変死体at POVERTY
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安倍晋三
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24/04/17 09:35:35.57 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・01

 大英博物館にある六方柱文書には、バビロンの破壊で頂点に達した彼の遠征記録を含
んでいた。ニムルドは旧約聖書に登場する都市カラフ(カラハ)の場所と同定されてい
る。一時はアッシリア帝国の首都でもあった。後のアラブ人は都市の遺跡を狩人の英雄
であり、アッシリア地方の強力な王であった ニムロド にちなみ、ニムルドと呼んだ。
紀元前883年~紀元前859年にかけて、アッシリアを治めたアッシュル・ナツィルパル2
世は、カルフに新たな宮殿や首都としての機能を追加したのだ。数千数万の人々が市と
大宮殿を囲む、8kmの長さの城壁建設に従事した。石灰岩に刻まれた石碑が遺跡の各地
から出土しており、そこから彼の治世や宮殿、征服事業についての多くが分かっている
。その中には、次のような文章の刻まれたものもある。「わが王の住まいと、わが主の
すべての 時の喜びの為の、ヒマラヤスギ、イトスギ、ネズ、ツゲ、クワ、ピスタチオ
、タマリスクでできた宮殿を、私は此処に築く。白い石灰岩や、アラバスターでできた
山や海の獣たち、私はそれらを作って、門に置く。」と。又、碑文には宮殿に蓄えられ
た戦利品・略奪品の数々の事も書かれている。「銀、金、鉛、銅と鉄、私の支配の下に
置いた土地から、私の手にした戦利品を、私は多くの物を得て此処に納める。」その他
、征服を祝う祝宴、などのことも刻まれている。しかし、彼の行為は、多くの場所で恐
れられたのである。「私は捕虜を奪い その多くを 火の中で燃やした。生かしておい
た者の内、幾らかは手首を切り落とさせた。残りの者からは、鼻、耳、指を切り落とさ
せた。兵士達の多くから、私は眼を取った。彼らの若者、娘、子供らを焼いて殺した。
」。と書いている。別の都市の征服に当たっての祝宴について、彼は碑文にこう書く。
「反抗した貴人達の皮膚を、私は剥いで、その彼らの皮膚を広げて積み上げた。」こう
した恐怖を与える戦術や宣伝は、各地の征服に当たり有利に働いた。紀元前 877年には
ついに地中海まで進軍し、その後、このように布告している。「私は武器を深海で清め
、神々に羊を供えた。」と

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24/04/17 09:35:59.69 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・02

 紀元前883年から紀元前859年にかけてアッシリアを治めたこのアッシュル・ナツィル
パル2世の、カルフの後は、息子シャルマネセル3世も、このカルフを首都として、35
年間の治世のうちに、31年をアッシリア拡大のための戦争で過ごしたようだ。シリア・
パレスチナの国家連合と、オロンテス川河畔で戦った後、このように吹聴する碑文を残
した。「わたしは、戦士たちのうち 14,000人を 剣で斬り殺した。アダドのように。
私は彼らの上に 破壊の雨を降り注がせた。私は彼らの死骸を広くばら撒き、荒野を覆
い尽くさせたのだ。武器で、私は多くの血の流れを作り 谷間に流れさせた。彼らの、
死骸が倒れるには 平野はあまりに狭すぎた。広い地方に、彼らの死骸を埋めさせた。
彼らの死骸を 橋にして、私はアラントゥ(オロンテス川)を渡った。シャルマネセル
3世はカルフに、父の宮殿より大きな宮殿を築かせている。大きさは2倍で、面積は12
エーカー(49,000平方m)あり、部屋数は200を超えていた。しかし、紀元前 828年息子
アッシュル・ダイン・アピルが、反乱を起こし、ニネヴェやアッシュルも含む27の都市
が反乱に加わった。シャルマネセル3世は、カルフをかろうじて維持したにとどまり、
反乱はシャルマネセル3世の 死後の紀元前 821年まで続いた。紀元前13世紀の、アッ
シリア王シャルマネセル1世が、当時の首都アッシュルから北に離れたカルフに 第二
王宮を築き、以後1000年ほどの期間にわたってカルフは都市として存続していた。カル
フの繁栄と、名声が絶頂にあったのは紀元前9世紀、アッシュル・ナツィルパル2世が
都としていた時代で、彼は、初期の都市の廃墟の上に 巨大な宮殿や神殿を建設した。
この宮殿の遺跡は、現存している数少ないアッシリアの宮殿遺跡であり、ほかには、セ
ンナケリブが築いたニネヴェの宮殿遺跡しか見つかっていない。紀元前 879年に行われ
たであろう盛大な落成式や、宴の様子は、考古学調査の途中に発掘された石碑に 刻ま
れていた。アッシュル・ナツィルパル2世の都には、数万人の人々が暮らした。市内に
は、珍しい動植物を集めた植物園や動物園も開かれていたのだった。その息子シャルマ
ネセル3世(在位:紀元前858年~紀元前824年)は、大ジッグラト、神殿、シャルマネ
セル砦と呼ばれる要塞などを建設した。

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24/04/17 09:36:26.34 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・03

 カルフは紀元前900年代から、紀元前710年頃まで アッシリアの首都であった。その
後サルゴン2世がドゥル・シャルキン(コルサバード遺跡)へ移った。次いでセンナケ
リブがニネヴェへ、遷都したためカルフは都ではなくなったが、なお大都市であり続け
、王の宮殿のある都市であった。紀元前612年に ニネヴェが新バビロニアや、メディア
王国により陥落した時期、カルフも破壊されたとみられる。ニムルドという遺跡名は、
ドイツの探検家カルステン・ニーブール(Carsten Niebuhr)が、1766年3月にモースル
に滞在していた時の記録に初めて登場する。発掘により、バスレリーフ(薄浮彫・浅浮
彫)、象牙の彫刻などが数多く見つかった。中でも、アッシュル・ナツィルパル2世の
像は、非常に良い保存状態で見つかった。また宮殿の入り口に 二体一組で置かれた、
10トン前後から、30トン前後の巨大な 人頭有翼獣も多数発見された。アッシュル・ナ
ツィルパル2世が残した宮殿の石碑に書かれた碑文は、彼と彼の治世に関する詳細を、
よく伝えており、この時代の 他の君主らについて知られている以上のことが、彼に関
しては分かっている。ニンウルタ神や、エンリル神の神殿、書記と芸術の神ナブーに捧
げられた建物、大規模な要塞なども発見された。アッシュル・ナツィルパル2世の宮殿
、シャルマネセル3世の宮殿、ティグラト・ピレセル3世(紀元前744年~紀元前727年
)の宮殿も、同定されている。シャルマネセル3世の「黒色オベリスク」は、1846年に
レヤードにより発見された。この有名な、記念碑は高さが197.85cm近くあり、紀元前の
859年から紀元前824年にかけての 成功に終わった遠征を記念したものであったのだ。
頂上部分は、ジッグラトのような形状をしており、浮彫のうち一面には酒を地に注いで
、彼個人の神を祭るシャルマネセル3世の前で、イスラエル王イエフに 率いられて、
イスラエル人の集団が平伏している様子が彫られている。楔形文字で、「オムリの息子
イエフ」と書かれ、金、銀、鉛、矢などの貢物の詳細も書かれている。

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24/04/17 09:36:49.92 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・04

 ニムルドから出土した門番となる人頭有翼獣ラマッスの像が、メトロポリタン博物館
に飾ってある。ところが、このラマックスは、5本足なのである。何故5本足なのか。
この一本の脚は、実は男の竿を示している。つまり、歴史や時間を歩く脚は男の竿だ。
と言う訳で、神すらも 子孫を残してこそ歴史を創る。時を行くって言う思想である。
アッカド語(新アッシリア語および標準バビロニア語)楔形文字粘土板文書は、大量に
発行されて、アッシリア内外の要人たちに手渡したようだ。大英博物館にある六方柱の
文書には、前8世紀以来、このメディア地域に割拠していた 独立的なオアシス都市国
家の小勢力は、次第に連合を作り、防衛し、その内前 615年頃までには、その多くが、
「王国」に統合されていった。その支配者たちは、宮殿を作り、宮廷の「貴族」となっ
ていったであろう。そこの処をヘロドトスは、建国者デイオケスが元来同等者であった
他の貴族に対して「自分が卓越した存在である。」と宣言し、認識させようと策を巡ら
したことを記している。が、ディアコノフはこの説話を メディアの王とかつて同格で
あった君主たちが、王に依存する「貴族」へと変質していく過程を写したものであって
、自らが下僕階級に成り下がったものだ。と意見している。つまり、小国には軍隊を大
々的に作って暮らせるほどの、経済的余裕は、交易の交流路上の都市にしかなかった。
からだ。と述べた。こうした都市化構造が進むと、ドーナツの状に各都市に、ストロー
現象が露われて、人々を吸い寄せた。前 652年、アッシリア支配下におけるバビロン(
バビロニア)の王であったシャマシュ・シュム・ウキンが、アッシリア王アッシュルバ
ニパルに対して反乱を起こした。と書く。両者は兄弟であったのだが、どうやらバビロ
ニアは、アッシリア人にとっては、住みやすい土地ではなかったようだ。

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24/04/17 09:39:40.80 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・05

 この反乱において、シャマシュ・シュム・ウキンは、アッシリア周辺の諸勢力を味方
に引き入れて同盟軍を創ったようだ。こうして弟のアッシュルバニパルに対抗しようと
した。アッシュルバニパルは、後にシャマシュ・シュム・ウキンに与した勢力として、
3つのグループを挙げている。第一にアッカド人・カルデア人・アラム人(即ちバビロ
ニアの住民)、第二にエラム人、そして第三にアムル人・メルッハ・グティ人である。
当時は、既にアムル人やメルッハ、グティ人などの原住民は、遠い過去の存在であり、
この呼称は、中世ヨーロッパにおいて フランスをローマ帝国時代の呼称ではガリア人
と、一括りで呼んだようだ。あるいはビザンツ帝国が周辺の異民族をフン族やスキタイ
人という、古い呼称で呼び続けたのと同じような、一種の文学的ないい加減な表現でも
ある。「アムル人」はシリア・パレスチナ地方の人々、「メルッハ」はアフリカからの
黒人を言い、そして「グティ人」は、アッシリアから見て東方の山岳地帯の、言葉の通
じない現住民を指した。と見られている。当時アッシリアの東方に 未だ存在していた
大きな勢力は、メディアのみであったため、この「グティ人」を、メディア人と理解す
ることができるであろう。とも伝えている。さてさてこのアッシリア内戦とスキタイ人
であるが、世界史上で、最も有名なのは、地中海を大きく取り囲んで統合した ローマ
帝国であろうが、実はローマ以前にも、多くの「帝国」と呼ばれる大きな国はいくつか
存在していた。そのなかでも史上初の「世界帝国」とされるのがアッシリアであろう。
その後にオリエント世界を席巻し治めた。ペルシア帝国も、存在は重要で世界的だった
。このアッシリアと言う国は、残酷、無慈悲な様相を呈したようだ。歴史地理的名称と
してのアッシリアは、チグリス川とユーフラテス川の上流域、つまり メソポタミアの
北部を指す。メソポタミア南部は一般にバビロニアと呼ばれ メソポタミア・シリア・
エジプトを含む世界帝国を築いている。

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24/04/17 09:40:35.60 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・06

 アッシリアとペルシア。といっても、高校の世界史の授業に少し出るくらいで以来で
、具体的一体、どっちが、何だっけ? という人も多い。「地中海世界の歴史」の第2
巻、『沈黙する神々の帝国』では、アッシリア帝国を「強圧の帝国」、その後に登場し
たアケメネス朝のペルシア帝国を「寛容の帝国」として、人類史の意味を考察している
。ロンドンの大英博物館の「アッシリア回廊」とよばれる一角で、アッシリアの王宮の
壁面を飾る「石板のレリーフ」が数多く展示したスペースがある。そこに描かれた戦闘
場面や王宮の、日常生活などの 豪華絢爛さと力強さには、誰もが圧倒される。はずだ
がそのなかに、豊かな庭園で開かれた異様な宴のさまも描れている。例えばアッシリア
の戦勝の祝宴風景には、左端に敵の首が吊るされていたりしている。ナツメヤシと糸杉
状樹木に囲まれて、アッシリア王アッシュルバニパルが后とともにくつろいでいる風景
である。二人は杯をあげ、その背後に侍者たちがひかえている。だが、目をこらせば、
これら侍者たちの間にある糸杉の枝に人間の首が吊るされているのであった。この無惨
で無慈悲な姿をさらした首の人物は、それまでアッシリアの南東にあって領土を脅かし
てきたと言う エラム国の王テウマンである。アッシュルバニパルはようやくエラム軍
を追い詰め、テウマンとその息子を討ち取ったのだ。これはその戦勝祝賀の宴なのであ
る。紀元前 653年のことだ。アッシリア回廊の浮き彫りをながめると、つぎつぎと戦争
をくりかえすアッシリア人達の姿が浮かんでくる。そこから、アッシリア人は好戦的で
残酷な人々だった。などとという印象が生まれている。(中略)都市という都市、集落
という集落を、ことごとく破壊していって、オアシス都市の住民を大量虐殺して、物資
や財貨を略奪して荒らしまわって征服していった。(中略)捕虜たちは、日常的に、首
に縄をつけられ、手を後ろでくくられ、唇に紐(ひも)を通してつながれ、イワシの日干
し状態の奴隷として、こき使われる運命に、あったのだ。その哀れな救いのない姿は、
勝ちほこるアッシリア人の残忍さ、無慈悲を刻みこませるのである。(『沈黙する神々の帝国』p.77)

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24/04/17 09:41:07.31 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・07

