安倍さんが撃たれた瞬間に薄れゆく意識の中で思っていたであろうことat POVERTY
安倍さんが撃たれた瞬間に薄れゆく意識の中で思っていたであろうこと - 暇つぶし2ch67:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/21 15:59:31.97 364pgCpWn
 この二つの物語中は、開戦直後、日本の陸海軍がフィリピンを攻撃。『次の一戦』で
は、三十余隻の運送船に乗った約十二万人の日本陸軍が、リンガエン湾とラモン湾に、
上陸。「日米未来戦」では、三十余隻の運送船に乗った陸軍約十万人が、マニラより、
七里の地点に上陸するという設定になっている。フィリピン駐留の米国陸海軍は、オロ
ンガポー軍港に篭って、援軍を待つ作戦をとる。軍港が陸上からの攻撃で、陥落寸前に
なった中で、米国艦隊は出撃し、沖合いで待ち受ける日本艦隊と戦って、全滅する。と
いうストーリーである。けれども、日本艦隊の損害も大きく、この戦いの直後、ハワイ
から駆け付ける米国増援艦隊と遭遇。日米の勝敗を分ける決戦が行われることになる。
ストーリーの大枠が、同じであるのに加え、日本軍の輸送船の数や、上陸軍の数に至る
処までが酷似している。相違しているのは、勝敗の行方である。『次の一戦』には日本
艦隊は、米国増援艦隊との会戦に敗れた後、沖縄近海で追撃を受けて全滅する。「日米
未来戦」では、日米両艦隊は相打ち状態となって共に全滅。米国大西洋艦隊が太平洋に
進出してくると、日本の敗北が決定的となるが、日本の国家とは別に南洋の孤島に基地
を構える秘密結社の潜行艇隊が活躍して事なきを得る。まあ日米戦勃発とすれば、フィ
リピン攻略戦が当面の焦点となることは当然の論理的帰結であったし『次の一戦』自体
が『日米戦争』の影響下に書かれ、先に述べた様に想定が一致するのは当然と言えば、
当然でもあった。ただ、両者の類似点は戦局の大略のみならず、個々の戦闘の 想定に
まで渡っているのである。細部の描写までそっくりな一節もあって「日米未来戦」が、
『次の一戦』を下敷きにしていることは明白な事実であるのだが、古来より、ネタ本が
あって書かれる事は 常識でもあったので、驚く事ではない。

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23/08/21 16:42:20.73 364pgCpWn
 『日米戦争』は小説ではなくノンフィクションの未来予測である。原著者は米国人で
あり、孫文によって〈将軍〉に任命されていた。当時、孫文政権はまだ成立していなか
ったので、名目のみの将軍であった。訳者の池亨吉は孫文から翻訳の許可を得ている。
それはホーマー・リーが中国革命に役立てるため、孫文に翻訳権を譲ったからである。
もっとも、厳密に言えば、同じ年に出た望月小太郎訳『日米必戦論』(復刻版一九八二
年四月一〇日 原書房)の方が、早い時期の翻訳である。ただ、これは陸軍部外秘なの
で、広く一般に与えた影響という点では『日米戦争』に遥かに及ばない。この内容は、
日米戦争が勃発し、陸海軍ともに弱体な米軍は連戦連敗。ついに日本陸軍が米国西海岸
に上陸し、この地を占領するという荒唐無稽なものである。こうした敗戦を描くことに
よって米国の軍備の不足に警鐘を打ち鳴らし、陸海軍の増強を説いていたのである。「
日米未来戦」が『次の一戦』の直接の影響下に書かれたとは、直ちに即断とはできまい
が、しかし、物語内容は、お手本としている事は読み取れる。まず、日本駆逐艦隊が、
オロンガポー軍港に突入する場面である。『次の一戦』では二度にわたって駆逐艦隊が
港内に突入する。第一次攻撃は駆逐艦〈桜〉〈橘〉〈楓〉の三隻が夜間攻撃をかけ、隙
をついて〈桂〉〈椿〉〈紅葉〉の三隻が港内に突入。退却の際、航行不能となったて、
〈桂〉を〈紅葉〉が救援し、〈桂〉の乗員を移乗させるが、自艦も攻撃を受けて沈没す
る。第二次突入では八隻の駆逐艦が夜間攻撃をかけ、三隻が港内突入に成功するが、内
の二隻は退却不能となる。二隻は海岸に乗り上げ、乗員百余名は陸戦隊となって上陸。
陸戦隊は米陸軍を背後から奇襲し、要塞は陥落する。「日米未来戦」における港内突入
は一回のみであるが、八駆逐艦が夜間攻撃を敢行。〈桜〉〈橘〉は針路を誤り浅瀬に乗
り上げるが、残り六隻は港内突入に成功する。退却に航行不能となった〈桂〉を〈楓〉
が救援。〈楓〉は〈桂〉の乗員を移乗させて、無事に退却する。一方、〈桜〉〈橘〉の
乗員百数十名は陸戦隊となって上陸。陸戦隊はS砲台を占領するが、米軍の反撃にあっ
て全滅する。

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23/08/21 16:42:46.73 364pgCpWn
 宮崎一雨の「日米未来戦」の連載は、ワシントン海軍軍備制限条約(主力艦の保有を
制限)の、締結交渉と ほぼ同時進行でなされている。単行本版の「凡例」に、「本篇
は華府会議に我が加藤全権以下がまだ横浜を出発しない前の大正十年十月一日筆を執り
同十日に脱稿したもので、従つて華府会議がどう決着が付くか分らぬ時の作品である。
只今とは自ら事情の異つてゐる点も尠くない。」と、わざわざ一雨自身が書いている。
また、これに続けて「前条の次第ゆゑ、著者は取敢へず我が軍艦は戦艦に於て、加賀、
土佐、巡洋戦艦に於て高雄、愛宕まで完成したもの。と。仮定して筆を執つた。本篇を
雑誌少年倶楽部に連載中、某艦乗組の一軍人は、わざわざ書を寄せて、何故戦艦は長門
以下の十六吋備砲のものばかりにしなかったか、扶桑級の十四吋を加へては、戦闘上、
不利であるとの、注意までがあった、併し 長門以下に仮定すれば、紀伊、尾張を加へ
ても、以下の第十一号第十二号は、まだ命名以前であるから、やるとすれば出鱈目の名
を付けねばならぬ、それ故に、扶桑以下にしたのであったのだ。米艦亦之れに準じた」
とも、記している。このように、執筆当時の日米海軍に実在する艦艇どうしを戦わせる
ところに特徴があった。それは、日米未来戦ものの執筆動機が、日本の海軍力が劣勢で
あることを広く知らしめて、ワシントン海軍軍備制限条約に、大きく反対することに、
主眼があったからだ。単行本版の「序」に「本書を読まれる少年諸君は、宜しく篇中の
局部々々を 熟読せられたい。決して軍備拡張は主張してゐない、戦争謳歌はしてゐな
い、爾も併しながら、此一篇を公けにしないわけに行かない理由を発見される事であら
う。」と、いわずもがなの注釈を加えていることから、このことは明らかである。だか
ら、戦争の原因などイデオロギー的な観点を殆ど無視し、ひたすら日米間の戦闘の状況
、特に海戦の状況を書き表すことに力を入れている。主力艦(戦艦・巡洋戦艦)どうし
の砲戦に固執するのもこうしたことに理由があった。

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23/08/21 16:43:08.70 364pgCpWn
 しかしして、ここに実は、大きな矛盾点がある。つまり、宮崎一雨の物語中では弱体
な日本海軍は、文中で大いに苦戦しているが、最後には勝利を収めることになっている
のだ。「日米未来戦」では、新兵器(秘密結社の潜航艇隊)を登場させ、「日米大決戦
」では、巡洋艦に 戦艦用の巨砲を装備するという空想的な方法で、戦局を一気に逆転
させた。曰く「阿武天風の『太陽は勝てり』でも〈空中軍艦〉〈爆撃式駆逐機〉〈猛毒
バクテリヤ〉〈潜航熱射艦〉〈サクラホーン〉」といった数々の空想の新兵器が日本軍
の制式装備となっていて、大艦巨砲にこだわらない設定になっているのだ。天風に続い
て書かれた平田晋策の「昭和遊撃隊」で飛行潜水艦〈富士〉〈フーラーガス〉ほかの、
新兵器が登場し、航空機を主体とした戦術をとっていることに先行している。このよう
に、海軍力が圧倒的に不利である。にもかかわらずに、空想上の新兵器の登場によって
戦局は一挙に覆されるストーリで国民を沸かせている。それは、子ども向けの読物であ
る限り、たとえ未来戦であっても、「日本の敗戦」というストーリーを受け入れる土壌
がなかったからだ。と、思われるし、軍部の検閲を通す為であったのだろう。こうした
《教育的配慮》の重圧下にあることが、大衆的児童文学の特質であった。一部には、「
おい、日本は敗けたぞ」彼はいった。「敗けるもんか、潜水艦富士がいるじゃないか」
私は云った。「だって、敗けたんだ」彼は云った。「じゃ、富士はどうしたんだ」……
と『少年小説の系譜』で、著者の二上が、少年時代の実体験を語った一節を描くのだが
。戦えば必ず勝つという建て前が、子どもたちの精神形成に与えた影響は大きかった。
しかし、最終的に日本海軍が敗戦するというシナリオにまで踏み込まない限り、海軍力
の劣勢を説く作者の主張と矛盾することになってしまう。圧倒的に有利な新兵器がある
のならば、海軍力の増強など不必要だからである。だから、日本の海軍力の弱体ぶりを
強調するのであれば、日本の敗戦を描かねばならない。水野広徳やホーマー・リーらの
海外作品が、ともに自国の敗戦を描いているのは、こうした理由からである。

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23/08/21 16:43:41.14 364pgCpWn
 けれども、「太陽は勝てり」の場合、日本が連戦連勝を重ねる理由は、これら新兵器
の力ばかりではないようにある。すなわち、天風が描くところの日本には〈大義名分〉
があると強調する。支那の統一と、米英による干渉の排除、アジア・中東における植民
地の独立に〈本気〉で取り組むことにより、中国・インドをはじめとするアジア諸国と
同盟関係を結ぶ。日・中・印・露・独は 同盟を結んで米・英に対抗し、戦域はアジア
から中東・欧州へも拡大。中立国(伊・仏)も、複雑な動きを見せる。事の善悪は別と
して、ここに、明確な世界戦略がある。そもそも、数々の新兵器を発明した〈万有科学
研究所〉の主だった研究員の国籍が、日・独・露にわたっていることは象徴的である。
 ほかにも、パプチャップの、蒙古統一・清朝復活の運動、チラクのインド独立の運動
などを、巧みに取り入れた、時流の流行りを入れて作品作りしている。天風はパプチャ
ップが、最後の挙兵をした一九一六年に大陸へ旅行して会見しよう。と試みて。作品中
で、パプチャップの息子が清朝王室の血をひく蘭月公主と結婚するエピソードを、全体
のストーリーと関係なく長々と書いている。パプチャップの息子のモデルは、カンジュ
ルジャップ、蘭月公主のモデルは川島芳子で、このエピソードは二人が実際に結婚する
より前の執筆であったので良くとらえている。このように、「太陽は勝てり」の中には
、天風の政治的願望が色濃く反映し、極度に政治的な読物に仕上げられている。なお、
複雑な国際政治の動きをからませて日米戦争を描くという発想は、先に挙げた樋口麗陽
の作品にも共通するものがある。しかし、これらは、直接の影響を受けたというよりは
、「冒険世界」の主筆として 長年にわたり青少年にむけた執筆・編集に携わってきた
天風の経験、すなわち子どもというよりさらに上の年齢の読者を対象としてきた経験に
由来するのかもしれない。

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23/08/21 16:53:50.03 364pgCpWn
 また、ハルピンにおける「西伯利新聞」の経営など、天風の大陸での政治的活動も、
反映している。と思われる。詳細は不明だが、天風の亡兄も大陸で新聞を経営するなど
して、政治活動に携わっていた。という事なのだろう。子どもにもわかりやすく単純化
して、国際政治の動向を語ろうと試みたことは、きわめてユニークな試みでもあった。
以上のように、「太陽は勝てり」は、海軍力の削減・制限に反対という特定の政治的・
軍事的課題にのみ固執するのではなく、自らの世界戦略の実現のために、軍事・政治・
経済・科学など あらゆる力を動員する物語であった。というところに 特徴がある。
海軍力の削減・制限に反対という特定の政治的・軍事的課題に拘泥していると、新兵器
の、過度の活躍は 自己の主張に矛盾をきたしてしまう。「太陽は勝てり」の場合は、
こうしたことにこだわらず、明快な世界戦略のもとにあらゆる力を動員して対英米戦争
に勝利することを企図している。つまり挙国一致の総動員令の先を行く物語となってい
た。一雨の場合も「日米大戦」になると「日米未来戦」になかった世界戦略が見られる
ようになったが、到底「太陽は勝てり」の比ではない。このようにして、「太陽は勝て
り」は、物語を自由に展開することが可能になり、SF軍事冒険小説の秀作となったの
である。時流とはいえ TVはおろかラジオすら 全家庭に届かない時代に、各雑誌や
新聞やらの、少年冒険漫談記は、恐らくは興奮させて止まない 大ヒットの作品群で、
おおきな思想的戦争気運を 人びとに与えていたであろう。理由もなく、戦勝ムードで
強い国のイメージと、やがては戦争に踏み込む事を暗示させ、スムーズな戦時体制移行
の呼び水的な、言わば会議の案内や説明書的な役割を与えていたに違いない。今日的に
「ゆとり教育」など腑抜けの様なスローガンを言う事で、国民の人気を得る行為に及ん
だ現代政治家群は、各国が血みどろになって頑張っている中で、世界に出て行くのを億
する若者を見るのは、これを読めば当然なのである。

