変死体at POVERTY
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24/04/23 00:37:55.84 noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・079

 一方小麦も、人類は 紀元前1万5千年~紀元前3千年頃に栽培しはじめ、世界では特に
生産量の多い穀物の一つであり、世界の年間生産量は 約7.3億トンもある。これはトウ
モロコシの約10.4億トンには及ばないが、米の約7.4億トンにほぼ近い(2014年)とされ
る。コムギは播種時期によって、秋播き小麦と春播き小麦の2つの品種群に分かれる。
秋播き小麦は、発芽するのにある程度の低温期間が継続する春化を必要とするため、秋
に種をまいて越年させ、春に発芽し夏に収穫する。低温が必要なため、やや寒冷な地域
では秋播き小麦が主に栽培される。一方春播き小麦は、春に播いて夏の終わりに収穫す
る。春播き小麦は、寒さが激しく種が、冬を越せない地方や、逆に、冬に低温にならず
春化のできない温暖な地域で作られる。さらに、本来の収穫期に雨季を迎えて、収穫が
困難になるような地域でも、栽培される。麦が熟して収穫を迎える頃には、広い畑一面
が黄金色になる草紅葉が見られる。つまり、大麦と違って小麦は、辺鄙な処で二毛作が
出来る穀物であったのである。ただコムギの実は、硬い外皮に覆われ、その中に可食部
である胚乳と、胚芽が存在する。この3部分の体積の割合は外皮が13.5%、胚乳が84%、
胚芽が2.5%である。主に食用とするのは胚乳部分であり、製粉して小麦粉とするのは、
この部分である。果皮(「ふすま」「ブラン(bran)」)や胚芽部分も食用とすることは
できるが、食味に劣るうえ小麦粉に混入すると品質が劣化しやすくなる。このために、
一般的な小麦粉に使用することはない。しかし、ふすま部分には独特の風味と食物繊維
など有用成分があるため、販売されることもある。これを取り除かずそのまま粉にした
全粒粉も存在する。

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24/04/23 00:38:45.72 noJXL9vZT
 海上の金貨 ・・・・080

 大麦と小麦の大きな違いは、生産にも違いがあるが、加工でも違って。グルテンが多
く含まれる点で、小麦粉が練るとグルテンによりネバネバし、この性質が、パンやケー
キ、麩などに、美食加工される高級品になった。一方、大麦粉はグルテンはないので、
大麦粉でパンを焼く場合には、全粉では出来ず、小麦粉やグルテンで補う必要がある。
グルテンが豊富な小麦でのパンは、フワフワの食感がと香りも楽しめるが、大麦で作る
パンは、硬く重く食感も味も特殊だ。大麦粉でつくるパン生地は不安定であり、扱いに
くく、小麦粉に比べパン作りには、職人でも難しく適さない。エン麦は 英語で“Oat”
(オート)から、加工品には oatmeal(オートミール)の名が付く。エン麦を脱穀して
乾燥させ、加熱してローラーにかけるとフレーク状ロールドオーツとなり、シリアルな
どに利用される。エン麦には、タンパク質・ミネラル・食物繊維など、豊富な栄養素が
ある。エン麦は、ウィスキーやビールの原料にも使われ、グラノーラもエン麦からでき
ている。ロールドオーツの粉も、牛乳や水で粥状にしたものはオートミールで、健康的
な朝食としてお勧め品らしい。エン麦のフスマ(オートブラン)も、食物繊維が豊富で
シリアル加工される。エン麦のオートミルクは牛乳の代用品として人気だが、実は戦中
戦後のパンの代用品だった。エン麦の代表的な用途が、通常は馬の餌で、牛馬の飼料で
あった。エン麦の食物繊維の豊富さが、馬が好む飼料の代表格となっていた。エン麦を
畑で育てそのまま、すき込み利用する緑肥にも使われる事も飽食時代には起こる。元々
エン麦の新芽を好んで、ネコさえ食べる「ネコの草」として販売された。放牧場に撒い
たままで、刈込しないで牛馬に食べさせていた。ライ麦は、別名はクロムギ(黒麦)で
、黒パンといえば、ライ麦パンである。国によっては、ライ麦と小麦粉の配合と挽き方
によってパンの名前が変わり規格があるが、北アメリカやヨーロッパで手ごろに栽培さ
れ、小麦の栽培に適さない土地や、やせた土壌でも育つ特性があり、寒さにも強くあっ
て、人類はライ麦で救われていた。種子などはウィスキーやウォッカにも醸造された。
つまり一番の多用途麦だったのだ。

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24/04/23 16:48:20.57 oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・081

 この、アテナイの穀物事情と交易の実態を別の観点から明らかにしているのが,グレ
ン・E・マーコウの『フェニキア人』である。グレン・E・マーコウによれば、フェニキ
ア人のエーゲ海交易の最盛期は。紀元前8世紀から7世紀の初期であるが、この時代に
東方からギリシア世界に、たくさんの品物がはいってきた遺跡があるが。アテナイでは
僅かしか見つかっていない。エジプトの小間物や製品が、周囲の海岸都市では幾つでも
見て取れる。が、アテナイでは一つも出て来ない。なぜか。考察するに,アテナイでは
市場経済が前7世紀まで、ほとんど無く「外国との接触」が日本の鎖国の様な状態にい
た。つまり、弱小都市であったからである。アテナイにおいて、ようやく市場経済が、
発展、経済的成長をし始めるのは,前7世紀の後半となった。社会が豊かになる中で、
やっと世界に追いついたのだ。此の時ライ麦から小麦の美味味の違いがアテナイ人にも
もたらされ、小麦を輸入するようになる。それと引き換えに、洗練された陶器や織物、
オリーブオイルやワインなどを提供し始め、やっと通貨の流通を得たたのである。まさ
に、この時期はソロンの改革が行われる前夜であり、アテナイに経済発展が訪れること
で貧富の格差が大きくなる。没落した市民が債務奴隷になり、輸入と共に海外商人が、
跋扈し問題が発生した。「貴族と大衆は久しく抗争」し、「抗争は激しく行われた。」
人々は互いに、久しく反目を続けた。彼らは合意の上の調停者として「アルコン(最高
権力施政官)として、ソロンを選んで(前 594年)。ここで彼に国事を委ねた。」ので
あった。こうしてソロンの改革が、前594~3年に行い、ペイシストラトスが僭主になっ
た、前 561年頃には、交易経済が芽生えていく。つまり、前6世紀になってアテナイの
穀物事情が変わったのであり、とりわけ小麦を輸入する為に,アテナイでは、オリーブ
油やワイン。そして、洗練された陶器や織物の輸出に、とりわけ励むようになったので
ある。