 このアッシリアは、もともとティグリス川中流域の、インダス文明の一端において、
都市国家アッシュルを拠点とし成り立った国である。紀元前3千年紀の中で、中頃から
人々が居住して、農業において、小麦栽培を最初にして、突如として、交易の中継都市
の中心地となり、栄える都市に躍り出た。前2千年紀中に隣国にも、バビロニア王国、
ミタンニ王国などの、巨大大国が形成されるに至って、どうしてもこの陸地の奥の帝国
は、海岸の大国に圧力をこうむり、かろうじて命脈を保っていた。そういう時期には、
近隣を強国に囲まれていたせいで、何時の頃からか、軍事力の強化が進み、軍国主義に
傾いていくのである。こうしたある勢力が、急成長を成し遂げるには、その背後に何ら
かの技術の革新が潜んでいる。この、インダスの中部のアッシリアの場合、騎馬遊牧民
とふれあう位置にあった事で鉄器と騎馬の使用である。このことは心に止めて置くべき
だろう。だからと言って、アッシリアが、神出鬼没の騎馬遊牧民にやられっぱなしだっ
たわけではない。騎馬遊牧民の脅威にさらされればさらされるほど、アッシリア人も又
同じ様に、鉄器と騎馬文化を取り入れ 馬と騎乗についての知識と経験を得ていった。
(中略)アッシリアはオリエントのなかでも、かなり北に位置していたので、北方にい
た騎馬遊牧民と一足早く接触して、急速に大きく強くなっていったのだ。(『沈黙する
神々の帝国』p.83)こうして、圧倒的な軍事力ばかりに目が向きがちなアッシリア文化
だが、他方に、文化的な側面で、多民族国家としての 陸上交易の中心地として機能し
て来た。という地位も見逃せない視点である。アッシュルバニパル王は、みずから文字
を読めることを誇り、文書を収集することに、ことさら執着し興味を示したのであった
。アッシュルバニパルは、長男ではなかったので、もともと王位につくつもりはなかっ
た王である。宗教や文学の教養を身につけ、シュメール語やアッカド語のような、古語
の文体を読み、歴史や数学にも通じていた。つまり皇太子と言うよりは僧侶や呪術師の
職業を、親は求めていたようである。

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24/04/17 09:45:25.72 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・08

 しかし、王になり、その興味のために、古来の記録を集めた「ニネヴェの図書館」が
造られていく。恐らく最古の図書館であろう。この事で後年の現代の我々の目に、大量
の粘土板文書が収蔵されていた模様が現出する。なかでも、『ギルガメッシュ叙事詩』
などの、後年に有名な文芸作品の収集にも努めていて、そのために、王みずから数多く
の手紙を書いていた。事が判明した。こうして軍事・文化両面で、多くの強さを見せた
アッシリアは、後の時代での、帝国の経営モデルにもなっている。「アッシリア帝国は
、征服地を直接統治の属州とした。服属した土地には、貢物の納入を義務づけて属国と
した形である。」と書かれ、「この統治法は、のちのペルシア帝国やローマ帝国でも、
用いられている形である。いわば、世界帝国というものの祖型として、モデルをなした
のであった。」(同書p.105)しかし強圧的で あればあるほど、被征服民の、反感を買
うのは当然で。アッシュルバニパル王の死後には、帝国の内外の勢力が離反を多くし、
独立を企てたりする動きが、目立って多くなってくる。さらにはアッシリアの統治力で
は、およそ抑圧できない程、大きな新興勢力がそこかしこに台頭する。「人類での最初
の世界帝国」も、時代的には、まだ広大な領域を、長期にわたって安定して治めるほど
の、ノウハウも技術も、蓄積されていなかった。「アッシリア帝国は、広大な支配領域
 あるいは多様な異民族支配において、かつて、どの国も直面したことのない事態に、
対処しなければならなかったのである。そこには、多くの試行錯誤がある。乱暴で粗野
な施策も多かったようで、とりわけ、強制移住策などの強圧的な態度を示した時には、
被征服民の反感を買うのは宿命にあった。その意味で、世界帝国として、はじめて登場
した勢力としての、多くの大きい欠陥も、かなりに目につくのである。」紀元前2000年
紀に入る前の初期アッシリアの歴史は、文献史料が殆ど残されておらず、専ら考古学的
成果によってその流れを把握するに留まるのである。

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24/04/17 09:46:04.45 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・09

 「そのような『強圧の帝国』である限り、アッシリアの覇権が永く続くことは、ほぼ
間違いなく、あり得なかったのである。」(同書p.126) メソポタミアから、シリア、
エジプトまで、オリエント一帯を征服し、強大を誇ったアッシリア帝国も、 紀元前609
年に崩壊した。みずから、ライオンをねじ伏せる王の姿を レリーフに描いていたが、
その勇猛さを誇ったアッシリア帝国と、対照的にあったのが、ペルシア帝国であった。
か弱き隣国が、貢ぎ物をもって、ペルシャを訪れ、各地の異民族に、鷹揚に謁見する王
のレリーフがある。アケメネス朝のペルシア王である、すなわち、ペルシア帝国では、
アッシリア帝国が滅亡した時には、既に半世紀ほど後に、オリエント世界に乗り込んで
、統一王朝として機能してしたのだ。もともと、イラン高原南部のパールサ地方に住ん
でいたとされたペルシア人は、アッシリア滅亡後に、この一帯を支配していたメディア
高原の、幾つもの王国の中の、小さく、そして弱い一勢力でしかなかった。だが、この
土地の交易が、アッシリアを避けて、ここメディア高原を抜けて商人が通って行く為に
、税収からか、急激に勢力を広げていった。更に言語もアラム語から、新バビロニアの
言葉に置き換わった。紀元前6世紀半ばにまでに、ペルシア帝国は出来上がっていく。
紀元前5世紀のギリシアの歴史家、ヘロドトスによれば、パールサ地方は、「良き馬と
良き人に恵まれた地方。」であった事が原因の様に書かれている。ペルシア人たちは、
乗馬とともに、弓術、正直の三点だけが、子供の教育の要であったという。さらに、ヘ
ロドトスによれば、「世界中で、ペルシア人ほど外国の風習をとり入れる民族はない」
(『歴史』1-135)という。 レリーフで見る様に、メディア人の衣装が、自国の物より
綺麗ならば、それを着たし、戦争にはエジプト式の胸当てなどもつけた。という。また
、「戦場で勇敢であること」に、「子だくさん」が、男子の美徳とされた帝国だった。
最大の子福者には、毎年国王から表彰され贈物さえも与えられたほどなののである。「
ペルシア人の性格の『異国趣味』と伝統的『子福志向』とでもいうべきものだろうか。

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24/04/17 10:19:38.56 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・10

 これらの性格は、ペルシアが世界帝国に、のしあがる事と、分ち難く結びついていた
。なにしろ、もともとのペルシア人達は、中央アジアの香りをただよわせながら、オリ
エントの先進文明地域に遅れてやって来たのであるからだ。しかも、少数民族でありな
がらも、パールサ地方の、メディア高原の支配者にのし上がり、教育者でなければなら
なかったのである。(『沈黙する神々の帝国』p.143) ここで、パクス・ペルシアーナ
の、大帝国主義の現出である。アケメネス朝の始祖と目されるキュロス王では、支配下
にある諸民族や、諸文化に対して寛容であり、後世もしばしば、理想的な王として称え
られている。古代世界では、精一杯の民衆の 正義・大義・道義の中心として行動して
いた。キュロス王は、属州には租税と忠誠心を求めて、そのほかには、ほとんど何も求
めていない。新しく服属した人々の、これまでの固有の制度や習俗を尊重したという。
こうして、多種多様な種族や民族からなる帝国となったペルシアでも、紀元前6世紀、
ダレイオス1世の時代には、西はギリシアに接し、ナイル川からインダス川にいたって
空前の世界帝国となった歴史が横たわっている。広大な帝国では、各地を「王の道」で
結ばれて、宿駅や宿場町、騎馬による輸送・通信システムを発展させた。そこを行き交
う人々は、インド人、メディア人、ペルシア人、バビロニア人、リュディア人、ギリシ
ア人、ユダヤ人、フェニキア人、エジプト人など、多種多彩な民族がいて、彼らを選ば
ず通した。また、彼らの話す言葉も それぞれ異なっていたのに、市場は潤い繁盛した
。しかし、ここで大問題なのは、この楔型文書の文字は 現実としてあるが、言語には
発音が解らない上に口述記入での文字が、さらにアルファベット。つまりラテン語やら
ギリシャ語やイタリア語フランス語英語と言った、西洋祖語を産んでいる事だ。日本語
と違って、これらの言葉はいわば基準も意味もない アルファベットの羅列で韓国語の
ハングルの様な羅列文字で 日本の様に意味のある心象文字やヒエログリフ的群をつく
らない、意味のない単なる事象の中心の言葉で、これで正確に後世に残せずにいた。

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24/04/17 10:20:08.01 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・11

 ここでは、ダレイオス1世は、帝国内の「共通語」として、自らの言語のペルシア語
以外にも、アラム語を採用している。支配者の言語を強要せずに、帝国全土のより円滑
なコミュニケーションが実現できるようにしたのであった。こうした ダレイオスの、
見識の高さは、古代という時代にあっては、ひどく際立っている。たしかに君臨しても
、ペルシア人達は、人口においては少数派であったが、軍事力に基づく力においては、
圧倒的な腕力や兵力をほこり、被征服民に こびる必要はなかった筈だ。が、そうした
施策を施している。支配者の指針は、それなりに理由があった。理解されて、協力して
もらわなければ、至らぬ摩擦も起こる。よりよく納税してもらわねばならないし、それ
には 民衆に対しなじみ深い言語で語り、そうした経済状態が望ましい。(中略)おし
なべて 力でねじ伏せようとするのが習わしのごとき古代人の世界にあっても、これは
異例のことだった。(同書p.174) 民主主義的技法の、最初の現出だろう。このイラン
の世界遺産、ペルセポリスの丘は、ペルシア帝国の王宮跡である。ここに今も残ってい
る レリーフの数々があり、帝国各地から朝貢に訪れている さまざまな民族の姿を描
いている。この諸民族との共存共栄と平和な世界帝国の演出は、500年後の パクス・ロ
マーナ(ローマの平和)に先立つもので、パクス・ペルシアーナ(ペルシアの平和)と
言えるほどの出現であろう。ここで起こった「ペルシア帝国の支配体制」は、その後の
古代人達の、広大な地域を 統治し、管理することが不可能ではない。という事を、さ
らけ出したようだ。後のローマ帝国は、このペルシアの試みから 多くのことを学んだ
に違いない。もし、前四世紀後半に野望に燃えた、アレクサンドロス大王が東征しなけ
れば、ペルシア帝国は生き永らえただろう。恐らく分裂の危機をはらみながらも、王朝
の交替ほどで ペルシア帝国の余命は、まだ続いたのではないだろうか。とみられる。
(同書p.205-206)

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24/04/17 11:44:02.03 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・12

 帝国の誕生は、前8世紀の末、アッシリア王サルゴン2世(在位:前722年~前705年
)で派出している。紀元前 716年に、新たなアッシリア州を開いた帝王である。ハルハ
ルとキシェシムの新都市を築いだ。こうした都市を設置しメディア西部が、それに加え
られた。これらの州は、その後カール・シャルキンと、カール・ネルガルと改名され、
メディア地方の支配を拡大するために、強化された直轄地直轄都市として整備された。
この頃、アッシリアの北方の大国であったウラルトゥの王ルサ1世が、アッシリア攻撃
のために、周辺諸部族との同盟を試みていた。騎馬民族の略奪拡大である。この時ウラ
ルトゥに同調した王の名前に、「ダイウック」というメディア人の名前が登場している
。ただし、彼は、マンナエの王国の 半独立的地方的支配者としても登場しているのだ
。つまりマンナエ人は、紀元前10世紀~紀元前7世紀に亘って、現在のイラン山岳部に
当たる領域にあった不明の民族である。当時に、二つの大きなアッシリア帝国とウラル
トゥ帝国があり、常に攻撃される運命にあって、彼らとうとう平地に降り立ったのであ
る。前 715年に始まったウラルの「ルサ1世」によるアッシリア攻撃は、失敗に終わる
が、こうして、ダイウックも、また捕虜となってシリアに送られている運命にあった。
このダイウックについて、ヘロドトスの『歴史』に登場し、メディアを統一した王デイ
オケスに相当するという見解もある。もし、この同定が正しく、ヘロドトスの見解が、
信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は、この後、公正な裁判によって
名望を高めて、メディア人諸部族の、推戴を受けて、初めて統一されたメディアの王と
なった人物となる。ヘロドトスによれば、デイオケスは首都エクバタナを建設し、七重
の城壁を張り巡らした街を築き、独裁権を確立した。とされる。

19:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/17 11:53:27.58 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・13

 がしかし、アッシリアに対する敗北は、全く記録されていない。新たに設置された、
こうした税の取り立て用の 直轄地や直轄都市の、アッシリアでの 東方新属州では、
反乱が絶えなかった上に、強いとはいえ、サルゴン2世は、此の為に前 708年に、再度
の遠征を行っている、しかし、勝つ事も出来ず メディアに対しての、安定的な支配を
 確立することはできなかった。のである。キンメリア人やスキタイ人のこうした侵入
を受けて、アッシリアの北部国境が不安定化すると、アッシリア王の、エサルハドン(
在位:前681年~前669年)は、この問題に対処するべく イラン北西部地方への遠征を
行うしかなかったのである。前679年から前677年にかけてイシュパカイアという、リー
ダーに率いられたマンナエ人と、スキタイ人を打ち破って、この時の遠征では、メディ
ア地方は、奥深くまで攻撃を受けている。その時のメディアの首長2人は家族もろとも
アッシリアへと連行されている。ダイウック、あるいはデイオケスの業績をどのように
評価するかどうかは別として、当時には、メディア人が多くの首長を持っていたことは
エサルハドンの記録によってもわかる。エサルハドンによるこのメディア攻撃の直後、
パルタックのウピスや、パルトゥッカのザナサナ、或いは、ウルカザバルヌのラマタイ
アという、3人のメディアの首長が、隣国との戦いのために エサルハドンに、支援を
求めているのである。このうちラマタイアは、前 672年にエサルハドンが、王太子アッ
シュルバニパルに対する 忠誠の条約を臣下や属国の君主たちに結ばせた際、その調印
者の一人として、登場している。いわゆるエサルハドン王位継承誓約で、宗主国側への
忠誠が、時の集落の長老や、公国皇太子が連帯保証人や 集落長として出席しているの
である。これは、現代の後見人制度とそっくりな形とも言える。いやはや、土地の管理
に、先住民や原住民の同意させているので、野蛮な時代の民主的手続きである。

20:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/17 11:53:55.39 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・14

 一方で、同じ紀元前 672年には、同盟諸国と共に、アッシリアに、反乱を起こした、
メディア人集落の首長たちもいた。アッシリアの記録によれば、この時反乱を起こした
のはキシェシム州のサグバトにある都市カール・カッシの市長、カシュタリティ、サパ
ルダの支配者郡長ドゥサンナ、メディアの市長、マミティアルシュの大集落長老3名で
ある。特にカシュタリティは、この反乱の首謀者とみなされている。この反乱はおよそ
成功したもの。と見られていて、新アッシリア帝国の王で、後継者争いを制しアッシリ
ア王に就いたエサルハドンは。紀元前669年(この年)に死亡ている。帝国の黄金期を、
維持したまま。父センナケリブが、破壊したバビロンを再建した。エジプト遠征の途上
で病没し、後継の王に年下の子アッシュルバニパルを指名したことが、やがてアッシリ
ア帝国の内戦を招くこととなったようだ。エサルハドンの文書では、メディアはウラル
トゥ、マンナエなどと共に、独立した新興勢力として言及されている。アッシリア人が
彼らに、「市長」以上の称号を付与して記録したことは無い。が、カシュタリティは、
メディア人の統一的な、政治勢力を形成した可能性がある。この頃のカシュタリティに
よるアッシリアへの攻撃は、もはや略奪的な 襲撃に限られず、アッシリアの要塞に対
する包囲が行われている。これはメディア人たちがアッシリアやウラルトゥ、あるいは
エラムによる訓練を受けた経験があったことを、示すかもしれない。こうした事が実は
エサルハドン王位継承誓約文書として、一時はアッシリア帝国の首都でもあった。後の
教会跡地にアラブ人都市の遺跡が発見され、アッシリア地方の王であったニムロドに、
ちなみ、ニムルド遺跡と呼んで、その発掘調査の地下壕から粘土版レリーフや10面から
なるセンナケリブの角柱。『ギルガメシュ叙事詩』アンミ・ツァドカの金星粘土板など
多数の粘土板を発掘した。その中でセンナケリブの六角柱の3体にアッシュルバニパル
の碑文として出土した。

21:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/17 11:54:23.45 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・15

アシュルバニパルは誰でしたか?アシュルバニパルの書庫

 概説の「はじめに」を伝えれば,アッシリア王エサルハドン(在位前680~669年)は
前672年に、著者が「エサルハドン王位継承誓約文書」と呼ぶ アッカド語(新アッシリ
ア語および標準バビロニア語)で書いた 楔形文字粘土板文書を大量に発行していた。
その粘土板の角柱本は、アッシリア内外の要人たちに手渡しされた。とされる,この後
アッシュルバニパルは、国内平定と共に図書館を設置して、この碑文のある角柱粘土版
などを所蔵した。として出土した。アシュルバニパル図書館には、アッカド語とシュメ
ール語で書かれた、少なくとも30,000の楔形文字のセットであり、モースルにあるアッ
シリアの都市ニネベの遺跡で発見され楔型文書の解読がなされて来た。 現在の イラン
・イラクと言った中東での地域は、後年メディア王国の領域に重なる。メディア人は、
当時の西アジアの大国アッシリアの記録で、初めて歴史に登場した民族だが、前 612年
頃のアッシリアの滅亡の後に、突然、新バビロニア、エジプト、リュディアと共に古代
オリエント世界の大国を形成した。しかし、今回の文学と行政の、両方の記録を含む、
テキストは、ほとんどの場合、アッシリアとバビロニアの両方を統治した6番目の王で
新アッシリア王であるアシュルバニパル王「紀元前668年から627年に統治」によって、
収集されている事から、これ以前にも、メディア王国の様な巨大帝国があったようで、
ならない。何故なら、彼は教育され、父親のエサルハドンの確立された慣習に従ってい
た王であり、バビロン王を兄弟に任せた後戦乱を招いたのだが、その原因が流通と税収
にあったのは、なんとも近代的なのである。 この図書館のコレクションにある、最も
初期のアッシリア文書では、ニネベを新アッシリア帝国の首都にした サルゴン2世(
紀元前721年~705年)の事を語っている。更に、その後、セナケリブ王(紀元前704年~
681年)の治世からのものをも書く。これらは、最も初期のバビロニアの文書で、サル
ゴン2世が 紀元前710年にバビロニアの王位に就いた後のものだ

22:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/17 11:57:24.14 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・16

 これらは文書として粘土版の性質からも、最古のものと目される。ここに、アシュル
バニパルは、エサルハドンの3番目の長男であり、その為、彼は王になることを 意図
されていなかった。とされる。長男はSin-nadin-apli(シュル・ナディン・アプリ:太
陽神の王座)で、ニネベ拠点のアッシリアの正統皇太子に、指名される。次男のシャマ
シュ・シュム・ウキンは、バビロニアでバビロン王に戴冠した。皇太子は、戦争、行政
、現地語の訓練を含めて、王権を引き継ぐために、幾年も訓練や教育をを受けたようだ
。そして長男の太陽王子が、紀元前 672年 に亡くなった時 エサルハドン王は、アッシ
リアの首都を アシュルバニパルに与えた。それは政治的には、大きな危険をはらんで
しまう。それまで、彼はバビロンで支配するように訓練されていたので、当然2男は、
本来の長男の権利によって、交代されるものと思ってたのだ。、シャマシュ・シュム・
ウキンは、ニネベ(アッシリアの王の「故郷」)を手に入れる筈の血縁地位を持ってい
た。こうして紀元前 648年、短い内戦が勃発。その終わりに勝利したアシュルバニパル
は、両方の王になる。彼がニネベの皇太子であった間、アシュルバニパルは、スメリア
語とアッカド語の両方で楔形文字を読み書きし、話すことを学んでいた。彼の治世中に
、それは彼にとって特別な能力と魅力となる。エサルハドンは 彼の文書を収集して、
情報を得ていたが、アシュルバニパルは、最も古い儀式や様式に注意を向け、バビロニ
アでそれらを探すエージェントまで派遣していた。彼の手紙の1つのコピーが、ニネベ
で見つかっているが。ボルシッパの知事に宛てて、古い儀式を求め、内容を指定した。
それは「様式、水管理、戦闘中、または歩行中に 人を安全に保つための呪文や、国や
宮殿に入る時の用意と、そして村を浄化する方法。」だった。つまり伝統を重んじたの
である。ここに 国の運営に細心の注意を払う帝国の王と、正にバイトテロ的、反乱を
考えもしない 帝国からの覇権者の代理の王なり首長なりのいい加減さが見える。

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24/04/17 12:06:05.69 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・17

 アシュルバニパルは又、古くて珍しく、アッシリアにはまだないものを、求めていた
。彼はオリジナルを要求し、ボルシッパの知事は、粘土板ではなく木製の筆記板を送る
と答えている。ニネベの宮殿の書記官は、これらの種類の文書がコレクションに存在す
るため、木のテキストをより恒久的な楔形文字の様式にわざわざコピーした可能性が、
ある。アシュルバニパルの時代、図書館は、ニネベにある2つの異なる建物、南西宮殿
と北宮殿の2階に、それぞれありました。他の楔形文字の様式はイシュタル神殿とナブ
神殿で発見されているのだが、それらは、適切な図書館の一部とは 見なされていない
様である。ライブラリーにはほぼ確実に、焼成粘土楔形文字タブレット、石のプリズム
、円筒印章、ディプティクと呼ばれる ワックスを塗った木製の筆記板など、30,000冊
以上が含まれていた。ほぼ確実に羊皮紙もあった形跡もある。ニネベの南西の宮殿と、
ニムルドの中央の宮殿の壁にある壁画には、どちらにも 動物やパピルスの羊皮紙に、
アラム語で書いた筆記者の名が示されていた。それらは、当初図書館に含まれていたが
、ニネベが解任されたときに、失われたもの。と思われている。ニネベでは、612年 に
征服され、図書館は、略奪されていて、建物は破壊されたらしい。建物が倒壊した時、
図書館の天井が、突き破られて、そのまま土に埋もれた様だ。20世紀初頭、考古学者が
ニネベに到着し、宮殿の床の奥深くに壊れた、粘土版やワックスを塗った木製の筆記板
、などを見つけた。この発掘作業で 最大の無傷の粘土版は、平らで 9x6インチだった
。(23x15cm)の大きさで、最小の粘土版は、わずかに 凸状で、長さは1インチ(2
cm)以下であった。こうした粘土板は、バビロニアと アッシリアの 両方の書式から
書かれていて、テキスト自体は、行政(契約などの法的文書)と、有名なギルガメッシュ
神話を含む 物語文学といった、両方の、多種多様な文書が含まれていたのである。

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24/04/17 12:06:33.26 jqgNTlJEg
 太古の空・・・・18

 モースル周辺は、ティグリス川とユーフラテス川の両方に潤される肥沃な平野であり
、アラブ人は北メソポタミアに位置するこの地をジャズィーラと呼び、アラビア語では
「島、半島、中洲、河川や海で囲まれた地」の意味を持つ。穀物や果物の豊富さを称え
てきた。現在のモースル市の住民は、今や、ほとんどがムスリムのアラブ人で占める。
元々はクルド人が、統治するクルディスタン王国の地域で、モースル一帯には。かなり
古くから多くのクルド人が住んでいた。とされている。モースル市も、元来はクルディ
スタンに含まれる重要都市として認識されているものの、歴史上に、複雑な民族・政治
・宗教問題も抱える地域になって荒れた街である。このほか、主要な少数民族にネスト
リウス派キリスト教徒のアッシリア人や、トルクメン人がいる。2014年6月過激派組織
ISILによる統治が行われたが、その後の2016年~2017年、モースル奪還作戦で戦闘をし
て、現在に至っている。こうして、戦争の度に市街は荒廃した。イラク政府による解放
後ISILが抑圧していた、伝統文化・芸術活動が再開され、復興は遅れているが、戻った
。イスラム教のスンニ派が多いモースル住民に、シーア派主導のイラク中央政府が復興
には、足を引っ張るケースもあり軽視されがちであるか。薄地の織物「モスリン」は、
元々この街で作られ、名前もモースルの名に、由来している特産物だ。他にも、歴史的
に重要な輸出産品は大理石であり、マルコ・ポーロすらこの街を訪れ、『東方見聞録』
で言及してる。また古くから、石油が湧くことでも知られており、石油に浸かると薬効
がある。と信じる人々が集まっている。石油にはタールやアスファルトの原料、または
攻城戦の際には攻め手に石油を浴びせて燃やしたり、城壁を燃やして崩し、城に侵入し
たりするなど、主に軍事用として使われていた。とされる。

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24/04/17 17:57:55.70 VMgm+1VPR
 太古の空・・・・19

 ここで、アシュルバニパル図書館の解読プロジェクトが動き出して、戦果を避けて、
持ち出されていた、図書館から回収された資料の、ほとんどすべてが、現在大英博物館
にある事で英国にて開始されていく。これは主に、大英博物館(だいえいはくぶつかん
: British Museum)ブリテッシュ・ミュージアム(BM))が資金提供した発掘調査で
、ニネベで働いていた2人の、英国の考古学者がこれらの遺跡を発見した為でもある。
人類の歴史、芸術、文化を専門とする公的機関で、世界で最初の公立の国立博物館であ
る。大英帝国時代以来、広く収集された 約800万点の常設コレクションが、現存する。
最大かつ最も包括的なものであり、人類の文化の始まりから現在までを記録している。
1852年~1854年の間に、イラクの国が存在する前に、ヘンリー・クレスウィック・ロー
リンソンは、1910年に亡くなりましたが、先駆者である考古学者ホルムズ・ラッサムと
、ローリンソンと協力して数千の粘土版を発見し保存した。とされています。1753年、
イギリス系アイルランド人の医師であり科学者であるハンス・スローン卿のコレクショ
ンをもとに設立された博物館は、1759年に現在の建物の敷地内にある モンタギュー・
ハウスで初めて、一般公開された。その後 250年以上に渡り、イギリスの植民地化が進
んだ結果、いくつかの分館が設立され、最初の分館は1881年に設立された自然史博物館
だった。Ashurbanipal Library Project(アシュルバニパル 図書館プロジェクト)は
、モースル大学の、ドクターウェルヤセン( Dr.AliYaseen )によって 2002年に、開始
され。彼は、アシュルバニパル図書館の研究に専念するために、モースル市内に、楔形
文字研究の新しい研究所を設立することを計画した。特別に設計された博物館に、タブ
レットのキャストや、コンピューター設備、および図書館を創った。大英博物館は、彼
らのコレクションのキャストを提供することを約束し、彼らは、図書館のコレクション
を再評価するために ジャネットC.フィンケを雇い入れた。

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24/04/17 17:58:26.68 VMgm+1VPR
 太古の空・・・・20

 フィンケ(Fincke)はコレクションを再評価してカタログ化しただけでなく、残りの
フラグメントを、再調整して分類しようとした。彼女は、今日大英博物館のウェブサイ
トで入手可能な他の粘土版文字と、断片の画像に翻訳したアシュルバニパル図書館など
を、データベース化を始めました。フィンケはまた、こうした記事の多くを発信し彼女
の調査結果に関する広範なレポートを作成している。この粘土板が発掘されたモースル
周辺では、少なくとも8千年前までの記録があり、紀元前6千年前から、人の居住があ
ったとされる。このモースルの位置する 北メソポタミアよりさらに北の高原地帯は、
アッシリアであり、アッシリア王国の生誕地となった場所だ。が、その最盛期を迎えた
アッシリア帝国の頃は、穀倉地帯のモースル周辺を、首都とした時代だった。モースル
はその後に、アッシリアによって主要都市ニネヴェ(現在のニネワの町)の街が対岸に
作られて対立対峙する。ニネヴァは、ティグリス川右岸で、クリートの丘の上にある砦
として創られたその後の街だ。紀元前 850年頃、新アッシリア王国のアッシュールナツ
ィルパル2世は、このモースルのすぐ南にあった ニムルドの街を 自分の首都をとし
て選んで、新しい都市、首都作りを行った。首都は、一旦ドゥル・シャルキンに移った
が、百年後の 紀元前700年頃、センナケリブ王は、ニネヴェを新しいアッシリアの首都
とすることを決める。モスルにあるクユンジクの土塁は、ペルシャや、メソポタミアや
、シリアを征服し、世界屈指の、帝国アッシリアの最盛期を築いた。センナケリブ王と
、その曾孫アッシュールバニパル王の宮殿の跡が、今も廃墟として残る。またニネヴェ
は『旧約聖書』のヨナ書の舞台にもなるなど、その名はよく知られている。ドゥル・シ
ャルキンについては、はサルゴン2世(シャルキン2世)によって、新たに建設された
とされて。サルゴン2世は 前722~前705年まで在位した アッシリアの王であった。