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23/08/22 09:49:44.82 dT7ctmo1P
 1941年の開戦直後に「大東亜戦争」が閣議決定された。日本と中国の対立と、それに
よる満洲をめぐる国境紛争により発生した日中の紛争(支那事変)は、予想外の総力戦
となって行く。結果、泥沼化し、解決のめどが立たなくなっていたのだ。そのため日本
は、南進を行い、中国国民党への物資の補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手する
ことで、日中戦争の解決を図った。ヴィシーフランスから許可を貰って進駐したものの
南進が欧米の反発を買うことは必至であったが、欧州諸国はナチス・ドイツの台頭と、
1939年9月に始まった 欧州での第二次世界大戦により東アジアに関与する余裕が乏し
くなっており、アメリカへの対策が問題となっていた。メロン財閥を築いたアンドリュ
ー・メロンの資産を元に、設立された私的財団で、原子爆弾の開発が検討されたのだが
、これを強行に推し進めたのは、クリントン財団の基礎的精神支柱の黒魔術会であった
。今でこそ放射能の有害さやラジューム(ラドン)温泉の有用さが説かれるが、当時には
そうした知識は無かった。ユニオン・ミニエール・デュ・オー・カタンガ社は、かつて
唯一のベルギー植民地であった、ベルギー領コンゴ(コンゴ民主共和国)のカタンガ州
の鉱業権を独占した鉱山会社である。カタンガに巨大な企業帝国を築き上げ、「ベルギ
ー領コンゴにはユニオン・ミニエールというもう一つの帝国がある」といわれた程だ。
カタンガの工業資源開発に、当時のソシエテ・ジェネラルの出資を得て1906年10月28日
に設立された。カタンガの銅は、地元民が手近な含有量の高い鉱石を採りつくしていた
。ところが、調査によって、浮遊選鉱を前提として莫大な資源が眠っていると分かり、
選鉱に地元民を雇い、ユニオン・ミニエールは1990年までの、カタンガ独占鉱業権を、
手にして採掘していった。1911年、鉄道が開通し、カタンガ資源の大量輸出が可能にな
る。最初の年に997トンの銅鉱石が産出され、1919年には22000トンに達した。

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23/08/22 09:50:09.44 dT7ctmo1P
 1929年、ユニオン・ミニエール出資のベンゲラ鉄道が全通し、アンゴラのロビト港か
らより安価での輸出が可能になった。1852年の少額株式受付にフランスに作られたソシ
エテ・ジェネラルだったが、ロスチャイルド家を基軸とする同シンジケート団の後押し
で商業銀行として大成した。ベンゲラ鉄道は、アンゴラの大西洋岸にある港町ロビトと
コンゴ民主共和国のルアラバ州を結ぶ鉄道で全長1,344km、軌間 1067mmの狭軌である。
カッパーベルトと海を結び、ザンビアやコンゴ民主共和国の重要な輸出経路となってい
たが、アンゴラ内戦により破壊され、運行停止に追い込まれた。21世紀に入ると中国の
援助により復旧を果たした。20世紀初頭、カタンガでユニオン・ミニエール社の銅山の
開発を本格化した際、銅を輸出するための最短経路として計画された。1902年に着工し
、1929年全通。以降運行を続けていたが、1975年にアンゴラ内戦が勃発するとアンゴラ
解放人民運動(MPLA)、アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) による攻撃を受け、各地で
線路が寸断。全線で運転休止となった。ユニオン・ミニエール社はかつて存在した鉱山
会社で、本社はベルギーにあった。ベルギー・イギリス合弁により設立され、非鉄金属
、特に銅及びコバルトにおいて圧倒的なシェアを占めた。現在ではユミコア社となった
コンゴ南部のカタンガ地方は、銅などの鉱産資源が豊富で、この銅で、十字の形の銅貨
が使われた。一つが1Kgもある大きなものです。 ハンダ(Handa)と呼ばれる
こともありますが、ヨーロッパ人からはその独特の形状から、「カタンガ・クロス」と
呼ばれていた。 この形状については諸説ありますが、何本もの銅貨をひもで縛るのに
便利だという説があります。起源は13世紀のお墓の副葬品にさかのぼります。 その
ころは富や権威の象徴として使われてた。16世紀頃、アンゴラ経由でヨーロッパ輸出
18世紀に、この地で栄で栄えたルンダ帝国の賃金や税金として使われた。19世紀に
、アラブの商人たちが、ケニヤ経由での東アフリカ貿易で使うようになった。

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23/08/22 09:51:56.46 dT7ctmo1P
ベンゲラ鉄道

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23/08/22 09:58:09.49 dT7ctmo1P
 19世紀後半になると、この変な銅貨は、日常生活でも使われるようになりました。
カタンガ・クロス1個は、小麦粉10Kg,ニワトリ5~6羽、斧6つ、布2反、ゴム
4Kgなどの価値がありました。 また、ヨーロッパから来た銃はカタンガ・クロス2
つと交換できました。20世紀初頭まで、貨幣として盛んに使われた。1960年、ベルギ
ー領コンゴが解体され、コンゴ共和国が独立国家として建国宣言した。しかしながら、
この新国家は成立直後から難局に直面する。同年7月にモイーズ・チョンベが、国家の
収入の半分を占める裕福な地域、カタンガの分離独立を宣言したのだ。一つの国として
独立しようとしたとき、裕福なカタンガ地方は、それに従わなかった。こうして独自の
「カタンガ共和国」を名乗り独立した。彼らは、国旗や通貨に、カタンガ・クロスを描
き、それを認めない旧勢力政府勢力との、争いとなり、コンゴ内戦と呼ばれた。コンゴ
動乱である。ベルギー、ソ連、キューバなどが、この豊かな地下資源にからんで、この
動乱に関与した。1963年、国連の強い指導などで、ついに 屈服して、現在は、コンゴ
民主共和国のカタンガ州となりました。(一時「シャバ州」と呼ばれましたが、シャバ
は「銅」を意味するそうです。)当然の党にシンコロブエ鉱山はユニオン・ミニエール
社によって開発された銅鉱山で採掘し尽くされて閉山していた。2004年、ウランの盗掘
をきっかけとして国際的な注目を浴び、そこで記録を探ると、とんでもない物語がそこ
に隠されていた。つまり1960年代までは、世界有数のボタとして付着した高純度ウラン
の採掘鉱山だったのである。ユニオン・ミニエールにとっては廃棄に困って、処分先を
探しているところに、キュリー夫妻のエネルギー論文で、大きな爆発力がある事が知れ
て、イギリスやフランスが交渉に来る。ところがベルギー倉庫に送られた見本鉱物は、
ドイツの進軍で、ナチスに接収されてしまう。そこで慌てて残りのウランがアメリカに
移送された。

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23/08/22 10:28:30.45 dT7ctmo1P
 ドイツのオットー・ハーンとたリーゼ・マイトナーが、1938年ウランにおける核分裂
を報告し世界を驚かせた。1939年パリのコレージュ・ド・フランスの科学者の、フレデ
リック・ジョリオ=キュリーやハンス・フォン・ハルバン更に、レフ・コワルスキー、
フランシス・ペランらのグループは、ウランの核分裂を発表し、2つか以上の中性子が
必要で分裂反応が行われるとの発見は、連鎖反応の維持が可能であると言うことを示し
た。これは、即座に世界の科学者に、強力な爆弾「原子爆弾」が理論的に作成可能であ
ると連想させた。しかしほとんどの科学者は、爆弾は原理として不可能であると考える
。パリグループのフランシス・ペランは、連鎖反応を維持するために必要な最小限度の
ウランの量で「臨界量」を定義し、自然のウランは、核分裂により生じた高速中性子を
減速するための、減速材なしでは連鎖反応を維持することができないことも発見した。
からだ。1940年初めに、パリのグループは重水が理想的な減速材である。理論を固めた
。彼らはフランス軍需相に、ノルウェーのヴェモークにある大きな水力発電所からどれ
だけの重水を得ることが可能か問い合わせる。その時フランスで、ノルウェーの重水の
全在庫を、ドイツが購入する注文を行っていたことを発見した。これは、ドイツも原爆
の開発を行っていることを連想させる。フランスはノルウェーの政府に重水の潜在的な
軍事的重要性を説明し、ノルウェー政府は、全ての在庫を、フランスのFrench Secret
Service agent(フレンチシークレットサービスエージェント)に渡し、その組織はそれ
をイギリス経由でフランスに密輸される。これは、ドイツがノルウェーに侵攻する直前
の1940年4月のことであった。ところが、こうした、核爆弾の数量計算には、その頭脳
を頼ったのが、助手で研究室にいた数人の日本人科学者だったのだから驚く。寺田寅彦
・石原純・寺澤寛一・八木秀次・仁科芳雄はアインシュタインすらも一目置く研究者で
、特に正確さを必要とした実験策定用の概量計算では、仁科芳雄は世界一と言われた。

78:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 10:40:33.77 dT7ctmo1P
 しかし、1940年5月にはフランスも侵攻されたため、165クォートの重水とパリのグル
ープはイギリスのケンブリッジに渡った。ジョリオ=キュリーはフランスに残り、レジ
スタンス運動の熱心な活動家となってしまう。英国では、チューブ・アロイズという、
コードネームで最初の核兵開発プロジェクトを行っていた。「チューブ・アロイズ計画
Internally coded as “Tube Alloys”」.つまり、原爆開発計画を指していた。当時の
コードネームで立ち消えになったかに思われたが、実はその後、アメリカマンハッタン
計画に引き継がれていた。これを売り込んだのが、チャーチル自らであった。この引継
ぎに、「ケベック協定文書」が、取り交わし文書として残っている。表題は、アメリカ
合衆国及びイギリス当局者間における、チューブ・アロイズに関する統治協定。となっ
ている。この文書の内容によれば、このアメリカの原爆使用においては、イギリスの、
同意を条件とすると書いている、疑うのであればケベック協定を原文で読んでもらうし
かない。内容はそんなに長くなく、勢いで今のパソコンなら全文日本語翻訳できるだろ
う。協定中に出てくる、当時のコードネーム「 Internally coded as “Tube Alloys”
(チューブ・アロイズ:新合金計画)」は、この原爆開発計画を指している。核兵器の
、日本への使用には、イギリスの同意がいった理由は、第2条に規定されている内容と
なりうるからだった。協定の内容を読むと、相互の同意がなければ、核兵器の、第三国
への、使用も、技術流出もできない。と規定されている。しかし既にアメリカは戦時中
に超大国として残り。一方で、イギリスはアメリカと比べれ相対的に小国で、空襲を受
けて、独力での戦いは不可能だった。既にドイツに勝てない国であり、対独戦にすら、
勝つためには、欧州戦線不介入のモンロー主義思想の覆うアメリカに、何とか連合軍と
して参戦させるために、終始腐心していたのである。すなわち最終的には、何事もアメ
リカ頼みで、命運を預けるイギリスはイエスマンであり、とても日本のどうのこうのと
言える立場になかったのだ。

79:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 14:13:07.13 dT7ctmo1P
「ケベック協定文書」・・・1
[前文]
 最短の時期においてチューブ・アロイズ計画を、実現に導くことが、現下の戦争にお
ける我々共通の安全に不可欠である。すべての利用可能な、イギリス・アメリカの頭脳
及び資源が、投入されれば、本計画はより早期に実現できるであろう。戦争状況を鑑み
るに、大西洋の両側において 大規模な工場を重複して建設することは、戦争資源の、
軽率な使用である。その結果として、はるかに大きな費用がアメリカに発生している。
[本文]
アメリカとイギリスは、以下について合意する。
1.我々は決して本兵器を相互に対して使用しない
2.我々は、相互の同意なしに、本兵器を第三者に対して使用しない
3.我々は、相互の同意なしに、チューブ・アロイズに関する情報をやり取りしない
4.戦争努力の賢明な分担の結果としてアメリカに多大な開発負担が生じていることを
  考慮して、イギリス政府は、工業、又は商業における アメリカの戦後の優位性が
  、米国及英国間において、アメリカ大統領からイギリス首相に提示される条件に従
  い、為されることを認める。英国首相は、米国大統領により公平そして世界の経済
  福祉に調和・不調和を超えて工業及び 商業面での、利益をも明示的に放棄する。

80:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 14:13:38.89 dT7ctmo1P
「ケベック協定文書」・・・2
5.本プロジェクトの早期実現に向けて、2国間において完全かつ効果的な協力体制を
  確保するために以下の処置を実施する
(a)以下のメンバーで組織される統合政策委員会をワシントンに設置する
   The Secretary of War. (United States)
   Dr. Vannevar Bush. (United States)
   Dr. James B. Conant. (United States)
   Field-Marshal Sir John Dill, G.C.B., C.M.G., D.S.O. (United Kingdom)
   Colonel the Right Hon. J. J. Llewellin, C.B.E., M.C., M.P.
   (United Kingdom)
   The Honourable C. D. Howe. (Canada)
本委員会の機能は、各政府の管理に従うことを条件に、以下のとおりとする。
(1)2国において実施されるべきタスクプログラムについて都度合意する
(2)本計画のすべてのセクションについて常時継続的に監督する
(3)委員会において合意されたプログラム要求に従い、限られた供給の、素材・機器
   ・工場を配分する
(4)本合意書の解釈や適用に関して生じうる疑問について解決する

81:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 14:14:18.50 dT7ctmo1P
「ケベック協定文書」・・・3
(b)本政策委員会、及び委員会の、緊急テクニカルアドバイザー間において、本プロ
  ジェクトの全てのセクションにおける情報・アイデアの完全なる交換を実施する
(c)科学調査と開発の分野において、当該分野の同様のセクションに従事する2国間
  において、情報及びアイデアの完全なる効果的な交換を実施する
(d)大規模工場の設計・建設及び運営の分野において、情報・アイデアの交換は個別
  の合意によって統制する。なお、当該個別の合意は、本プロジェクトが最短の時期
  に実現されるべき状況である場合には、当該分野の各セクションにおいて必要かつ
  要請されるであろう。当該個別の合意は、本政策委員会の承認に従うものとする。


1943年8月19日
       承認者:フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル



 以上、チューブ・アロイズに関する米国と英国の当局間の協力を規定する協定条項

82:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 14:15:02.57 dT7ctmo1P
 ドイツが、イギリスを凌ぐ国になるには、海洋国家として、海運の覇権しかなかった
。イギリスが大英帝国のまま生き抜くには、アメリカを押さえ、フランスと組んで欧州
に東方からのウラル民族の進出を押さえる事が必要だった。此処で降って沸いた様な、
核エネルギーを持つ 銅鉱山のボタチの売買話がでた。ベルギーのユニオン・ミニエー
ルの高純度ウランの活用法の問い合わせである。フランスに作られたソシエテ・ジェネ
ラルは、ロスチャイルド家を基軸とする同シンジケート団である。産業育成とワンワー
ルド、つまり自由貿易を標榜するユダヤ商人だった。かれらのネットワーク情報は広域
で、ベルギーはおろか、フランス・ドイツ・英国・米国・ソ連・スエーデン・日本、と
瞬く間に広がっていた。ほぼ国の形や姿は変わっても、万物万象の取り合わせが違うだ
けで地政学的な、地域特性は何も変わる処はない。有史以来古代からの変わらぬ心情と
生活において、このロシアとウクライナの紛争を見るしかない様に、この米国の姿や、
行動は、どうしようもない物だった。マンハッタンステージには、ロスアラモスの他に
も、シカゴ大学冶金研究所や カリフォルニア大学、バークレー校など多くの施設が、
マンハッタン計画に参加し、米国以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加し
ている。またデュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクト
リックなど民間の大企業も参画し、協賛金も莫大であった。ナチスが先に核兵器を保有
することを 恐れたユダヤ人物理学者、レオ・シラードらは、1939年、同じ亡命ユダヤ
人のアインシュタインの署名を借り、ルーズベルト大統領に信書を送った。このことが
アメリカ政府の核開発への動きを促す最初のものとなった。と言われる。この「進言」
では、核連鎖反応が軍事に使用される可能性があり、核によって受ける被害の大きさも
、示唆された物だった。しかし、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与し
ておらず、また、その政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らさ
れていない。

83:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 20:22:41.62 7ZySMEz6o
 ルーズベルトは、国立標準局長官リーマン・ブリッグズに命じて「S1ウラン委員会」
を設けて、シラード提案の検討会を開いた。ブリッグズは1939年10月21日に、シラード
、ユージン・ウィグナーとエドワード・テラーとの初めての会合、シラード委員会開く
事にした。11月01日に、諮問委員会は、大統領宛の報告書で、潜水艦の動力源としての
核分裂反応の調査を開始することを報告した。しかし、「もしその(ウランの)反応が
爆発性のものならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破壊力をもった爆弾
になろう。」と、付け加えた。この計画に対しては多額の資金(当時の額面で19億ドル
)が投入された。この核開発や実験にはコード名が必要とされ、ロスアラモス研究所長
のロバート・オッペンハイマーが「トリニティ」という名を選択した。一般にキリスト
教における「三位一体」を意味するが、その名称の、正確な由来は不明だ。キリスト教
教義での三位一体説では、神・キリスト・聖霊を一体と見ることである。即ち、祈りと
言葉と習慣の一体である。とりわけ科学で言えば、論理と実験実証と現実使用という事
で、こうした3態の完遂であったのだろう。2004年3月、コンゴ政府が首都のキンシャ
サで 100kgにも達する大量のイエローケーキ(ウラン鉱石を粗精錬したウラン精鉱)を
押収した。2004年、シンコロブエ鉱山にて落盤事故が発生。8名の死傷者を出したこと
がきっかけで、同鉱山にてウランが採掘されていたことが露呈する。コンゴ政府は立ち
入り禁止を決定、直ぐに国連環境計画、国際連合人道問題調整事務所により調査団が、
結成されて、世界保健機関、国際原子力機関、国際連合コンゴ民主共和国ミッション、
などの専門家が参加した。鉱山労働者は、最盛期で1万人以上が稼働していたもの。と
推定された。彼らのほとんどが、原始的で危険な方法で採掘に従事していたことから、
被曝症状を含めた健康被害が確認されたという。同鉱山で採掘されたウランについては
量、納入先とも不明であり、相当量が核の闇市場に流れたものと推定されている。

84:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 20:24:57.55 7ZySMEz6o
 ユニオン・ミニエール社が ベルギーに送ったウランのドラム缶がある。未公開資料
が彼の母国・ベルギーの国立公文書館に眠っていた。資料を残していたのは、ベルギー
最大の財閥系鉱山会社「ユニオン・ミニエール」の大幹部だった人物で、エドガー・サ
ンジエ。ウラン鉱石の代表代理人である。サンジエが、ウランと出会ったのは、原爆が
開発される20年以上も前のことだ。「コンゴでのウランの発見は、私たちには興味深い
驚きを与えてくれた。」(1921年 サンジエの報告書)当時、40代のサンジエは、仕事に厳
しく「会社人間」として信用を得て頭角を現していた。サンジエは当時の国の植民地の
コンゴに派遣されたが、当然会社の収益の柱の、銅の生産の効率化であった。偶然出会
ったのが、異常なほど純度の高いウランの、排除すべきボタ鉱石だった。サンジエ手記
では、「良質とされるアメリカやカナダの鉱石でも、0.2~0.3%の酸化ウランしか含まれ
ていないがしかし、ここの鉱石の含有率は、65%に上る」「そこで私は試掘を行ったあと
、慎重に利権を確保して、ウラン鉱床を開発するために必要な措置を講じた。」つまり
鉱床利権の延長と、鉱石のドラム缶詰め、更に売り先の開拓を進めるべく動いたのであ
る。それまでの実績から、現地開発を一手に任されていた。しかし、ウランの用途は、
一向に見つからないまま在庫を抱え、1937年に閉山に追い込まれた。その翌年1938年末
ヨーロッパで、ウランの価値を一変させる発見が公表された。ドイツ人の科学者による
ウランの「核分裂反応」によるエネルギーである。1939年5月サンジエに訪英途中に、
「コンゴのウランを、提供して欲しい。」と持ちかけられた。イギリス人化学者ヘンリ
ー・ティザードである。用途は明かされないまま「ウランが敵の手に渡れば、あなたの
国や私の国にとって、大惨事になるかもしれない。あなたが手にしているものは、そう
した物であることを、決して忘れないでください。」と言ってティザードは去って行っ
た。

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23/08/22 20:25:18.13 7ZySMEz6o
 その後に、フランスに渡って、イギリスでの一件から数日後に、手記にはフランスで
も、科学者と面会した。と記されている。物理学者ジョリオ・キュリーである。キュリ
ーからは、正式に、ウランを爆弾の研究に使いたい。と売却を求められたという。そこ
で、ベルギー本社の倉庫に、一部試験的に送る事を決めた様だ。「私の中で、この2つ
の出来事をきっかけに、極めて質の高いコンゴ産ウランが、戦略的重要性を確信した。
」とサンジエの手記には綴っている。1939年9月。ドイツがポーランドに電撃侵攻し、
第二次世界大戦が勃発する。当初ドイツは、北上と南下したが、その後、次々と戦線を
拡大し、1940年5月にはオランダやベルギーへの侵攻を開始する。ここで思わぬ事態が起
きた。サンジエの、本社のベルギーに送っていたウランの在庫の一部が、ドイツ軍に、
押収されたのである。資料には、このときサンジエが驚きの行動に出ていたことが、記さ
れていた。それは、世界の歴史を大きく変えていくことになる。ここでサンジエは、大慌
てでこの残りを輸送した。「1940年末、ベルギー領のコンゴへの侵攻と接収を恐れた私
は、コンゴに残されていた 極めて質の高い鉱石を、ウランという名前を伏せたまま、
会社に秘密裏に、ニューヨークへ出荷するよう指示した。とサンジエは書く。コンゴに
保管していた在庫のウランは、およそ1200トン。会社に無断でアメリカへと運び出した
のである。ウランはニューヨークから10キロほどにある、スタテン島に持ち込まれてい
る。この場所にあった倉庫に、2000本のドラム缶に入れて保管されたという。なぜ、サン
ジエはリスクを冒してまで、アメリカにウランを運び込んだのか。恐らくはフランスに
おいて、キュリーとのコンタクト後に、自分なりに個人的に核爆発について学んだ筈だ
。それでも、捨てる事も出来ず、売り先をアメリカに決めたのだろう。仮にサンジエが
売らなくても、カナダ産のウラン或いは、アフリカ産の他のウランで作られる。と思っ
たに違いない。みすみす自国に暴虐して侵略するドイツにタダで譲る必要はない。と、
悟ったのだ。サンジエは、その後にニューヨークに事務所を開設し 自ら移住しそこで
人脈を作りながら、ウランの売り込みを画策していった。

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23/08/22 20:25:47.27 7ZySMEz6o
 移送して1年後に、事態が大きく動き始める。1941年12月の日本が真珠湾攻撃して、
アメリカ大統領は、第二次世界大戦に参戦することを決め、その宣言をしたたのだった
。「アメリカが、日本に宣戦布告した数日後に、私は、国務省の戦略物資担当に接触し
た。」(サンジエの手記)と言うのである。この頃に、アメリカではドイツの核開発に
対抗するために、ウランの活用が、本格的に検討され始めていた。図らずも米国参戦が
、彼にとってのビジネスチャンスとなり、積極的なウランの売り込みに繋がっている。
 ここで時系列を追いかけたい。

1876年、イスマーイール・パシャへの借款を回収できなくなった農業信用銀行

19世紀から20世紀カタンガ・クロスが欧州まで出回る
1901年 モルガン財閥とのノーザン・パシフィック鉄道の買収の攻防劇
1902年、北部証券会社設立
1903年、対抗し提訴が
1904年、裁判での判決
1905年、ハリマン訪日。
1900年、カタンガの銅鉱山が本格的に掘られる。ソシエテ・ジェネラルのアフリカ本部
1906年 地元で、カタンガ銅鉱石を採りつくしていたのを買い取る
    ユニオン・ミニエールは1990年までの、カタンガ独占鉱業権を、
    手にしてユニオン・ミニエール社が設立、採掘していった。

87:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 20:27:44.41 7ZySMEz6o
1909年 石油市場でロックフェラーが支配
1910年 カジャール朝のイラニアン石油会社の原油出荷
1911年、鉄道が開通し、カタンガ資源の大量輸出997トンの銅鉱石が産出、
1912年 タイタニック号沈没
1913年 FRBの旧体制「連邦通貨準備局」が創設
1919年 22000トンに達した。
1928年、アントウェルペンでフロント党躍進でフランス系とオランダ系住民の対立激化
1929年、ユニオン・ミニエール出資のベンゲラ鉄道が全通、暗黒の木曜日の恐慌発生
1930年、ロンドン海軍軍縮会議開催。インド国民会議の独立宣言
1931年 満州事変、犬養毅の日本の金輸出を再禁止、
1933年 ナチスが独裁政権発足。ヴェルサイユ条約を破棄しドイツの再軍備を宣言。
    日本政府が国際連盟と国際労働機関脱退。ルーズベルトが米大統領に就任。
1934年 アングロ=ペルシアン石油会社設立
1935年、ウクライナで大飢饉ホロドモールが発生。日本で5.15事件発生
    ドイツで、ニュルンベルク法成立、ユダヤ人の公民権を停止。
1936年 2.26事件発生。思想犯取り締まり法成立。アントウェルペンでゼネスト
1937年 カタンガ銅鉱山の閉山、支那事変勃発 米国軍事物資の中国への輸出が許可
1938年 ウランにおける核分裂発表
1939年 キュリーとの接触。3月14日スロバキア共和国とカルパト・ウクライナ共和国
    がチェコスロバキアから独立。ハンガリー王国が進攻して併合。9月1日ドイツ
    と独立スロバキアの同盟が、ポーランド侵攻。イギリスとフランスが宣戦布告
    (第二次世界大戦勃発)。17日にはソ連もポーランドに侵攻。
1940年 ドイツがフランスにも侵攻 ナチスのフランスの凱旋門に無血入場

88:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 20:28:08.01 7ZySMEz6o
 第二次世界大戦中の1940年、ドイツ軍がパリに無血入城し、ペタン政権下で産業金融
を営む銀行は、支店開設と証券業務を禁じられた。ソ連軍がラトビア・エストニアに、
進駐開始すると、フランス・ド・ゴール将軍が、自由フランス軍としてロンドン放送で
対独抗戦、レジスタンス運動の継続を呼びかけた。独ヒトラーが、英国に和平を求める
国会演説を行うと、近衛文麿、松岡洋右、東條英機、吉田善吾が会談(荻窪会談)で、
日本の方向を探る。07月21日北欧の、リトアニア、ラトビア、エストニアが独立「社会
主義共和国」であるとの独立宣言が伝わり、07月22日第2次近衛内閣成立、07月23日サ
ムナー・ウェルズ米国務次官が、このバルト諸国のソ連への編入を承認しないと宣言。
07月26日、閣議で基本国策要綱を決定(大東亜の新秩序・国防国家)の決定。07月27日
大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を、声明し発表した。08
月30日に、第二次ウィーン裁定でルーマニア王国、北トランシルヴァニアをハンガリー
王国に割譲され、第二次世界大戦は終わるかに見えたが、08月31日に杉原千畝副領事、
は等々ナチス・ドイツの迫害によって、ポーランド他逃れてきたユダヤ人に、大量ビザ
を発給する事件が起こった。米国の武器支援で八路軍が、日本軍に対して大攻勢(百団
大戦08月20日~12月05日)に追われた日本軍は、援蒋ルート潰しに、とうとう南下作戦
を承認、フランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印進駐)した。日仏印軍事協定成立
すると09月27日、松岡は、日独伊三国同盟に向かって行き、成立させた。10月17日神嘗
祭の日に、皇紀二千六百年。奉祝全国基督教信徒大会を、開催し、日本基督教団の設立
を決議した。10月28日イタリア軍がギリシャに進軍開始しギリシャ・イタリア戦争で、
勝利し、バックのヒトラーとムッソリーニが会見。ここで一先ず10月31日に、バトル・
オブ・ブリテン終了が終了した。日本は戦時統制の中。東京のダンスホール閉鎖。

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23/08/22 20:28:34.20 7ZySMEz6o
 第二次世界大戦勃発直前の1939年8月、フランスはタイ王国に対して、不可侵条約の
締結を要請した。これはフランス領インドシナ(仏印)の安全を図るためであり、翌年
1940年06月12日に、バンコクにおいて仏泰相互不可侵条約に調印した。しかしフランス
が直ぐにドイツに敗れたことで、独仏休戦(1940年06月17日)前に、フランスが不可侵
条約を批准していなかったことで、日本軍による仏印進駐が迫っていた状況から、タイ
国は、旧領回復への行動を開始する。タイの、ピブーン政権内では、新たに発足した
フランスのヴィシー政権に対しては、1893年の仏泰戦争での、フランスの軍事的圧力を
受けて割譲した仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領である ラオスの領土と
主権、フランス保護領カンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を求めた。
、が、フランス政府はこの要求を拒否した。日本の同盟国であるドイツによるフランス
本土占領と、親独のヴィシー政権の樹立を受けて、日本軍が北部仏印進駐を行ったため
、日本と友好関係にあったタイにとって、日本軍が南部仏印にまで進駐してしまうと、
領土要求が難しくなる。という懸念と背景があった。当時のタイ政府は、あくまで強硬
な姿勢を貫き、9月頃より国境付近で両軍による小競り合いが頻繁に発生するようにな
って行く。両国の外交が暗礁に乗り上げ1940年11月23日タイ空軍が、仏印領内を爆撃し
両軍の戦端が開かれる。タイは6機の「マーティンB-10爆撃機」で、昼間爆撃を行い、
仏印軍の基地施設を破壊した。ポテーズ 542など複数の航空機を地上撃破することに、
成功したが、迎撃に上がったフランス軍のモラーヌ・ソルニエMS.406が、タイ空軍の、
爆撃機2機を撃墜させた。これに対して、仏印軍は4機のファルマン F.221や6機の、
ポテーズ 542など計10機が夜間爆撃を行う。仏印空軍はこれによりタイ空軍の戦闘機・
爆撃機に被害を出すことに成功したものの、迎撃に上がったタイ軍の戦闘機や高射砲の
部隊がフランス軍の、MS406 戦闘機2機 とF221 爆撃機1機を撃墜した。