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24/04/23 16:48:42.07 oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・082

 アテナイにとって、自国で出来ない小麦の供給は黒海沿岸に頼るしか無かったであっ
た。黒海沿岸は、広大で肥沃な平原が広がり、豊かな穀物(小麦)の産地で供給基地で
もある。古代でエジプトにも供給できる増産は図られていたが、それほど毎年の作育が
順調ではなく、また海路にも危険が付きまとっていた。従って、地中海方面の穀倉地帯
として重要視され、ギリシア人は早くからビザンティオン(後のコンスタンティノープ
ル,現在のイスタンブール)などの植民都市を黒海沿岸に設けていった。穀物の為の、
重要な交易路がエーゲ海からヘレスポントス海峡を抜け、マルマラ海を経てボスボラス
海峡を通り黒海へ至るルートとなっていた。そこは,アテナイの生命線とも言えるもの
であった。ヘレスポントス海峡は、狭い海峡であるだけに攻撃を受けやすかった。そこ
の安全性を確保するためには、ヘレスポントス海峡のヨーロッパ側のケルソネソスを抑
えておくことは必須であったのだ。前 550年代に、キュプセロスの子ミルティアデスが
、ケルソネソスに、アテナイ人を引き連れて植民都市を建設した事は、まさにアテナイ
の国策に適ったものであった筈だ。前 535年には,アテナイの僭主ペイシストラトスが
、黒海周辺の植民地化と海峡の要塞化という大事業に着手して、ペイシストラトスは、
またヘレスポントス海峡への南西からの進入路を見渡す、テネドス島・イムブロス島・
リムノス島など航路の島嶼国を、確保していくのであった。この黒海ルートがアテナイ
にとっての、非常に重要な生命線であったのである。「アテナイの存亡そのもが、地上
でも 有数のか細い供給ルートにかかっていた。」のである。だからこそ、ミルティア
デスの兄が殺された後に、アテナイの、この穀物輸送の死活を制する黒海からの海上路
を、アテナイの支配下に置くようにと、僭主ヒッピアスが、筆頭アルコンまで務めた、
ミルティアデスをケルソネソス半島に派遣するのは、当然のことであったのだ。

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24/04/23 16:49:10.81 oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・083

 こうして、アテナイの港町ピレウスを発着点に、海上を行き来する、サロニコス湾の
出口を形成する島々のあいだを、慎重に通り抜けなければならなかった。前 506年にア
テナイは、エーゲ海西部に浮かぶ「エウボイア島」の肥沃な西岸を選び、カルキスとい
う都市国家から、奪いとった。これによって穀物の供給を増やしたばかりでなく、ピレ
ウスとヘレスポントス海峡のあいだを邪魔されずに帆走できる「海上スーパーハイウェ
イ航路」を完成させたのである。先史時代は、ピレウス中心部の、ミューニキア(現在
のカステラ)は、あかつて、浅瀬で本土と繋がっていた。この浅瀬は、一年の内、殆ど
長い期間は、海水に浸かっていて、干上がる時期には、天然の塩田になったのである。
この塩田を意味する「ハリペドン」と呼ばれて、長らく塩の街として栄えていた。が、
泥濘によって複雑な浅瀬となり。徐々に地形が変化した結果、古典古代初期には安全な
土地になった。紀元前26世紀にはピレウス周辺に人が移り住んた。古代ギリシャ時代は
、水深の大きい3つの港を持って、海運の港を作り、ピレウスは重宝される。古く浅い
ファレルム港から徐々に役割を奪い3つの港は、大規模なカンタルスと小規模なゼア、
ムニチアに集約された。紀元前 511年、ヒッピアス来て、ミューニキアを要塞化する。
紀元前 507年、クレイステネスがピレウスをアッティカ地方に組み入れ、紀元前 493年
、アテネの政治家テミストクレスが、ファレルム港にかわる海軍基地として建設した。
紀元前 483年、アテネ海軍は、ピレウスに移転し本拠地とした。紀元前 480年、アテネ
海軍は、アケメネス朝ペルシア相手にサラミスの海戦で、大きな役割を果たす。以降、
ピレウスは海軍基地として使い、ペルシアの第2次ギリシャ侵攻(紀元前480~479年)の
後、テミストクレスはピレウスの3つの港を要塞化し、ネオソイコイ(舟屋)を建てた。

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24/04/23 16:49:31.24 oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・084