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24/04/17 17:58:50.51 VMgm+1VPR
 太古の空・・・・21

 前713年の段階で、サルゴン2世は遠征の成功によって財政強化し、増兵し人口増加の
国となり、新たな首都とすることを意図してドゥル・シャルキンの建設に取り掛かった
ようだ。他のアッシリア王達による遷都の試みなどの、例えばアッシュル・ナツィルパ
ル2世のカルフの改修や、サルゴン2世死後のニネヴェへの遷都などとは、大きく異な
り、ドゥル・シャルキンは、既存の都市はなく、全くの新都市を建設する試みであった
。サルゴンが決めたドゥル・シャルキンの建設位置は、実はカルフにきわめて近くあり
、アッシリア帝国の中心地として、ふさわしいと、サルゴンが考えた場所であった。の
だろう。アッシリア初期の砦の上に立てられたモースルは、アッシリア滅亡後ニネヴェ
の跡を継ぐ都会となり、ペルシャ帝国の中心から シリアやアナトリアを結ぶ道の中心
であり、この地でティグリス川の渡河が出来る地点として、かなり栄えたようだ。こう
してモースルは紀元前6世紀には 重要な交易拠点となっている。短期間ローマ帝国に
支配された後、サーサーン朝ペルシア帝国の重要な一部となった場所だ。モースルの北
15キロメートルにあるホルサバード村としている。新王国のメディアの主都は、記録で
は前7世紀半ばまでには、エラム、ウラルトゥ、マンナエ、そしてアッシリアとも競合
可能な勢力となっていた。とされる。エラルは今のトルコである。ウラルトゥは、アナ
トリアに存在した王国で現在のトルコ東部のヴァン湖周辺でメソポタミア北部からコー
カサス南部にわたった今のクルド人住居区である。マンナエは、ウルーミーエ湖の東部
と南部辺りを本拠としていた部族で、あんまり解っていない山岳民族だ。大まかに言っ
て騎馬民族のスキタイのようなインド=イラン語族との共通性が高いとされている原初
のイラン人とされる。最大領土はクラ川にまで拡大したが、マンナエはインド=ヨーロ
ッパ語族ではないフルリの一派であったのではないのかとも考えられている。前7世紀
半ば以降は、アッシリア帝国も、もはやメディアへの遠征を行わなくなっている。国の
体力が落ちたのか、スキタイ賊の侵入がなかったのか、メディアが恭順したのか解って
ない。

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24/04/17 17:59:19.60 VMgm+1VPR
 太古の空・・・・22

 前7世紀前半は、メディアでは、アッシリアと並ぶ深刻な脅威となっていたのは、ウ
ラルトゥの東北の威嚇であった。この頃に、ウラルトゥの東方領土にあった主要な拠点
で、全てが破壊と炎上に見舞われ放棄された。ウラルトゥの拠点を破壊できる程の勢力
は、当時メディア人しか存在しない。そこでこの一連の破壊はメディア王国の、拡張の
証であるとの見方もある。バビロニア王としてシャマシュは、古代メソポタミアの太陽
神を崇め、そしてメソポタミアの女神の双子イナンナ(イシュタル)天の女王を祀る。
 ヘロドトスの記録では、ペルシアの征服という業績は、初代王である デイオケスの
息子フラオルテスに帰せられている。この「フラオルテス」はメディア人の「市長」の
カシュタリティ(フシャスリタ)に対応するかもしれない。「カシュタリティ」は中央
地域の、首長であったと書かれているが、呪術師で巫女の様な身分であろうと思う。彼
は紀元前 678年の碑文では「メデスの王」と、呼ばれているので、初代のメディア王で
あったかも知れない。彼の土地は、おそらくアッシリアの北東の国境に沿って位置して
いた。と思われる。彼の領域の中には、カラカ(キンメリア)の街があった。マンナエ
やメデス、或いはスキタイアッシリアに対して、アッシリア文書では、カシュタリティ
(都市市長)のアッシリアへの 侵入について、言及している。その後、エサルハドン
総督の指導の下に置かれた。連合体は、そのような機会のためにアッシリアの支配者に
よって 一般的に求められ、状況を評価し、彼らを助けに導くために、神々を呼び起こ
す儀式をした。しばしば、これらの神託の呪術者に 助言を求める為に、エサルハドン
総督さえ行った。動物を犠牲にて神に捧げられ、前兆は 死骸の位置などに基づいて、
それなりの解釈されて告げられていた。これらの神託から、国王の決定が下されるが、
その後でも、これらの前兆に基づいて、国の方針決定が下される。此処ではエサルハド
ン総督は、太陽神の司祭、シャマシュ(太陽神、イシュタルのシャーマン)に指導を求
めた

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24/04/17 17:59:50.09 VMgm+1VPR
 太古の空・・・・23

 主にニネベで発見された 紀元前7世紀にさかのぼる粘土版には、特にカシュタリテ
ィに関連する複数の「連合体の要求」についても説明している。これらの連合体の要求
の返答の間に、シャマシュ巫女に、提起された質問の中には、カシュタリティ都市市長
が、アッシリア人にとって脅威であったかどうか、そして彼がいくつかのアッシリアの
都市を、攻撃・征服するかどうか。が記録している。この粘土板では、カシュタリティ
の都市市長側は、アッシリアの都市キシュタリティを攻撃するための支援を、別の中央
地域の首長であるマミティアルシュの市長に、求めていたようだ。記録された連合体の
要求の1つは、エサルハドン総督は、その地位と都市を失うことを非常に恐れていた。
と主張している。カシュタリティ市長は、また、マンナエ人とサパルダと共に、アッシ
リアの町のキルマンへの襲撃を計画している。エサルハドンの市長側が、アッシリアの
領土への執着と 彼の厄介なキャンペーンに対処するのを助けるために、絶えず神託を
求めていたのであり、カシュタリティ市長側の侵入が、唯一の出来事では、なかっただ
ろうことは明らかである。ある連合体の要求は、カシュタリティ市長が、アッシリア人
と和解しようとしたことも、示唆している。彼は、条約を作ることを期待して、アッシ
リアの宮廷にメッセンジャーを送っていた。エサルハドン市長は、シャマシュ巫女に訴
えて、平和に同意するべきか、メッセンジャーを尋問して殺すべきか。を、尋ねた様だ
。その後の連合体の要求は、平和が達成されなかった。ということを示唆しているので
、この時のお告げは、闘う方向であったのだろう。代わりに、アッシリア人は、カシュ
タリティ都市からの攻撃を 最終的に終わらせることを意図して、カシュタリティ都市
と、彼の軍隊に対する報復を、開始した可能性もある。カシュタリティの同盟は 内部
の意見の不一致により分裂し、アッシリアでのカシュタリティからのキャンペーンは、
西暦前 673年までに終了した。

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24/04/17 18:06:15.17 VMgm+1VPR
 太古の空・・・・24

 一部のスキタイ部族は、アッシリアへの攻撃を続けた。他のスキタイ部族は、バルタ
トゥアの指導の下で、敵対行為を終わらせる手段として エサルハドンとの 同盟を結ぶ
為に、エサルハドン側の娘と結婚しようともした。カシュタリティの同盟の他の中央地
域の部族も、次々とアッシリア人との和平を築きだし、解決していった。エサルハドン
は、「新アッシリア」帝国を築いた。と楔形文書は書く、そこの意味するアッシュール
文字で、「私の兄弟を与えている。」と書いているのである。紀元前 681年の父の大王
セナケリブの死から 669年の、アッシリア王のサルゴンの彼自身の死まで、新アッシリ
ア帝国の王であった。サルゴニド王朝の、3番目の王であるエサルハドンは、671年 に
エジプトを征服したことが、最も有名な業績になった。この征服によりアッシリア帝国
は史上空前の規模となった。またエサルハドンは、父センナケリブによって破壊された
バビロン市を再建した。アッシュルバニパルの図書館の古文書の中の、エサルハドンの
世界。それは、彼の帝国を世界がこれまでに見た中で、最大のものにし、そして彼の父
によって破壊されたバビロンの彼の再建を望んで、センナケリブの長子のアッシュル・
ナディン・シュミが送られた事であった。しかし残念な事に 前694年に、エラムに捕ら
えられ、おそらく694年に 処刑された。この後、新しい相続人は、弟であった、アルダ
・ムリッスであったが 684年に自分の息子で孫であるエサルハドンが、代わりに任命さ
れた。この決定に腹を立てたアルダ・ムリッスと、もう一人の兄弟、ナブ・シャル・ウ
スールは、681年に 父親を殺害し、アッシリアの王位を奪取することを計画した。ここ
で殺人とアルダ・ムリッスが、自ら王に躍り出て熱望したため、エサルハドンの王位へ
の昇格は 困難に見えた。彼は直ぐに行動し、最初に6週間の内戦で、兄弟を打ち負か
さなければなりません。

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24/04/17 18:06:38.00 VMgm+1VPR
 太古の空・・・・25

 この兄弟たちによるクーデターの試みは、書記官をしていたエサルハドンにとっては
予想外のもので、そして厄介なものだった。というのも、王はその死に至るまで、妄想
症(paranoia)と、役人・総督たち・男性親族に対する 人間不信に悩まされた政治を
行っていたからだ。この被害妄想の結果として、エサルハドンが使用した宮殿の大半は
、各都市の主要人口の集積地からは、ちょっと遠い離れた位置にある警備の厳重な要塞
での執務であったのだ。また恐らく、男性親族への不信の結果として、彼の治世の間、
母方のナキアや、娘のシェルア・エテラトのような エサルハドンの女性親族側では、
それ以前の、アッシリア史における女性たちよりも、かなりの大きな影響力と政治力を
振るうことができていたのだった。本来は人質工作や政略結婚で、押さえとしての妾達
が、妻たちの酒池肉林のハーレム社会に、この頃はまだイスラム教などは居なかった。
そもそも「ハレーム」という語は、アラビア語の「ハラム」に由来しており、もともと
は「禁じられた」という意味である。そこから派生して、王宮や家庭において、よそ者
の入り込めない限られた空間、すなわち「後宮」を指す言葉として用いられるようにな
った。この女性達の宮日本で言う大奥に仕えているのは、奴隷として売られてきた身分
の者たちであり、この頃一人の子供が5人10人の時代では、王の皇子となる人間が、
3~40人とひしめいていてもおかしくない時代で、それぞれが異母兄弟で、異空間の
中で育っていた。王が、比較的短く困難な治世と、被害妄想・鬱・頻繁な病に苦しんで
いたにもかかわらず、エサルハドンは、最も成功したアッシリアの王の一人と認識され
ている。彼は 前681年に速やかに兄弟たちを打ち負かし、アッシリアと、バビロニアの
双方での野心的な大建設プロジェクトを完遂し、メディア、アラビア半島、アナトリア
、コーカサス、そしてレヴァントへの遠征を成功させ、エジプトを撃破して征服して、
自身の死にあたっては2人の後継者アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキン
への平和裏の権力移譲を成し遂げたからだ。

32:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/17 18:13:21.85 VMgm+1VPR
 太古の空・・・・26

 シャマシュ・シュム・ウキンは、最も成功したアッシリアの王の一人と認識されてい
る。ヘブライ語の書物では アッカディアンとして知られて、サルゴニド王朝の 古代
アッシリアの第3王子でした。新アッシリア帝国の王であるセナケリブの息子であり、
セナケリブの後継者であるエサルハドンの兄。アルダ・ムリッスは、紀元前 694年に、
セナケリブの最初の皇太子、アッシュルナディンシュミが 亡くなってから10年間を、
セナケリブの皇太子兼 相続人を務めた。紀元前684年 エサルハドンに代わって後継者
になった。この降格に失望したアルダ・ムリッスは、紀元前681年 陰謀の首謀者で指揮
者の彼と、弟の1人であるナブシャルウスールが王位を奪うことを期待してセナケリブ
を殺害した。この王の長男の、セナケリブの殺害は、王の弟のアルダ・ムリッスの支持
者の何人かを、彼に反対させ、彼の戴冠式は、延期された。その後の混乱の中で、エサ
ルハドンは、アッシリアの首都ニネベに進軍して行き、王位を獲得することに成功する
。こうして兄と伯父のクーデターは失敗する。その後兄アルダ・ムリッスと伯父ナブ・
シャル・ウスールは北のウラルトゥ王国に逃げて行ったとされる。その後、彼らについ
ては、何も知られていません。アルダ・ムリッスは、紀元前705年~紀元前681年まで、
新アッシリア帝国の王として君臨した前王、セナケリブの息子でした。セナケリブには
複数の妻がいて、アルダ・ムリッスの母親は、知られていない事が多いが、彼女がアル
ダ・ムリッスの弟の、エサルハドンの正妃である「ナキア」ではなかったことは、確か
である。紀元前700年、セナケリブ前王は、長男の アッシュル・ナディン・シュミを、
皇太子(後継者に指定)に任命し、彼の帝国のメソポタミア南部を、カバーするバビロ
ニアの支配権を、彼に与えたている。

33:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/17 18:16:22.26 VMgm+1VPR
 太古の空・・・・27