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23/08/22 20:29:00.93 7ZySMEz6o
 戦闘が拡大を続けて、終息する気配を見せない中、アジアにおける数少ない独立国で
友好国のタイは、他の地でも、戦闘を行っていた友好国のフランス(フランスは本土や
アフリカで連合国軍との戦いを続けていた。いくつかの植民地は自由フランス側につく
)という中であり、友好国同士が戦い国力が疲弊することを憂慮した日本は、タイとフ
ランスの間の和平を斡旋し始めた。1941年01月21日、二見甚郷・駐タイ公使はタイから
公式の、調停依頼文書を受け取って。01月24日にフランス側が非公式に調停を受諾し、
01月28日に両軍は停戦した。停戦交渉会議は01月29日より、サイゴンに停泊した 日本
海軍の艦船(艦名は秘匿された)において行われ、01月31日に正式調印された。第二次
世界大戦において、タイは、日本の同盟国として英米に宣戦布告した。1945年08月16日
に、この宣戦の無効を宣言した為、「敗戦国」の扱いは避けられた。しかしド・ゴール
時代に、フランス臨時政府は、1941年のヴィシー政権下での割譲を無効であるとして、
タイに返還を求めた。これに対して、タイは失地獲得は、戦争開始前であるとし、これ
に応じなかった。1946年5月にフランス軍は、タイ領を攻撃し、タイは国連に提訴した
。しかし、フランス側が国連加盟に、拒否権を行使する構えを見せ国際社会への復帰を
優先したタイは領土を引き渡す、その後に勃発した第一次インドシナ戦争で、フランス
敗北し、同地は間もなく独立。カンボジア王国とラオス王国の領土となったのである。
インドシナ半島はヴィシー政権成立以降に総督との間で協定で日本軍が進駐して(仏印
進駐)軍事的には日本軍が占拠していた。内政はフランスが続けたが、シャルル・ド・
ゴールの自由フランスは、ブラザヴィル会議で植民地の協力と引き替えに 戦後の自治
拡大を約束していた。しかし、フランスの世論は植民地保持派が多数で、独立容認の考
えはなかった。日本軍は1945年に明号作戦を行い、フランス領インドシナ政府を解体、
フランスの植民地支配が終結した。と宣言(仏印処理)ともなってインドシナでは保護
下にあったベトナム帝国、カンボジア王国、ラオス王国が独立を宣言した。

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23/08/22 20:29:25.18 7ZySMEz6o
 ベルギーは元々、永世中立国だったが、第一次世界大戦でドイツ軍の侵攻を受けた。
国境にあるリエージュ要塞で、ドイツ軍と戦ったものの、結局国土を占領されてしまう
。そこで、ベルギーは中立政策を一度は捨てた。ドイツの脅威に備えるため、フランス
と同盟を結び、ルクセンブルクと経済同盟を結んだのである。1934年、国民に高い人気
を誇った国王アルベール1世が、趣味の登山中に遭難死。代わって即位したレオポルド
3世は、逆にフランスとの同盟がドイツを刺激することになり、ベルギーが攻撃目標に
なってしまう。と考えて新たな国王の下、ベルギーは再び中立政策へと立ち返っている
。ベルギーは、第一次世界大戦の経験を踏まえ、第二次世界大戦では中立を宣言してい
た。しかし、ナチス・ドイツの進軍は、1940年に起こり、ベルギーへの無理矢理な侵攻
を開始している。中立の侵犯が、またも再び行われる。第二次世界大戦が始まり、ポー
ランド、デンマーク、ノルウェーが、次々と占領されたことで、ベルギーはドイツの次
の目標になったのだ。イギリスとフランスはベルギーを守るため、軍の常駐許可を求め
てきた。しかし此の時、中立を貫く希望を捨てなかったレオポルド3世はこれを拒否し
た。こうして逆に、ドイツの意向をくんで国内の共産主義者、活動家、ユダヤ人を追放
していく事になった。これにはイギリス人やフランス人も含まれていた。この行動に、
フランス首相は激怒し、イギリス首相チャーチルは愚かだと嘆いたとされている。1940
年05月10日、ドイツ空軍が、ベルギーへの空爆を開始し、ベルギー空軍は一瞬にして、
壊滅した。

92:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 20:29:46.12 7ZySMEz6o
 ベルギー最大のエバン・エマール要塞は24時間で陥落したし、レオポルド3世は渋々
ベルギー軍を率いて西へ退却しつつ、国民に徹底抗戦を呼びかけた。12日、ベルギー・
フランス連合軍は、大量の戦車を用いてアニュー村でドイツ軍を迎え撃った。この戦い
で連合軍はドイツ軍の足止めに成功し、イギリス軍が、かろうじてダンケルクから撤退
したと言われている。25日、ベルギー政府と、国王は今後の方針を話し合ったが、意見
は真っ向から対立した。政府は イギリスに亡命して徹底抗戦するべきと説き、国王は
無条件降伏するのが最良だと主張した。話し合いは決裂した。政府首脳はイギリスへの
亡命したが、レオポルド3世を国王と認めない事を宣言した。国内に残ったレオポルド
3世はドイツに降伏した。勿論ベルギーはドイツに支配され、食糧配給は極端に制限さ
れたし、連合軍からの空爆もたびたびに受けることになった。しかし、当初は枢軸国側
が、明らかに優勢だった。国民はドイツに協力する者も多く。ベルギー・オランダ・北
フランスに統一国家の樹立を目指す動きも見られた程だ。一方でレオポルト3世は、ナ
チスの意向に反して、国内の統治を拒否している。彼の主張は終始一貫して「中立」の
維持であり、ドイツに協力する気はなかったのである。こうしてレオポルド3世はドイ
ツ国内に、幽閉される事になった。1944年6月に連合軍がノルマンディー部隊が上陸す
ると、ベルギーは再び戦場となった。9月9日までにブリュッセル、リエージュなどの
主要都市が解放されて、11月03日には全域が連合軍に解放された。レオポルド3世は、
かつて自動車事故を起こして、国民から敬愛されていたアストリッド妃を失っていた。
彼はドイツ国内の平民出身のリリアンと結婚し、ヒトラーから祝福を受けていた。復権
を願ったものの、彼は「国を捨てた裏切り者」と見なされていて、ベルギー国民の彼を
見る目は厳しかった。国民投票では57パーセントが国王復帰に賛成しても首都やフラン
スとの境界地域は低く息子のボードゥアン王子が王位についた。

93:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 20:38:59.60 dT7ctmo1P
 戦争時には、ベルギーの民間人は、ユダヤ商人と同じく、英国経由で米国に渡ってい
った。ベルギーは1940年から1944年までドイツの占領下にあり、ユダヤ人などの、特定
の民族集団に対する迫害が、当初から行われたからだ。ベルギー人の多くが、抵抗運動
に参加し、占領者に対する様々な形の反抗を展開した。その多くは東欧・北欧そして、
フランスのレジスタンス活動の中継基地で、元々は、スペイン内戦時代からの繋がりで
のレジスタンス連盟が行っていた様だ。戦争が終わると、ベルギー人は、積極的にイギ
リスとフランスなどの連合国側と共に、戦後秩序の形成に参加した。EUに入り、戦争
犯罪の裁判を行い、占領下での苦難を乗り越え、ヨーロッパの統合にと、積極的に関与
するなど、ベルギーはその後の歴史を刻んでいく。しかし、それでも、ドイツ系も多く
、国民同士の不審感も強い。基本的に船乗りや海賊の街に近い雰囲気で、民間銀行の、
フランス系のソシエテジェネラルも、BNPパリバ銀行も、実はベルギー商人で成り立
っていた。ベルギーが兵器商人やチョコレートの名産地なのも、アフリカに強いルート
をもっていたからだ。スイス銀行と総称されるプライベートバンクも、無限責任をもつ
個人銀行家=プライベートバンカーがパートナーとして経営している銀行の集まりで、
UBSやクレディ・スイスは、「プライベート・バンキング・サービス」を行うものの
「有限責任の株式会社」であるため、無限責任のプライベートバンクではない事で大き
くなった。1998年、スイス・ユニオン銀行(UBS) とスイス銀行コーポレーション(SBC)
の合併により新生UBSが誕生し、今又クレディ・スイスが破綻し、米国資本のUBS
に生まれ変わった。

94:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 20:39:21.78 dT7ctmo1P
 1944年、バーデン銀行(Badische Bank)がソジェナルを吸収してバーデン・アルザス
銀行と改称させた。バーデン銀行はロスチャイルド家とディスコント・ゲゼルシャフト
(現ドイツ銀行)が1870年に創立した。終戦して1945年12月、ソジェンとクレディ・リ
ヨネ、パリ割引銀行と国民商工業銀行(ともに現 BNPパリバ)が国有化された。オート
バンクは理事会に席を占め、発言力を残した。バーデン・アルザス銀行はそのままだっ
たので、気ままに経営を拡大した。ソジェンも国有銀行としてアルジェリアをはじめと
する旧植民地へ支店を展開した。1955年バーデン・アルザス銀行が再びソジェンを名乗
り、地域開発会社(Societe de developpement regional)を牽引した。アントウェルペ
ンは1944年9月4日、イギリス第11機甲師団によって解放され 大戦後には再び超正統派
、正統派ユダヤ教の中心地となった。その後原爆が日本に落とされるのだが、その前に
1945年 7月16日にアメリカ合衆国は、マンハッタン計画の終局核実験(トリニティ実験
)を、人類史上初めて行った。トリニティの名の由来について、名付け親のオッペンハ
イマーは、明確な説明を残していない。トリニティ実験の跡地があるホワイトサンズ・
ミサイル実験場で30年間広報官を務めていたボブ・エクレス氏は言う。同氏は既に退役
しているが、今でもトリニティのことなら彼に聞けと言われるほどの人だ。彼曰く、「
オッペンハイマーは、よくわからないと言っていました。でも、当時読んでいたジョン
・ダンの詩のなかのある記憶に残っていたそうです。『私の心を打ち砕いてください、
三位一体の神よ。』とその一説から、トリニティ(三位一体の意)という名を思い付い
た。と、言っていた」という。オッペンハイマーは、読書家だったともいわれている。
トリニティ実験は当初、1945年7月4日に予定されていたが、ガジェットを修理する必要
が生じたため、延期された。

95:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 23:54:05.28 dT7ctmo1P
 ガジェット=装置は、インドネシアのクラカタウ火山が大爆発を起こした1883年以降
で、最大の破壊力をもっていたと言われる。直径150センチ程 の球体のなかに納められ
たのは、重さ約6kgでソフトボール大のプルトニウムであった。そのソフトボールを
ゴルフボールの大きさまで、圧縮させると、臨界状態に達して破壊的な大爆発を起こす
。とされた。プルトニウムを圧縮させるには、それをより大きな球の中心に置いて周囲
32個の爆薬で包み込むという。爆薬の総重量は2.3トン。そして 全ての爆弾を、正確に
同じ時に爆発させる。わずかな時間のズレも許されない。爆発により全方向から圧力を
受けたプルトニウムは、超濃縮された放射性原子は、肉団子のようになる。当時はデジ
タルスイッチなど存在しなかったため、32個の爆薬に取り付けられたワイヤーは、南に
8キロ離れた倉庫に置かれた一つのボタンに繋げられなければならなかった。そして、
1本1本のワイヤーは、全て、同じ長さにする必要があったのである。7月の、ニューメ
キシコ州は、雨の季節だったが、16日は降水確率が比較的低いと予想された。計画実行
の日は決まった。07月12日、小さな箱を後部座席に乗せ、セダンが、ロスアラモスを、
出発した。箱の中には、2つに分かれたプルトニウムの核が納められている。その翌日
、13日の金曜日、同じくロスアラモスを出発したトラックには、直径 152Cmの球が、
乗せられていた。計画実行の時間まで3日を切っていた。マンハッタン計画には、アメ
リカの要請でシンコロブエ鉱山で採掘されたウランを提供していた。ユニオン・ミニエ
ール社は、世界のコバルトの75%の生産で、1922年からはウランの生産も行っていた。
実際、マンハッタン計画の実行時に、既にフランス共産党員ジョリオ・キュリー(マリ
ー・キュリーの娘婿。ノーベル物理学賞受賞者)の指示下で、スタテン島にマンハッタ
ン計画に必要な全量を上回るウランが、確保されていた。と話し、サンジエの書く日記
と一致する。また、社主もアメリカ合衆国に移住済みだった。

96:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/22 23:54:29.99 dT7ctmo1P
 マンハッタン計画時には、ここで採掘されたウランがアメリカ合衆国へと提供され、
原子爆弾が製造された。1948年時点でアメリカ合衆国内の、ウラン鉱床を 約100万トン
分しか見つけられていなかったので、需要量の90%を、このベルギー領コンゴ産ウラン
に頼っていたのだ。金鉱の屑鉱、低品位の燐酸鉱物、頁岩の三つから回収される八酸化
三ウランを、ポンドあたり30から40ドルで購入していた。鉱山におけるウランの採掘は
1960年代に終了して、長らく閉山していたが、1990年代にコバルト鉱石の採掘を政府が
許可されたことから、地元の中小業者が採掘を行っていた。やがてコバルト鉱石から、
微量のウランが採取されることが知れ渡り、採掘の目的がコバルト本体ではなくウラン
の盗掘へ変化していった。2004年3月、コンゴ政府が首都のキンシャサ市内で100kgにも
達する大量のイエローケーキ(ウラン鉱石を粗精錬したウラン精鉱)を押収していたの
だった。2004年7月、シンコロブエ鉱山にて落盤事故が発生して。8名の死傷者を出し
たことがきっかけで、同鉱山で、今だウランが採掘されていたことが露呈してしまう。
コンゴ政府は、すぐさま立ち入り禁止を決定した。ユニオン・ミニエール社では、世界
のコバルトの75%を生産しており、また1922年からはウランの生産も行っていた。マン
ハッタン計画時には、アメリカの要請でシンコロブエ鉱山で採掘されていたウランを、
提供し、実際にマンハッタン計画の実行時には既に、フランス共産党員ジョリオ・キュ
リーの進言で、全てを買い取り、その後の採掘量まで買い取っている。ユニオン・ミニ
エール社は、こうして戦後も成長を続け、1959年にはコンゴ政府の歳入の50%の国家予
算が、ユニオン・ミニエールからの税収によって賄われアフリカ一の金満国となってい
た。1960年には、ユニオン・ミニエールの売り上げは2億米ドルを上回り、西側ウラン
の生産の6割、コバルト生産の7割、銅生産の一割を、それぞれ握っていた。更には、
ユニオン・ミニエールは、従業員のための学校や病院、発電所や化学工場、鉄道などを
持ち、カタンガのほとんどの企業の支配権を握った。

97:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 00:38:58.26 qAqL8CWi8
 第二次世界大戦中、すでにソ連側で、新型爆弾製造の情報は握っていた。原子爆弾の
開発が始まっていた。ソ連ではベリヤを長官とする秘密警察のスパイ活動によって米英
の、核開発の状況を正確に把握していった。しかし、1943年、スターリングラード戦況
が悪く、好転するまでスターリンは待って核開発にゴーサインを出した。クルチャトフ
が責任者となり、突貫工事で原爆の製造を急ぐ事になった。施設や核物質の採鉱には、
数十万の囚人が動員されたという。又、北朝鮮に送られた遠心分離機も、日本の田中か
ら格安で買って取り付けられ、ダムの発電機も取り外され国内に作った。実は1945年の
時点で、ソ連には、ほとんどウランは発見されていない。46年のクルチャトフ日記に
或いはスターリンへの報告書にも、核開発に必要なウランは、10分の1しかない。と
素直に言っている。こうしてソ連の占領地、ドイツ東部やチェコスロヴァキア、ブルガ
リアと、探し出してウランを産出させて集めた。それでも47年にソ連領内でもウラン
が発見されるのだが、50年に入っても、ソ連の使用するウランの3分の2は東欧産で
あった。ソ連が、東ドイツなど東欧支配を行ったのは、ウラン鉱が豊富であったという
「軍事経済的要因があった」という見方もあるほどだ。50年代には、北朝鮮からもウ
ランがソ連に運ばれている。かき集められたウランは、手順通り生成されやっと1949年
8月に、セミパラチンスクで、長崎型と同じプルトニウム爆弾の実験に成功した。ソ連
の核実験成功を、日本~アラスカ間の上空パトロール中の、米国偵察機は見つけている
。これ知ったアメリカは、予想外に早かったソ連の原爆開発成功に衝撃を受けた。これ
まで50年は進んでいたとした、トルーマンの米国政策は、直ちに国家安全保障会議(N
SC)を招集し、方針を変え対策を検討した。つまり、原子爆弾を上回る破壊力を持つ
水素爆弾の開発を進める決定である。こうして冷戦下の核開発競争始まっている

98:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 01:19:05.25 qAqL8CWi8
 1949年9月23日、トルーマン大統領は、ソ連の核実験の事実を公表した。それ
をうけて同年9月25日、ソ連も核実験成功と核兵器保有を認めた。ソ連の核実験成功
はアメリカより僅か4年遅れ、世界二番目である。続いてイギリスが1952年、フラ
ンスが1960年、中国が1964年に原爆実験に成功、それに並行して水爆実験も続
き、東西冷戦のもとでの核開発競争が行われた。1957年秋に、ソ連のウラル地方のチェ
リャビンスクでは、原子炉が大爆発し、大規模な放射能漏れが発生している。ウラルの
核惨事と言われた。この事故は当初極秘とされて処理が行われた。が、その規模、原因
等は一切明らかにされていなかったものの、この事故の真相が知られるようになった。
ソ連からの亡命科学者のジョレス・A・メドベージェフは、イギリス科学雑誌に論文を
発表したからだ。事故後の汚染調査を独自に行って、核兵器製造過程で廃水が地下に漏
れて、プルトニウムが地下で濃縮され、何らかの原因で爆発した。と、原因を推定し、
汚染地区の住民が、数千人が死亡、また数万人が強制退去させられた。と明らかにした
。ソ連当局は必死に否定したが、メドベージェフは、その後も著作を発表し、告発を続
けていて、ようやくゴルバチョフ政権下で、1989年、グラスノスチ(情報公開)が実現
し、ロシア政府が住民に対して事故があったを認めたのは1992年になってからだった。
なお、1960年に、アメリカが偵察機U2型機が、ソ連領に侵入させて探ろうとしたが、
このウラル核爆発事故の情報を得て確認のためだったが、U2型偵察機は、ソ連軍の追
撃の上に撃墜され、平和共存がご破算となった。ここでキューバ危機にいたる冷戦が、
再燃している。1957年から1960年に、コンゴに大きく東側の肩入れと、ウラン鉱物の、
買い付けがなされた。コンゴが独立に走ったのは、そうした背景が絡んでいた。

99:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 12:01:47.47 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・1

 ザイールという名称のほうが、まだ馴染みがあるかもしれません。それでも内戦が続
く危ないアフリカの国、という程度の印象があるくらいの日本人である。アフリカに、
コンゴという名称の付く国は二つあり、旧フランス領の「コンゴ共和国(コンゴ・ブラ
ザヴィル)」と、旧ベルギー領の「コンゴ民主共和国(コンゴ・キンシャサ)」である
。今回、追っていく歴史は、後者のコンゴ民主共和国のほうだ。この国は、2100年に、
人口が世界第5位になると予想されている。インド、中国、ナイジェリア、アメリカに
次ぐ人口である。今後に21世紀の、アフリカの大国としての経済発展が予想されている
。未だに紛争の火種は途絶えないコンゴには、いくつもの悲劇を乗り越えて、経済発展
の軌道に乗ろうと、苦闘している歴史がある。そんなコンゴの歴史をまとめていきたい
。14世紀には、バコンゴ族と言う種族が、現在のコンゴの西端からアンゴラの北西部に
至る広大な領土から、バンツー系の諸国を征服して行き、コンゴ王国を開いて行ったと
される。コンゴの王は、既に「マニ=コンゴ」と呼ばれていて、王位は基本的には世襲
制で統治していた。しかしながら、王子同士での、継承争いによって、決定する慣習で
一人の王に兄弟は当然死亡している。他に連れ添う有力者は地方の首長に任ぜられ、王
に献上する、貢祖や通貨でタカラ貝の、徴収に責任を負って、地方支配をしていた。と
される。コンゴ王国はよく政治的にも組織化され、物資も豊かな文明国でありました。
コンゴ王国に最初に接近したヨーロッパの国はポルトガルであった。

100:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 12:02:11.15 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・2

 1476年、ディオゴ=カンがコンゴ王への、最初の西洋人の謁見が許され、以降ポルト
ガルとコンゴは、次第に、経済的・文化的・宗教的な 結びつきを強めていきました。
初期においてのころの、関係は対等で、大変良く、様々な技術者がコンゴに渡って技術
を伝授し、コンゴからは留学生が、ポルトガルで学習するなどしている。コンゴ王ヌジ
ンガ=ムベンバは、キリスト教の洗礼を受けたし、ドン=アフォンソ1世と称するほど
であった。しかしながら、欧州社会での黒人の地位は、当初からペットや家畜の位置付
けで、単にアフリカ社会に対して、猿の惑星同等に、家畜の社会に入った様相であった
事と同じに、へりくだっていたのみだった。このドン=アフォンソ1世のの洗礼を皮切
りに、ポルトガル商人による奴隷貿易がスタートした。西洋社会に黒人と言う人間が、
いる事が知れ渡った時であったのだ。当初は、試験的に始まった交流と奴隷商売だった
が、それが大きな富を生むことが分かると、ポルトガル商人は奴隷貿易目的でコンゴに
先を争う様に、来訪するようになっていった。ポルトガル商人達は、コンゴの商人に、
兵器・武器を売り捌き、商人は、傭兵を雇い地方の村落に攻め込ませて奴隷を確保し、
ポルトガル商人に売り渡すと言う蛮行が常態化する。この奴隷狩りによって地方は荒れ
放題、アフリカは混乱していき、事態を憂慮したドン=アフォンソ1世は、ポルトガル
王ジョアン3世に、たびたび奴隷貿易の中止を求めた。だが、そのたびに無視されてし
まった。当然であった。ポルトガル王もバチカンでも、この異種文化の破壊と、奴隷に
よる収益と人々の無償の召使いに、喜々として受け入れて、黒人=物言う家畜という、
設定が公然と宗教説明や国の法にのる環境にいたからだ。失意の中でドン・アフォンソ
1世は死去し、その後は、奴隷貿易は、ますます盛んになり、コンゴ王国は衰退の一途
を辿ることになっていった。実は、ザイールコンゴなどは、既にあったモロッコやガー
ナなどの先行奴隷の、後に浸食されて行く土地であったのだ。

101:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 12:02:36.66 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・3

 19世紀後半になり、それまでよく分かっていなかったアフリカ内陸部の地理が明らか
になってくると、ヨーロッパ諸国では、これらの国々を領有して、積極的に未開発の富
を獲得する機運が高まってきた。時は折しも産業革命期であった。ベルギー王レオポル
ド2世は、隣国オランダにおいて、東南アジアや南米などで積極的に植民地獲得に乗り
出している様子を見て、触発されていた。まだヨーロッパの国々が、本格的に触手を伸
ばしていないコンゴでの領有化を目論むようになった。フランス、スペインなどと違い
、唯一の海外貿易拠点とも言えるものだった。1878年にレオポルド2世は、ヘンリー・
モートン・スタンリーという男を、コンゴに派遣して、コンゴ各地の 400以上の首長と
「保護条約」を、平和的に結んでいった。驚いたのはポルトガルで、民主的なレオポル
ド2世の行動に、抗議します。が、同じく中部アフリカ周辺地域の獲得を目指していた
、フランス・ドイツはレオポルド2世を支持した。またかねてより、ポルトガルの奴隷
貿易に反対していたアメリカも、レオポルド2世支持に周った。このレオポルド2世に
よるコンゴの主権は、1884年に列強がアフリカ分割について協議するベルリン会議でも
、正式に承認されました。小さな国ベルギーの正義の勝利と言えた。レオポルド2世は
この地を「コンゴ自由国」としますが、自由とは名ばかりで、事実上の支配は、商人達
の自由を規制した、レオポルド2世の私有地であった。しかしながら、これによって、
平和が築かれ、早速、コンゴ自由国政府は、コンゴの土地の経済開発に乗り出します。
まずは土地の確保からだtった。コンゴの人々は土地を占有するという考えを、そもそ
も持っていなかった。所有はあっても、公園の様に自由で、食糧調達のための飼育や、
農地や農園経営などが存在してなかったからだ。

102:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 12:03:03.00 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・4

 政府は全ての土地は「無主地」と決め、これらの土地をいくつかの特許会社に分配し
ていく。本来の王の土地とすべきだが、それでは、レオポルド2世の物で政府は権限を
失うからだ。政府の土地、即ち公有地とし、そうした上で私有地を切り売りして作った
。コンゴ自由国政府は、こうして上コンゴと、下コンゴを貫く鉄道の建設に着手した。
全長 350キロにもなる鉄道インフラには、巨大な労働力を必要とし、コンゴ人だけでな
く、アフリカ各地から多くの労働者が、動員された。既に銅山が開発され、銅貨による
賃金労働者が存在し、貨幣経済の最初が出来たからだ。しかし、難所の多い中央アフリ
カでのこの工事は、過酷を極めた。最初の2年間で動員された7000人の労働者のうち、
3500人が、事故や病気や過労や乱闘や餓死で、死亡または逃亡した。1500人が負傷など
で送還、残ったのはわずか2000人だった。と言う記録が残る。こうした労働事情に次第
に西洋化の知識が芽生えてストや反乱が頻発するようになった。労働者の反抗はレオポ
ルド2世が組織した、自治組織や、公安軍によって厳しく弾圧された。公安軍は、ヨー
ロッパ系の白人の、将校・下士官と、雇われた現地の兵士からなる混成部隊で、コンゴ
自由国の、実質的な治安部隊の軍隊・警察として機能した。公安軍は徹底的な残虐さで
コンゴの人々を震え上がらせた。レオポルド2世にとっては、まさにコンゴ南部にある
銅鉱山鉱物の、豊かなカタンガ州経済と自国ベルギー経済の元となっていて、この併合
も目論み動いていた。当時のカタンガ州には、南からイギリス南アフリカ会社が進出を
目論んでおり、レオポルド2世は、カタンガ会社に特許状を与えて遠征隊を派遣させ、
カタンガの首長と保護条約を結び、コンゴ自由国の支配を確立・維持に力を注いだ。こ
の時にコンゴに組み込まれたカタンガが、後に勃発するコンゴ動乱の火種になった。

103:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 12:03:52.39 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・5

 常に国際紛争の舞台裏は、富の収奪である。特にカタンガには、欧州人の欲しい物が
あった。コンゴ自由国での産物で、多額の利益を上げたのは「ゴム」と「象牙」でした
。政府は、住民を強制的にゴムと象牙の採集へと駆り出され、それぞれの地区にノルマ
が課せられた。達成できなかったら容赦なく公安軍によって手を切り落とされた。とも
言われている。ノルマ未達成の場合の罰は厳しく、住民だけでなく、集荷を担当する、
請負人もその責任を負い、鞭打ちの刑といった厳しい罰則を課せられた。さらに政府は
ゴムや象牙の拠出のみならず、政府の役人や、行政官が贅沢な暮らしをするための食料
や物品の拠出も求められた。それに加えて、4日に1度は「公的な仕事」に駆り出され
、公的施設の建設や、インフラのメンテナンス、果ては行政官の住居の掃除などに駆り
出された。王にはそうした強制は無くとも、次第に現地での私用の使用人化が日常的に
起こったのである。ピラミッド型の指令で多数の集団化支配は、時に厳しく見せしめが
行われて、威厳を保ち、原住民はその忖度をした。しかしながら、コンゴ統治の旨みを
知ったレオポルド2世の統治は、さらなる利益を求めて行く。レオポルド湖から、ルケ
ニア川流域の地域(ベルギー本土の領土の約10倍)を「王室直轄領」とし、1905年まで
の9年間の間に個人的に7100万フラン(約1千憶円)も蓄財した。こうした信じがたい
ほどの暴虐が行われていることを知った 欧米の世論は激しく反発。1903年にイギリス
政府は、コンゴ駐在のイギリス領事ロジャー・ケイスメントに命じて内陸コンゴの調査
報告書を作らせた。この報告書では、コンゴ自由政府の非人道的な行為に対する告発が
書き連なっており、イギリス政府はこれをベルギー政府ならびにベルリン会議加盟国に
送付する。その後、フランスやドイツ、アメリカといった列強もコンゴ問題のベルギー
とレオポルド2世の対応を激しく非難し、ベルギー国内でも政府と王室批判が上がった
。ここに至ってレオポルド2世も重い腰を上げざるを得ず、国際批判の下で動いた。

104:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 14:00:54.66 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・6

 1905年に調査委員会を立ち上げて、上がってきた報告書を元にして、コンゴ人の土地
所有認可やゴムの強制集荷の禁止などの改革を実施することを定めた。しかし、イギリ
ス政府・アメリカ政府、さらにベルギー政府ですら、この改革では不十分であると通告
。この事態を収拾するには、ベルギー政府によるコンゴの直接統治しかない、とした。
これには、レオポルド2世は反発し強く抵抗しますが、1908年11月についに譲歩して、
コンゴ自由政府をベルギー政府の管轄に移管することになった。こうしてコンゴ自由国
は消滅し、ベルギー領コンゴが生まれることになった。レオポルド2世からのコンゴの
統治を移管されたベルギー政府は、それまでの、ダーティーなイメージを払拭すべく、
コンゴ人の商業活動の認可やゴム・象牙の強制集荷の廃止といった改革に着手していく
。しかしながら、時既に遅く、第一次世界大戦が勃発し、ベルギー本国は戦禍に見舞わ
れる事になった。戦時統制色の強い政策が実施され、コンゴ内でも、開発独裁主義が、
前面に押し出され「利益優先」策が採られた。大企業や特許会社が、最大限でコンゴで
利益を上げられるような制度が、そのまま据え置かれることになった。多数のベルギー
人の技術者や家族が、コンゴに移住し、彼らの居住用にエリザベートヴィル(現ルブン
バジ)や、レオポルドヴィル(現キンシャサ)といった都市が建設されていった。さら
には行政整備に必要な 人材を育成するために大学が建設され、ブリュッセルの大学と
併せて、植民地統治に必要な人材の育成が促進されました。その為に、教育の面では、
初等教育を中心に大幅な、発展がみられた。ベルギー政府は、教会の経営する学校に、
補助金を与える政策を打ち出し、これによって、コンゴ各地で初等教育のための学校が
数多く開かれ、当時のアフリカの基準から見ても進んだ教育水準のものとなる。ただし
これは初頭・中等教育に限ってのことで、高等教育は度外視され、1960年代の独立後に
大学を卒業した者は全国民のうちわずか2名という低水準であった。

105:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 14:01:27.46 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・7

 世界大戦期に入って、コンゴ人のナショナリズムに大きな影響を与えた人物がいる。
シモン・キンバングーで、彼は一介の大工でしたが、ある時に神の啓示を受けたとして
、地元ヌサンバで死者を甦らせたり、人々の病を治すなどの奇跡を行い始めた。と言わ
れている。ここで、キンバングーは自らを予言者であると宣言し、人々はキンバングー
の説教を聞こうと続々と彼の元に集まり始めた。キンバングーはヌサンバの村を「イェ
ルサレム」と言い変えた、十二使徒を任命し、自らをキリストと見立てた組織の設立に
乗り出した。彼の興した教えは「キンバンギズム」と呼ばれて、キンバングーの教えに
よってコンゴ人は救済され、ベルギー人はコンゴから去る。と予言した。人々があまり
にキンバングーの教えに熱狂した為に、既存の教会は信者を取られてしまう。また労働
者が、キンバングーの元に大挙して参詣し、工場が操業できなくなったりして、コンゴ
経済の生産性が下落するほどになった。そこでベルギー植民地当局は1921年06月に、キ
ンバングーの逮捕に踏切った。キンバングーは、軍隊が少し目を離した隙に逃亡し人々
はキンバングーが再び奇跡を起こした。と信じ、彼の求心力はさらに高まってしまうの
ある。キンバングーは再逮捕され、1951年に獄中で死亡した。しかしながら、キンバン
グーが始めた運動「キンバンギズム」は、現在でもコンゴでも活動を行っており、同国
では、最大級の独立教会になっているそうです。この時期には、仏領コンゴのアンドレ
・マツワを信奉するマツワニズムなど、大衆レベルでの抵抗運動・民族主義運動が勃興
している。コンゴ自由国は20年あまりしか続きませんでした。が、この20年間の間に、
コンゴは信じがたいほどの暴政を経験し「それまでの 100年で奴隷貿易が与えた犠牲よ
りも、はるかに大きな人間を殺害した。」と言われる。

106:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 14:01:48.83 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・8

 レオポルド2世の強欲さなのか、ベルギーの守銭奴たる国民性なのか、良く判らない
が、西洋の植民地経営は、似たり寄ったりで時代や歴史が一番大きな原因でしょうか。
事実上の私有地という特殊な条件にかこつけて、政治家から一介のビジネスマンまでの
、あらゆる人が一攫千金を狙ってえげつない争いを演じ、歯止めをかけるシステムが、
全く存在しなかったことが大きいように思える。ともあれ、ベルギー領コンゴはとうと
う独立を果たしますが、ここからさらなる悲劇に見舞われることになる。コンゴ王国が
奴隷貿易によって国力を落とした後に、ベルギー王レオポルド2世の治世で、私領化し
た「コンゴ自由国」となり、非道な収奪で多くの犠牲者が出たが、ベルギー領となった
コンゴでも、ナショナリズムの高揚が始まる。しかし、ベルギー政府は暫くの間コンゴ
を手放す気はまったくありません。が国際的な時流は、アフリカの民族自決に傾いてい
き、その流れはコンゴにも押し寄せてきます。コンゴ国の不幸の一つは、ベルギー本国
の地政学にもある。第二次世界大戦が始まると、本国ベルギーは早々とナチス・ドイツ
によって占領されてしまう。しかし、ベルギー領コンゴは、本国の降伏後も抵抗運動を
続けていくことになった。コンゴ植民地政府は、コンゴ公安軍を強化し、エチオピアに
侵攻したイタリア軍の侵攻を撃退する。1941年5月にオーギュスト・ジリアールト率い
る、およそ 8,000人の部隊がイタリア軍を退却させた。また、コンゴは、連合国軍への
資源供給に重要な役割を果たしていた。オランダ領東インドや、イギリス領マレーが、
日本に占領されたことによって、コンゴは、連合国軍のゴムの重要な供給元となったの
である。また、核兵器を作る上でも、重要なウラニウムもコンゴで産出されたもので、
その他、木材、銅、綿花、パーム油、ダイヤモンドなど軍用の需要が急増。コンゴは、
急速に経済発展していくのだった。

107:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 14:02:13.64 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・9

 戦後でも、資源に富んだコンゴは、高い経済成長を続け、ベルギー本国の戦災復興に
も、大きな貢献を果たした。ベルギー政府は、さらなる成長を見込んで10億ドル以上の
資金をコンゴに投資して、鉄道・道路・発電所といったインフラや、病院・学校・政府
施設などを次々に建設していきました。これに伴いコンゴの輸出総額は1953年には4億
ドルを超え、国民総生産10億ドルにも達した。この経済成長に伴い急激な都市化が進ん
で、多くのコンゴ人が地方から都市に移り住むようなって、学校が普及し高いレベルの
教育を受ける人が増えた。このことで近代的な考えや思想を持つコンゴ人が増え、その
ような人たちは1950年代から急速に広がる「アフリカの独立」の大きな潮流を敏感に感
じ取るのである。アフリカ各地で植民地独立の機運が高まり、イギリスやフランスなど
は、近い将来の独立や自治の検討や準備を始めていくが、ベルギーはコンゴを手放すつ
もりは毛頭なかった為に、長く放置された。1955年にアントワーヌ・ヴァン=ビルセン
という教授が、「30年後にコンゴは独立を果たすべきだ。」とする論説を発表し、今の
我々の感覚からすると、30年なんて遅すぎですが、当時はこの論説ですら「理想主義に
過ぎる。」とすら思われている。ところがそうした西洋人の感覚と裏腹に、コンゴ人の
間では、急速に独立への意識が高まっていく。所謂初期教育の壁である。アバコ党(バ
コンゴ族同盟)党首のジョセフ・カサヴブは、「30年など待てない。」として、政治的
権利、集会の自由、思想の自由、出版の自由を直ちに認めることを要求し、主張した。
この頃からアバコ党のカサヴブは、バコンゴ族の間で 急速に支持を広げていきます。
一方で、1958年10月に創設されたコンゴ国民運動(MNC)の党首パトリス・ルムンバは、
コンゴの早期独立を訴えて、急速に支持を広げていき、翌年に「単一国家コンゴ」独立
運動のリーダー的存在になっていた。

108:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 14:02:41.19 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・10

 もう1つの極の動きとして、1958年にバルンダ族を中心とした 東部諸部族連合が、
コナカ党を設立。党首モイーズ・チョンベは東部のカタンガ州諸部族の連合体を率い、
コンゴを独立した連邦国家にすることを目指しました。そうした動きに対し、ベルギー
当局は、主要都市の議会に一部選挙を取り入れるなどの妥協策を採りはしますが、基本
的には独立は決して認めない立場で貫いた。しかし1958年、近隣の中部アフリカ諸国が
次々に独立を達成して、大いに刺激されたコンゴ国民の中では、独立の機運が大いに高
まっていく。アバコ党のカサブヴは、バコンゴ族の居住地域の独立を訴え、コナカ党の
チョンベはカタンガ州の自治権のある形での独立を訴えた。一方で、コンゴ国民運動(
MNC)のルムンバは、バラバラの部族を、強力な中央集権体制での統合すべく、大衆
運動の組織化に乗り出していきました。1959年1月、アバコ党大会の開催を植民地政府
が禁止したことに端を発した暴動が起き、これがきっかけとなり、ベルギー政府はとう
とう方針を転換し、コンゴ独立の検討をスタートする。こうして同月にアバコ党、コナ
カ党、MNCといったコンゴの党の代表を集めて会議を開き、なんとわずか5ヶ月後に
独立させることが決定された。これは、ベルギー政府が完全に引いた形だったからだ。
わずか5ヶ月の間に、新生コンゴは、独立後の国の形を決めなければならない。相当に
無理があるスケジュール設定である。特に厄介な問題が民族問題で、主要な部族だけで
も、バコンゴ族、バルンダ族、バルバ族、バモンゴ族などがいて、少数民族ともなれば
数えきれない。それぞれが独自に自分たちの主張をしていたので、わずか5ヶ月でまと
まるわけがありません。とはいえ、独立をすることになったので、1960年5月に総選挙
が行われ、投票の結果ルムンバ率いるMNCが第一党となった。しかし多数をとること
ができなかったので、アバコ党やコナカ党、他少数の党との連立政権が組まれることに
なる。そして1960年06月30日、コンゴ共和国が発足することになったのだが・・・。

109:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 14:04:16.24 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・11

 初代首相となったルムンバには、形式的には、中央集権体制を敷くも、実質的に地方
の権限を、大幅に認めた体制を構築していくしかなく、連立を組む他の部族の党と妥協
を図るのみだった。と言えよう。そうした上で、国の統合のために強烈な民族主義・反
ベルギーの態度を採った。ベルギー政府は、こうしたルムンバの対応に警戒感を抱いた
し、更に鉱山の権益の攻防が控えていた。しかし、国民の反ベルギー感情は根強くあり
、コンゴ人兵士の、ベルギー人将校への反乱事件をきっかけに全国に暴動が拡大する。
ベルギー人と見るや略奪・暴行を加える事件が相次ぎ起こったのである。事態を重く見
たベルギー政府では、ベルギー人の保護を理由として軍隊を出兵させ、カタンガ州首都
のエリザベートヴィル、カサイ州首都のルルアブールに軍隊を送り込み、ベルギー人を
解放した。このようなベルギー軍の行動に対して、コンゴ軍が反発。各地でコンゴ軍と
ベルギー軍の衝突が始まるのである。そんな中、07月11日に突如としてコナカ党のチョ
ンベがカタンガ州の独立と、カタンガ共和国の独立を宣言してしまうのである。ここで
カタンガの分離独立闘争が起こるのである。カタンガ州は、天然資源が豊富な地域で、
コンゴの国民総生産への貢献も高くあって、チョンベはカタンガ州の豊富な収入を自分
たちで、敢えて独占することを目論んでいた。そんなカタンガを、ベルギーを始めとし
たヨーロッパ諸国は、密かに知り、支援していた。反ベルギーの姿勢を貫くルムンバへ
の対決姿勢を強めた。というのもありますが、カタンガ州には、自分たちの資本が入っ
た鉱山が多数あったため、利権絡みで州民も分離を望み、チョンベを支持したわけであ
る。ルムンバとカサブヴの両人は、ベルギー軍へ軍の撤兵を要求、ベルギー側は「法と
秩序が回復されない限り撤兵できない。」としてさらなる軍事介入を続けていった。

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23/08/23 14:04:40.56 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・12

 ここでコンゴ政府は、国連軍に介入を要請した。マリ、スーダン、アイルランドから
なる国連軍が、コンゴに進駐し、ようやくベルギー軍は9月初旬に撤兵した。しかし、
相変わらずカタンガは、独立の旗は降ろさず、独立した状態が続き、加えて8月には、
ジルバ族の住むカサイ州南部が「南カサイ鉱山国」として独立を宣言して、更に混迷の
道に進む。これ以上の分離は断固として認めない。という姿勢を見せるため首相ルムン
バは、国連事務総長ダグ・ハマーショルドに、国連軍のカタンガ攻撃を要請。そして、
コンゴ軍のカタンガ攻撃の検討を開始した。しかし、これを危険視した大統領カサブヴ
はルムンバを解任し、後継にジョセフ・イレオを任命する発表を行いました。一方で、
ルムンバもカサブヴを解任する声明を発表。コンゴ政府内での決定的な対立が生じて、
中央政府自体が混乱状態に陥っていった。 9月14日、陸軍参謀長ジョゼフ・モブツは、
クーデターを行い議会を停止させ、軍主導の暫定委員会を発足させた。カサヴブは暫定
委員会に協力しますが、ルムンバは反発し次第に孤立していき、本拠地のスタンレーヴ
ィルに逃亡しようとしたところを、軍によって逮捕された。これに対し、ルムンバを、
支持する勢力はスタンレーヴィルで新政府の樹立を宣言。ここにおいて、コンゴ共和国
はレオポルドヴィルとスタンレーヴィルの2つの政府の対立状況が発生した。スタンレ
ーヴィル政権は、軍をカタンガ州北部に侵入させルアバラ州として独立宣言する。など
混迷を極めていく。ここにおいて、レオポルドヴィル政権は捕えたルムンバをカタンガ
州のチョンベの元に移す決定をした。レオポルドヴィル政権とカタンガは対立していま
したが、当面の混乱を抑えるには、まずはルムンバのスタンレーヴィル政権を屠って、
それから話し合いで解決しようという目論見であった。ところが02月13日カタンガ共和
国は「ルムンバが殺害された」と発表。普通に考えたらチョンベの指示の元殺害された
と考えるのが筋ですが、公式発表ではカタンガからスタンレーヴィルへの脱走中に住民
に殺害された。とされた。つまり暫定軍事政府モブツ側がルムンバを殺した事になる。