 紀元前 471年、テミストクレスの壁が、完成した事により、ピレウス港は軍事的にも
商業的にも、重要な港になっていった。ここにミレトスの都市計画家ヒッポダモスが、
彼によって完成市街地が、碁盤の目状に整備された街に変化する。彼の名前は中心部の
広場に今も残っている。またピレウス港を、拠点とする海上貿易を 生命線とする、ポ
リス政治の経済最前線である都市間交易と、そのアテネ地域を防衛する軍事戦略基地と
して、キモンとペリクレスが 都市アテネと都市ピレウスの間の街道を両都市を囲む、
城壁から延長・要塞化し、一種の双子都市としての大きな機能となった。しかしながら
紀元前 430年、ペロポネソス戦争中に、ペスト病たる黒死病の大発生に至る、これによ
って、ピレウスは、双子都市として機能した歴史で、初めて衰退した。紀元前 404年、
スパルタのリュサンドロス提督が、そのピレウス港を封鎖し、アテネは、スパルタ国に
降伏するしかなく、デロス同盟はここで終了したのである。ピレウスの城壁とアテネと
の間の長い壁はスパルタ兵によって破壊され、アテネ海軍の三段櫂船や舟屋も、一部が
破壊された。その結果70年間の平和は終えたと思われた。防御力を失ったピレウスは
繁栄するロドス島に地位を譲る事になったのである。その地位を奪われる前の、地位を
創っていく時代においての戦いである。今だ、ピレウスには、天然の濃い海水から水を
運び、塩田に入れて、天日によって塩を得る塩田で、塩を作り小さな樽に詰めて商売を
していた時代である。かくして、マラトンの戦いを制し、ギリシア軍の、勝利に導いた
英雄は、先の将軍ミルティアデスであった。前で紹介したように,彼はケルソナソスの
僭主をしていたが、紀元前 493年に突如アテナイに凱旋帰国する。およそ30年ぶりの事
である。

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24/04/23 16:50:05.45 oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・085

 ペルシア帝国の傘下にあったフェニキア海軍が突如として、ギリシア本土を攻め、露
払いとして、小アジアのポリスの役割して、ヘレスポントス海峡のヨーロッパ側のギリ
シア植民都市が、次々に征服・占領されてきている中で。ミルティアデス自身も、すぐ
に身の危険を感じ、財産をまとめて、命辛々何とか生き延びてアテナイに逃げ帰って来
ていた。僭主のヒッピアスの要請で、出かけた時には20代の若者であったが、帰国した
ときには、すでに57歳にもなっていたのである。古代ギリシアにおける僭主政治では、
僭主(せんしゅ)は、基本的に貴族政をとるポリスにおいて、政治的影響力を増大させ
、平民の支持を背景に、貴族の合議制を抑えて独裁的権力を振るった政治指導者である
。古代ギリシアのポリスで、非合法に独裁政を樹立した支配者であった。本来の皇統、
王統の血筋によらず、実力・武力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となる者
。とされ暴君、圧制者。僭帝、僭王など日本に訳されると、色んな言葉とはなるが背景
に、時の大国から軍隊を呼び寄せたる者、或いは持って来た者の政権であった。多くの
王が神話時代に遡る正統な血統を継いで、その支配を正当化していた王政から、共和制
の形態をとりつつ、貴族階級が実質的にポリスの主導権を掌握する貴族政に移行してい
く。此の時、貴族が貴族である為に、血統や出身地のほかに、戦争に際し、武器・防具
・食糧などの軍需物資とその輸送手段を、自費で準備し、家族の生活や臣下まですべて
含めた兵役を負担できるための経済力を持つものが僭主(せんしゅ)であり、僭主によ
る政治が、僭主政治であった。

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24/04/23 17:36:38.74 oZ3n4c+BY
 海上の金貨 ・・・・086

 「このミルティアデスが当時ケルソネソスから帰還後アテナイ軍の指揮に当たってい
たのであるが、この男は二度までも、死を免れてきたのであった。一度はフェニキア軍
が、彼を捕らえてペルシア王の許へ連行しようと必死になり過ぎて、彼をインブロス島
まで追跡した時、インプロス島の縁故もって捕縛後も放免となった。もう一つは、フェ
ニキア軍の追跡を逃れて帰国し、もはや危険はない。と思った矢先に、反対者の者らが
、彼を迎えて裁判にかけて、ケルソネソスにおける統治に専制の罪を弾劾した時である
。この弾劾裁判は、しかし、支持と反支持が拮抗する中で、成り立たない。辛くもこの
反対派の追求の中、弁舌爽やかに強力に不可避を叫ぶ声は、多くの市民の支持を得る。
こうして、無事に切り抜け民会において選出されて、アテナイ軍の司令官に任命された
のである。(『歴史』巻6の104)元々、「将軍(ストラテゴス)」の職は、前508年の、
クレイステネスの改革で、新たに設置された軍事職であった。アリストテレスの『アテ
ナイ人の国制』によれば、「将軍たちや、騎兵長官たちや、その他の軍事関係の役人達
の全てが、選挙や民会で 民衆の決定する仕組みと仕方で行われる」のである。この、
戦士組織でも、過去にあった契約の、10部族制に則って、行われていて、再編成される
。つまり、定量の部族の徴集兵と、一般からの公募兵が、国軍となり、各部族の部隊長
格として、各部族から1名の将軍が、総司令官として議会で任ぜられた。のであった。
前 501年以降は長老議会から、民会の市民全員の投票で、選ばれるようになって、より
期待度や信用度が増して、その防衛の重みさえ増した。前5世紀に入ると、アルコン(
代議員)などは、ほとんどの役職が抽選によって選ばれるようになったが、この役は、
挙手によっての、多数決の選挙が適用され,そのうえ,在任期間には、制限がなく重任
が認められた為、最盛期のアテナイでは,アルコンに代わってもっとも重要な役となっ
た。

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24/04/24 11:18:51.14 r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・087