 この任命の直後、伯父セナケリブは、エラムに対して、徴兵と訓練を行って(現代の
イラン南部)そこに逃げてきたカルデアの反政府勢力を追いかけるのだった。紀元前10
世紀以降に、この地に移り住んだ「セム系遊牧民」の幾つもの諸部族が入り込んできた
。カルデア人とははこうした異邦人をして 言葉の通じないこうした人を、こう呼ばれ
るようになっていた。しかし、このカルデア人達は その後紀元前7世紀には、新バビ
ロニア王国を、建国した民とされるので、まさしくこの騎馬民族の遊牧民が、かなりに
移住し、帰化し、子孫を創ってきたのだろう。この領土への侵入に応えて、エラム人は
、新アッシリア帝国の南部に侵入し、紀元前694年に シッパル市で、アッシュルナディ
ンシュミを占領することに成功し、王子はエラムに連れて行かれ、おそらく処刑された
。とされる。その後当初は、新たな後継者に第2子であるアルダ・ムリッシが就いた。
しかし 前684年、年少であった為に、直ぐにエサルハドンが代わって統治し 後継者に
任命されたのである。セナケリブ王の 長男で相続人のアッシュル・ナディン・シュミ
が捕らえられた頃に、アッシュルナディンシュミが 亡くなってから10年間をセナケリ
ブ皇太子の、兼相続人を務めていたのだから。紀元前684年 伯父エサルハドンが、代わ
って後継者になって政治を敷く事は不可能だったろう。伯父セナケリブ王がカルデア人
の放逐と戦さをやってるのに、幼帝になるべき我が子供が誘拐され、同じ兄弟の実務の
エサルハドンも捕まって、恐らく殺されたのだろうから、王になっていたルダ・ムリッ
スは、逃げるしかない。この降格に失望したアルダ・ムリッスは、紀元前681年 陰謀の
首謀者で指揮者のエサルハドンと、弟の1人であるナブシャルウスールと共に居なくな
ったのであった。

34:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 15:42:55.38 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・28

 既に述べたようにカシュタリティは、アッシリアに対する反乱を成功させており、恐
らくは、独立したメディア人の「王国」を形成することに成功した人物であろう。しか
し、メディアの一部では、なおアッシリアの支配下に残されており、カシュタリティ(
フラオルテス)によって率いられた 独立したメディアの領域は正確にはわからない。
特に東側と南側においてどこまで広がっていたのかは、ヘロドトスの語る内容の事実性
を含めて、全く知る術がない。少なくとも アッシュルバニパルの即位前に 書かれた
忠誠の誓約(エサルハドン王位継承誓約文書)においては、元来メディアの王国では、
ペルシアはおろかメディア全体を、含んでいなかったことが示されている。今日では、
メディアという名称は、実は、ギリシア語の史料に登場するメーディアーに由来する。
英語圏の名称で、勝手に付けられたものだ。古代ペルシア語ではマーダという語形で、
(アケメネス朝前550年頃~前330年)時代の碑文に登場している。いわゆる ハカーマニ
シュ朝(アケメネス朝)の時代の碑である。元々の語義は不明であり、名称の由来につい
ても、確実な説はない。ポーランドのボイチェフ・スカルモフスキは、マーダという語
はインド・ヨーロッパ祖語の「中心」や「中央に位置する」の意味としている。同様の
意味を持つ古インド語(サンスクリット)の アヴェスター語 を参考にしている。一方
、ロシアの歴史学者ディアコノフはインド・ヨーロッパ語に、由来するかどうかはっき
りしない。と反対してる。ヘロドトスが伝える古代ギリシアの伝説では、メディアとい
う名称は人名から来ている。としている。「メディア人部隊もペルシア人と同じ装備で
ペルシア戦争の遠征に加わった。もともと、この装備や様式は、メディア世界のもので
あって、ペルシアのものではない。メディア人を指揮するのは、アカイメネス家の一族
の、『ティグラネス』である。」と書いている。

35:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 15:44:05.07 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・29

 メディア人は、昔からは、アリオイ人の呼称で呼ばれていたが、コルキスの女「メデ
ィア(メーデイア)」が、アテナイを逃れて来て このアリオイ人の許へきてより、こ
の民族は、その呼称を変えた。これはメディア人自身が、自国名について伝えている。
ところである。」(ヘロドトス、『歴史』、巻7 §62)・・と書いている。ここに登場
するアリオイ人は、「アーリヤ人(アーリア人)」になった対応する名称である。元来
はメディア人のみならず イラン高原に住む諸族の通称だったのが、アリオイ人の名だ
。しかし、その後の語源とされる人物メディアは、ギリシア神話に登場する魔女であり
、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして、失敗しての、
アリオイ人の下へ逃れた。とされている王女だ。だが、ヘロドトスの伝える伝説は名称
の類似に依ったギリシア人による創作と考えられている、メディア人自身の伝承である
という彼の証言も疑わしい。とされる。が、しかし、このアイゲウス神話は意味深でも
ある。「アイゲウスは、最初の妻メーター、二人目の妻カルキオペーの、いずれとの間
にも子供に恵まれなかった。このため、デルポイの神託所で、その理由を問うた。しか
し、その神託の意図を理解できないまま、彼はアテーナイへの帰路についた。」とされ
る。デルポイは、パルナッソス山の西南麓に位置し、ギリシアの首都アスィーナ(アテ
ナイ)から 西北へ122kmの距離にある急峻な丘である。ティーヴァ(テーバイ)からの
西北西へ約75km、スパルティ(スパルタ)の北へ 約157kmである。古代ギリシア世界に
おいては、世界のへそ宗教界の中心と、信じられていた。という。というのも、この山
の上の平地に、ポイボス神殿でアポローンを祀る神殿の焚火こそ、欧州特に東欧に有名
なオリンポス神殿であった。エーゲ海域の海路の目標物であり、海の守りであったから
だ。ここで下される「デルポイの神託」はエーゲ海域のギリシャ神話の中心で、ここに
は、神殿娼婦、神聖売春または神殿売春という行為によって、大量の子作りを行わせ、
各国の平和を司っていた。というのも、度々小さな公国は、若者の徴兵、少女の奪略、
疫病の蔓延mとかで、人口減少があって、国存亡に危機に、瀕したからである。

36:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 15:44:43.27 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・30

「デルポイの神託」と言うのは、娼婦巫女制度であった。と言われる。デーヴァダーシ
ー「神に仕える物」「神の侍女」「神の召使」を意味していて、近代まで南インドでは
、主に舞踊を担うためにヒンドゥー寺院に奉納され、伝統舞踊を伝承した女性を指して
行われていた。巫女のような存在で、「寺院の女性」とも呼ばれる。イギリスによるイ
ンドの植民地化で、藩王や大規模寺院が政治経済的に弱体化すると、彼らに庇護されて
いた芸術家たちは、行き場を失い、デーヴァダーシーは「神との結婚しているため」に
人と結婚することはタブーで、結婚による生活の安定は望めず、生計を立てるために踊
りを教える者もいたが、やむを得ず売春をする者も現れた。とされる。神殿娼婦、神聖
売春については、チグリス川とユーフラテス川に沿った古代近東には、バビロンのイシ
ュタルの神殿をはじめとした多くの聖地や神殿、「神の家」が存在しており、ヘロドト
スは『歴史』の中で神殿売春の慣習を伝えている。古代メソポタミアの巫女は、寄進を
受けた者に対して、神の活力を授けるために性交渉を行う風習があった。『ギルガメッ
シュ叙事詩』で、ギルガメッシュの友エンキドゥの獣性を鎮めるために、娼婦を派遣し
、性交渉を行った。という伝説がある。日本で言う人身御供の風習である。また、古代
メソポタミアのイシュタルや古代ギリシアのアフロディーテ、北欧神話のフレイヤなど
、多くの神話で愛と美を司る女神は、性に奔放な姿で描かれているのも、こうした神殿
娼婦の影響によるものと思われる。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは古代メソポタミ
アにおいて神殿売春が行われていたと初めて言及した。古代アテナイ巫女は、集団での
行動で、麓の村々の有力者の家に行き、寄進と布施の強要に行くのは習わしであった。
これが後の イエス・キリストの布教行動に繋がった。と言われている。

37:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 15:45:19.01 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・31

 古代ギリシャの女性たちはどんな役割を持ち、どんな暮らしをしていたのかが、近年
の研究で、新たな一面が明らかになりつつある。従来では、強調されてきた彼女らの、
虐げられた生活があって、いかに制限され、隠されていたか。という主張が多かった。
多くの意見は、女性たちは、市民権を認められず、公的な場から排除され、法的・政治
的な地位もなく「ポリス(都市国家)」から排除され、妻、母、娘として「オイコス(
家)」に押し込まれていた。などと考えた主張される。この見方の根拠となったのは、
古代ギリシャの古典文献の。クセノフォン、プラトン、トゥキディデスなどが、女性は
男性よりも劣っている。として語った書物による。アリストテレスの『政治学』でも、
本質的に男性は優れていて、女性は劣っており、男性は支配者であり女性は臣下である
。などと記されている。これらの文章の多くは、女性に対して最も厳しい態度をとって
いたアテナイ(アテネ)でのみを書かれたものだ。スパルタなどアテナイ以外のポリス
では、女性はもっと自由で、運動したり鍛錬したりすることが、奨励されて男より自由
であった。地域による自由度の違いはあるし、社会階層によっても個人に自由度の違い
があった時代だ。貧しい女性や、奴隷は、洗濯婦や織り手、物売り、乳母、助産師とし
て働いた。当時の陶磁器には、市場で働いたり水を汲(く)む奴隷の女性が描かれてい
る。が、これは男性も同じだった。一方で、宗教においては古代ギリシャの女性はより
、より高度で複雑な役割を得ている。ギリシャ神話には、アテナ(戦争と知恵の女神、
アテナイの守護女神)、アルテミス(狩猟と山野の女神)など、強力な女神が大勢登場
する。これは、古代ギリシャの女性たちは、巫女(みこ)として生きることで、従来に
考えられていたよりも大きな自由と尊敬を、人々から手にしていたからであった。

38:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 15:45:48.96 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・32

 古代ギリシャの一般的な女性の人生は、「コレー(少女)」、「ニュムペー(第1子
が生まれるまでの若妻)」、「ギュネー(女性)」と、出世魚の様に3つの段階を軸に
して呼び名まで違う対応がされた。大人になると、10代前半から半ばで結婚させられる
。婚礼の日には、女性の参列者たちが、泉からルトロフォロスと呼ばれる壺(つぼ)に
水を汲んできて、花嫁は、女たちの助けを借りて、この水で体を清めさせられる。衣装
を着て、冠をつけ、婚礼の儀式では、父親の家で執り行われるのである。式が終わると
、花嫁の保護者としての義務と権利は、父親から花婿へと正式に移る儀式として、婚礼
の儀式は行われ、披露宴に移る。新婚夫婦は、祝いの行列に先導されて新居へ向かい、
祝宴は翌日まで続いて、花嫁は自分の家族や友人から贈り物を受け取るのである。ほと
んどの花嫁は、持参金を持っていくが、離婚するときには、持たせる父親に全額が返還
される。つまり日本の結納と同じに、女性は、家柄の上納なので、大事に育てられる。
女性達は、嫁ぎ先の家に、専用の「婦人部屋」を持っている。婦人部屋の様子は、墓碑
や陶磁器に、詳細に描かれているが、女性たちは家事全般を担っているので。主な仕事
の一つは、糸を紡いで布を織ることであった。普通多くの家に織機があったのである。
考古学者は、女性たちが使った、エピネトロンを大量に発見している。エピネトロンは
、木製や陶器製の、半円筒形の腿(もも)当てで、羊毛を梳(す)くときに 脂で衣服
が汚れないように、片方の太腿に載せて使われていた物だ。美しい装飾のあるエピネト
ロンは、婚礼時の贈り物として人気があり、その多くに、愛と美の女神アフロディーテ
の頭部がついていた。紀元前5世紀の陶器製のエピネトロンは、その表面には家庭的な
情景が描かれることが多かった。

39:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 15:46:15.46 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・33

 又、子どもの世話も、女性の仕事だった。女子と幼い男子は女性が教育し、ある年齢
を過ぎた男子には 教育係がついたようだ。女子は音楽も学び、竪琴を習うことも多か
った。女性たちは、家族の葬儀で重要な役割を担っていた。遺体に油を塗ったり、衣服
を着せたりして遺体を整え、葬列に参加して、式典の指揮を行った。高い教育を受け、
芸術や科学に貢献した女性も、多くいた。紀元前 350年ごろには、プリウス街のアクシ
オテアが、プラトンに師事して哲学を学んだのは、男装していた。とする文献もある。
紀元前6世紀の、デルポイの巫女テミストクレア(別名アリストクレア)は哲学者とし
ても知られ、哲学者にして 数学者でもあったピタゴラスの師だとされているのである
。紀元前4世紀の壺に描かれた絵には、蛇に噛(か)まれて死んだ少年オペルテスに、
女性が葬儀用の覆いをかけている。古代ギリシャの女性は、葬儀のために遺体を整える
作業を担うことが多かった証である。冠婚葬祭に参加するのは、巫女の務めであった。
巫女として聖なる儀式に参加する女性達は、家庭以外での生活を享受した。考古学者の
ジョーン・ブレトン・コネリー氏は、古代ギリシャの宗教活動は「女性が男性と同等、
もしくは上位の役割を担える唯一の場だった。」としている。実際、神々に仕える巫女
の地位は非常に高かった。アテナイで、最も重要な宗教的役割を果たしていたのが、こ
こでの、アテナ神殿の高位の巫女で、普通の女性にはない様々な権利や名誉を手にして
いた。デルポイ(デルフォイ)のアポロン神殿の巫女も、古代ギリシャで最も権威ある
役割のひとつを担っていた。この巫女はアポロンの神託を告げる。と信じられ古代世界
の各地から男性たちが相談に訪れていたという。

40:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 17:30:49.56 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・34

