されていった。

175:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/27 16:44:50.87 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 75

 この時期、フランスを率いるナポレオン3世は北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦との統合
を試みていた。しかし、オットー・フォン・ビスマルクは、各々国家の引き締めを強化
するためにも戦争だ。と戦いを望み、利己的で野心に満ちた両国の衝突は避けられず、
普仏戦争は目前に控えて待ち構えているのは市民にも見えていた。こうした戦争に関し
てのIWAとしての立場を鮮明にしなければならなかった。同大会で参加団体のすべて
に対して戦争を防ぐために もっとも力強い行動に出るように呼びかけることになった
のは当然だった。この頃の国家指導者らにとって、戦争とは「諸民族間の戦争は、内戦
そのもの。と考えるほかない。なぜなら、戦争は生産に携わるもの同士の間で、戦われ
、兄弟同士、市民同士の戦いに他ならない。はずだからである。」大会では、「万一に
自分たちの国の間に戦争が起こった場合には、労働者は仕事を辞めるべきである。と、
主張するものである。」と戦争放棄のストを叫んでいた。つまり兵士や国王は市民の代
わりに領土拡張や捕虜を取る戦争を行っている。みんな協力しろ。と言うことなのだ。
IWAは、こうして中で各地の労働闘争を支援し、闘争のたびに 支部の設置が進展し
ていく。会員は爆発的増加した。同大会の参加団体も最多となっていた。しかしながら
、会費徴収や組織運営には難があって、財政的にも厳しさを強いられていた。又、フラ
ンス国内には逆風が吹いていた。非合法化組織とされ、反戦を上げた労働運動は1870年
まで、ヴァルランなどの主要な活動家が次々と逮捕されるなどし、各国での迫害も次々
と起った。それでもIWAは力強い発展を遂げていく。その発展の中心になったには、
ドイツとアメリカであった。アメリカでは短期間ながらも「全国労働改革党」が発足し
た、ドイツでは1867年ヴィルヘルムやアウグストなど名門の貴族の運動家が、ザクセン
人民党を組織し、1869年にはドイツ統一の加速と歩調を合わせる形で労働者指導者層が
出来て支持を集めた。こうしてアイゼナハ綱領を採択し、社会民主労働者党を組織を作
り整えていった。これらの活動がナチス党の前身になった。

176:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/27 17:05:55.84 olpHpHz86
しかし、此の広がりはそのまま変容を意味した。バクーニンはイタリアを中心に活動し
ていた「平和自由連盟」の中央委メンバーだ。「連盟」から離脱し1868年に新たな活動
団体として国際社会民主同盟を組織した。バクーニンは、無神論、階級の平等化、相続
権の廃止、政治活動の拒否を唱えて、支持者を集めていった。その過激な反体制闘争は
貧困労働者など社会的立場の乏しい人々には支持基盤があった。1868年「国際社会民主
同盟」とバクーニン一派はIWAへの加入を申し入れたが同盟を解散させない限り認め
られないとして、バーゼル大会では加入を断られた。マルクスとエンゲルスは、アイル
ランド独立闘争に深い共感を抱いていた。アイルランドで、自由で民主的な共和国を打
ち立てるために、義勇兵たちが立ち上がっている。しかし、蜂起に加わった活動家は、
連日逮捕され収監されていた。マルクスとエンゲルスは ドイツ労働者階級の解放が、
ポーランド解放に左右されるのと同様、アイルランドがイングランドでの最大の弱点で
、アイルランド独立で、大英帝国の解体が始まり、イングランドの階級闘争で世界各地
で民族解放闘争の狼煙が上がるはず。と思っていた。1870年バクーニンの挑戦を前に、
危機に瀕するインターナショナルの現状をドイツ社会民主労働党の幹部たちに対して、
報告書を「非公開通知」で送っている。がマルクス主義との統合を拒絶した。。イング
ランド労働運動とアイルランド問題に、イングランドの地方評議会の独立にはあくまで
反対して、国際主義を貫くべく努めるよう言明したのだ。1870年普仏戦争で、年次大会
は2年間延期となった。しかし、IWAの活動はその間も活発に展開し、普仏戦争に対
する反戦、第二帝政への批判を強めていたが、マルクスの個人的感想は、まったく異な
っていて「フランス人たちは棍棒を必要としている。プロイセン人が勝てば、国家権力
集中は、ドイツの労働者に有益だろう。ドイツの優越は西ヨーロッパ労働運動の重心が
、ドイツに移ることに貢献する。両国の1866年から、現在に至るまでを比較してドイツ
労働者階級が理論的も組織的にも フランス労働者階級より勝っている。世界の舞台に
おけるフランスに対するドイツの優越は、同時に達成される。プルードン理論に対する
我々の理論の優越でもあるだろう。」と述べている。

177:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/27 17:14:25.75 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 77

 ドイツ統一を目指すプロイセン王国は、周辺の大国と覇権競争を繰り広げ、普墺戦争
から普仏戦争へと、ある戦争から次の戦争をつくりだしてプロイセンの覇権を確立した
。こうした展開内容は、ドイツ帝国が実現した経緯として歴史的必然だったとマルクス
や、エンゲルスは予想して見ていた。領土割譲を、フランスに強いるのであれば、今後
もフランスの報復が近い将来に控えていることも、容易に予想された。マルクスとエン
ゲルスにとっては世界大戦の勃発は眼前に見えていた。ということになる。フランスの
ような先発工業国による運動よりも、アメリカやドイツのような新興工業国の運動の方
が 未来を捉えている。とも見ていた。「プロイセンによるアルザスロレーヌの併合」
を非難する声明を 採択すると共に『普仏戦争反対第二宣言』を発表し、普仏戦争後の
情勢不安に便乗した「パリの蜂起」に懸念を示した。しかし、一度、パリ・コミューン
革命が宣言されるとコミューン政府を支持した。著書で、コミューン革命の経緯を辿り
ながら、革命の事績を総括して、コミューン崩壊の原因を分析している。そして、社会
主義政党の必要性を説き、反革命勢力の一掃とプロレタリアート独裁の確立、社会主義
国家の建設に関する本格的な議論を提示した。このコミューン論は後にボリシェビキを
指導したウラジミール・レーニンによって徹底的に研究され、マルクス・レーニン主義
思想として体系化され、ロシア十月革命の理論的支柱へと発展していった。マルクスと
バクーニンは、この思想の流れの中で、1864年11月にロンドンで友好的に会見して以来
、顔を合わせることがなかったが、年々その対立が深まっていく時期だった。思想的に
も政治的にもライバル関係にあったのだろう。これが共産主義ファシズムの結束主義の
違いでもあり、この後の、イタリアとドイツとソ連の思想の違いでもあった。ここに、
日本陸軍がドイツ留学を斡旋する。と言う大変な間違いを冒しているのだ。当初の様な
英国や仏国であれば、日本もかなりの違いの思想が出来ただろうが、日本人になじんだ
ものがあったのかも知れない。

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21/11/27 17:36:56.57 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 78

 バクーニンは自由な政治組織による緩い連合を提案し、マルクスはその意図を疑って
権威と規律を主張したが、この両雄の組織論はIWA大会ハーグ大会で討議されること
となった。1872年9月2日、「IWAにとって生死の問題と化した」ハーグ大会が開催さ
れた。さっそく大会では中央評議会に対する信任をめぐって対立し、40名のマルクス派
代議員とその他24名の反対派に分裂した。イギリス代表は、バクーニンの思想に反対し
ていたが、マルクスの理論や中央統制とも相容れなかった。中央評議会に対する信任に
反対票を投じた形である。1872年。ハーグ大会に臨むマルクスとエンゲルスは、続いて
政治権力の問題について、マルクス派29票 対バクーニン派5票、棄権9票で、政治権力
の破壊を主張するバクーニン派に対して 政治権力の奪取を提唱するマルクス派の勝利
に終わった。かくして、第7条付則として『規約』に「政党結成」と「政治権力奪取」
が明記され、平和的な手段もありうる。として議会進出に意欲を示す文言が盛り込まれ
た。さらに、これに終わらずマルクスは『インターナショナルのいわゆる分裂』という
報告書において、中央評議会に反対して無政府主義を掲げたバクーニンとその一派を、
除名するよう大会に対して勧告した。つまり、言葉は奪取という柔らかい意思だが実情
は「破壊闘争」と言うとんでもない手法を示唆していたのであったのだ。現実に、ハー
グ大会終了後に、アムステルダムで公開集会が開催され、マルクスは人々を前に演説を
行ったが「労働者階級は、政治の分野でも社会の分野でも、滅びつつある旧社会を攻撃
する必要がある。と宣言した。」と表明している。また、続けてこうも語る。「労働者
は、新しい労働の組織を打ち立てるために、やがては政治権力を握らなければならない
。労働者は、古い制度を支える古い政治を覆さなければならない。」と。しかし、それ
ぞれの国の制度や習慣や伝統に特別な考慮をはらわなければならない。」と述べてまた
「アメリカやイギリスの様に、労働者が平和的手段でその目的を達成できると思われる
国があることを否定しない。」とも言う。つまりどうでもいいから権力を獲れと言う話
なのである。

179:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/27 17:53:07.55 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 79

 こうして対立する二派、マルクスの「権威派」、バクーニンの「反権威派」の確執が
続いた。、マルクスは、「プロレタリアートは所有階級との闘争において、政党を組織
することで初めて階級として行動できる。労働の搾取者との闘争は、その経済的運動と
政治的行動は一体不可分である。」と叫び、バクーニンがインターナショナル乗取りを
企んでいると陰謀論の非公開文書を各支部に配布して、多数派工作をした。1872年の、
このハーグ大会で、マルクスとエンゲルスは、バクーニンの欠席のまま、バクーニンと
その同調者を除名し、本部をニューヨークに移転させた。こうして分裂した。アナーキ
スト派はその後も独自の集会を開催したものの、事実上、この72年の分裂によって、
活動は困難で、76年のフィラデルフィア大会で正式に解散した。「乗っ取り」か「ク
ーデタ」か その後のバクーニンは、現代の正統マルクス主義歴史観では「インターナ
ショナルに参加し、その内部からの乗っ取りをくわだてたロシアの無政府主義者。」と
されて、「マルクスの活動の最後の二年間は、バクーニンの このくわだてを打ち破る
闘争にあてられた。」との 公式見解がなされている。しかし、クロポトキンなどは、
このインターナショナル内部にクーデタを起こし、「インターナショナルの行動綱領の
資本に対する労働の直接闘争を、ブルジョワ的議会における煽動にすりかえたのは、他
ならぬマルクス・エンゼルスである。」と批判する。二人の対立は、歴史的にマルクス
の勝利に終わった。が、バクーニンの目標を国家の廃止に緩やかな国家資本の形態置く
というアナーキズムの思想は、国家に代わり労働組合を社会の基本組織とすべき。とい
うアナルコ=サンディカリズムへと継承されたが、スペイン、スイス、フランスに暗い
世相と強い影響を及ぼした。こうしてマルクスらはインターナショナルの拡大の為に、
国際労働運動=インターナショナル運動は、歴史の必然が、封建社会→資本主義社会→
社会主義社会動く。と固く信じて説いていた。ここで、既に革命の過ぎたソ連に、社会
主義学者レーニンをロシアに送り込むのである。

180:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/27 19:46:14.55 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 80

 マルクス主義の根本的な矛盾はここにある。歴史の必然を、封建社会→資本主義社会
→社会主義社会を説くのだが、プロレタリアと言う財産の無い無産階級の意志に基づく
前衛政党が指導する革命は、粗暴な殺人革命でしかない。又、高度に発達した資本主義
国が、革命によって社会主義に移行すると説き聴衆が壊しても、自分に供給される社会
システムを壊す事にしかならない。こうしてロシア革命は崇高なマルクス主義から逸脱
した現実を見せた。レーニンがはなぜロシア革命を起こしたのか。という問いもある程
に、ロシア革命自体は食糧が滞り、二月革命が自然発生的に暴動が原因で、起こってい
て、当時レーニンは亡命しスイスにいた。此処に白羽の矢が立てられて、ユダヤ金融の
投資したロシア皇帝の財産保全に向かったのである。ロシア革命は二段階革命で、レー
ニンがついた後、十月革命が起こった。十月革命とは「革命」でなく、民衆暴動を治め
て社会秩序を戻そうとした上層部を挿げ替えたむしろ「クーデタ」というものであった
。軍事力による政権の奪取で、。「第一次大戦で国民が困っていたために、レーニンが
立ち上がった」というのは間違いで、ロシアの国民が第一次世界大戦から離脱したい。
という厭戦気分において指導者に祭り上げられ、結果戦争における領土確定が出来た事
に利用された。レーニンはドイツ軍部によってロシアを戦争から離脱させるために送ら
れた。という経緯があることは周知の事実であるが、レーニンはロシアに共産主義樹立
するという活動において、その理想を成した。ここにロシアで革命運動ができるなら、
ドイツ軍部をも利用してもいいという IWA離脱の第二インターナショナルまたは、
国際労働者協会との離脱判断があった。しかし、マルクス主義の理想の様に、ソ連は、
その権力闘争において、この国際本部の司令を切って、新たにマルクス主義信奉の第三
インターナショナルを置いた。ここで間違えてならないのは飼い犬の番犬が餌を求めて
主人に吠え尻尾を振る様に 共産党は権力破壊と粛清を利用し食糧分配の手配師と演じ
たのみで、何ら建設的ものはない思想だった。と言う現実である。

181:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/27 19:47:32.20 olpHpHz86
 1907年異変   おまけの 81

 資本主義や社会主義、ましては自由主義の理想論は随所に起ったが、現実的対処や、
国家やシステムは、中東はもとより、英国でもEUの各国内でも、東欧でもソ連でも、
米国でも中国でも南米でも、生まれてこなかった。産み出されても生き残れなかった。
日本社会のみに、横たわる神がこの島嶼国に作ったのである。私には、ゴルバチョフが
来日した時のニュースがなぜか鮮明に思い出されてならない。1991年の春、04月16日に
、ソ連(現ロシア)のミハイル・ゴルバチョフ大統領がソ連の元首として初めて来日し
た、当時既にジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領は、ソ連崩壊を見越して大量の小麦
の支援物資を送っていて、アメリカにこの世の春が来ることは 解っていたのである。
これは影の組織DSからの情報であり、前年にイギリスとアルゼンチンが、フォークラ
ンド紛争以来8年ぶりに国交回復した事で、英国のMI6からももたらされていたのである
。この前年1990もゴルバチョフは書記長に就任したが、その混迷の虚に02月ラトビアが
ソ連からの独立を宣言し03月11日リトアニア03月30日エストニアも同様に独立宣言し、
その強制力を失って行った。もし1907年を近代のシンギュラリティとすれば1990年
も現代のシンギュラティの年であったのだろう。当時の海部俊樹総理は若すぎる程無能
だったが、彼とと会談したゴルバチョフは、共に日ソ共同声明に署名した。ゴルバチョ
フ大統領は、旧ソ連最後の最高指導者として、レストロイカ(改革)とグラスノスチ(
情報公開)を断行し実行して行く。旧ソ連国内は、保守派と改革派に分裂して、1991年
「8月クーデター」が勃発し新連邦条約締結に失敗し ソ連共産党では一党独裁体制と、
ソ連の体制そのものが終結・崩壊した。しかしソ連の経済改革を目指した姿は西側諸国
で高く評価されノーベル平和賞を受賞した。ところが1991年は1月13日 - リトアニアに
ソビエト連邦が軍事介入(血の日曜日事件)。1月17日 - 多国籍軍のイラク空爆開始に
より湾岸戦争勃発。日本政府が多国籍軍に110億円の追加支援を決定。

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21/11/27 19:50:52.46 olpHpHz86
  1907年異変   おまけの 82

1880年年代のこの頃、資本主義社会における低賃金と過重労働に悩んで、搾取され
る労働者階級は無産階級とされ、多くの悲惨な生活にいた。労働者が、プロレタリアと
呼ばれるきっかけは、ユダヤやロマ人と特定できずにこの名称が使われた。雇用する側
には、資本家階級を指すブルジョワジーという名称が出回っていて、対になった概念で
、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』で、数多く使った。
例によって、ブルジョワ主義打破。のスローガンは広く普及した。フランスの二月革命
など欧州各地の集大成で1848年革命に強く影響を与え『今日の フランスにおける社会
主義と共産主義』で、この語を資本主義体制下の生産手段を持たない貧困階級の意味で
使ったのが初出とされる。マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で、「今日まで
あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。」という歴史観の上で、近代ブルジョ
ワ社会においては全社会がブルジョワジーとプロレタリアートに分かれていくことは、
(両極分解論)、必然であり、最終的にはプロレタリア革命によってプロレタリアート
が勝利し、階級対立の歴史が終わることを予言したい。」としている。エンゲルスが、
1895年に死んだ後、マルクス主義政党一本で急速に勢力を拡大し、ドイツ社会民主党に
おいて「修正主義論争」が起こる。A・ベルンシュタインは株式会社制度でイギリスや
フランスにおいて有産層はむしろ増えていることを指摘し、『共産党宣言』の両極分解
論を批判し否定した。事実、西欧先進国においてはプロレタリア政党は権力を獲得でき
なくなって、むしろプロレタリアートが多数を占めていないロシアや中国において革命
が起こった。1989年に起きた東欧革命と1991年のソビエト連邦の崩壊でソビエト連邦や
東欧の主だった社会主義体制国家が崩壊して行くまで、資本主義体制下で存続していた
共産党をはじめとする数ある共産主義政党・社会主義政党も社会主義革命を目指した政
党は綱領を放棄し、綱領で党がもっぱらその利益を代表するとしたプロレタリアートの
概念を取り下げて、階級を代表しない利益の代表者に変わった。

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21/11/28 12:04:00.90 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 83

 こうして機械化革新と資本主義化社会の中で、帝国主義段階に突入するという情勢を
受けて、1889年に共産主義は、第2インターナショナルの結成へと継承されて行く
。この段階でアナーキズムの無政府論は主流から退き、マルクス主義を柱とした国家的
社会主義政党の国際連帯組織という性格に変化する。ドイツの社会民主党がその運動の
中心となって行き、第一次世界大戦の勃発でインターナショナリズムはナショナリズム
の狂暴な咆哮の前に萎縮し、再び分裂して消滅、それに代わってロシア革命の中での、
レーニンの提唱した第3インターナショナル(コミンテルン)が発足する。これは国際
共産主義運動を提唱し基本として活動した。スターリン時代にソ連共産党の指導を受け
、世界共産党の各国支部という性格を強め、排除されたトロツキーらはなおも世界同時
革命を志向して第4インターナショナルを結成する。この「インターナショナル」の、
飽くなき継承は貧民層の要望と貧民層の抑圧に利用され、資本主義同様に、指導者層と
しての利潤の搾取に貢献していく。第1が英国で登場し、フランスに渡って第2を形成
し国際的組合を作り、第3がソ連邦の形成に寄与した。この醜悪な第3インターナショ
ナルは共産党の理想郷を守るべく、ソ連の為にだけに動いた。その為、さらに第4イン
ターナショナルの国際旅団という国際的雇用兵団を作っていった。インターナショナル
運動はこうして いわば暗黒の奴隷時代の布教の宣教師の様に、国家間競争の諜報活動
のスパイ工作と共に国際的武装闘争の先兵として動き回って中国にまで泳ぎ着いたので
ある。近代経済学で地代論が展開され、商品価値は労働力と関係があることが紐解かれ
、商品生産の労働者対価の賃金が、生産のための資本家や国家に分け前を二分し提供し
ている事で、労せず利潤を受け取る仕組み(資本主義)に反抗した労働運動はそのまま
国家間の 領土領域の権力闘争になり、第二次世界大戦を引き起こした。

184:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 12:04:26.97 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 84

 1889年パリで開かれた社会主義者・労働者の国際大会で創立。マルクス主義を支配的
潮流とするドイツ社会民主党が中心となり、ナチスに変化し、欧米・アジア諸国の社会
主義政党の連合機関として応援して、アメリカ共産党経由で発展途上にアジアに多くが
兵器と共に送られたのだった。第1次世界大戦開始で、戦争支持派・平和派・革命派と
分裂して実質的に崩壊した過去の教訓から、その後再建され左派を極左を中心にコミン
テルンが養成され、ソ連邦の防備と攻撃は続いた。というのも、これまでもロシア帝国
時代には、領土拡張としての南進政策は、オスマン・トルコ軍との戦いで止められ清露
戦争で止められ日露戦争で止められ更に英仏にも止められ、ドイツとの連携も裏切られ
、といった形で唯一残ったアメリカ資本との提携が、歴史的にも地政学的にも 残った
道だったのだ。アラスカを売り捌き、大陸横断のシベリア鉄道を敷いて物流は出来たが
ロシアそのものは食糧も事欠く極寒の地には変わりなかった。こうして最終的には中国
に狙いを定めて動いて、日中戦争が勃発した。日中戦争は実は戦争ではない。何故なら
当時の蒋介石政権は、北伐に明け暮れて作られた政権だったからだ。数ある租界と言わ
れる租借地は、日露戦争の戦後処理で生まれた沿線防備の為の満鉄付属地と第一次世界
大戦後にドイツの賠償金交渉で取り上げられたドイツ租界と共に、ベルサユ条約での、
先進国領域協定での中国大陸の権益確保で、北伐で空ける都市の治安や防備は、日本軍
にしか頼めない状態だったからだ。日本軍は、特にソ連との北方境界線維持の為にも、
中国の治安維持は欠かせない物だった為、孫文を基にした革命政府とは縁も深かった。
こうした盤石な体系の中に、蒋介石は日本の意向を押し切ってドイツの顧問団を受け入
れ、その甘言にそそのかされて、テロリストの共産党退治に北伐を開始していたからだ
。その過程で、ソ連にそそのかされ毛沢東に庇護された張作霖の息子張学良に束縛を、
受けなんと命を本人が人質に取られて 政権運営していたのである。このドイツの顧問
団の派遣を手助けしたのが米国共産党であり、蒋介石夫人宋美齢はその会員だったのだ

185:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 12:11:16.51 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 85

 こうして毛沢東にまでたどり着いた共産主義は、全く当初の労働者階級の保全や生活
の向上などとは全く違う物になった。又、第二インターナショナルの掲げた科学的考証
もなく第三インターナショナルのソ連のような貧困しゃの中にはあっては、膨大な搾取
や権力であり、中国では計画経済へ移行するという国民認識すら無かったものであった
。更に第四インターナショナルとも言える国際旅団の、崇高な自由化や、既存王権への
闘争時代は、既に終わった中の国情にあった中国で、破壊活動に勤しんだ毛沢東運動で
あったのだ。つまりは毛沢東の連中は、単なる破壊テロに傾覚したテロリストであった
のである。ここにソ連の工作で日本軍に殺されたと勘違いした張学良が飛び込んで来た
のである。1934年、張学良はヨーロッパから帰国すると豫鄂皖三省剿匪副司令に任命さ
れ河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党で軍を整えた。1935年、西安に駐留して共産党
の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの、士気の高い紅軍に連敗しては多く
の将兵を失っていた。ここに蒋介石軍が繰り出したが、30万人の軍隊と 100機の軍用機
を集める計画を開始ししようとしたが、既に共産党配下だった良は、共産党鎮圧政策の
強化策、東北軍への懲罰、張学良への警告に12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起
こして蒋介石を拘束し、第二次国共合作を認めさせる西安事件を起こした。以降蒋介石
政権は毛沢東の隠れた 傀儡政権となった。盧溝橋事件では、現地軍が妥協し日本政府
は、中国に停戦協定に合意し、中国軍幹部の陳謝と更迭が約束されていた。支那駐屯軍
の橋本群は内地軍派兵に反対し「29軍(宗哲元軍)は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ
、実行に移しつつあり」と打電している。日本政府は中国に対し、武力行使を行おうと
していなかったし当時の、米英ソの三ヶ国は日本軍の中国侵略に対しては傍観しており
、中国は孤立していた。「中国の抗日開始は早すぎた。もしもう五年遅ければ状況は、
まったく違っていたはずだ」と述べている。しかし、彼らには、冬季五輪や東京五輪の
絶対阻止の命令が ソ連から通達され 本人達もその熱意にうなされていた。

186:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 12:12:01.68 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 86

 このような事で張学良は罪人であり、中国共産党を生き延びさせたきっかけをつくり
、のちに国民党が中国大陸から追放された原因をつくった人ともみなされている。胡適
は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。西安事変で、我々の
国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった。」と述べている。後に制定された
双十協定には「中国共産党は、蒋介石主席と南京国民政府が、中国の合法的な指導者の
地位にあることを承認する。」という内容が含まれており、共産党側は8つの解放区で
の、共産党が支配する地区の解消・軍隊の削減など大きく譲歩した合意であった。さら
に蒋介石自身も、最大の援助国アメリカの内戦回避の意向を無視して内戦を起こした。
このことで、アメリカは中国の経済援助政策を打ち切って中国の国民党軍から撤退し、
共産党支援に動いた。此の為必ずしも張学良だけの責任ではない。ただ歴史として宮崎
滔天などが、孫文を支援し、大勢の食い詰め浪人が明治期に開国での、徳川政権返上と
共に大陸浪人として朝鮮半島や北朝鮮・中国と流れて行き、孫文を助けて清王朝の滅亡
となった。そして日露戦争以降も、この最後の皇帝の愛新覚羅溥儀を日本軍は援助して
最終的には、清王朝の後継者として満州国の国王に祀り上げている。この神妙さは、時
の政府は隣国を大事にしていた証であろう。ミハイル・バクーニンは、相互主義に基づ
いた「集産主義的無政府主義」を提唱し、国際労働者協会に加入した。国際労働者協会
は、後に第一インターナショナルとして知られるようになった結社であったが、多様な
革命的潮流を統合して1864年に発足した革命の応援結社だった。インターナショナルは
重要な政治勢力となり、その重要人物であるカール・マルクスは総評議会のメンバーで
あったが、彼の時に暴力的革命支援のソ連共産党のコミンテルンとその配下の国際旅団
が結成された。いずれもアナーキストの離合集散において出来事の中のものと言える。

187:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 12:12:31.92 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 87

 実はユダヤ迫害の根っこには、このアナーキズムが底流にあり、オリンピックはその
消化を目指していた。アナキズムとは、「国家形態を望ましくなく不必要で有害なもの
」と考える思想であった。国家の廃止を呼びかけるので「無政府主義」とも言われる。
このアナキズムの支持者は、アナーキストや無政府主義者と呼ばれる。実はこれが現代
の共産主義の正体である。アナキズムは、無政府状態の実現方法を、自由主義的な立場
と、社会主義的な立場とに、議論が分かれそれぞれに管理不要の自治を目的化した活動
としている。政治色は「黒」をシンボルとして「黒旗あるいは黒衣」で、アナキズムの
意思とする。目的が達成された状態をアナーキー(無政府状態)といい、政治文脈から
は逸脱してアンダーグラウンドかつ解体された状況,芸術表現,人の性格などを指して
用いられる。このアナキズムの歴史には、正式な国家や王国・帝国などが建国される前
と言う、遥か以前の先史時代から、人はアナキズム的社会で生きて来た。との学説は多
く支持され人々の初期生活まで遡ることができるという。組織化のヒエラルキー集団の
勃興で、権威に対する懐疑心も高まるのは中世以降で、19世紀になるまで自覚的な政治
運動は形成されず。19世紀後半から戦争の悲惨さによって、アナキズム運動は、世界の
ほとんどの地域で隆盛した。税の徴収と通貨の流通によって生活が整えられたからだ。
解放的生活を求める「労働者の自由や権利闘争」で重要な役割を果たした。その間には
、アナキズムの様々な分派が支持されたが、いくつかの革命に参加してアナーキスト達
は、次第に公共の負担論が浸透し、自由主義的立場の国家主義的権威の開放、と逆に、
この国家主義権威による自由の習得に分れた。緩やかなコミュンの繋がりでのコモンで
の相互主義を呼んだが、この個人主義的な政治的表現と行動を好んだパリ・コミューン
でさえ弾圧によって消滅した。

188:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 12:18:57.39 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 88

アナキスト達は、懸念を余所に、ロシア革命へ参加し、白軍と戦った。ボリシェヴィキ
政権が安定すると彼らは激しい弾圧に直面し、モスクワからは駆逐され、アナキストが
ウクライナやドイツ、中国や中東へと 逃亡するほどだった。新ロシア、つまりソ連邦
での多くのアナキストが弾圧され、特に都心部においての粛清で、二つの新たな対立軸
が出来た。政綱主義と統合無政府主義である。前者は、国家が革命を推進する首尾一貫
集団、後者は集団や政党と類似する物に反対した。結果、十月革命では、ロシア内戦で
ボリシェヴィキの勝利となり、多くの労働者と活動家は、無政府主義と他の社会主義の
運動を国外に求め、成長した共産党に転向し 国際旅団に送られた。リバタリアニズム
はフランスに起った自由崇拝主義である。経済的な自由個人的な自由の双方を重視する
、自由主義上の政治思想・政治哲学の立場である。新自由主義と似るが、経済的自由を
重視し守備一徹の経済合理主義に対し、リバタリアニズムは個人的な自由を重んじる。
他者の身体や正当に所有された物質的、私的財産を侵害しない限り、各人が望む全ての
行動は基本的に自由であると主張する。リバタリアニズムを主張する者はリバタリアン
と呼ばれ日本語では、完全自由主義、自由人主義、自由至上主義、自由意志主義などの
訳語がある。フランスとアメリカでは、このリバタリアニズムが謳歌された。その中で
サンディカリスト運動のメンバーが、彼らの組織であるフランス労働総同盟と世界産業
労働組合から離れ、コミンテルンに参加して自由の為の戦いと称した、国際旅団を応援
するアメリカ共産党を打ち立てていた。1930年代のスペイン内戦ではファシズム勢力に
敗北し、古典的アナキズムの時代が終りを迎えたが、アナキズム運動は、20世紀最後の
数十年間から21世紀にかけて再び隆盛した。アルゼンチンがアナルコ・サンディカリス
ムの牙城になった チェ・ゲバラなどの共産革命のゲリラ運動の祖になったのである。
リバタリアンは無政府主義に主張のみだが、アナーキストはその実行を強制し共産主義
は実行した集団の指導者として君臨した。これはユダヤ主義の選民思想と同じだった。

189:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 12:36:54.98 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 89

 アナキズムは、その目標を達成するために、様々な戦術論を用いているが、それらは
革命的戦術と進化的戦術に大別される。革命的戦術は、権威と国家を打倒することを、
目的とした暴力戦果をも美徳のものとした。過去には暴力的方向へ転じた社会主義とも
言われた。進化的戦術は、アナキズム社会がどのようなものになるかを前もって示す。
そうして政策を利用ことを目的として理想郷を達成するとしている。アナキズムの思想
と批判、および実践は、人間社会の様々な分野でその役割を果たしてきた。排除し改良
主義的傾向を強めては、コミンテルンと対立し、結果影響力を失った。国民政党へ転じ
たこの思想は、政治的有意に用いられるのは存続した社会主義体制国家とその支配政党
にほぼ限定されるものとなった。これは、新自由主義的な経済政策のもと、正規雇用に
ありつけず安定した生活しか送れない多くの人々が生み出され、経済先進国に出現し、
新たな貧困層をプロレタリアートになぞらえて不安定なプロレタリアート=プレカリア
ートと呼ぶ貧困層を作った。いわゆる機械音痴である。この時、概念は姿を変えて存続
したようだ。これは当然の事だった。例えばTVの工場組み立てを考えても同じだった
。組み立ての女性たちにTVの仕組みが解っている作業ではない。又、工場から一歩出
た我々は更に解っていない。しかしながら使うのは我々一般購入者であり、使う理由に
は全く関係ない電波発信者である。そして彼らも又番組制作者とは全くの交差はない。
こうした疎外粗粒社会で土壌に工業や商業の木が生えているのだ。そして常に国家とい
う養分の社会と言う水と金と言う太陽に向かって育っていくのである。アナーキズムが
どんなに反体制闘争して自由化を掲げようとも、それは恵みの外に行けば雑草に過ぎな
いし、心棒を立てられ水も養分もなく太陽光線に浴びれば、それは逆に枯れるしかない
、ここで本稿のオリンピックに戻るのだが、なぜオリンピックの問題に長々と語り、こ
うした共産党思想問題を論じて来たか。実は このオリンピック開催と、国家の威厳や
愛国主義高揚問題と経済問題や戦争とは、基本的には大きく絡んだ問題をはらんでいる
からだ。事実、ナチスのベルリン開催以降は、ここでオリンピックはセレモニーとなる。

190:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 12:40:40.42 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 90

 国際旅団すらも呼び寄せる事が出来た毛沢東は、そのソ連司令部に沿って武力闘争の
暴力革命を目指した。フランコ将軍のスペイン革命も又その典型的例だった。文化人が
指導的立場にあった様に見える国体も。中国などは実態はコミンテルン主導の派遣軍で
あり、第二次世界大戦の前哨戦としての側面を強く象徴する集団であった。世界大戦の
起こることとなった大きなきっかけは、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件であり
日本軍と中国軍との間で起きた衝突事件が勃発したことと、この翌年には日本と中国と
の間の戦争(日中戦争)が長期化する見通しが強まっていたことで、ソ連はオリンピッ
クで世界平和となって、国内に貧民の更なるデモやストが起こる事を危惧して共産党の
方針を伝えていた。それがオリンピック開催の阻止でした。国内でも、国際的な緊張が
高まっている状況で、オリンピックなどを開催するべきかどうか、という疑問が出てい
た。その一方で、国外からは、日本と中国との軍事的な衝突が問題視されて、そうした
運動の殆どが共産党の広報合戦であった。いわゆる共産党誇大広告のデマゴーグとプロ
パガンダ活動の一環だったのだ。松岡が国際連盟を脱退して以来、日本がオリンピック
の開催地として適当かどうかが問われてしまい、特に、国際社会における日本批判は勢
いを増し、IOC会長ラトゥール伯爵のもとには、東京オリンピック開催に反対する声
が多数寄せられた。こうした事態を受け、日本に辞退を求めることを決めたラトゥール
伯爵は、昭和13年(1938年)4月2日、自ら駐ブリュッセル大使の来栖三郎のもとを訪れ
た。来栖大使は本国の外務大臣に対してラトゥール伯爵の来訪を報告し電報をうってい
る。これによれば、ラトゥール伯爵は、東京オリンピックの招待状が発送される翌年1
月までに日本が戦争を辞めなければ、イギリス、アメリカ、スウェーデンはもちろんの
こと、他の国々からも、続々と参加拒否の動きが出てくるだろうと述べて、そのような
事態を迎えるよりは、自ら辞退を申し出る方が日本にとっても良いだろう、と勧めてき
たのである。

191:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 12:58:37.74 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 91

 1916年ベルリン大会予定時には、第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)
の真っ最中である。1916年の夏季オリンピックは、ベルリンで開催予定だったが、まだ
まだこの欧州国のみの参加型の運動会は、流石に休戦に至らず、ヨーロッパは戦火に包
まれたままではオリンピックはできず。中止となってしまい。軍部に休戦を勧めて臆病
者と言われた経緯から、自ら前線に執行すると言う異様な事になった。開戦直前の1914
年06月13~14日、パリで第17回IOC総会が開かれてIOCの 創立20年目にあたるこ
の総会で、その後のオリンピック近代化に向けての重要な決定が下された。・国際競技
団体の発言力を認める。・女子の参加を認める。・両手投げの やり投げや立ち幅跳び
などを廃止、・水泳の横泳ぎなど新種目が決定である。又合わせてベルリン大会の中止
も決定した。中止となった1916年ベルリン大会は、20年後の1936年にベルリンで開催さ
れナチスの力を見せつけた。このオリンピックは、アドルフ・ヒトラー率いる ナチス
ドイツ主催で、都市改造までして、壮大なセレモニーと共に映像放送と共に行われたか
らだ。その後も1940年、札幌冬季オリンピックが中止になった。1940年の2月3日~12日
にかけて、北海道札幌市で第5回冬季オリンピックが開催される予定であった。もし、
この冬季オリンピックが開催されていれば、日本初・アジア初の冬季オリンピックとな
ったはずでしたが、この開催にソ連は猛然と反対し、本局指令に毛沢東や周恩来は大き
く賭けに出て、蒋介石政権をものにして傀儡政権にした。こうして起こった日中戦争(
1937~1945年)の影響によって、その後の日本は、五輪開催はおろか国際的権利権益を
返上していくのである。松岡外交の誤った方針展開によって、その後に地位復権や五輪
開催がされることはありませんでした。まさにユダヤゴーレムの物語さながらに太平洋
戦争に突入するのである。良くアナーキやナチストが批判される。が本来人は自然を愛
して自由に行動してきた。ポピュリストもコミューターも実は人間の側面であり相互の
バランスによって社会が人が生活が建っているのだ。一面傾倒の国家ではどうしようもない

192:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 13:03:39.40 twASy9hjv
  1907年異変   おまけの 92

 又、日中戦争開戦後、物資や人員の確保、対戦相手である中国の選手の出場問題など
を巡って国内外から反対論が噴出していく。これらの反対意見に押されて行き、1938年
07月14日に厚生省の会議で「開催権返上」を決定。翌日の閣議でも返上を正式決定して
表明に至った。IOCは日本の開催権返上を受けて、スイスのサンモリッツやドイツの
ガルミッシュ=パルテンキルヒェンを開催地に指名したが、いずれも1939年9月からの
第二次世界大戦の勃発にともなって、中止となっている。欧州で、こうして第二次世界
大戦が起こっても、アジアには波及してはいなかった。日中の国内紛争のみであった。
ところが、1940年の夏の東京オリンピックにも影が指すのだ。1940年9月21日~10月6日
にかけて、日本の東京府東京市(現・東京23区)で夏季オリンピックが開催される予定
であったが。このオリンピックは、欧米以外の有色人種国家で初めて開催されると同時
に、アジアで初めて開催される予定の夏季オリンピックである。日本においては、紀元
二千六百年記念行事、としても、準備を進めていました。しかしこの、昔からの民族で
浪々と繁栄して来た。という事にユダヤ主義や共産主義は更に反発があった。白豪主義
選民思想において許せない事だったのだ。ここに、日中戦争(1937~1945年)などの、
拡大要因があった。そしてその影響が、物資や人員の不足と、軍部のオリンピックに割
かれる資源から反対に行き着いた。此の為こうした軍部世論への配慮から、1938年7月
に、五輪委員会は日本政府と話し合い開催権返上を天皇無視で決定していった。実は、
本来天皇の諜報機関の上で、欧州訪問で、五輪や万博の開催には、各国の国王などとの
訪日の固い約束もあったとされている。その後、日本は1960年の夏季オリンピックに、
東京を開催地として立候補。戦後の1964年に無事「東京五輪」を成功させ、世界に日本
の復興を大いにアピールすることにはなったが、これが戦前であれば大きく平和に寄与
したであろうに、と偲ばれる。つまりナチスのベルリン大会前に日本で行えばかなりに
世界事情が変わっていた筈だろう。

193:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/28 13:07:30.48 twASy9hjv
 ベルリンオリンピックでは、五輪旗や国家集合体としての競技運営、行列や行進とか
メダルの授与式といったイベント態勢が整えられた、同時に国威発揚としての側面と
国家と資本の協賛で映像化も進められ、イベントの楽しむ大会からセレモニーの権威の
ある大会に大いに変化進展していった。今IOCの北京などはその典型的問題開催で、
私はやるべきではない。と思う。特に条約や誓約書を紙切れと言い、個人や人権は国家
以上の地位はない。と、公けに言ってる状態ではどうしようもない。国家が違反しても
個人として 出場させていく姿は 国家以上の個人尊重の 本来の人の思想である

194:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/29 11:17:30.56 9sXmO7XtH
  1907年異変   おまけの 93

 ベルリンオリンピックでは、五輪旗や国家集合体としての競技運営、行列や行進とか
メダルの授与式といったイベント態勢が整えられた、同時に国威発揚としての側面と
国家と資本の協賛で映像化も進められ、イベントの楽しむ大会からセレモニーの権威の
ある大会に大いに変化進展していった。今IOCの北京などはその典型的問題開催で、
私はやるべきではない。と思う。特に条約や誓約書を紙切れと言い、個人や人権は国家
以上の地位はない。と、公けに言ってる状態ではどうしようもない。国家が違反しても
個人として 出場させていく姿は 国家以上の個人人権尊重の 本来の人の思想である
。リバタリアンがわざわざ相互主義と言う提言を出すぐらいに権威主義や恫喝の重商工
経済つまり奴隷化した商工システムの貿易経済だったのだ。これが、第一次大戦までの
思想の底流にあった。ただ不思議なのは同じ自由を求めたアナーキズムの無政府主義者
の米国共産党は、米国政府内で活発に活動していた事だ。無政府主義時代に無政府党の
支持で国家を形成しユダヤ金融は盛んに応援した。そこには紛れもなく奴隷経済延長に
動いていたのは確かで、しきりに金融貸付で経済が動いていたのは確かだった。日本の
開国当時の金貨は重宝なもので、日本国内では米国金貨と同等だったが、アメリカ国内
の鋳造技術で、ほぼ3倍の金貨銀貨が作られ、そうした金融資本家を後押しした形だっ
た。まあ重商主義のイギリス富豪も同じように中国でのアヘン通商に興じていたので、
第一次大戦の機械化戦争には、大きな驚嘆と脅威があっただろう。しかし、それ以上に
第二世界大戦は悲惨な大量破壊兵器が登場して終わった事で、アメリカは最高の地位に
いた。にもかかわらず、国内的には人種差別は変わらず、朝鮮戦争やベトナム戦争に、
泥沼化の経済に入り込みブレトンウッズ体制の維持すら出来なかったのである。あとに
追って核開発したソ連も同じようにアフガン撤退、中国との領土闘争ソ連崩壊と進む。

195:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/29 11:36:57.88 9sXmO7XtH
  1907年異変   おまけの 94