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23/08/23 14:05:01.91 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・13

 この発表に国際世論はコンゴ政府、カタンガの両方に対して非難が集まり、各国政府
のみならず民間レベルでも抗議デモが発生し、中にはスタンレーヴィル政権を承認する
国までも現れ始めました。コンゴ問題の国際的な懸念が高まる中で、国連安保理事会に
おいて、コンゴ問題に関する決議を採択した。コンゴの統一状態の回復、治安の回復、
議会制の復活、軍隊の再編などが盛り込まれた。カタンガに 利権がある西側諸国も、
カタンガの分離独立を潰さなければ、コンゴの混乱は収まらないと見たことに加えて、
放って置いたら、カタンガがソ連の影響によって共産化してしまう、という恐れもあっ
たからだ。既にソ連側の影響も出始めていた。このような国連の動きに対し、レオポル
ドヴィル政権も、カタンガ政権も、「自らの問題はコンゴ自身で解決する。」として、
外部の介入を拒否し、安保理決議の無効を宣言した。カサブヴは各党を集めて特別国会
を開き、シリル・アドウラを首班とする挙国一致内閣を樹立させた。アドウラは一刻も
早い コンゴの統一の回復を訴え、国連もこれを支持した。カタンガのチョンベはこれ
を認めず、「全人民的抵抗」を訴えて、カタンガ憲兵隊と国連軍の衝突も発生するまで
事態は緊張した。ここで、介入しようとした国連事務総長ハマーショルドはカタンガ行
の飛行機で謎の墜落事故で死亡し、ますます国際社会と、カタンガの関係は冷え込んで
いく。12月15日、とうとう国連軍は、カタンガの首都エリザベートヴィルに侵攻して、
カタンガ憲兵隊を圧倒。チョンベは、アドウラ政府に「カタンガの分離の放棄」を認め
たキトナ協定を結びました。チョンベ側は、その後もあの手この手で カタンガの維持
を目論んだが、国連総長ウ・タントはチョンベに重大な警告を発した上で、制裁措置を
実施する。国連軍は、再度首都エリザベートヴィルを制圧し、チョンベはとうとう、カ
タンガの全域を国連軍に委ね、カタンガの独立消滅を宣言。1963年01月18日になって、
正式にカタンガは消滅した。こうしてコンゴ共和国内の混乱に国連の積極介入が功を奏
した形で終わった。

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23/08/23 14:05:25.59 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・14

 政治家同士の反目、部族同士の対立、諸外国の利権、イデオロギー対立などなどの、
色々な事情が絡み合った 結構複雑極まりない状況で進んだ内戦で、チョンベもルムン
バもカサブヴも、別に、混乱状態を望んでいるわけではなく、何とか必死に和平をしよ
うと画策していた。それでも、なにせ利害が麻のように絡まっており、一筋縄ではいか
なかったに違いありません。下手を打つと、自分のみならず、一族郎党、部族もろとも
抹殺される恐れがあるわけなので、何しろ産業も食糧も無いまま、鉱山や象牙という、
他国の干渉が詰まる特産物が豊富であった。ベルギーから独立したコンゴは、中央政府
の主導権争いと部族間抗争が内戦に発展して、東部が分裂し、カタンガ共和国を名乗る
など、国家分裂の危機を迎えた。国連を始めとした国際社会の介入で、なんとか内戦は
終結したが、相変わらず不安定な状態が続いた。再度の国家分裂の危機を迎えたコンゴ
を救うべくしてクーデターを起こした軍人モブツが、自ら独裁者となって、独自の改革
を進めていく。再度の分列の危機は、抗争に敗れたルムンバ派残党がゲリラとなって、
革命を目指した「シンバの反乱」が引き金となった。クーデターによって混乱の収拾に
当たった軍人モブツが、全権を掌握し独裁体制を築いていく。1963年にチョンベのカタ
ンガ分離政権の目論見が失敗に終わったことで、コンゴ動乱は終結し、再びにコンゴは
統一されたが、内乱によって、インフラは破壊され、経済はどん底状態であった。ここ
で、ルムンバ派残党が中心となり貧困農民を集め、ソ連や中国の支援も取り付けた上で
左派ゲリラ活動が展開される。彼らの目的は「コンゴを再び独立させる」事で、北東部
を中心にスタンレーヴィル、キンドゥ、アルベールヴィルなどの主要都市を「解放」し
ていった。左派ゲリラの兵士たちは自分たちのことを「シンバ(ライオン)」と呼び、
シンバの兵士たちは、入会に際し儀式を受けた。それは胸部と前額部に切り込みを入れ
、「ルムンバの水」と呼ばれる魔法の水をかけると無敵になり銃弾も跳ね返す、という
ものであった。

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23/08/23 14:05:50.62 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・15

 彼らは、とうとう9月中旬には反政府勢力の頭領、クリストファー・グベニエにより
「人民革命政府」の樹立が宣言された。全くソ連・中国式である。再度の分裂の危機を
迎えて、アドウラ政権は、より中央集権的な憲法を定め、国名を「コンゴ民主共和国」
に改めるなどの改革を進めた。しかし煽られて中央政府内部の対立も高まっていくのだ
。そこでアドウラはスペインに亡命していたチョンベに帰国を要請した。コンゴ動乱で
カタンガ分離を企んで、コンゴ政府に弓を引いた張本人を、なんとコンゴ政府のトップ
に就任させることになってしまったのだ。復帰したチョンベは、左派ゲリラ勢力(ルム
ンバ派残党)を除く勢力と、挙国一致内閣を組閣し、コンゴ軍の立て直しや反転攻勢の
陣頭指揮を執った。加えて、アメリカ軍とベルギー軍がグベニエが占領するスタンレー
ヴィルに捕えられた「ヨーロッパ民間人解放のための軍」を派遣すると、チョンベも同
じタイミングでスタンレーヴィルへの侵攻を開始。とうとう シンバ反政府勢力を鎮圧
することに成功しました。これまでのカタンガの富の賄賂を充分持ち、他部族を衆知し
独立を謀ったチョンベの力量であった。左派ゲリラ勢力の鎮圧後、中央政府ではやはり
と、首相チョンベと大統領カサブヴの仲は、険悪化する。カサブヴは、チョンベの復帰
は国内再統一までの、あくまで暫定的な措置という考えで、チョンベは政権の長期化を
目指し始め脅威になるからだ。そんなチョンベを疎ましくカサブヴは、10月中旬にとう
とう大統領権限でチョンベを罷免。しかしチョンベが、トップのコンゴ国民会議派党が
主流の議会では、民主主義が動かず、議会はレームダック状態に陥った。1965年11月25
日、再び軍部がクーデターを起こし、政権を掌握。カサブヴは大統領から退けられ、代
わりに最高司令官モブツが大統領に就任した。モブツは憲法を停止し、国会も事実上、
解散。大統領選挙の延期や5年間の政党政治の停止などを宣言し、安定するまで軍部が
国をコントローする。とした。

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23/08/23 17:07:47.71 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・16

 確かに、これ以上の中央政府の混乱は再びコンゴ動乱の悪夢を繰り返す可能性があり
、まずは政府を安定させることが一番大事ということは理解できた。しかしながらも、
モブツは、当初宣言していた共和制への復帰をいつまでも認めず、自らを絶対とした、
独裁化を進めていく。軍人モブツは、まず自らへの権力の集中を進めた。立法権を議会
から大統領に移管し、議会は、大統領の出した法案をただ承認するだけの機関とされた
。ライバルの粛清も進める。アバコ党のカサブヴは自宅軟禁され、チョンベは再び国外
に追放。その他の有力な閣僚経験者は処刑され、長年自らの右腕であったムランバすら
解任してしまった。その後は首相職を廃し、大統領の行政上の権限を強化して、さらに
権力集中を進めた。しかしチョンベは大衆を組織化するため、革命人民運動(MPR)を成
立させた。各州の労働組合・婦人団体・青年団体を束ねて州知事・市町村長に支部長と
して管轄させ、総裁としてモブツが君臨する。という体制になって、コンゴ国民全員が
MPRの指導下に入るという、巨大な体制翼賛組織である。これに抵抗する学生団体や
左派グループは強権的に弾圧され、容赦なく投獄された。こうしてすべての権限を手に
入れたモブツは、1967年6月に新憲法を制定し、国民投票で98%の圧倒的賛成で承認を得
た。次いで1970年11月に大統領選挙に唯一1人だけ立候補し、当選、そして議会選挙は
MPRが作成した420名の名簿リストを国民投票にかけ、98%の賛成でこれまた可決され
た。続いて行われた憲法の修正し、MPRは政党から国家機関に格上げされて、議会も
裁判所もすべてがMPRの一機関になり、また国民も全員MPRのメンバーということ
が法律で定められた。ここで、村民の若者が軍事訓練されて、更に、混迷の原因を作る

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23/08/23 17:08:08.18 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・17 第一次シャバ戦争

 こうして、ヨーロッパ的なものを廃し、ザイール的なものに復帰するモブツは、自ら
提唱した「真正(オータンテイシテ)」という概念運動を具体化するために「ザイール
化政策」を進めた。これは、政治・経済・文化・社会のあらゆる事柄に存在する「ヨー
ロッパ的」な事物を捨て去り、先祖伝来の「ザイール的なもの」に復帰しよう。という
、中国の文化大革命の逆バージョンのような、韓国の反日政策のようなものです。国名
はコンゴから「ザイール」に変更され、町の名前もレオポルドヴィルは「キンシャサ」
に、エリザベートヴィルは「ルブンバシ」に、スタンレーヴィルは「キサンガニ」に、
変更された。また自らの名前もジョゼフ・モブツから「モブツ・セセ・セコ」と改め、
ザイール的な名前への変更を全国民に義務付けました。国民の服装は、ジーパンやシャ
ツのような洋風の服装は禁じられ、男性は「革命服」、女性は「伝統的な服」を着るよ
うに命じられた。イスラム式の外国依存脱却の「経済のザイール化」の美名の元、外資
企業が次々と国営化された。中小企業もすべてザイール人への売却を命じられた。さら
にマネージャーや経営者などの、知的労働者もザイール人に置き換えられるように指導
がなされて行く。その結果、技術的に未熟なザイール人が 経営や管理といった重要な
意思決定を行うことになって、外貨収入が激減する。一方で対外債務は、急激に増加。
1976年から1983年の7年間で債務が5倍以上に膨れ上がった。共産主義独裁に起こる中国
式の不良化である。こうして経済的な危機を迎え、モブツは経済の急激なザイール化を
諦め、投資法を改正し外資導入を図らざるを得なくなったのでありました。モブツ体制
は、国内では強固なものだったが、国外では、亡命コンゴ人を主体に反モブツ政治団体
・武装組織が、周辺各国の支援もあって多数生まれていた。ベルギーに拠点を持つ民族
主義団体・コンゴ復興行動運動(MARC)、フランスに拠点を持つ左派団体の、アフリカ
社会主義戦線(FSA)、スイスに拠点を持つコンゴ=キンシャサ解放民主勢力などなど。
次々に反政府支援組織が出来上がった。中でも最大の反モブツ武装勢力が、シャバ紛争
を引き起こすことになるコンゴ解放民族戦線(FNLC)である。

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23/08/23 17:08:32.06 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・18 第一次シャバ戦争

 このコンゴ解放民族戦線は、コンゴ動乱を戦ったカタンガ兵の残党のうちで、隣国の
アンゴラに逃れた連中で組織された。アンゴラの宗主国のポルトガルの支援を受けて、
組織した。アンゴラ独立後、コンゴ解放民族戦線(FNLC)はアンゴラの左派武装勢力・
アンゴラ解放人民運動(MPLA)と連携した。モブツは、この民族主義勢力の、アンゴラ
民族解放戦線(FNLA)とアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を支援しており、FNLC は
、MPLAと連携しアンゴラ革命を進め、1975年にはアンゴラ人民共和国が成立することに
なった。ポルトガル支援と、ベルギー支援が整って合併した形だ。アンゴラ人民政府の
ネト政権の支援を受けたコンゴ解放民族戦線は、反モブツの戦いに本格的に乗り出し、
1977年3月、ザイールのシャバ州(旧カタンガ)へと侵攻を開始した。つまり鉱山の、
利権奪取に動いたのである。1,500~2,000の部隊でアンゴラ国境の町ディロロを落とす
と、キセンゲ・カジ、サンドア・カパンガと「アンゴラ~ザイール」間を結ぶ鉄道沿い
に添って町々を、落としていきました。迷惑なのは住民である。家は焼かれ、反対派は
殺されて行った。コンゴ解放民族戦線が目指すのは、シャバ州南部の、鉱物資源のある
鉱山都市ルブンバシ(旧エリザベートヴィル)であった。ザイール経済の、中枢都市を
占領することによって、反体制派のモブツ政権を 崩壊せしめようという作戦でした。
一方のザイール軍の方は、大同団結したものの、防衛体制が全く整っておらず、シャバ
州全体の防衛には、わずか3,000~4,000名しか兵を配備しておらず、兵器や武器弾薬の
供給もなく、次々とコンゴ解放民族戦線軍に打ち破られていった。モブツは西側諸国に
当然支援を求めた。アメリカ、フランス、ベルギーなどの西側諸国は、アンゴラの共産
化の二の舞いを避けるべし。ということで、遅ればせながらも積極支援に乗り出した。
4月に フランス空軍の支援を受けたモロッコ軍地上部隊 1,500名がシャバ州に到着し
、ザイール軍と共に コンゴ解放民族戦線に攻撃を加え、ムチャチャ、ディロロ、カバ
ンガと主要都市を奪還。とうとうアンゴラ側に、追い返すことに成功しました。

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23/08/23 17:08:58.64 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・19 第二次シャバ戦争