 巫女は神聖な祭事でも重要な役割を果たし、中には女性のみで行う祭事もあった様だ
。その多くは収穫に関連した、音楽と踊りの祭事だった。テスモポリア祭では、女性達
が集まって、農耕の女神デメテルとその娘ペルセポネに敬意を表した。ワインの神ディ
オニュソスを祝すレナイア祭では、女性たちはディオニュソスの巫女として狂乱状態で
儀式に参加した。こうして、古今の古典学者たちは、長く隠されてきた古代ギリシャの
女性たちの生涯に、多くの複雑な要素を見い出し、発掘しているようになってきている
。こうした事実によって、古代ギリシャ文化の全体像を、より正確に把握することが、
可能になってきた。古代ギリシャの女性たちは、これまで考えられていたよりもはるか
に豊かで多彩な生活をしていた。巫女たちは修道院の様に上下関係がしっかりしていて
30~50人程度の寮生活をしていたものと思われている。10人ぐらいで組んで動き
、司祭の下の命令で、各地に布教に行き、食糧や金銭や貴重品を持ち買って、山で暮ら
しをしていたのである。更にここでの学習で、多国籍言語の学習や、文化的交流や人身
売買や、戦乱地の飢えた子供を引き取ったり、逆に代理出産の約束をして、国の安定を
図ったりしていたと考えられる。他にも、集団見合いや結婚式など、この神殿の得意と
したところだろう。それでも、個人的な性問題は、恐らく別物ではなかったか。とも思
われる。デルフォイのシビュラは、パルナッソスの山腹にあるデルフォイの、アポロン
神殿にあったアディトンという 内室奥の立ち入り禁止区域で予言を行った伝説的存在
とも言われる。

41:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 17:31:24.75 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・34

 巫女は神聖な祭事でも重要な役割を果たし、中には女性のみで行う祭事もあった様だ
。その多くは収穫に関連した、音楽と踊りの祭事だった。テスモポリア祭では、女性達
が集まって、農耕の女神デメテルとその娘ペルセポネに敬意を表した。ワインの神ディ
オニュソスを祝すレナイア祭では、女性たちはディオニュソスの巫女として狂乱状態で
儀式に参加した。こうして、古今の古典学者たちは、長く隠されてきた古代ギリシャの
女性たちの生涯に、多くの複雑な要素を見い出し、発掘しているようになってきている
。こうした事実によって、古代ギリシャ文化の全体像を、より正確に把握することが、
可能になってきた。古代ギリシャの女性たちは、これまで考えられていたよりもはるか
に豊かで多彩な生活をしていた。巫女たちは修道院の様に上下関係がしっかりしていて
30~50人程度の寮生活をしていたものと思われている。10人ぐらいで組んで動き
、司祭の下の命令で、各地に布教に行き、食糧や金銭や貴重品を持ち買って、山で暮ら
しをしていたのである。更にここでの学習で、多国籍言語の学習や、文化的交流や人身
売買や、戦乱地の飢えた子供を引き取ったり、逆に代理出産の約束をして、国の安定を
図ったりしていたと考えられる。他にも、集団見合いや結婚式など、この神殿の得意と
したところだろう。それでも、個人的な性問題は、恐らく別物ではなかったか。とも思
われる。デルフォイのシビュラは、パルナッソスの山腹にあるデルフォイの、アポロン
神殿にあったアディトンという 内室奥の立ち入り禁止区域で予言を行った伝説的存在
とも言われる。

42:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 17:33:35.59 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・35

 デルフォイの信託といえばアポローンの巫女であるピューティアが下した神託が有名
である。しばしば両者が混同されますが、ピューティアと、シビュラは別の存在です。
古代の巫女は、裸体で踊って一種のトランス状態になって、神々の託宣を口寄せ(神の
言葉を預かる)えおして、伝える役を担っていました。デルフォイの巫女の奉り神は、
理性と文明と肉体美を代表する、太陽神アポロンである。デルフォイは、ギリシャ中部
、パルナソス山の南のふもとに位置する聖域を指す。ここには、かつてアポロンを祀る
神殿があり、入り口に「汝自身を知れ」との言葉が掲げられていた。と言われている。
デルフォイの神託で、人々はこの神殿の巫女が伝える神託を真実と疑わず、重要な決定
はその言葉に左右された。人間の運命ばかりか、戦争や国そのものの方向も決められた
。デルフォイの神託の例としてよく知られているのは、スパルタ王が神託によって自国
を、最強の軍事国家にした事が挙げられる、ヘラクレスが「十二の功業」を我が身に課
したこと。などの他に、ソクラテスの「無知の知」の発見もある。これは「ソクラテス
より知恵のある者はいない。」との神託の意味を、解くべく大勢の賢者と対話を重ねた
ソクラテスが、ついに辿り着いたのが、「彼らは己が無知であることを知らない。しか
し自分は知っている。」との認識を解いたのだった。というものです。しかし、何とい
ってもデルフォイの神託で有名なのはオイディプスのものだ。「父を殺し、母と結婚す
るであろう。」という、おぞましい神託を受けた彼と父は、その運命から逃れようと、
必死の努力をし、逃れたと思った瞬間、まさにその運命の只中にあった。と知ります。
この悲劇は、むしろ、この御神託がなければ 起こらなかったのでは。と考えると、逆
に「呪い」のようにも見えてくる。

43:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 17:37:43.47 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・36

 デルフォイは険しい山々に囲まれた神秘の場所で、現在もパワースポットとして世界
中からに観光客を集めている。今や崩落した神殿や劇場の遺跡、そして「オンパロスの
石」も置いてある。オンパロスは「世界のへそ」を意味し、石は地中海各地にあります
が、デルフォイのものが一番有名である。ゼウスが鷲を2羽飛ばして、交差した箇所を
世界の中心とし、石を置いたと言われている伝説の場所である。その石の近くに、巫女
が神託を下す聖域があった。と言われる。巫女の役職には常時12人いて更に侍女が、
並んでいたようですが、どういう基準で選ばれたのか、どんな訓練を受けたのかなど、
詳しいことはわかっていない。神官と違ってエリート層出身とは限らず、年齢や財産、
教養の有無は関係なく、若い女性ばかりでもなかった。依頼者は山羊など生費の動物と
料金を持って来て奉納し、一人の巫女と相対する。呪詛や祈りの後、彼女の語る予言的
で暗示的な神託を、そばにいる男の神官が解釈して伝えていた。との説もある。彼女は
岩の裂け目に置いた高い三脚鼎(かなえ)を椅子代わりにし、裂け目から漏れ出る蒸気
を吸って、月桂樹の葉を噛みながら神託を下す。この時の、白い蒸気こそが、伝承では
巫女を恍惚状態にした正体とされてきた。ところが、百年ほど前の発掘調査では地表に
裂け目は見つからず、蒸気説はいったん否定されました。これが覆ったのは、1980年代
の地質学研究です。デルフォイの地盤はケルナ断層と、デルフィ断層の交点に位置し、
地震の摩擦が起きると、アポロン神殿の地盤が加熱されてメタン、エタン、エチレン等
などのガスが発生した、との説が出た。メタン自体は人体に無害ですが、空気中の酸素
濃度を低下させる働きがあり、酸素不足のトランス状態にさせる。その上に歌を唄い、
踊りを踊り、恍惚を極めながら占いをする。巫女の中には、死に至った儀式も多くあっ
たと記されている。

44:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 17:39:24.30 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・37

 つまり酸素が欠乏し、長くそこにいると催眠作用が働き、抑鬱状態になったり脈拍が
速まると言う。重篤な酸素欠乏症の場合は死に至る。地下の聖域に設えられた神託の場
で、巫女はメタンガスを吸い込み、やがて夢と現の境いで神の声を聞いたのでしょう。
というよりも、聞いた、と信じ、信じているので、その言葉は確信に満ち、説得力に、
あふれていたのでしょう。依頼者はその言葉に 強く影響され、知らず知らず、言われ
た未来を先取りして行動するようになったのかもしれません。くり返しガスを吸引した
巫女たちは、それほど長生きはできなかったのではないか。と推測される。つまりよく
この酸素不足に耐えれる少女が、一つの巫女選びの指標では無かったかと思えるのだ。
 キリスト教カトリック教会の総本山であるバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画の
一部に、ミケランジェロ・ブオナローティ《システィーナ礼拝堂天井画 デルフォイの
巫女1500~1512年》が描かれている。どうして異教の巫女を、ここに描くことができた
のでしょうか?古代の巫女たちの神託は、記録・編纂されて『シビュラの書』と呼ばれ
ました。古代ローマ時代では、国家の危機の際に、この本が開かれ、政策決定の参考に
使われていた。しかし、他書への断片的な引用を除いてその内容のほとんどが失われて
しまったのだった。ところが、巫女の神託の人気にあやかって、古代のユダヤ教徒が、
それをまねた『シビュラの託宣』という偽書を書き、さらにキリスト教徒が、加筆した
。その書には、イエス誕生など聖書の出来事が事細かに(都合よく)予言されていたか
のように、シビュラの言葉が創作されていました。そのため、上の絵が描かれた時代に
は、キリスト教との間で異教の巫女たちが高く評価され、彼女らは旧約聖書の預言者と
対象になる存在と見なされるようになっていました。

45:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 18:06:44.71 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・38

 さて、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして、失敗し
アリオイ人の下へ逃れた。とされている王女の話に戻ろう。メディア人自身の伝承か、
ヘロドトスやギリシャ人の創作かは別にして、アイゲウス王神話は、伝承されている。
曰く、「アイゲウスは、最初の妻メーター、二人目の妻カルキオペーの、いずれとの間
にも子供に恵まれず、デルポイの神託に行き、その理由を問うたが、その神託の意図を
理解できず、彼はアテーナイへの帰路についた。」とされる。デルポイは、パルナッソ
ス山の西南麓に位置し、ギリシアの首都のアスィーナ(アテナイ)から 西北へ122kmの
距離にある急峻な丘の上にある。ティーヴァ(テーバイ)からの帰りに兄弟の街に立ち
寄る。一人目に妻にした最初の妻メーターは、政略結婚で、北欧系の白肌で黒髪の北方
美人であった可能性が強い、2人目の妻、カルキオペーは、コルキス(グルジア)の王
アイエーテースとオーケアニデス(水と泉の守護神)のエイデュイア(金髪碧眼美女)
の娘とされるので、同じ政略としての妻だろう。恐らくは、そうした国の交易にかかる
政略結婚の妻で、王は縛られる身分であったろう。ポイボスのアポローン神殿での祭事
を終えての、帰途であって立ち寄ったトロイゼーンで、王のピッテウスに、このことを
相談すると、ピッテウスは神託の意味を直ちに理解し、彼に酒を振舞って酔わせた上で
、娘のアイトラーを彼の寝所に送り込んだ。ここでエーリスの王ペロプスと、ヒッポダ
メイアの子のピッテウスだが、半島王と馬飼い娘の子、と言う意味合いであり、クレタ
島やら、方々に兄弟のいる王で、農耕や馬や牛、つまり家畜を広めた農場主であろう。
日本でも明治維新期に売れたのは、なんと、ビールや牛乳や肉で、元々生活品が江戸期
での外国人の最初の商売であったのだ。

46:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 18:18:48.14 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・38

 さて、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして、失敗し
アリオイ人の下へ逃れた。とされている王女の話に戻ろう。メディア人自身の伝承か、
ヘロドトスやギリシャ人の創作かは別にして、アイゲウス王神話は、伝承されている。
曰く、「アイゲウスは、最初の妻メーター、二人目の妻カルキオペーの、いずれとの間
にも子供に恵まれず、デルポイの神託に行き、その理由を問うたが、その神託の意図を
理解できず、彼はアテーナイへの帰路についた。」とされる。デルポイは、パルナッソ
ス山の西南麓に位置し、ギリシアの首都のアスィーナ(アテナイ)から 西北へ122kmの
距離にある急峻な丘の上にある。ティーヴァ(テーバイ)からの帰りに兄弟の街に立ち
寄る。一人目に妻にした最初の妻メーターは、政略結婚で、北欧系の白肌で黒髪の北方
美人であった可能性が強い、2人目の妻、カルキオペーは、コルキス(グルジア)の王
アイエーテースとオーケアニデス(水と泉の守護神)のエイデュイア(金髪碧眼美女)
の娘とされるので、同じ政略としての妻だろう。恐らくは、そうした国の交易にかかる
政略結婚の妻で、王は縛られる身分であったろう。ポイボスのアポローン神殿での祭事
を終えての、帰途であって立ち寄ったトロイゼーンで、王のピッテウスに、このことを
相談すると、ピッテウスは神託の意味を直ちに理解し、彼に酒を振舞って酔わせた上で
、娘のアイトラーを彼の寝所に送り込んだ。ここでエーリスの王ペロプスと、ヒッポダ
メイアの子のピッテウスだが、半島王と馬飼い娘の子、と言う意味合いであり、クレタ
島やら、方々に兄弟のいる王で、農耕や馬や牛、つまり家畜を広めた農場主であろう。
日本でも明治維新期に売れたのは、なんと、ビールや牛乳や肉で、元々生活品が江戸期
での外国人の最初の商売であったのだ。随分と庶民的だったのだろう。恐らく言葉の壁
に娘のアイトラーをして、その意味を教え、その内性遊戯でも、教えた可能性が高い。
男というのは、女の性欲に弱いものだ。今でも人たらしや美人局、奸囮(つつもたせ)
やハニートラップなる物は多い

47:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 19:06:30.87 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・39