 シンギュラティ理論では4つの定説がある。1つは革命はどんなものでも為にならな
い。と言う事だ。例え便利な重宝なもの文化に大きく寄与した物でも基本既存を壊す。
と言う事は生活の変容である。これは耐えがたい苦痛と生活破壊である。それはこれま
でに育ててくれた環境や教育の中で、覚えてきた大きな知識の集積が、ある種ある部分
で不必要に思われ暴徒暴漢に壊され、ひっくり返えされると言う事になる。大部分の人
は付いていけるだろうが、その中に大切に守っていた物を持つ人や、ついていけそうに
ない落ちこぼれは、当然ながら出るのである。その2は、これが自然との共存でなく、
破壊に突き進むのは確実な事だろう。ウイルスや人の身体、原子力や電気、排気ガスや
気候変動。どれ一つをとっても、我々の科学技術や知識は、利用する為の理解であって
 仕組みを解明し、発展や育成し創り出すと言う行為でも自然現象でもない。その意味
でシンギュラティ理論の変革や革新は、一気になる程成功し破壊する。が、そうした物
ほど意味の無い、非人間的様相である。その意味ではアマゾンの奥地の部族の、智慧の
方が遥かに先進性があるし、社会を理解している。つまり、進化と思われるこれまでの
発見・発明・発達は、結局人間の能力の退化の勧めなのである。3つ目は、価値の低下
である。物事は普遍、普及に努める程、当然相対価値がなくなる。グローバル化し大量
生産し広域販売化する大規模事業というのは、それ自体は大きな賭けで、より以上にそ
の危険を孕む。巨大なシェアや広域さはシステムの自己防衛や保身と自己破壊の変革が
出来にくく危険性が増す。図らずもリーマンショックでは企業を潰せず個人を見捨てた
。原子力事故は人類の手に負えない代物である事を露呈した。これらの、①既存を壊す
、②退化する、③進化を止める、と言うのは、基本、何処にでも誰にも何にでも起こる
自然の作用である。が、特徴的な事はそうした事で、④のエデンの園現象が起こるのが
経済のみの現象である事だ。

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21/11/29 11:37:28.08 9sXmO7XtH
 東電秘書=片山寅之助初め、橋本・小沢・海部や谷垣といった錚々たる自民党若手。
建設当初から、東電秘書とされた丁稚議員が大丈夫と声を揃えたたが、菅代表は津波は
来る少なくとも緊急電源の発電装置は屋上に揚げるべき。と言っていたにも関わらず、
スリーマイル事故やチェリノブイリ事故があっても30年も放置してきたのである。この
時の司会者が田原総一郎であった

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21/11/29 11:38:00.03 9sXmO7XtH
  1907年異変   おまけの 95

 エデンの園現象は、誰でも知ってる桃源郷の話だ。このアダムとイブの話は誰でもが
知っているであろう。ところが、それは物語の話でない。その舞台の場所の話である。
たわわに実り、いつでも収穫出来る実りの 神の管理する場所。それがエデンの園であ
る。古代ヘブライ神話においては、神によってつくられた最初の人間アダムとイブが、
最初に住まわせられた楽園(パラダイス)のこととして『旧約聖書』に描かれている。と
される。しかし、最初の人間とされるアダムとイブだが、しかし彼らは神の掟を犯して
蛇の姿の邪神の勧めで、「善悪を知る樹」の実を食べて、この楽園から追放されるので
ある。人類に、生命に時間や期限をつけ、死境がきたのもこの事に起因し園を出た為と
される。この物語が基になって、「エデンの園」はのちに「天国」「理想郷」「罪や悪
のない状態」などの意味で、神霊学、宗教学で象徴的に用いられている。もう一つの、
懺悔しよ。と言う命令も贖罪のキリストも、この最初の人類の、罪を犯す(原罪)が、
ここにあり、追放されたと言う人類の身分からミサや祈りは行われるという。キリスト
教では、この後者の罪人による命、というシステムで「祈り」「救済」「戒律」「罪」
「許し」などの洗礼の儀式が行われる。この堕罪以前のエデンの園の状態の回復こそが
救済と解されることが多い。エデンの語源は不明だが、エンデング。つまり物語の終わ
りの場所を意味したとされ、パラダイスはこのエデンのギリシア語訳に由来する。とも
言われる。アダムとイブは、時折アダモとエバされるが、ヘブライ語で「土」「人間」
がアダムであり、「生命」や「永遠」がエバの意味であるという。土と生命とは植物で
あり、「善悪を知る樹」は今でも不明だが、推測ではブドウの木でありその実はワイン
を意味している。つまり酒やアルコールこそが禁断のものだったとされるのが一般的だ

198:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/29 11:40:08.01 9sXmO7XtH
  1907年異変   おまけの 96

 4つ目の、エデンの園現象の経済現象は、二つの事を意味する、一つは金貨も労働も
介在しない経済である。と言う事である。つまり税もなく、何時でも幾らでも収穫し、
食べられ、いつでも果実はもぎ取れる。だから蓄える事もないし、売り買いもない世界
。これがエデン現象の一つである。つまり豊かである、豊富である、便利である究極は
金を使わない世界。と言う事になる。これを社会主義も共産主義も自由主義もひたすら
追い求めている。と言う事になる。これはとても矛盾する西洋哲学の話になっていく。
対して東洋の日本は、最初から仏教的神道哲学である。「働かざる者食うべからず」で
「与えはその者の力」とか「因果応報」「摂取不捨」とつまり「貧乏こそ祀る神」での
生活である。殆ど西洋的理想にはほど遠い夢と実情がそこにある。ところが世界一の、
豊かな社会構造で綺麗で大都市化した道徳の暮らしをしていた街を形成していたのだ。
もう一つは、このエデンの園の監理者が神だった事だ。よく「神のみぞ知る。」という
言葉があるが、まさしくここで現れている神は「全智全能の神」であって、地上を作り
光を呼び、人を作った上に未来をも見通せる、姿なきものである。正に神話の中の住居
するもので、精神世界にしか存在しない完全無敵の物が管理する世界である。現実世界
にはそんな国はない。いや国どころか地域すらこの地球上の現実世界に未来すら存在は
しえない。のだが、西洋主義の信仰では、共産主義も社会主義も自由主義もいや資本主
義の株式市場すらも「神の見えざる手」を信奉し、指導者達はその使者や番人かの様に
いい、振舞うのである。それらに吊られて日本でも、日本は君民一体の国柄を築く為に
万世一系の皇族による一家とした国を希望した。つまり、かつての蛮族のごとく戦いに
部族の為の、結束の用意や負けない事の自噴の祈りが必要だったのである。いわゆる、
自認のためのセレモニーである。エデンを追い出され、又戻る為の悲しい行為であろう

199:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/29 11:40:40.60 9sXmO7XtH
  1907年異変   おまけの 97

 ここで大きな事に気づいたはずだ。つまり、人は何故か、神の築いたとされる桃源郷
や楽園にこの世を近づける為に世界に紛争を起こし戦争をして領土拡大に陥っていた。
そしてその死や困難な恐怖の払しょくに神への祈りを起こしていたのである。宗教には
色んなものがあるだろう。ところが科学的哲学との違いが明確にある。それが「神」の
存在である。神の存在なしに宗教はない。故に無神教と言う宗教はあり得ない。ところ
が、この「神」と言うのは想像上の産物であり、リアリストが神を見せろと言う話が、
度々論争として起こる。そして宗教家はほぼ悪い事を天罰とし、身に降りかかれば、そ
う言う毒舌の宗教家も神に恵みを願う。存在しない神に哀れみを乞うのである。実は、
人の進化のその営みは、この「存在しない物を信じる」と言う力から発達して来た。猿
や類人猿などを遠い祖先にもつ人間が、一体何故進化したか。これは唯一この想像力で
あったのだろうと思う。違いは集団行動や二足歩行など色々とあったろう。しかし恐竜
すらも作れ得なかった、建物の中に住み言葉をしゃべり火を扱う生活は、畏怖心の高さ
であろう。この畏怖と畏敬の最大の対象物として神が存在する。まさに現代のAIが、
過去の資料の集大成でしか未来を予測しないのに、人間は突拍子も無く「全知全能の神
」を創ったのである。これこそ人類最大の発明であろう。空想上の何でもできる人物。
それが今可視化してアニメにもなって世界を楽しませる。その枝路に音楽や言葉や物語
がある。およそ人と動物の違いを、この神の存在に捉えて、自分達の神が最高神とした
中世の欧州社会は、それが中心として権力者闘争や奴隷貿易したのは、必然の至りでは
あったのだろう。西洋ではその声を聴ける預言者が台頭した。しかし、東洋は違った。
神とは霊であり雰囲気だった。つまり自然の景観に神を見立てたのである。それが甘露
の雨であり、地震や大雨の災害であった。予期せぬ災害が多い日本には、当然だった。

200:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/30 02:17:03.62 mTzQvqILY
  1907年異変   おまけの 98

 日本で言う神と西洋のいう神とは、大きく違う。更に日本の神の霊と言う存在は仏教
によって消化され、更に偉人やご先祖も仏とされ、崇めるものとなる。これによって、
偶像化され産業の如く歴史を彩り、山や木や池や海に 結界であるしめ縄が張られて、
そこが神聖な公用の地である事を示す行為が 全国において現れている。ところが西洋
も中東もあのキリストでさえ預言者であり人を導く者であっても神ではない。神は唯一
のエホバやアラーでしかない。偶像化の禁止どころか、イエスを通じての神であって、
その姿がゼウスの様な人型なのか、南米やインドの様な半獣神なのかは不明で姿はない
。ただの光や宇宙線のような無機質体かもしれないもの。が神なのだ。この違いは簡単
な違いだが、精神世界では大きな違いである。対して悪魔とされる魔王などは擬人化さ
れている。類人猿から人間になった、脳の中の最初のシンギュラティと言う特異点は、
恐らくは、この神を創った事であろう。そして数千年経ってもその神への支持は離れず
今度は人間の分身たるAI所謂人工知能を持った機械を登場させた。1997年に、チェス
用に開発されたAI(ディープ・ブルー)は、世界チャンピオンを破り、その後も進化てい
き家電製品を始め、情報通信・金融工学・医療・軍事などの分野で、実用化も進んでい
く、2010年代に入り、ディープ・ラーニング検索比較機能の飛躍的な発達や、ビッグデ
ータの集積情報に伴う「第3次人工知能ブーム」が起こる。こうしてシンギュラリティ
と言う特異点変化点が注目を浴びる。カーツワイルは本書で、2045年にシンギュラリテ
ィが到来する、と予言し、AIは人類に豊かな未来をもたらしてくれる、というポスト
・ヒューマンの誕生を予言する。しかし、既に自立型殺人兵器が現れ、監視システムの
膨大な情報から特定の個人を規制拘束に共産党は利用している。理論物理学者スティー
ヴン・ホーキングは、人類に悲劇をもたらすと警告し、マイクロソフト創業者のビル・
ゲイツも批判的な見解をし、脅威論を一蹴するカーツワイルも、安全運用ガイドライン
の必要性を否定しない。報告書は、およそ601種の 職業には、創造性や協調性が求めら
れる業務は人間が担うが、100種以上の 一般事務・配送・清掃・警備・運転・製造業務
などは代替されるという。

201:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/30 17:38:49.11 2QpfXxI/3
 1907年異変   おまけの 99

 米粒がご飯粒になるには、収穫し 籾摺りし、クズを取って水で研ぐ、その後に火を
入れる。そこで必要なのが器である。つまり、労力と水と火が要るのであるがそれ以上
に器が要る。と言う話だ。今では精米しての米が流通し、便利な炊飯ジャーが米を炊く
。しかしながら、古代のこの米から飯に変わったのが人類の第二のシンギュラティであ
ったろう。まあ西洋では小麦であろうが、米や小麦の方でもびっくりだろう。あれほど
硬い殻と尖った穂に進化して来たのに食べられる為の栽培品目になったのだから。更に
は水と共に煮る事でおいしいたんぱく質になる秘密が解かれてしまったのである。この
水稲が名の如く水棲植物だった事は余り知られてない。紀元前2千年ぐらいでは、稲は
イモと変わらず元来は湿性植物である。水田で栽培するイネを水稲とされ、耐旱性が強
く畑地で栽培するイネを陸稲と区別され、日本では明確に水稲と陸稲が区別される。が
元来水稲と陸稲とは明確には区別されるものではない。水稲は、灌漑稲、天水稲、深水
稲、浮稲といった種類に分ける。しかし稲の原種は浮稲(うきいね)とされ浮稲は、水
が少ないときに直播きをして、水が増えて水位が上昇するにしたがって、穂先を水面か
ら出して生育する。苗床である程度育った苗を田んぼに移す移植栽培によって現在は、
栽培されるが、季節によって多量の雨水があったり洪水があったりして、水かさが増す
ような場所で育てる稲だった。東南アジアやインドアフリカなどの低湿地域の多くに見
られる栽培形態である。東南アジアの大河川流域のデルタ地帯では、雨季には数mの水
に浸かる。単位面積あたりの収穫量は少ない。ところが、日本の様なホワイトカラーも
ゴールドカラーもない世界で、西洋化しない世界では誰もが実行生産従事者で、ブルー
カラーの労働者である。つまり今の機械化し合理化し品種改良した豊作社会よりも豊か
だったのである。余裕時間を持ち、ベトナム戦争すら勝った住民の意思がそこにある。

202:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/30 18:13:58.26 2QpfXxI/3
  1907年異変   おまけの 100

 なぜ豊かであったのか。それはハイブリッド農法だったからだ。日本に限らず二毛作
はどこでもあったし、洪水の頃は、魚やカニを取っていたし、乾燥期にはバナナすらも
なっていたと言われるから、驚きである。確かに工業製品と言われる物はなかったが、
タイ・ラオス・カンボジア・ベトナムは、アンコールワットの遺跡が物語るように王国
として、マレーシアやインドネシアとの闘いすら出来る実力があり、象による車もあり
多くの日本人街が出来て住み着いた歴史もある。元寇時代もフランス以前の軍艦が押し
寄せて来たが 多くに勝利し、元の再度の日本侵攻を止めた国とされている。ここでの
緩やかなコミニュティの繋がりこそが、実はアナキズム者の共産主義の論じる生活体な
のである。ところが、その共産主義を論じて止まないポルポト将軍は、村民からの人気
の無さに恐怖政治に陥って行く。つまり、こうした豊かな生活のここでも、共産主義の
理想は成り立たない理論だったのである。では自由主義ではどうか。インカもインディ
オもアメリカ社会で駆逐され惨殺の歴史は大きな黒歴史としてアメリカ社会に横たわる
。つまりどんな主義主張をもってしても 培われてきた古来の風土主義にはかなわず、
中央集権を持って指導する限りに楽園生活は成り立たないのである。この矛盾に対抗し
豊かな社会を築くには、結局は流通経済と格差解消の努力しか残されていなのだ。ここ
に原子力の発生がある。元々原子爆弾前は、純粋な科学者の探究から出た放射線科学で
あった。それが大戦時の覇権思想で火薬の最大爆発性能に特化して開発されたものだ。
思想的には、安価で最大の脅威を持つ物として君臨した最終兵器。だった筈だったが。
すぐさまこの米国の野望を打ち砕くソ連の開発成功で拮抗した。そこで偽ったウランの
製造に発熱作用がある事から原子力発電が出来た。こうして発展してきたが、一体どこ
を終着駅にしてるのだろうか。この目標の無いままに、中国に軍事開発が移っている。
次々に強力化覇権化支配力強化を設定し、一体この国は人類の実情をどう理解してるの
だろうか。

203:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/11/30 19:07:42.96 2QpfXxI/3
 1907年異変   おまけの 101

 元々西洋主義と東洋主義の違いは、このハイブリッド生産にある。日本人のみならず
東洋は、ほとんどに洪水や台風被害、或いは火山の災害など畏怖する事は多い。そこで
人は寄り添って暮らす事は 自然界で強いられた。ところが西洋社会や中東、或いは、
エジプトなどは、結局は森の木を伐り今のアマゾンの様な開発の社会しかもてなくて、
巨大な征服者や指導の前に、ひれ伏して生活するか、アウトローとして孤立を守るか、
しか無かったのだろう。一時期は反映した社会であっても、資源が尽きれば砂漠化の下
移動する砂漠バッタの様な喰いつく文化しか育たなかった。そこで追い詰められたのが
豊かな先住民達で、謎の海洋族とされるギリシャ社会を支えていたであろうバイキング
は、今や駆逐されてサーミ人の伝説でしかない。つまり、食糧と人口に於いて他部族を
吸収するに能わず、霧離れた生活圏を守って生きて行くしか無かったのである。東洋で
もそれは同じだったろうが、インド人に見る様に、戦争する程貧乏でも無かった。どう
にか宗教で生き延びてマハラジャの様に一つの集団としての生活だった。マハラジャは
太守であり日本で言えば藩主のようなもので、日本では天皇や徳川幕府があったが、こ
のインドでは宗教が統一されて無い分只の太守達の部分的集合体の集まりでの同盟体で
運用されていた。正に中世の欧州が望んだ緩やかなコミーンの融合である。だが今でこ
そ開かれたEUで集合がなされるが、既にローマ帝国時代イスラムの支配時代大航海時
代を過ぎて、覇権主義と成文の契約主義とキリスト教の排外主義は出来上がっていたの
だ。ここで、公益を目的の組織された政治的コミュニティーを意味するコモンウェルス
(共通善)の思想は打ち砕かれる。歴史的に共和国の同義語として扱われて議会政治の
素とはなったが、東洋的な国家そのものが公共の公園のような意識は育たなかったので
ある。従って自由主義や資本主義は、社会悪を垂れ流し野放図に危険をばら撒き利益を
貪り尽くして国家を恫喝していった。

204:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/04 17:05:31.68 2GjjnS8Ev
  1907年異変   おまけの 102

 この国家の形成に 一番不思議なのは中国の国家像である。我々日本人は文化の多く
を中国から取り入れられて 文化を進め文明を築いて来た。にも関わらず貧相な文化で
ある。巨大な大陸人が行き着いた先がこんな下郎の我儘世界とは、ちょっとショックだ
。中国で抗日映画は多いが、日本ほどに被害も無く戦いも無く多くは自らの爆撃である
。アメリカ軍が上陸した訳でもなく日本の軍艦が押し寄せて攻撃した訳でもない。が、
行き着いた先が共産主義の無知蒙昧な秘密警察の破壊社会だったのである。人類進化に
於いて、人類が仮想のこの世に存在しない神を持って猿から人となったと持論を持つが
、そうなるとこの創り出した神を否定する事で新たな明日が開ける様に思うが、この神
を否定した社会が共産党の社会である。本来なら真面目に調査した科学的な資料に分析
を加えて計画する物だが、この国には嘘や偽りで物事を進めて、しまいには餓死者すら
出る程の粛清と革命であった。この国のそうした歴史は計り知れない程暗い。思想文化
があれほど活況であった戦乱を潜り抜け百花繚乱の中で、出て来た現代が腐れた共産党
文化なのだ。こんな事があっていいのだろうかと思うほどおかしな国だ。こうした野蛮
な国の実情そのものの姿をみると、確かに主義主張など関係なく、宗教的な神のつなが
りこそが人類の幸福の様に見えて来る。この落差に驚嘆する。今後AIと言う、とてつ
もない大きな道具が社会を支配する。それは核兵器の様に使いものにならない物だろう
。エデンの園が人々の仕事さえ奪うほど豊かな社会なら、恐らくAIはその経済のない
社会は叶えられるだろう。がしかし、それで人は救われるものだろうか。はたしてこの
辿り着いた非人道でナンセンスな中国の発展性のなさは、一体何であろうか。

205:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/04 17:05:53.54 2GjjnS8Ev
  1907年異変   この頃 103

 石油で街は暗黒街化して マシンガンで銀行は盗賊にやられ、田舎じゃ幌馬車生活で
 東から西海岸についた頃。ロシアは俺の土地って言い張って仕方ない。じゃあ~アラ
スカごと買ってやるわ。ってどっかの金持ち議員が交渉した。そうしてアリゾナの砂漠
を出て、豊かなニューメキシコやテキサスをものにする。その後、金鉱山のブームは、
直ぐに冷めて盛んに油井を掘り黒い金、石油の獲得に目ざめて行く。山本五十六が1905
年(明治38年)軍艦「日進」乗船して日露戦争日本海海戦で戦傷を負い、それで、兵士
としてこいつは使えない 文官しかないな。と大本営は判断し渡米させ勉強して来い。
って日本政府が渡米させたのが1909年(明治42年)である。アメリカに駐在官勤務にな
って在米駐留したころ、このニューメキシコやテキサスは、油井の油で花盛りだった。
1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の
教官になり、同僚の米内光政と盟友になった。とされる。アメリカのゴールドラッシュ
ならぬブラックス・スターのオイルシンジケートが出来る頃。この時スタンダード石油
で大儲けしたのが 今の世界三大財閥として、「ロックフェラー家」「ロスチャイルド
家」「モルガン家」などだ。彼らは石油採掘でなく 投資や鉄道などその周りで儲けた
のである。科学者を集めて、エンジンに良い程よい「石油の標準化」精製ガソリンを作
って売りだしたのだ。スタンダード石油である。つまりそれまでは 重油も灯油もガソ
リンも適当な精製で仕分けしていたものだった。これをエンジン燃焼用に改良し 残り
をランプ用に灯油とし、そのランプ用の廃品を重油で燃料の暖房用に分け安く供給した
のである。ロスチャイルドや家はそんなに大金持ちではなかったが、カーネギーやフォ
ードと仲が良かった。その為投資が行き届いた。と言うまあ 日露戦争時代で 一番に
 薪から石炭へ 石炭から石油に 燃料が出来て蒸気機関が 手軽な動力燃料機関に変
わって行った時代だ。丁度この頃に日本の文明開化 すなわち開国化の嵐が去っての
やっと西洋文明に庶民がありつけた時代で、明治から大正の移行期になっている。

206:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/04 17:06:25.47 2GjjnS8Ev
  1907年異変   この頃 104

 この世代交代は凄まじい意識の錯綜時代であった。朝鮮王朝が贅沢な散財に明け暮れ
、中国が西洋文化に落ちんでアヘンの繁栄時代だったのだ。朝鮮王朝も無駄遣いでは、
本人にはその意識は無かったろうが、白丁のコリアンカーストで農奴による奴隷農業が
ロシアから伝わり、やっと農業している頃だった。中国のアヘン戦争以降 中国資本の
貨幣価値は100分の1に下がっていても、朝鮮王朝は尚海外品を求めた。これで線路
や学校 水路や上下水道など国内インフラを海外に頼むなど、全国民を奴隷に売り飛ば
しても 無理な話だった。道路が糞尿にあふれた西洋スタイルの物真似し それこそ、
線路敷設を国内人夫に求めるのも嫌だった。というのは 解る。まあ白丁文化コリアン
カーストの頂点の生活でも白丁は不満のままの生活であったろう。だからあっという間
にロシアに占領され、経済では中国の反発心もあったようだ。日本以上の領土の面積を
朝鮮半島は持つが、しかし以外に資源は乏しく 中央にまたがる山脈の北側は限界地で
人が住めるような部分は少なかった。と言われる。そこを開発したのは日本人達であり
、中国の犯罪人を多用していた。それらは台湾のアヘン窟の囚人の刑務所の流刑場所で
あったからだ。ラソン港が開かれ 漁港から商用港に変わった事で、日本から水力ダム
用の資材が供給され、陸軍の要望で建設され やっとソウルに電気がきて 普通の国の
暮らしになった。それは日本以上の豊かさであった。後に満州国となる工業も次々に作
られた、農地用水用のダムの発電からだ。北朝鮮の工業化はその遺産を利用した結果で
ある。今でも北との合併がなくば韓国経済は立っていけないようだ。しかし競争意識の
強い戦争状態ではどうしょうも無く 工業原料も原料となる鉱物資源も 森林も海産物
すらも 自営出来るぐらいで輸出出来る程の生産品とならないのは 日本と同じである


207:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/04 17:06:53.80 2GjjnS8Ev
  1907年異変   この頃 105

 1907年のアメリカ人になったつもりで書き込むとすれば、朝鮮半島など旅行するのは
時間の無駄で 徒歩であっても日本旅行を勧める。下品で臭く 食べる所もなく商品は
女性の身体じゃ 路上に立っている事さえ苦痛だった。と アメリカ人の旅行記は書い
ていて 「私は早く大連までの船に乗り込む事が唯一の救いになった。」と書き その
時の通訳をした土地の宣教師に ご苦労な仕事だ。と書いている。まあこんな感じで
日本も似たり寄ったりだったが 清潔さが違っていた。もし日本が朝鮮の様な不潔さで
は 風土病や感染症が連発し、日本人はいない程に病人や死亡者が 溢れていただろう
。と旅行記は書いている。つまり 朝鮮半島は豪雪でないが 非情に乾燥した寒い場所
だったと書いている。ところが 1903年に旅行した彼女は1919年に又立ち寄っ
たが 非常にびっくりしている。よもや 発展・開発など無理と見ていたこの地が活気
に満ち溢れて 建設の槌音が響き物にあふれて 立派な西洋化の道に行き着いていたの
を 確信したからだ。1910年の日韓併合が こんなにも朝鮮半島を変えるとは 思
ってもみなかった。と記述される。第一次世界大戦に関する「パリ講和会議」開催され
て 東洋にも平和が来ているだろうと旅行して シベリア鉄道に乗り込んだらしいが
その快適さに 日本人の勤勉さを見た。と評している。どうもこの頃は 太平洋航路で
日本の横浜につき そのまま一泊して、京都や下関から シベリア鉄道を継いで ヨー
ロッパに行くのが流行りだったらしい。まあ大西洋航路が ドイツや氷山で次々と豪華
客船が戦争で沈没していたから 無理もない話であの有名な タイタニック号沈没も、
この頃の大きな氷山が原因だったから・・・・無理もない。まあ 米国金満家の エキ
ゾチックな 社用旅には 丁度良かったのだろう。それに当時は 香港や台湾 シンガ
ポールや日本に 会社を置いた商売も多かったらしいので、米国からの 憧れのハワイ
航路と言った所だろう

208:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/04 17:07:18.94 2GjjnS8Ev
  1907年異変   この頃 106

 ところが、超大国のロシアを破った日本の発展ををこのまま放っておいていいのか。
と言う黄禍論が吹聴される。日本の脅威を放っておいたらいずれ黄色人種が白人の支配
を脅かすことになる。もしかすると20世紀中に合衆国は日本と戦争をするかもしれない
な。・・・と 有色人種を奴隷にしていた米国社会は本気で 東洋人に疑心暗鬼という
中で、社会が壊される恐怖心をついてドイツ人連盟が大きな反日デモを繰り広げたのだ
。それが今のユダヤ資本のロックフェラー家」「ロスチャイルド家」「モルガン家」な
どの金融から借りて商売していた大手の商工業者達である。日本人商店が安く便利に、
売り捌いて繁栄するので、こちとら商売あがったりだ。と貸付金融家に借りた金が返せ
ない。と泣きついたのである。特にドイツ系の白色移住民のユダヤはかなり 政府に
黄禍論 を吹き込んでいて、遅れてやって来た野蛮人として東洋人を見ていた。まあ、
この頃は、統一紙幣も無い状態で、日本人はバーター取引で家族経営で手広く儲けてい
たと言われる。ユダヤの金融家は、イギリスでは繋がっていたが、アメリカでは敵だっ
た。安田財閥 三菱財閥 三井財閥などはとは、特に火花をちらし、陸海軍の 軍商と
なり力をつけていたのだ。日本国内は大正ロマンを醸し出していた中で、やっと商売の
種を見つけた日本人は、ドイツ移住民の格好の敵であったらしい。その点で、チャイナ
マフィアやコリアンサークルは暗黒街の用心棒で立ち回っていたのでよく利用された。
勿論利用したのはフランス系金融の守り神のイタリアンマフィアである。日本人だけが
細々と仲間を作らないで 西洋化した商売をしていたので、そりゃ弱かった。徒党を作
るのが悪と教育されてきた世代で 仕方がない部分がある。卑劣卑怯に手をださず満州
を差し出す申し出も、ユダヤは嫌だと断ってナチスに葬られたのだ。放牧の騎馬民族を
敵対していた土地と言う事もあって。モーセの十戒以来、遊牧民は敵だ。と教えられて
いる宗教だから 仕方ないかもしれないが。

209:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/04 17:10:44.10 2GjjnS8Ev
  1907年異変   この頃 107

 このシンギュラリティの技術的特異点の絶頂の頃というのは、特に世代間格差は多く
ゼネレーションギャップと言う物は、如何ともしがたいものがある。よく日本の凋落や
米国の凋落が図やグラフに乗る。例えば日本の頂点は1995年を境に、教育も特許も
経済も政治も変化し、2000年にはその傾向が端緒に現れて来る。集合体に於いて頂点を
見つけるは難しい。だから方向の数式の京都大学の丸山理論で底を探るのが一般的だが
、その集中点より少し多気前後してみれは明らかに下降は見える。それが二千年である
。1995年は平成7年である。ドジャースの野茂英雄投手が米大リーグで活躍し、この年
、米大リーグ・ナショナルリーグの新人王に選ばれたのだが、そうした喜びも半減させ
たのが、1月17日に発生した兵庫県淡路島北部を震源とする大地震であった。波打つ
ように倒壊した阪神高速神戸線をなぎ倒した。これは大変な事だ。とTVに、食い入る
様に見つめていたのを覚えている。更にショックがやっと落ち着いたころ3月にオウム
真理教による地下鉄サリン事件が起こった。汚染された地下鉄車両が何がどうなっての
事か判らずにテロが行われ、化学物質サリンと判明して陸上自衛隊化学防護隊が除染す
る騒ぎになったのだ。これまで、戦後世界で、帝銀やイトマン事件など、数々の問題を
起こして止まなかった銀行の不正操作は既に、LTCMやら外圧でのビックバンや証券
銀行倒産などで高度成長期を支えてきた、野蛮な経済の萎縮を起こしていたのである。
ニューヨーク支店巨額損失事件で大和銀行が潰れ、 損失隠しに合併することで合意し
た三菱銀行と東京銀行が挨拶し、景気低迷と円高・株安で公定歩合史上最低の0.5%
が続き、小さな木津信用組合など巨額な不良債権を抱えた銀行は経営破綻が続いた。こ
れは馬鹿な金融庁が、この不況下にプライマリーバランス論を持ち出し、自らの政府の
支出を正さず、業務停止命令を次々に指令したからだ。正にアメリカの手先として竹中
マジックで、日本の経済拡張に首輪と頸木をつけた形で、それ以降は日本経済の自立性
は奪われてしまった。

210:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/04 17:15:45.51 2GjjnS8Ev
  1907年異変   この頃 108

 先に言った様に 便利になったり、機械化合理化大型化広域化って経済拡張は基本的
にはデフレ化を促す。商品も全員に回ってしまえば その商品効果から価値は下がる。
これは通貨も同じで、ドル紙幣が基軸通貨として回れば、誰もドル紙幣を買わなくなる
。で買ってくれるのは同盟国のご祝儀買いである。ここでドルが下落する。これを止め
るのに、物価を上げる必要性がある。そこで米国は自由主義を掲げて戦争を起こして、
その中心たるバイアメリカンを行動する。ところが、それは結局は多くは政府失策とし
かならない。誰も戦争を望まないからだ。ここにアメリカの矛盾がある。本来アメリカ
は次々と月に向けてロケットを飛ばし、新製品開発して人類をリードしての産業大国で
あるべきだが、ゴールドカラーが、戦争や独占や買い占めに走ってその方向性を間違え
てしまったのだ。こうしてテロ組織を拡大させたりゲリラやギャングを繁栄させ難民を
作り続け、結局南米でもベトナムでも中東でも戦争に敗けて、それまでの産業空洞化し
た産業疲弊がそのまま経済疲弊を起こしてしまったのである。ソ連も全く同じ西洋主義
で同じ事をして軍事費による破綻をきたした。そして今中国も全く同じ経済破綻をくり
替えして行こうとしている。確かにソ連の数倍のアメリカ大陸でその数倍の中国大陸だ
ろう。ところがそれは数値の大きさの違いであって、何もそうした計算式や経済指導が
合ってると言う話ではない。ここで中国がこのまま破綻もしないで独裁化すれば世界は
恐らく崩壊する。この温暖化一つとっても例えロシア米国他全世界でノーカーボンを行
ってCO2を全く出さなくとも 中国一国で世界は終末を迎えるの 予測できる。それ
だけの野蛮で 美的精神価値を持たない 哀れで醜悪な思想貧民の押し寄せる民族なの
だ。

211:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/04 17:16:11.28 2GjjnS8Ev
、この1907年の米国 1995年の日本 更に今の中国とは、全く同じ境遇で
あるのだろう。ただ日本や米国の様に、世代格差がどう言う形に代わるかは予想できな
い。アメリカはこの時リフレを目指し戦争し物を占有化した。日本はこの時解放し技術
を他国に売り渡し、海外生産に及んだ。多くは中国に盗まれたままだが。中国は監視化
共産化軍事化を進めている。結果を考えればバカである。核開発と同じで使えない軍隊
を巨大化させて威力を増しているのだ。

212:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/04 21:33:14.04 DSJDTqz14
  1907年異変   この頃 109

、この1907年の米国 1995年の日本 更に今の中国とは、全く同じ境遇である
のだろう。ただ日本や米国の様に、世代格差がどう言う形に代わるかは予想できない。
アメリカはこの時リフレを目指し戦争し物を占有独占化した。日本はこの時解放し技術
を他国に売り渡し、海外生産に及んだ。多くは中国に盗まれたままだが。中国は監視化
共産化軍事化を進めている。結果を考えればバカである。核開発と同じで使えない軍隊
を巨大化させて威力を増しているのだ。シンギュラリティの技術的特異点の絶頂の世代
格差は思想を根本から変える。通常人は技術的発達や社会の発展は生活が豊かになる事
と捉えられがちで政府の教育でそう刷り込まれる。だがそうでもない。例えば新幹線が
出来る前に在来線で特急こだまが昭和33年に出来た。これは超特急ひかりより早く、
当時の満州あがりの国鉄機関車設計部の最骨頂であった。大阪まで6時間半往復13時
間で一日24時間からすれば11時間滞在しても一日で帰ってこれたのだ。ここで大き
くサラリーマンの日帰り出張が生まれその後ひかりの3時間往復6時間で、社内命令の
妥当性が正当化され同時に東京本社の機能が補足され、いたずらに社員福祉は切られる
のである。それは家電製品でも同じだ。1995年を平成7年を境に、1971年から
1974年の第二次ベビーブームに生まれた世代は、通称、団塊ジュニア世代が東京に
やって来る。東京は一気に人口が増えた。更に、これまで進んで来た家電品の復旧は、
かつて16時間労働とされた、炊事・洗濯・掃除を一気にコンビニ普及やインスタント
や冷凍食品などで越えられなかった5時間の壁を破り、2時間と言う超短時間にした。
専業主婦は元々少なくなっていっていたが、ここで働かない学生卒業者は居なくなった
。だがこうした改革は はたして本当に我々人類を豊かにしてくれたのだろうか。逆に
せわしく、守銭奴たる卑しい、欲情的生活に変えただけではなかったのか。今一度よく
みる必要がある。

213:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/05 02:33:08.55 urQQf0/Vv
  1907年異変   この頃 110

 アメリカでボブディランが反戦歌の代表とされた。ところが日本では、そうした熱い
思いは、フォークとなって学生の歌声喫茶にあふれた運動に変わっていた。学生運動は
きっと熱い思いが溢れた多感な日本の70年代少年の心だったのだろう。そうした歌の
中にイムジン河がある。作詞は朴世永、作曲は高宗漢、1957年8月、北朝鮮 音楽家同盟
『朝鮮音楽』8月号付録で発表された歌だ。1958年9月に「朝鮮民主主義人民共和国創建
10周年記念放送夜会」で歌手の柳銀京により初演された。その後は長らく北朝鮮では、
ステージで披露されることもなく、1978年に金洪才が管弦楽用に編曲したものが東京で
開催された「朝鮮管弦楽集」で初演され、1987年には京都市交響楽団の訪朝公演で披露
された。1960年代に朝鮮学校の音楽として流行り。ザ・フォーク・クルセダーズによっ
て歌われた。松山猛による日本語詞が、1968年につけらたが、発禁処分になった。ザ・
フォーク・クルセダーズは、帰って来た酔っ払い以来、多くの視聴者を得て活動してい
た。又、ボブ・ディランのセカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』
は1963年に発売され、そこに収録されていた「風に吹かれて」(Blowin' in the Wind)
は、シングル・カットされた楽曲で、ピーター・ポール&マリーのカバー曲が世界的に
大ヒットして、ディランを一躍有名にした。1960年代のアメリカ公民権運動の賛歌とも
呼ばれ、現在に至るまでディランの作中最も愛唱されることの多い歌曲となっている。
アメリカ社会は今のBLM運動の様に根底には不満が沸々と湧いていた。公民権運動や
女性解放運動、先住民権利運動、移住民入籍運動、環境保護運動、と果てしなく人権の
復活が求められていた。そうした中でベトナムの米軍の熾烈な戦いが放映報道されたの
だ。ここで若者の徴兵制に一挙に火が付いて、反戦運動となってヒッピー族が現れた。
中国で言う寝そべり族と同じに、政府高官や組織が勝手に決めた徴兵制度によって戦場
で殺されるか負傷して精神を病んで帰還すると言う姿である。1963年に発売された歌詞
の問いは、アメリカの若者の全ての問いだった。例えリフレ経済の存続であっても、い
たたまれなかったのだ。

214:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/05 04:32:07.21 eeiCIOMzl
  1907年異変   この頃 111

 こうして歴史で解る様に、諸悪の根源は、西洋主義に乗った、経済社会の拡大主義が
元であり、共産主義も社会主義も自由主義も民主主義も関係なく、政治家と資本家の悪
だくみの下で、国家も戦争も紛争も恐慌も金融不安も温暖化も引き起こされている事が
証明される。つまり、資本家と時の支配者や、政治家或いは宗教家が諸悪の根源であり
これは既に過去に証明され、1900年にも解っていた。1905年、JPモルガンがドレスナー
銀行とコルレス契約を結んで縮小化平準化対策に出た。つまり銀行相互間の「為替取引
契約」で国内他銀行や海外の銀行間において、送金の支払い融通勘定である。資本拡大
化政策で、今の税逃避、資産保護のグローバル化である。これで全米資金は、ドル紙幣
に換金でき、ドイツ帝国へ投下され、更に利益が米国に還流される。これを更に保険料
支払いで保証して金融資本のモルガンは貸付けの王者として君臨する。理財商品つまり
投資と保険会社を分離するアームストロング法は、大手生命保険会社の株式がジョン・
モルガンやロックフェラー、クーン・ローブなどに売却され、その基盤に大きく貢献し
ここで巨大金融資本家が登場した。この動きに対応し、品性と秩序と法の守りなど貧者
救済・税の再分配などを求め、訴えるのが、社会運動家の組織である。グレータ・エル
ンマン・トゥーンベリさんで有名になった社会批判運動ではあるが、実はこの西洋主義
の自然や人間からの価値の搾取スタイルには既に100年も200年も、はるか昔から反対派
として運動続けて今日に至っているのだ。と言うのもバビロン時代もエジプトピラミッ
ドの時代もローマ帝国時代にも、既に自然破壊で国が崩壊していく様はあったので民衆
は虐げられながらも反対していたのだ。キリスト他宗教上に利潤や利子を取るのは悪行
である。と規定しているのは、そうした支配者の強欲によって街が滅び、砂漠となった
経過が常にあったからである。現代の炭素規制化運動は、遠い昔から再生された西洋の
古典的紀元前の運動から綿々と強欲に拡大化し経済を振り回してきた者への遠吠え民衆
の声だったのだ。

215:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/05 04:32:36.57 eeiCIOMzl
経済で戦争する。日本ではこうした経済理論でのこれを知った徳川は
、すぐさま参勤交代制度と鎖国、更に改修工事の天下普請をさせて 大名に溜まらない
消費経済社会を作ったのである。そこで世界に類を見ないリサイクルと伝統工業が江戸
文化、平等社会が日本の文明として整って行くのである。

216:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
21/12/06 11:30:08.53 g+HmQFKzD
  1907年異変   この頃 112

 経済によって戦争が引き起こされる。日本ではこうした西洋式の経済理論を学んで、
多くの対策を行っている。これを知った徳川は、すぐさま 参勤交代制度と鎖国、更に
改修工事の天下普請をさせて 大名に溜まらない消費経済社会を作ったのである。そこ
で世界に類を見ないリサイクルと伝統工業が江戸文化、平等社会が日本の文明として整
って行くのである。信長時代では、もともと楽市楽座の主張で、経済拡大の活性化を望
んでいた。黒人の与助と共に相撲大会をして、大名に金を賭けさせ、胴元として巻き上
げたし、海外からの宣教師に、大きく教育施設まで作って大名の子弟をドンドン共同の
生活する寄宿舎に入れた。これに明智光秀は、山岳宗教の修験道の宿坊の疲弊を見た。
実は明智家は坂本衆とされる山の住民の里守りの家系であった。所謂隠れ里とされる、
一つの行者村である。今日的には忍者の育て場所とでも言えよう。各藩の藩主は江戸期
までは、単なる境界は適当に勢力範囲で決まっていたのでそこそこに屈強な屯田兵(と
んでんへい)を置いて守っていたのである。彼らは恩賞は無いが税の優遇やら連絡役の
身分など与えられていた。、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いは、本願寺法主の
顕如が石山本願寺に篭って戦った。とされる。日蓮宗徒は法華一揆を起こしたが、不作
に次ぐ不作で、大陸からの襲撃もあって食糧を守る為の防備が必要なのに、武士にその
機能が無かったからだった。つまり、信長はキリスタンの言いなりであり北前船の遭難
すら相手しなかったのだ。対して秀吉は、この拡大経済が奴隷とアヘンによるもので、
その本境地が朝鮮半島にある事を知っていた。奴隷貿易で奴隷買い付けの代わりの商品
が火薬だった。日本製の火薬は実は金沢など冬ごもりの必要な場所で密かに造られてい
た。実は泥硝石は「ごごろ」として平安時代から作られていた。もみを取って終わった
藁を重ね 人糞や牛糞などを懸て積み上げて行くのである。これを野菜や稲の肥料にし
たのだ。これを竹に詰め買い付けた業者がいた。これを更に硫黄や糞尿と混ぜて東北で
黒色火薬を作ったとされる。元寇の襲来後に中国などで探し求めた製法のようだが起源
は不明だ。


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