 紀元前 590年に、ペルシア軍のマラトンへの上陸が伝わると、直ぐに民会が開催され
る。ミルティアデスの建議に従って、マラトン平野での防衛と、迎撃は決定された。が
、このアテナイの最高決定機関の民会であったが、民会で、戦争をするかどうかの最終
決定はなされたのであるのだが、地場宗教、恐らくは拝火教の流れの、ギリシャ宗教の
巫女や神主、つまり、聖職者や宗教家の意見も加付された。そこが王政とは、全然違う
処であるが、この時に、アテナイに王が居なかった訳ではない。この聖職者こそ王だっ
たのである。しかし、ペルシア相手に戦うかどうか、そして、マラトンまで出かけて行
って戦うのかどうか、の決定には、大勢を見守るしかない。此の時の王とは単なる部族
の長であったり、教徒や信徒の長であり、乱立した王権の集まりの議会は、時代を超え
、残されて来た会議だったはずだ。そうした中ミルティアデスが、大きな役割を果たす
。ペルシアと戦うべし、という決定に従い、具体的な、手順と現実的内容である。基本
的に、アテナイの食糧事情は、此の時既に輸入小麦の確保がこの国の生命線であった。
黒海ルートがペルシアによって断たれる。そうしたことも、大きな説得材料になった。
筈だ。民会決議後、すぐに、アテナイはスパルタに使者を送って、援軍を依頼するのだ
。スパルタは、援軍を送ることは了承したが、スパルタではカルネイオス月(現在の8
月後半~9月前半)の7日から15日に至る9日間は、例年、アポロンを祭神とするカル
ネイア祭が営まれていたために、「兵を動かすには月齢が満ちるまで、待たねばならぬ
から、9日には、出征ができない。」とアテナイからの使者に、返答している。カルネ
イア祭はアポロンの英雄カルネイオス神の栄光を称えるペロポネソス同盟の、古い神格
の大事な共通文化だった。カルネイオスは「家畜の神」であり、「(穀物や葡萄などの
)収穫の神」だったのだ。この祭りは、過去に疫病を退散させ、ヘーラクレイダイと、
その末裔であるドーリア民族に受け継がれた、葡萄酒での清めの儀式を持っていた。

101:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/24 11:56:49.65 r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・088

 カルネイア祭は、今では、農業と軍事の祈願祭になって伝わる。およそ元々アポロン
への贖罪のために開催された。と言われる。贖罪の理由は、予言者カルノスがヘーラク
レイダイによって、殺害されたことによるものだ。カルノスは、アポロンのお気に入り
の孫だったが、スパイ容疑をかけられて、命を落とした。この祭りは、このカルノスの
あらぬ罪を着せられて死んだ彼を悼み、アポロンに贖罪するために始まった。と考えら
れている。アカルナーニア人(ギリシャのエトリア)の予言者であったカルノスは、ア
ポロンのお気に入りであった。しかし、カルノスはナウパクトスからペロポネソスへ、
移動する最中だったヘラクレイダイによってスパイ容疑をかけられ、殺されてしまう。
アポロンは激怒し、ヘラクレイダイの軍船を尽く破壊し、疫病を降り罹らせた。神託に
よって、アポロンの怒りを知ったテーメノスは、カルノスの殺害者であるヒッポテース
を追放して清め、鎮魂のためにカルネイア祭を創始した。と言う、ヘラクレイダイは字
義どおりに解釈するならば「ヘラクレースの後裔」の意であり、神話時代のヘラクレス
の子孫と、その末裔を称する歴史時代の諸王家を指すが、ギリシア神話では通常、ヘラ
クレスの嫡流であるディアネイラの子供たち(特に長男ヒュロス)の家系をいう。とさ
れる。ヘラクレスの死後、子供たちはミケナイの王エウリュステウスから迫害を受け、
ペロポネソス半島を去る。此の為ヘラクレイダイにとってペロポネソス半島に帰還する
ことは、英雄の育ての父、アムピトリュオーンがミュケーナイを追放されて以来の長き
にわたる悲願となった。と言う。このヘラクレイダイの帰還の物語は、ギリシア神話の
世界で起きた最後の大事件で、トロイア戦争をはさんだ長期間に渡って語られ、歴史時
代には、ヘーラクレイダイの帰還はドーリア人の侵入と結びつけられた。古代悲劇作家
たちは、この物語をしばしば題材に取り上げる。

102:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/24 11:57:11.72 r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・089

 ヘラクレイダイの最大の協力者、ドーリア人の王アイギミオスは、国難をヘラクレス
に救われたことに感謝して、英雄の息子ヒュロスを養子とした。さらに国土を3分して
、自分の2人の息子デュマース、パムピューロスと、ヒュロスに分け与え、王の2人の
息子達もヒュロスらヘラクレイダイの帰還に協力した。しかしヘラクレイダイがペロポ
ネーソスに帰還を果たしたのはヒュロスから3代後のことだった。何故だかこの祭りは
国事とされて、国家の共通意識に大事な物だった。従ってこうしてスパルタからの援軍
は、結局、マラトンの戦いには 間に合わなかったのだ。スパルタ軍の到着が、遅れて
いたこともあって、将軍たちの 戦略の軍会議では、「見解が二つに分かれ、一方は
ペルシア軍と戦うには、自軍の兵力が少ない。という理由での交戦することの不可を説
き、ミルティアデスを含む他の一派は、交戦すべきことを、主張した。ここは生きるか
死ぬかの決断である。司令官達は真剣に、真顔の話し合いである。住民や市民をバック
に戦うミルティアデスは、占領に至っては悲惨な虐待が待っている事を、ミティアデス
は知っていた。しかし、それにも関わらず、司令官たちの見解が二つに割れ、しかも、
好ましからぬ方の説が、勝ちを制する気配となった。」と書く。戦いを指導した司令官
は、各部族1名ずつの選出の10人の将軍と、アルコンの一員であるポレマルコス(軍事
長官)とで構成されていた。部族の中には戦争に迷惑顔の者や、ペルシアとの関係のあ
った部族もあったのである。ミルティアデスは、このポレマルコスのカリマコスを説得
することにした。実はわれら十名の司令官の意見が二つに分かれ,一方は交戦を主張し
他方はこれに反対している。と訴え、しかしながら、もし我らが戦わぬならば,必ずや
我が国に激しい内部分裂が起こって、アテナイ国民の士気を動揺せしめ,その結果は、
ペルシアに利することとなり、屈することになるに違いない。(ヘロドトス『歴史』巻
6の109)

103:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/24 11:57:43.36 r1yQ4+xW6
 海上の金貨 ・・・・090

 ミルティアデスは、軍事長官のカリマコスに、「戦えばわが祖国は独立を保つのみな
らず、ギリシア第一等の国となる。」と、説得して味方につけてから、軍議を制した。
要するに、スパルタの援軍の到着をまたずに 戦うことを決定したのである。戦いを引
き延ばせば延ばすほどに,内部分裂はひどくなるとの見立てがミルティアデスにあった
。ということである。ペルシアとの戦いに勝利するまでのアテナイは、決して大国とは
言えず、国内政治は、親ペルシア派と親スパルタ派との争い、それに反僭主政がからん
でいる。という状況であった。僭主政を倒して、民主政の基礎を築いたクレイステネス
は、スパルタ、及びスパルタの援助、のもとで力を奮っていた寡頭派との対抗上、ペル
シアと親密にしていたのだが。前 508年のクレイステネスの改革の後も、僭主派の残党
がなお健在であって、彼らは今や、クレイステネスが属した旧敵アルクメオン家と、反
スパルタ親ペルシアという一点で手を結んでいたのである。そもそも、アテナイの場所
は、全く、農作物に適していない、痩せた大地である。対してスパルタには、スパルタ
平原で、自国で、地産地消の自給生活はとりあえず出来る場所だ。アテナイのごつごつ
した岩場の、日本で言えば秋吉台の様な場所は 人があまり住まないと言うより住めな
い事で、国の侵攻が少なかった。過去には、何回もアテナイを上陸基地として、そのま
ま、スパルタに何回も侵攻があったのだ。それ故に、スパルタを蔑んでみていただろう
し、近所付き合いの、挨拶の返事であった。どうせ小さな村で、兵力のない国で、そう
急いで戦う事もないだろう。ぐらいで見ていた。カリマコスはギリシアの植民地キュレ
ネ(現リビア)の高貴なギリシア人家系で、ファラオのプトレマイオス2世とプトレマ
イオス3世がパトロンとした家系とされる。つまり、この頃はエジプトの小麦粉に頼っ
て暮らしていた都市だったのだ。

104:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/24 16:02:10.57 QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・091

 そうした事は、戦場での、軍議にも反映しており、それだけにミルティアデスは、ス
パルタの援軍を待つという口実で、戦いを先延ばしすれば、内部分裂でアテナイは自壊
すると判断したのである。しかし、時は過ぎ、いよいよマラトン平野で、ペルシアの、
遠征軍とアテナイ・プラタイアの連合軍が対峙したのである。ペルシアの遠征軍は軽装
歩兵、弓兵、騎兵を展開した。中央部に主力を配し、陣を張る。戦いに参加したのは、
ペルシア軍25,000と推定されている。これに対して、弱小アテナイは、約九千人。一万
にも満たない、プラタイアからの援軍約千人の連合軍を足しても、半分である。その差
は2倍以上あったのだ。強制動員された臣民、対自由な市民軍の対決である。アテナイ
・プラタイア連合軍の指揮官は,ミルティアデスであったが「ミルティアデスに、指揮
当番が巡ってきた時」と、ヘロドトスが述べているように、10人の将軍は日替わりで、
全体の指揮権を持っていた。ミルティアデスは、アテナイ・プラタイア連合軍の、戦闘
隊形の横の長さを、ペルシア軍と同じにし,兵士の少なさを密集方陣の厚みで工夫した
。この時にマラトンに布陣したアテナイ軍の、陣形には次のような特異点があった。ア
テナイ軍は戦線の幅を、ペルシア軍を等しく張ったのである、,その中央部は僅か数列
の厚みしかなかったのだ。アテナイ軍の最大の弱点はここにあった。ただし両翼は十分
の兵力を具えて強力であった。(ヘロドトス『歴史』巻6の111)中央部分を薄く両翼を
厚くという陣形こそが,ケルソネソスの僭主として、ペルシア軍の戦いにも同行した、
ミルティアデスが、ペルシア軍の戦い方を熟知した上でのものであった。というのは、
ペルシア軍の戦い方は、騎兵によって敵の両翼を圧迫して中央の方に追いやり、そこに
集まってきた敵を中央の強力な歩兵部隊によって撃破するというものと、熟知していた
からである。

105:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/24 16:02:33.65 QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・092