 この時に、彼女は息子 テーセウスを 身籠ったとされる。テーセウスは、ギリシア
神話に登場する伝説的なアテナイの王であり、そして、ギリシャの中では 国民的な、
英雄である。母音を省略してテセウスと表記される。怪神のミノタウロスを退治した、
冒険談議で知られている。ソポクレースの『コローノスのオイディプース』では、憐み
深い『賢知の王』として、描かれている。ヘラクレスほどではないにしろ、岩を持ち上
げる怪力を持ってるし英雄としての存在感には、国民的な英雄でもある。プルタルコス
の『英雄伝』で、アイゲウス王に、息子として認めさせるために、アテーナイに向かう
が、わざわざアテーナイに安全な海路を取らずに、テーセウスは、あえて危険な陸路を
選んで旅をする。そうして道中の山賊や怪物を討ち果たした。エピダウロス(海老の尻
尾の半島)でペリペーテース(棍棒使い:脚がわるく多分杖を付いた部族)を、コリント
ス地峡(ドリア人王コリントの作った街)、怪力の盗賊シニス(松曲げ男)を、クロミュオ
ーン(牝の街)ではパイア(『テューポーン(怪物)』と『エキドナ(鬼畜)』の子といわ
れる『牝の猪』)で猪(クロミュオーンの猪)を、メガラ(巨大街:現在のイスタンブ
ール)でスケイローン(傲慢な盗賊:メガラー王ピュラースの子、アテーナイ王パンデ
ィーオーンの娘と結婚)、エレウシース(エレウシスの秘儀・密議の島)でケルキュオ
ーン(レスリング男)を、ヘルメウス(文化科学の里)では、山賊プロクルーステース(
伸ばす人)を倒している。残虐な方法で人を殺めていた。この者達に対して、テーセウ
スは、勇猛で冷たくあったのだ。いずれも同じ目(殴り合い)に遭わせて殺し勝利した
。道中、テーセウスが倒した プロクルーステースは「プロクルーステースのベッド(
寝台)」(Procrustean bed)の逸話で有名である。この 山賊は旅人に寝台を勧め、大
きな寝台より背が小さければ、旅人の手足を無理やり引っ張ることで殺し、小さな寝台
から手足がはみ出す大きな旅人には、手足を切り落として殺してしまうのだ。そこから
「無理矢理、基準に一致させる」という意味になった。「 Procrustean bed:プロクル
ーテン・ベッド」は、そういう意味である。

48:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 19:15:28.33 Z10AX8Z0N
 太古の空・・・・40

 またテセウスのパラドックスとも呼ばれる言葉もある。プルタルコスは以下のような
ギリシャの伝説を挙げている。「テセウスが、アテネの若者と共にクレタ島から帰還し
て行く時、船に30本の櫂があった、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの
時代までにも、大事にし保存し保存していた。このため、朽ちた木材は、徐々に新たな
木材に置き換えられていき、展示され観光に供されてたが、経済的、論理的な問題から
、哲学者らにとって恰好の議論の的ともなった。つまり、何とか排除したいという流れ
である。すなわち、ある者は『その船はもはや同じものとは言えない』とし、別の者は
『まだ同じものだ』と、対立主張したのである。この島には勇敢な行為でも、侵略され
た側には、結構な汚名だったのだろう。ここで、プルタルコスは『全部の部品が置き換
えられた時、その船が同じものと言えるのか。』という疑問を投げかけて、記述してい
る。。また、ここから派生する問題として、置き換えられた古い部品を集めて、何とか
別の船を組み立てた場合であっても、どちらが、テセウスの船なのかという疑問が生じ
るのではないか。としてる。つまり、ある物体において、それを構成するパーツが全て
置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは、『同じ』それだ。と言えるのか否か
である。といった『 同一性の問題 』を指すパラドックスであるのだ。例えば政策で、
日本に帰化し、海外からの移住者を増やしても、それが日本と言えるのだろうか。日本
人・大和民族・日本の誇り、などと胸を張る事が、許されるのだろうか。という事で、
あろう。歴史で培ってきた思想、その土地の 美意識、仕組みや習慣が『古い」とか、
『時代に合わない』とか、もはや残らないのである。こうなるとそこに居る「人」さえ
も古いとなる。そこで、プルタルコスもヘラクレイトスの言葉として、「同じ川に2度
入ることはできない。」と説き、教えている。つまり「ゆく河の流れは 絶えずして、
しかももとの水にあらず。」という時間軸の観念で、「川」としての「存在」はそこに
ありながら、そこに流れている水は時間を経ち、「ある瞬間を流れていた水」ではない
事を指摘している。まあ、人の人生の達観であろうか。

49:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 21:01:11.18 GXJHO7mOB
 太古の空・・・・41

 テセウスは、古代ローマの建国の父ロームルスと共に、アテーナイを建国した偉大な
人物として、現代では紹介されているのである。ここでテセウスはポセイドンの子であ
る。との神話もある。その場合は犠牲を捧げるために訪れたヒエラ、またはスパイリア
にてポセイドンと交わり、同じ日に不妊症のアイゲウスとも交わったとされている。こ
うしてアイトラーの、懐妊を知ったアイゲウスは、岩の下に剣とサンダルを隠し「生ま
れた子が 男の子であった場合、父親の名を教えてはならない。この岩を動かせるほど
その子が強くなった時に父の名を教え、この剣とサンダルとを持たせてアテーナイへ送
り出すように。」と言いトロイゼーンを去ったのだった。ここで、ヒエラには、ヒエラ
ルキー(階層の上流社会)とか、ヒエラティック(神官文字)とかの語源である。ユネ
スコの複合遺産(世界遺産)に登録されている、トルコが誇る観光名所のヒエラポリス
:パムッカレと言う名所もある。古代都市の「ヒエラポリス遺跡群」の中に、白い石灰
棚に温泉が流れる「パムッカレ」がある場所だ。つまり上流階層の貴婦人の温泉だった
なのであろう。スパイリアも、~の人・や~の国・のリア、を除くと「スパイ」なので
探りに来た婦人という事になる。となる。日本でもスッパとか言われ、出し抜く事を、
すっぱ抜くとも言う。此の時の犠牲を捧げるために、訪れたヒエラまたはスパイリアが
、ポセイドンと交わった。などと言うのは通告した。通じていた。の意味であろう。、
此処でポセイドンが、よく海神で有名だが、古くはペラスゴイ人に崇拝された大地の神
で、馬との関わりが深く、競馬の守護神としても崇められ、異名の1つに「大地を揺ら
す神」というものさえある。とされるので、恐らくはスキタイ族の大陸の神が、どこか
で海神に変わった。と考えるのが妥当であろう。スキタイそのものが、紀元前7~3世紀
頃、ポントス草原の領土(スキシアまたはスキティカ)を支配していた部族で、我々は
草原と思ってるが 実は湿原地帯で、スキ=鋤でタイ=帯で、湿地草の尖った事がスキ
であったし、ポントスの神がポセイドンであったのだろう。と推測する。

50:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 22:07:20.47 GXJHO7mOB
 太古の空・・・・42

 アイゲウスがアテーナイに帰って後、アイトラーはトロイゼーンに留まった。トロイ
ゼーンは、ギリシャ・ペロポネソス半島北東部アルゴリス地方で、古代ギリシアの都市
国家代表であり、ギリシア神話の英雄テーセウス出生の地と伝えられ。テーセウスが育
った地である。アイゲウスは彼の甥に当たるとされる、パラースの息子たちを恐れて、
テーセウスをアテーナイに呼ぼうとしなかった。ので、テーセウスはトロイゼーンに、
居住していた。後にテーセウスが父である彼に会いにトロイゼーンから徒歩ではるばる
来た際には、アイゲウスは、コリントスから逃れてきた メーデイアと結婚していた。
とされる。このパラースの息子達とは、アルカディア地方の王リュカーオーンの50人の
息子の1人である。とされる。同地方南東部の都市パランティオンの創建者。ローマの
古王エウアンドロスの祖父にあたるので、原初のローマに、幾人もの息子達が蠢いてい
て各自に国作りを行っていたのであろう。トロイゼーンは、アジアのハリカルナッソス
人が建てたイシスの神殿があるとされる、イオニア海との分かれ目の アッシリアや、
メディアの国の、対岸のトりジナとされる。となるとアテナイ王アイゲウスの妻だった
が継子テセウスを殺害しようとして、失敗しアリオイ人の下へ逃れた。とされている。
のも、あながち空想とも言えない。ここで、アテナイ王アイゲウスは、巨人族だったと
言う可能性が高い、つまりその子の、テーセウスも又同じに巨人となり、海神ポセイド
ンの子や孫と言われるほど 人を圧倒する体格であったのだろう。まあ神話であるので
、どうとも言えないが、民族的に体格の違いはあるので、恐らく220㎝ぐらいの立派
な体格であったのだろう。対して通常の180~70の身長に更に小さい女性の部族が
嫁に来ても、かなりに性交は嫌がられてしまう。ここでアイトラーは、古代からの媚薬
なり陰部に塗る潤滑剤なりの秘薬の軟膏を所持している部族だったのだろう。と思われ
る。そもそも、しょっちゅう戦争ばかりの古代世界に、薬が存在しない訳はない。

51:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 22:07:51.74 GXJHO7mOB
 太古の空・・・・43

 青年になったテセウスは、剣とサンダルを取り出してアテナイに向かい、安全な海路
をとらずに危険の多い陸路を選び、途中、旅人を苦しめる山賊や野盗をことごとく退治
した。父の妻となっているメデイアの悪事を退けて初めて父子対面となった。テセウス
は、その後に、ミノタウロス退治の為自ら貢ぎ物となる男女に混じってクレタ島へ赴き
、彼に恋したアリアドネの助けにより大功をたてるのであった。アテナイの王位につい
てからは、アッティカを統一して国家の基礎を固めたが、のちに王位から追放されると
、スキロス島に亡命、この地の王に殺されたと伝えられる。こうした彼の武勇を伝える
物語はヘラクレスの伝説に酷似しており、焼き直しと考えられる。と見る向きもある。
つまりドーリス系の英雄ヘラクレスに対抗して、アテナイの国民的英雄としてテセウス
の伝説が発達した。とし、さらに彼の伝承の背後には実在の人物が存在していたかもし
れないが、その真相は明らかではない。と言う物だ。神話によると、アテナイ都市では
、クレタの王子のアンドロゲオスの死を原因とする災いから逃れるため、毎年若い男女
7人ずつを、牛頭の怪物ミノタウロスの生贄として、人身御供に捧げていた。そのため
テセウスは、ミノタウロスを退治するために生贄の1人に加わって、ダイダロスによっ
て建設されたミノタウロスを幽閉するための、迷宮ビュリントスに入って行った。その
際にテーセウスは、彼に恋をしたクレタの王女のアリアドネから、脱出に役立つ糸毬を
受け取って入場したという。テーセウスは、迷宮の奥で、ミノタウロスと遭遇すると、
これを退治して帰るのだが、此処で誰も帰れなくなる筈が、糸をたどって迷宮の外に、
脱出し成功するのである。その後、テセウスは王女アリアドネを連れてクレタ島を旅立
ったが、途中で立ち寄った ナクソス島にアリアドネを置き去りにした。アリアドネは
悲しんだが、そこに酒の神ディオニュソス(ローマ神話のバッカス)が現れてアリアド
ネと結婚したと伝えられている。アドリア海の王女である。

52:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/18 22:17:09.97 GXJHO7mOB
 太古の空・・・・44

 これを、比喩的物語の神話だとしたら、「クレタの王子のアンドロゲオスの死を原因
とする災い。」と言うのは、クレタ島を中心にした海洋国家同盟が、オリンポス同盟の
草原国家の帝国軍に敗けを求めて、島々の縁戚関係を高めさせて、年一回そうした強制
移住をさせられていた時代の争い。とも言える。、海洋諸国家のポリスからなる同盟で
あるデロス同盟と、スパルタが作ったペロポネソス同盟の対立は、やがてペロポネソス
戦争へと発展していくのである。紀元前371年に スパルタはかなりに軍事国家であった
。そこで相対するデロス同盟も同じに、徴兵制が敷かれて、政略結婚が普通にあった。
つまり、その進化形として、やがては王の子も庶民も合同見合い、合同結婚式をさせて
いたのだ。ここでダイダロスやミノタウロスとか、ギリシア神話に登場する半人半獣の
種族の名前である。馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしている。
これは、先の頭人獣身に彫られたアッシリアの神「アッシュール:神」の最高神を意味
する物であろう。アッシュルは古くからアッシリアにおける最高神で、古来は拝火教の
フラワシ(半鳥人)の光の環に載る杖を持つ善の使いであった。しかし、エジプト遠征
後には、太陽神としての性格を帯び、スフインクス同様にライオンの容姿に人間の頭を
持つ鳥の羽根の姿となった。アッシュル神がアッシリアの首都で古代都市アッシュルと
同名であることは謎だが、現在は神としてのアッシュルは都市アッシュル、あるいは、
それが存在した土地自体を、擬人化・神格化されたことで、聖域都市、つまり日本での
神領として誕生した神である。とする見解になっている。つまりは、このエーゲ海にも
そうしたペルシア起源の神ミトラス(Mithras)を祭神とする密儀宗教が押し寄せて来た
と考えられる。ミトラス教は古代のインド・イランに共通する太陽神ミスラ(ミトラ)
神の信仰であったが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後に、形を変
えたものと考えられる。つまり、牡牛を屠る事は同じだが、背羽根はマントを羽織って
いる、古いミトラス神は、イラン、インドの両地域において重要な神で、特に『リグ・
ヴェーダ』においてはアーディティヤ神群の一柱で、魔術的なヴァルナ神と対をなす者
で、契約・約束の神だった。

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24/04/18 23:11:38.48 GXJHO7mOB


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24/04/20 00:44:07.35 w/5Gru6ED
 太古の空・・・・45

 アーリア人においてこの神への誓いが、ヒッタイトとミタンニとの間で交わされた、
条約文に、ヴァルナ、インドラ、アシュヴィン双神といった神々とともにミスラの名前
が挙げられている事で、契約や約束を果たす神として存在していた。と推測されている
。ミトラス教に関する最古の記録はプルタルコスの「ポンペイウス伝」で、ミトラス教
は、キリキアの「海賊たちが信仰した密儀宗教」の中でも特に重要なものだったと言う
。海賊たちは、ミトリダテス6世を支援し、広範囲にわたって海賊行為を働いた。この
ため、前67年、ポンペイウスによって掃討された。いずれにしろ、ゾロアスター教が、
広く大きく浸透していたアケメネス朝ペルシアから、それまでアフラ・マズダーの信仰
だけが認められていた中で、紀元前5世紀頃のアルタクセルクセス2世がミスラ信仰を
公に許可して起こった物が、フラワシの文様のヘレニズム仕様への変化であったろう。
。さらにゾロアスター教がサーサーン朝ペルシア(226年~651年)の国教となると英雄
神、太陽神として、更に広く信仰された。なのでフラワシ起源とも考えていいだろう。
こうした事で溶岩からなる迷路の洞窟を持つ島々が幾つかあって、そこで祀られる密教
があっても、不思議ではない。又、テセウスは王女アリアドネから、糸鞠を貰い活躍し
そこで、アリアドネを連れてクレタ島を旅立ったが、途中で立ち寄った ナクソス島に
アリアドネを置き去りにした。アテナイの王位についてからは、アッティカを統一して
国家の基礎を固めたが、のちに王位から追放されると、スキロス島に亡命、この地の王
に殺された。スキロス島は恐らくキプロス島で間違いない。ミトラス教の太陽神ミスラ
(ミトラ)は、交易上に於いての重要な神で、更にこうした交易が船に変わると、海神
ポセイドンまで産んだのだろう。