 ミルティアデスによるアテナイ・プラタイア連合軍の陣形は、このようなペルシアの
戦いの逆手をとったものであった。その人員によって圧倒的に不利なアテナイ・プラタ
イア連合軍が、ペルシア相手に圧倒的な勝利を収めることができたのかについての考察
は後ほど行うことにして、戦いの推移を簡単に語れば。ヘロドトスによれば,「陣立て
を終わり、犠牲の卦も吉兆を示したので、アテナイ軍は進撃の合図とともに駆け足で、
ペルシア軍に向かって突撃した。」両軍の間の距離は,8スタディオン(およそ1500m)
であったという。「ペルシア軍はアテナイ軍が駆け足で迫ってくるのを見て、迎え撃つ
態勢を整えていたが、数も少なく、それに騎兵も弓兵もなしに駆け足で攻撃してくるの
を眺めて、「狂気の沙汰じゃ。全く自殺的な、狂気の沙汰じゃ」と罵っていた。しかし
、「一団となってペルシア陣内に突入してからのアテナイ軍は、まことに語り伝えるに
足る目覚ましい戦いぶりを示した。「マラトンの戦いは長時間にわたって続いた。」戦
線の中央部は、「ペルシア軍は、敵を撃破して内陸に追い進んだ。」が「両翼において
はアテナイ軍とプラタイア軍が勝利を収めた。」まさにミルティアデスが予想した通り
であった。勝利を得たアテナイと、プラタイアの両軍は、潰走する敵部隊は逃げるにま
かせて、両翼を合わせて、中央を突破した敵軍を攻撃し、かくて勝利はアテナイ軍の制
するところとなったのである。(ヘロドトス『歴史』巻6の113)ペルシア軍は2倍以上
の戦力をもっていた。にもかかわらず、なぜこういう帰結になったのであろうか。ペル
シア軍は、騎兵・弓兵・重装歩兵から構成されていた。ペルシアの重装歩兵の槍は、ギ
リシア兵の槍よりも短く使いやすいが,集団戦というよりは個人戦向きであった。その
ことを明確に述べているのが,第二次ペルシア戦争の前のクセルクセス王と前スパルタ
の王デマラトスとの対話である。

106:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/24 16:03:00.75 QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・093

 そこでは、クセルクセス王は、「わしの親衛隊のペルシア人の内には、一時に3人の
ギリシア人を相手にしても、喜んで戦う。と、申し出る強つわもの者もいる。のだぞ」
と述べている。ペルシア軍は、騎兵で相手の両翼を攻めて中央に寄せ、そこを弓兵によ
って、相手方の損害を招き、士気を落としたところで、中央から撃破するというもので
あった。が、基本は個人の武勇に頼る個人戦であった。これに対して、ギリシア兵には
、「ホプロン」と呼ばれる 直径約80~100cmで、つまり1m弱の 浅い鉢のような独特
の盾を持っていたのである。彼らの俗称が「ホプリタイ」と呼ばれていたのは、この盾
に由来していた。ホプロンは、腕と手の二箇所で支えるダブル・グリップ盾で、中央部
に取り付けられた。つまり握る通常の盾でなく、腕にバンドで取り付ける盾であった。
細長い革か、金属の輪によって左腕を肘まで通している。縁の部分についた紐あるいは
革の握りをもつようになっている。盾を前腕でしっかりと固定することが可能であった
。盾は身体の左側に大きく出て右側はかなり露出される。その露出された部分を、自分
の右側にいる人の盾に入れて守り、他方自分の盾で左側にいる人の身体を守り、自分の
右側を隣が守る。と言う戦法が行われた。こうして、おのずから隊列が形成されたし、
それが乱れない限り、兵士の身体はびっしりと蛇の鱗の様に、隊列は守られた。その上
に、利き腕の右の剣は自由にあった。更に彼らは鉄皮のお面と胸当て脛隠しと、かなり
鎧に近い姿で参加し、並んだ盾に守られていた。又剣は、腰にして、重装歩兵は直径約
1mの円形の木製大盾で身を守り,2~3mもある長く太い槍を手にして攻撃する形で
あった。重装歩兵の密集陣に、個々ばらばらに突進して来た場合に、最前列の槍だけが
戦いの相手ではない。それを払いのけて盾で身を守っている最前列の兵を倒そうと近づ
いていくと、左からのみではなく、後列からも槍が繰り出されてくるのであった。

107:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/24 16:03:21.10 QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・094

 これを防ぐのは容易ではない。ペルシア兵の槍はギリシア兵の槍よりも短いので使い
やすいが、こういう戦闘戦術に長けて、充分に防御され更に、計算された攻撃には不利
であった。幾重もの槍ぶすまを作っている密集陣を、突破するのは至難の技で、ペルシ
ャ軍には不可能であった。このギリシアの密集方陣の戦いとペルシアの個々の兵との戦
いの様子を、プラタイアの戦いについてヘロドトスが書いている。ペルシア兵は勇気も
力も劣らなかったが、ギリシャ人の様な堅固な武装を欠いた上に、戦法を知らず戦いの
巧みさでは、到底相手の敵ではなかったのだ。彼らは単身または十人、乃至その前後の
人数が一団となって飛び出してゆき、スパルタ軍中に突入しては、次々と討ち果たされ
ていったのである。(ヘロドトス『歴史』巻9の62)結局 これは組織的に構成された力
と、ばらばらな個人の力との戦いで、勝敗は自ずから明らかであった。数時間の戦闘で
ペルシア兵の戦死者は6400人であったが、アテナイ軍の戦死者は わずかに192名であり
、プラタイア軍の戦死者はそれよりも少なかったという。戦死者率は 30対1という、驚
くべき結果だった。この数値は,隊列を組んで平坦な地形で戦う重装備の槍兵の破壊力
のすさまじさを物語っている。ここで、大きな問題となってくるのは、ヘロドトスが、
両軍が対峙し、その距離が8スタディオン(およそ1500m)になった時に、「アテナイ軍
は進撃の合図とともに駆け足でペルシア軍に向かって突撃した。」と書いている。この
ことは、重装歩兵という名のように、その装備は,30kgから40kgと言われている装備で
。1~1.5kmも走ったら,激突する前に疲労困憊に なっている可能性があるし、編隊
も崩れて組織的に構成された力を発揮するどころではない。という疑問が生じる。そん
な疑問に答えるような面白い記事が長田龍太氏の『古代ギリシア 重装歩兵の戦術』に
あった。

108:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/24 16:03:42.99 QzOWcG8Q+
 海上の金貨 ・・・・095

  重装歩兵の密集方陣の戦いが意味をもつのは,それが隊形を崩さず密集したまま、
整然と敵にあたる時である。コンピュータシミュレートで研究で、駆け足突撃によって
,隊列は最大で35%の、整然性を失う結果に至る。この戦い方では、威力はかなり失わ
れる。さらに興味深いのは、1973年に、10人の体育大学の学生を使った実際の実験結果
で、学生に6.8kg の装備と4kgの盾を持たせた状態での隊列を組み1kmの距離を走ら
せる実験が行われた。その結果では、誰一人として盾を胸の前に構えた状態で、78.5m
以上を走れなかったのである。274.3m の地点で隊列が崩壊し、最終的にゴール1,4km
に到達したのは、長距離選手ただ一人だった。翌年に同じ実験を繰り返したところでも
230m 地点で、隊列が崩壊し、完走者はいなかった。つまり人力からも予想できる結果
で、このことから考えても当時のアテナイの重装歩兵がいくら丈夫であったとしても、
実験に参加した体育大学の学生よりも、3倍から4倍も重い装備をもって、1,500m も
駆け足で突撃することは、例え超人であっても、土台無理なようだ。となると、これは
ペルシア軍とアテナイ軍と間違えて記述した可能性が高い。一方ペルシア軍の戦術は、
両軍の重装歩兵が衝突する前に、弓兵が多数の矢を射て敵兵に損害を与え、敵の中心を
叩いて意気阻喪させることであった。安藤弘氏は、『古代ギリシャの市民戦士』の中で
、実際の駆け足突撃は「敵の弓兵の射程距離( ほぼ180m)に、入ってから、始められ
た」と推定されている。体育大学の学生の事例を紹介されている長田龍太氏は,「当時
の突撃可能距離は,精々50~100m 程度であった」と、推測されている 安藤氏がが言う
180m であっても、正直厳しいのではないか、と思う。当時のギリシアの重装歩兵は、
実地訓練を積み重ねていたので、長田龍太氏の推定のように、50mから100mぐらいなら
、隊形を崩さずに突撃できたのではないか。とは思われるが、弓矢攻撃の被害がそこに
あれば、障害物レースになる。とても考えられない。

109:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/29 04:41:47.54 /okZLlIZI
 海上の金貨 ・・・・096

 隊形を崩さずに突撃、突進し、弓矢攻撃の被害と、駆け足での体力の消耗や、隊形の
乱れを天秤にかけて、敵弓兵の攻撃による味方の損害が大きくならない絶妙なタイミン
グでの、駆け足突撃の距離は、あったろう。しかし、勝った理由は他ではないだろうか
。ミルティアデスの戦術は、この駆け足突撃だけでなく、ペルシア軍と陣形の長さを同
じにしながら、中央部分を極端に薄くし、両翼を厚くという陣形をとった。このことで
、多分充分に攻撃できる歩兵の弓隊を両翼に於いたのであろう。つまり、相手の弓兵の
効力を弱めるために、駆け足突撃を行い、比較的遠くに射る事の出来るボーガンを用意
したものと思われる。こうなると中央の鉄壁の隊列は多少弓が来ても届かない,その上
両翼から、凄まじい威力の矢が届いてくる。ペルシア軍の戦いが、中央を突破であるの
を想定し、だからこそ両翼を厚くして、騎馬隊が先行し中央の薄い守りを鉄壁に固めて
そこにペルシア軍を追い詰めて撃破する。つまり鶴の両翼で囲って、横から弓を射て、
騎馬隊が後ろに回って勝つことができたのである。両翼のアテナイ・プラタイア連合軍
は、防備も少なく、すり抜けて逃げる敵を追撃することなく、中央深く入り込んだペル
シア軍を両側から挟み撃ちしたのである。想定外の事態に、慌てふためいたペルシア軍
と、指揮官の号令一下で、まさに一糸乱れず戦ったアテナイ・プラタイア連合軍との差
は歴然としており,それが,数時間の戦闘でペルシア兵の戦死者は 6,400人,アテナイ
軍の戦死者はわずかに 192名という圧倒的勝利になったのである。日中の激戦で疲労し
ていたアテナイ軍であったが,重装歩兵は隊列を組んで山間の難路に向かった。8時間
の行軍だった。ペルシア軍が「残りの船の向きを変えて沖に逃れていき」「スニオン岬
を廻って船を進め」、アテナイ市に向かっていた。からである。ペルシア軍がスニオン
岬を廻っている一方,アテナイ軍は町を救うべく足の続く限りの速さで急行し、ペルシ
ア軍の到着以前に帰国することができた。そしてマラトンでもヘラクレスの聖域に布陣
したのであった。

110:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/29 04:45:48.66 /okZLlIZI
 海上の金貨 ・・・・097