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24/04/20 00:52:02.79 w/5Gru6ED
 太古の空・・・・46

 キプロス島(キプロスとう)は、東地中海の、シリア・アナトリア半島の沿岸にある
島である。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで、地中海上の3番目になる
大きな島である。島にはイギリス、キプロス共和国、北キプロス・トルコ共和国の主権
を持った国の領土がある珍しい3分割領地島だ。島の中に3ヶ国の国境がある島は世界
でボルネオ島とキプロス島だけである。まあ二分割が多々あって、ハイチとドミニカが
あるので、あってもおかしくはないのだが。キプロス島には、先史時代から文明があっ
たと考えられている。地中海貿易の中継点として栄えて、ペルシャ、ギリシア、ローマ
など、時代が変遷しても、常に強大な国家の支配下に置かれた。東西ローマ帝国分裂後
は東ローマ帝国に属したが、1191年に、第3回十字軍に参加したイングランドの、リチ
ャード獅子心王に占領され、その後テンプル騎士団に譲渡された。中央から南西にかけ
ては山がちで、最高峰オリンポス山(1,952m)のあるトロードス山脈が広がる。北部に
は海岸沿いに、幅が狭く急峻なキレニア山脈(ペンタダクテュロス山脈)が伸び、その
北東の延長には小アジアに向かって細く伸びるカルパス半島がある。その最先端にアポ
ストロス・アンドレアス岬がある。古くから、このトルコとシリア・レバノンやエジブ
トの3方に囲まれながら、海上の島であった事で、欧州勢も参加する、大きな戦略拠点
として機能する。すなわち、四方八方から侵略される海路の航行の要害地であったのだ
。しかしここには、そうした経過から、 似非科学(えせかがく)や 偽科学(にせかが
く)の中の、オカルト科学も多く交差した。ただ、この要害地を護っていた居たのは、
エジプトのファラ王と同じに、有名な巨人伝説の島でもあった。巨人がいたイタリアは
多くの伝説と遺骨が発見されていたが、歴史の中で拒否され続け、現代では、この島に
に逃げて来て、この島にのみ残ったようだ。

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24/04/20 00:55:05.67 w/5Gru6ED
 太古の空・・・・47

 ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の第9歌に登場するキュクロープス族は、神
と言う高次元的存在としてのキュクロープスとは大きく異なり、旅人を食らうただ粗暴
なだけの怪物で描かれた。ポセイドン神を父に持つポリュペーモスも含めて、そうであ
った。イオーニア人・アカイア人・ドーリア人という、第3派ギリシア人より前の時代
のペロポネーソス半島での、ミュケーナイ(ミケーネ)、ティーリュンス、アルゴスと
言う半島域に代表されるミュケーナイ文明が栄えていた。そしてそれらは、巨石によっ
て城砦や建造物物その他を築き上げるものであった。遅れてこの地に入り定着しただろ
う大陸文化を持った、第3派のギリシア人達は、先人が残した大掛かりな巨石建造物の
数々を見るにつけ、これらを、巨人キュクロープスの手になるものと考え、「キュクロ
ープスの石造物」と呼び、怪物の街と倣わすようになった。これは英国ストーンヘンジ
に代表されるように、奇怪なストーンサークルやヨーロッパ各地のメンヒル、ドルメン
といった、欧州の巨石記念物が、いまだに神秘的に見られ、巨人の遺した物と考えられ
たのに似ている。キュクロープスは、ギリシア神話で登場する姿は、卓越した鍛冶技術
を持つ単眼の巨人であり、下級神である一族である。あるいは、これを下敷き及びベー
スとして後世に誕生した伝説の生物である。天空神ウーラノスと大地母神ガイアの息子
たちで、アルゲース(暗闇雲)、ステロペース(稲妻光)、ブロンテース(雷鳴音)の
3兄弟から構成される神である。彼らは父神に嫌われ、兄弟族のヘカトンケイル(巨人
)族とともにタルタロス(奈落・冥界)の谷へ落とされた。弟族のティーターン神の1
人クロノス(一つ目怪人・鍛冶の神)が政権を握ったあとも、久しく拘禁されたままで
あった。しかし、ティーターノマキアー(世代交代革命)の時に、ゼウスらによって、
解放されたと言う神話になっている。

57:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/20 00:56:27.30 w/5Gru6ED
 太古の空・・・・48

 クロノスは元来ギリシア神話で農耕の神で、巨神族ティーターンの長であり、ウーラ
ノスの次に全宇宙を統べた二番目の神々の王でもあった。アダマスの鎌を武器とし、ウ
ーラノスの男根を切り、そこから美の女神、ビーナスが産まれている。だがこれは皮肉
な事に、石器や青銅器から 硬い鉄器や鋼鉄器の登場の歴史で、一つ目の巨人というの
は、恐らく片目の眼帯か若しくは鍛冶屋用に、何かしらのゴーグルを付けて、作業した
民を示したものであろう。こうした産業の発展は、恐らく海洋国家にとっては、海産物
で暮らしていた小人族には、大きな迷惑なことであったろう。ティーターン族とは単な
る変革を起した10部族と言う名称であろうが、時間の神クロノスと発音が近いため、
混同されることがあるが、別の神である。とするのは間違いで、クロノスとは時間が作
った科学技術の発展と脅威を意味した。と解するべきだ。すなわち、この鉄器文化が、
大陸文化の、ヒッタイトなどが伝承した剣の製鉄技術では無かったかと思う。ヒッタイ
トと言う名も部族の名でなく、ヒットとタイトを掛け合わせた、今瞬間(タイト)の、
強大(ヒット)な部族の意味であろう。そもそもが、こうした民族こそ、ゲルマン=遊
牧のゲル生活のマン=男達の圧迫だったに違いない。草原のテントや毛布生活から見れ
ば、海岸での洞穴生活は、宮殿こそないが、大きく快適だったに違いない。そもそもが
、魚釣って貝をほじくる生活と、草原で馬を駆りて放牧する生活では、体力や体格には
、大きな違いが出る。農耕がでるまでは、恐らく小人と巨人との世界観があった可能性
は高い。巨神族つまり、巨人の伝説や骨は、かなりの場所に出ている。ギガース、複数
形のギガンテスで巨人族として言及され、日本語で省略してギガスとも呼ばれる一族は
、ゼウスの支配を終わらせようと、山々すら簡単に投げ飛ばす怪力を武器に、大軍で、
オリュンポスの神々に戦いを挑んで戦功を立てている。

58:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/20 01:27:18.09 w/5Gru6ED
 太古の空・・・・49

 巨人は、しばしば神話には登場するが、その多くはフィックションである。と考えら
れている。そうした傾向にあるのは多くの方が感じている。しかし、珍腐なキリスト教
が伝播され布教されて跋扈すると、真実は隠され消されて行った。しかし、そうした教
義によって否定する聖書さえも ネフュりムを記述する。旧約聖書の「創世記」「民数
記」そして、外典の「ヨベル書」と「エノク書」である。しかしながら、過去には実際
に巨人が実在したと思わせる骨や遺跡が、どこでも、多数見つかっている。という報告
すらある。が、もしこれが本当なら、それはまさしく巨人が実在したことになる決定的
な証拠になるが、なぜかそれが公にニュースになったりはしない。それは巨人が恐怖で
あるからだが、実際には、巨人の骨や体の一部が、アメリカ、ブルガリア、エクアドル
、エジプトなど、世界の様々な場所で見つかっていて、巨人が使った物品や足跡や巨人
を祀るとされる遺跡のようなものも発見されている。さしずめ日本の須佐男神文化も、
同じである。スサをまとった男の神。それは普通の服が合わなかったからに違いない。
海外でも、例えば、1909年に、アメリカ合衆国南西部とメキシコ北部を流れるコロラド
川の途中で、1.6kmにもわたり続く洞窟が発見されて、中には、様々な武器や道具、
像などが残っており、象形文字のようなものが刻まれている 石板まで保存されていた
遺跡があることが分かった。ということが、アリゾナガゼット紙によって報じられてい
る。その中には、なんと体長 2.7mにもなるミイラがあった。とも報じられています。
それらが今どこに保存され、その調査がスミソニアン博物館に全て運ばれ、熱狂的清教
徒信者の博物館長や館員によって、焼却廃棄されたのである。つまり聖書の中での悪魔
であったからだ。また、同じくアメリカのウィスコンシン州にあるデラヴァン湖から、
体長3m近い巨人の骨が、合計で18体分も見つかり、またこの地域では、その後も何体
かの巨大な人骨のようなものが発見された。と報じられています。最初に見つかった骨
は、ニューヨークタイムズでも紹介されたほどです。これらも同じ様に、決して出てこ
ない。

59:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
24/04/20 01:39:31.32 w/5Gru6ED
 太古の空・・・・50

 現在、日本の成人男性の平均身長は現時点で 約167cmと言われている。栄養状態の
悪い江戸時代は140~150cm程度だったとも言われる。海外で2m近い西洋人よりは、
50cmも低かったので、ガリバー旅行記にある小人の国は、マルコポーロ伝説の、日本
だったとも言われる。翻って世界でこれまでに、実際に確認されている人類の中で、最
も高身長だったのは、1940年に亡くなった「ロバート・ワドロー」という人物で、写真
も残っている。ロバート・ワドロー氏は、亡くなった時の身長はなんと驚異の 272cm
であり、細身でありながらも、その体重は 200kgもあった。横にいる女性と比べると、
彼が、いかに大きいか、140cm前後の女性なら、ほぼ 倍の身長なのである。しかし、
実は、医学的には巨人族ではなく、彼は脳下垂体腫瘍の為に、病気の影響によって成長
ホルモンの、過剰分泌が起こり、画像のような巨人へと成長してしまった。と考えられ
ている。しかし、理由はどうであれ、DNA研究からも、人類は稀にそのようなサイズ
まで成長することができる種を創れる。ということは、過去にそのような巨大なサイズ
に成長した人類も、恐らくは「いた」ということを示す1つの証拠と言えるのではない
か。と言われる。また、もっと興味深いのは、現時点で最も大きい赤ちゃんとしての、
ギネス認定を受けている、インド在住のカラン君です。彼は、生まれた時に、既にその
体重は7800gもあり、なんと8歳に成長したころにはその身長は驚異の198cmにまでも
成長していた。また、彼の母親も、その身長は218cmもあり、父親も198cmある。つまり
、カラン君の場合は、何らかの病気による影響ではなく、まさに遺伝的にそのような大
きな体へと成長した部族だった。と言えるのである。そして、現代にさえも、このよう
な遺伝的に巨人と言えるようなサイズに成長できる人物がいるのであれば、ヒトの中の
約600万年の歴史の中で、そのような 巨大な一族が存在していたとしても、何ら不思議
なことではない。本当に身長が5m以上もあるような人間がいたとは思わないが3m級
の部族は、いたとしてもおかしくない。

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24/04/20 01:40:41.35 w/5Gru6ED
 閑話休題・・・・一休み 一休み

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24/04/20 01:41:58.80 w/5Gru6ED
 『ガルガンチュワとパンタグリュエル、:Gargantua, Pantagruel)』は、フランス
・ルネサンス期の、人文主義者フランソワ・ラブレー(Francois Rabelais)が著した
物語『ガルガンチュワ物語』『パンタグリュエル物語』のことである。不思議な事に、
この物語は、ガルガンチュワ、パンタグリュエルという、巨人の一族を巡る物語である
。第二之書・第一之書は、アルコフリ バス・ナジエ(Alcofribas Nasier)という筆名
(ラブレーのアナグラム)で、第三之書以降では、本名で刊行している。1532~1552年
に第4巻までも、出版される売れ行きの良い本だった。ラブレーの死後に、第5巻が、
刊行されたのだが、これは死後だった為に、偽書説もある。

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24/04/20 01:42:31.56 w/5Gru6ED
                           『ガルガンチュワ物語』の
(第一之書)、La vie tres horrifique du grand Gargantua, pere de Pantagruel(
パンタグリュエルの父、ガルガンチュワのおそろしい生涯)1534年(1535年?)出版。
は、ガルガンチュワの出生、少年時代から始まっている。隣国の暴君ピクロコール王と
戦争になるが、修道士ジャンの大活躍で勝利を収めた。ジャンの希望で建てられたのが
、「テレームの僧院」であった。この「テレームの僧院」を描いた部分は、一種のユー
トピア物語になっている。僧院には、教養豊かな男女のみが入ることができ、唯一の、
規律は「汝の欲するところを行え。」と言う、戒律であったのだ。『パンタグリュエル
物語』(第二之書)Horribles et epouvantables Faits et Prouesses du tres renomme
 Pantagruel 1532年(?)出版。は、当時ではベストセラーになっていた 著者不明の
『ガルガンチュワ年代記』(1532年)をヒントに書いたもの。とされる。パンタグリュ
エルは、元々中世の聖史劇に、数多く登場する小悪魔であった。が、これを、ガルガン
チュワの子供という設定で書かれている。つまり巨人パンタグリュエルの出生から始ま
る物語である。パンタグリュエルは、ポワチエ、オルレアン、パリなどで学業を積み、
困難な訴訟を解決する。などして名声を得た。が、ある日、パニュルジュという奇妙な
男に出会い、家臣にした。パニュルジュはトルコ人に捕まって、火あぶりの刑にされそ
うになったが、かろうじて逃げてきたのだった。ディプソード人がユートピア国に侵入
したと聞き、パンタグリュエルと家臣たち一行は征伐に出かける。と言ったストーリで
ある


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