 「古代ギリシャのホプリテス」の項目では、古代ギリシャにおける兵士の多くは、「
ホプリテス」と呼ばれる重装歩兵だった。ホプリテスという名は、彼らが使用した木製
の盾「ホプロン」に由来する。ホプロンは幅約1mもあり、青銅で覆われていた。と書
かれる。つまり、基本木製であり、青銅で覆った物なので、神社仏閣の腐れ止めにつけ
る薄膜の銅で、そんなに重くないだろう。又、戦闘に欠かせない高価な装備を、自前で
用意しなければならないため、ホプリテスは財産をもつ階級から選ばれた。とあるので
恐らく規格品があって、それに自分なりにフィットさせて使ったと思われる。アテナイ
のホプリテスは必要に応じて臨時で招集されたが、スパルタのホプリテスは、7歳の時
から厳しい訓練を受けたプロの兵士だった。と言うので相当な鍛錬をしていた。と思う
。又、完全装備の場合は、左腕にホプロン、右手には先端に青銅の穂先がついた2m級
の木槍(やり)を持つ。予備に鉄製の短剣を持ち、兜(かぶと)、胸当て、すね当て(
いずれも青銅製)まで装着する。これは学者は27キロにも及ぶ重装備だったというが、
先の実験でも、恐らく10~15kgの軽い物であったろう。通常、ホプリテスは縦8列に
ぎっしりと並んで「ファランクス」という密集隊形を組み、一丸となって敵を攻撃した
。ファランクスは、古代において用いられた槍を持つ重装歩兵による密集陣形である。
集団が一丸となって攻撃するファランクスは会戦において威力を発揮した。最も古い、
ファランクス陣形、もしくはそれに似た隊形は、紀元前2500年ほどの南メソポタミアで
、確認できる。鎧の有無は不明だが、大盾と槍による密集陣形がこの当時から存在して
いた。その後、中東では複合弓の発明され、戦場の主役の座は弓兵となった。如何に、
丈夫で速く鋭く的確に射貫くかを極めたボウガンと弓矢であったろう。ピタゴラス同等
の知恵者が、命令によって開発された筈だ。それがしなりを歯車で変化させ、簡単に矢
をピン止めできた工夫があったのだろう。

111:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/29 04:46:11.61 /okZLlIZI
 海上の金貨 ・・・・098

 その後、紀元前 700年頃のアッシリアでも同様の隊形が用いられていた石版が、確認
できる。が、鎧兜を着用した重装歩兵を用いた ファランクスを大々的に用いたのは、
紀元前7世紀以後の古代ギリシアにおいて、ファランクスを構成していた一定以上の富
を持った、市民階級で使用した。当時の地中海交易の発達から、甲冑が普及していき、
重装歩兵部隊を編成することが可能となった。この頃出たのが、ライザー弓であろう。
ライザー(ハンドル)のついた弓である。似たものに、コンパウンドボウ(化合弓、稀
に複合弓と訳される)は、滑車とケーブル、てこの原理、複合材料など力学と機械的な
要素で組み上げられた近代的な弓とされた。実は複合弓は、弓の中に骨や金属が含まれ
、弓の弾きに相当な腕力が必要とされるものだった。しかし、このライザー弓は恐らく
土に弓の柄を突き足すもので、3人係りで弓を引いた逆弓構造だったと言われるものだ
。つまり、初期の投石器構造であった。M型に長く折り返しのある弦の中でV型の中央
の2本の弦の中に矢を置き、矢も又特殊で矢の真ん中辺りに、横に金属棒が短くあって
そこに弦を当てて、弦の糸を二人で引っ張って矢の羽根の後ろが、弓部に当たるまで引
いて離したのである。この仕組みは縦型だが横にすれば、ボーガンや投石器になった。
彼らは、マラトンの戦い、テルモピュライの戦い、ペロポネソス戦争などの重要な戦闘
で目覚ましく活躍した。が、その内戦争が進化し、より熟練した軍隊が誕生したりする
と、従来の重装歩兵戦術は次第に影が薄くなり、騎馬戦に変化した。このギリシャ時代
の、陶片追放(とうへんついほう)の制度で市民が僭主の独裁者になる恐れのある人物
を投票により国外追放にした頃から次の古代ローマ時代は、逆に独裁者を希求した時代
を創る、古代ローマ軍団(レギオン)は、共和政ローマとローマ帝国の最盛期(およそ
紀元前3世紀から紀元5世紀)にローマ軍の中核となると。彼らは職業軍人として定期的
に給与が支払われ、十分な訓練と支給を受けた。

112:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/05/02 15:24:46.88 JVzC5ND6w
 海上の金貨 ・・・・099

 ローマ時代も軍団兵は、2mの投げ槍と重い剣を携行し、防具として兜、盾、胸当て
を装着した。同じ様に戦いでは横1列ごとに攻撃を仕掛け、槍を投げつけた後に剣を振
るって敵に襲いかかった戦法を行った。ローマ軍の敵に対する残忍さは、かなり強く、
伝説的にも、この残忍さを競って行わせた。又、軍団内部の欠陥に対しても容赦なかっ
た。「十分の一刑」と呼ばれる処罰では、違反をしたコホルス(歩兵大隊)の10人に、
1人を死刑にした。此の為、国の仕組みとしても、パンとサーカスの国とされるほど、
剣闘士の本物の死闘を見世物にした。その為、兵士たちは士気が高く有能だった。部隊
に同行する工兵は、長く続く道路、要塞、橋の建設に従事し、今日でもその遺跡が残っ
ている。当初は牛やライオンと 人間との闘いを見世物にしたが、その内政敵同志の、
公けな死闘ゲームまで見世物として 皇帝が認めたのであるが、それは、ずっーと後だ
。話をもどすと、ダレイオス大王が即位する以前に,ペルシアは、オリエント世界を、
統一していたが,ダレイオスの時代にペルシア帝国は,東は現在のパキスタンのあたり
まで西はギリシアのマケドニアにまでその版図を拡大していった。まさに超巨大国家で
あった。それに対し、アテナイはギリシアそのものが小さい上に、その中におさまった
国で、無数の都市国家に分かれている中の市民の数が数万しかいない小国家であった。
ハンセンによれば,「ペルシア帝国の予備兵のマンパワーはギリシアの20倍から50倍は
あり、支配下の領土は70倍~100倍に達していた。」のであり このような「巨大な帝国
がとなりの小国を屈服させるのに失敗した例は、めったにない。」のであったのだが、
知恵と勇気と鉄剣で勝ったのであった。ここでローマ時代に移行する下地になった。


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