 こうして第一次シャバ紛争は終結したものの、ソ連中国の支援は続き、その1年後の
1978年5月に、再びコンゴ解放民族戦線の 約4,000名がアンゴラからザンビアを経由し
、再びシャバ州に侵入した。今度は、モブツは直ちに国家総動員体制を組むとともに、
アメリカ、フランス、ベルギー、モロッコ、中国などに軍事支援を要請しました。しか
し、この時のコンゴ解放民族戦線は用意周到で、わずか2日後に鉱業都市コルウェジ・
ムチャチャが占領されました。中国のソ連側へ内通でボロ敗けした。コルウェジ・ムチ
ャチャには、鉱山で働くヨーロッパ人技術者が多数駐在していて、コンゴ解放民族戦線
は、この情報によって、効率的に彼らを人質にとって、関係各国に妥協を迫る交渉をし
ました。こと自国の国民の人質解放の交渉である。西側諸国は、協議の上、フランス・
ベルギーが、降下部隊を出して人質の救出に当たり、アメリカ・イギリスは後方支援に
当たることに決定。05月19日にフランス軍とベルギー軍の特殊部隊が、コルウェジ・ム
チャチャに急襲し侵入し、人質を救出。しかし、既に200名もの人質が 殺害されていた
という結果になった。これにも中国の内通があったとされる。重要な人質を奪われた事
で、コンゴ解放民族戦線の兵はアンゴラ側に撤退した。それを見て、フランス軍ベルギ
ー軍も、怒りのままだったが撤退し、再度の軍事衝突を防ぐためにモロッコ軍を主体と
する、アフリカ多国籍軍の常駐が不可欠として、シャバ州に駐屯し、監視任務に当たる
ことになった。しばらくは ザイールとアンゴラの緊張関係は続きますが、コンゴ人民
共和国の仲介で和解し、ネト大統領がザイールを訪問し緊張緩和がなされた。モブツ側
は、多種多様な部族を統合するために、強権的な独裁体制を築き上るしかなく、国家の
統合の中心施策として「ザイール化」を進めようとした。ただし、経済も社会も文化も
全てを、ザイール化しようというのは、どだい無理な話で、欧州化を捨てたかなりラデ
ィカル方策は、経済的には低迷させることになってしまった。そして、国内を強権的に
締め付けたために、反体制勢力は国外に逃亡しこれは結果的に、コンゴの国内の争いを
、近隣諸国との争いにまで巻き込んで発展させてしまうことになった。

118:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 17:09:22.51 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・20  第二次シャバ戦争

 1990年代に入り 近隣諸国の紛争がコンゴに飛び火。悪夢の第一次・第二次コンゴ戦争
が勃発することになる。国内の安定を最優先に掲げた軍人モブツは、反対勢力や政敵を
徹底的に弾圧。行政・立法・司法組織を党の一部門にし、また国民全員を党のメンバー
として、自らをトップに据える独裁体制を構築した。一方で国外に逃れた反体制勢力は
、近隣諸国の政府などと結びついて、戦いの構図が、芋づる式に飛び火拡大。アフリカ
諸国を巻き込んでいく。1996年に発生したコンゴ戦争は、560万人以上の 死者を出した
最悪の戦争となった。このザイール化政策の失政、国際的な銅の価格の下落、そして、
シャバ戦争による混乱もあって ザイール経済は益々低迷を続けた。1983年以降IMF
の勧告による経済再建計画を実施して、また五ヶ年計画に基づく経済改革によってテコ
入れを図って、外資の導入に、本格的に着手し、一方で、1989年からは東側諸国の独裁
体制が、相次いで崩壊していき、国内外からザイールの独裁体制に対する批判が相次ぐ
ようになった。そこで、モブツは 1990年4月に一党制の終了と、複数政党制の導入を
宣言する。11月に憲法が修正され翌年2月には66もの新政党が登録された。又、一方で
モブツは、憲法で定められた大統領職の 三選禁止を無視して「民主化は受け入れるが
、かつてのような部族的派閥主義へ逆行することのないように。」と大統領職を、継続
することを宣言したのでした。しかし、この同時期に、ザイールの隣国のルワンダでの
部族同士の、反目を背景にルワンダ紛争が勃発していた。ルワンダの2大部族フツ系と
ツチ系の対立である。当時のルワンダ政府はフツ系で、モブツのザイールと良好な関係
にあった。これが一方で、フツ系が主導する政府に弾圧されたツチ系の一部が、隣国の
ウガンダに逃れて難民化する。

119:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 17:09:44.21 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・21   第二次シャバ戦争

 この時に、ザイールにも、多数のツチ系が逃れてきており、当時のザイールはツチ系
を「バニャムレンゲ(バニャルワンダ)」として国内で居住することを許可していた。
ウガンダに逃れたツチ系は、ウガンダ政府の支援を受けて、武装組織の「ルワンダ愛国
戦線」を結成したのである。そして、ツチ系のルワンダ帰還と、フツ系政府の打倒を、
掲げて闘争を開始した。ルワンダ愛国戦線の軍が、1990年10月に ルワンダに侵攻し、
ザイールのバニャムレンゲも、このルワンダ愛国戦線との連携を図り、フツ系の戦闘が
ザイール東部や国境地帯まで多発するようになっていった。こうして、暴虐のルワンダ
内戦は、ルワンダ愛国戦線が、フツ系の政府を打倒して終結した。しかし、内戦が終結
した後の1994年、政権を追われたフツ系の、旧政府関係者、旧ルワンダ軍は、イスラム
系母体の、過激派組織インテラハムウェ、さらには、ツチ系を憎むフツ系住民が、ツチ
系の根絶を目指して、更に大きな大虐殺を始めた。世に名高い、「ルワンダ虐殺」であ
る。この時の虐殺は100日間続き、80万人~100万人ともいわれるツチ系が虐殺された。
そして、ツチ系政府や軍、住民の報復を恐れたフツ系は、相次いでルワンダを脱出し、
ザイールに逃れ始めた。この難民の中には、フツ系の過激派組織インテラハムウェも、
多く含まれており、以前からザイールに住んでいた ツチ系住民を敵視し殺すなど乱暴
狼藉を働き始める。さらにはツチ系の、ルワンダ政府の打倒を掲げる目指す勢力まで、
現れた始めため、発足したばかりのルワンダ新政府にとっては、叩き潰しておかねば、
ないイスラム原理主義集団であった。ルワンダ政府は、ザイールに住む同族のパニャム
レンゲへの軍事支援と武装組織化を行い始めました。パニャムレンゲは「ムレンゲの人
達」の意味で境界周辺の人々を指した。インテラハムウェとはルワンダ語で「共に攻撃
する者」または「共に働き団結する者」と言うが、此の組織も一つでなく、軍事訓練が
起こった事で、その後難民キャンプの若者を引き抜き 多数の部隊が自衛の集団を作っ
ていた。

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23/08/23 21:44:05.35 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・22  第一次コンゴ戦争勃発

 1996年08月31日、ザイール東部にて、しばらくは沈静化していたものの、ザイール軍
とルワンダのツチ族との散発的な戦闘が発生すると、ルワンダ軍が組織した、パニャム
レンゲが一斉蜂起を開始した。このツチ系の反乱は、当初はフツ族過激派に対する戦闘
であったが、パニャムレンゲの蜂起が、ザイール国内外の様々な反体制派の一斉蜂起を
促す結果を掘木起してしまいます。反モブツの勢力は、ウガンダに拠点を持つ反体制派
で、盗賊の首領(ドン)のローラン・カビラをトップに据えて、「コンゴ・ザイール解放
民主連合(AFDL)」を結成した。このAFDLはウガンダ、ブルンジ、ルワンダの支援を受
けて、特にルワンダ副大統領兼国防相の、ポール・カガメはモブツ政権打倒のために、
主体的な役割を担う。もはや単なる部族間の抗争ではなく、国家間の戦争の様相を呈し
た。開戦後、しばらくは、東部とルワンダ国境付近で、このAFDLが、占領地帯を設け、
他国の支援を受け、一進一退の攻防を続けていた。この時占領地帯では、ルワンダ軍と
AFDLによるフツ系への虐殺事件も多発していた。この時、20万人のフツ系住民が虐殺さ
れた。と言われています。しかし、ここで、1997年、突如としてアンゴラ軍がザイール
に侵入。アンゴラはモブツ政権と連携している反政府右派勢力・アンゴラ全面独立民族
同盟が、ザイールでAFDLと戦っていることを名目に、AFDLやウガンダ、ルワンダ、ブル
ンジと連携してモブツ政権打倒の兵を興したのである。これによって均衡は破れた。ザ
イール軍は首都キンシャサに向かって、雪崩を打って逃げていく羽目になった。ここに
ソ連の国際旅団の南米からの支援があったとされる。1997年5月にはAFDLと連合軍は、
キンシャサを包囲。もはやこれまでとモブツはモロッコに亡命。キンシャサに入場した
ローラン・カビラは、自らの大統領就任と「コンゴ民主共和国」の設立を宣言した。
こうしてアンゴラの参戦し、モブツ政権の崩壊をみるのである。

121:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 21:44:34.90 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・23    第二次コンゴ戦争勃発

 この後亡命したモブツは、疲労がたたってか、6月に死亡した。こうして第一次の、
コンゴ戦争は、フツ系パニャムレンゲが、主体のAFDLとして、近隣諸国の支援を受けて
勝利し、ザイール共和国を打ち倒すことに成功したのであった。しかし、共産国がわの
支援を受けた大統領であった。大統領に就任したローラン・カビラは、すぐさま「終身
大統領」を宣言する。自らが理想とする、資本主義と社会主義の融合の政策を実行して
いこうとしますが、発足当初から、カビラ政権は、彼を大統領に押し上げたルワンダと
ウガンダの影響が非常に強いものであった。カビラはコンゴ人でしたが、一般のコンゴ
人は、「まるで外国に占領されたようだ。」と反発を強めることになった。カビラは、
政権と国内の安定のために「脱ルワンダ・脱ウガンダ」を図り、コンゴ人による政権を
目指すようになる。1998年7月、カビラはルワンダ人の首相ジェームズ・カバレベを、
解任し、後任にコンゴ人であるセレスティン・キフワと置き換える人事を発表。さらに
2週間後、カビラは「ルワンダ軍とウガンダ軍のコンゴからの即時撤退」を要求した。
AFDLの尤も大きなパトロンであった ルワンダ軍とウガンダ軍の撤退は、それまで武力
でフツ系を押さえ込んでいたツチ系の身が、今後は危険になることを 意味したため、
パニャムレンゲは危機感を強めました。ツチ系を裏切るカビラを見て、ルワンダ政府は
、同族ツチ族が虐殺される可能性が高まったと見て、再度コンゴ東部に介入し、パニャ
ムレンゲの武装勢力を糾合してコンゴ民主連合(RCD)を結成させた。再度の ルワンダ
、ウガンダ、反カビラの軍を組織するのである。ウガンダ政府では、この頃油田が見つ
かり、中国資本のパイプライン構想が持ち上がっていた。それほど中国は肩入れしてい
た。

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23/08/23 21:45:21.91 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・24    第二次コンゴ戦争勃発

 ウガンダ政府側では中国資金を得て、コンゴ人の反政府勢力、コンゴ解放運動(MLC)
コンゴ民主連合解放運動(RCDーML)、コンゴ愛国同盟(UPC)といった勢力に、資金や
武力支援を行っていく。1998年8月に、緊張が続いていたコンゴ民主連合とコンゴ軍と
の間で、とうとう全面的な戦闘が、広域的に開始された。第二次コンゴ戦争の勃発です
。コンゴ民主連合を中心とする、反体制派は東部から首都キンシャサを目指して進軍を
進めますが、一方でコンゴ軍も東部地域で攻勢を強め、また、インテラハムウェを始め
としたフツ系勢力の武装勢力も根強く、全土で戦闘が起こりました。首都キンシャサに
反政府軍連合が迫り、カビラは、危機に陥りますが、カビラは今度は チャド、ジンバ
ブエ、ナミビア、アンゴラ、スーダンといったアフリカ諸国連合の支援を取り付けます
。こうして、コンゴを舞台としたアフリカ諸国の大戦の様相を呈してきます。1998年9
月、ジンバブエ軍が、首都キンシャサに到着し防御態勢を整え、アンゴラ軍は首都に迫
った反乱軍と、散発的な戦闘を行い、少し膠着した。首都近辺から、反乱軍が追い出さ
れ、戦線は一旦休止しますが、ウガンダとルワンダの軍が、介入に乗り出すとアフリカ
全土を巻き込む大戦に発展する恐れもあり、緊張状態が数ヶ月続いていく。1999年1月
、南アフリカのマンデラ大統領の仲介で、停戦合意がなされ、ルワンダ、ウガンダ、ア
ンゴラ、ナミビア、ジンバブエは撤兵に合意します。しかしこのサミットでは、コンゴ
民主連合や、カビラといったコンゴの当事者たちは、蚊帳の外で招かれなかったため、
アフリカ大戦という、最悪の事態は免れますが、コンゴ内では相変わらず戦闘が続く事
になりました。この親カビラ諸国連合軍の反撃が出来なかった事で大きな戦争にはなら
なかったが、その後、国連平和維持軍が派遣されて、紛争の終結を目指し、1999年7月
にコンゴ、ルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ナミビア、ジンバブエが「ルサカ協定」に
調印した。

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23/08/23 21:45:42.03 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・25   コンゴ戦争の停戦

 しかし、この協定にも ほとんどの反体制勢力が含まれておらず、国連安全保障理事
会が、24時間以内の即時停戦を訴えるも、散発的な戦闘は、全土で起こり続けていた。
加えて8月になって、ウガンダ軍・ルワンダ軍の、キサンガニ侵入にコンゴ政府は反発
し、両国軍に反撃を開始。ルワンダ軍は、首都キンシャサに迫り、コンゴ軍への反撃を
開始。協定は完全に反故にされ、戦闘が継続された。そんな中に、2001年01月16日の、
首都キンシャサで、カビラが大統領宮殿内の警備兵によって、暗殺されてしまいます。
こうして、コンゴ政府の権力の不在によって、再び近隣諸国や反体制派による介入が起
こることを恐れたコンゴ議会は、国際社会からの後押しもあって、29歳のカビラの息子
ジョゼフ・カビラを、大統領に選出し、指導者に据えた。再度の南アフリカの ムベギ
大統領の仲介で、2002年4月に南アフリカのサンシティで、各勢力による協議がなされ
ますが、結局は決裂した。しかし、07月30日、再度南アフリカのプレトリア市での平和
条約が調印されて、ルワンダとコンゴ間の問題の締結がなされ、コンゴからのルワンダ
兵の撤兵と、フツ族過激派インテラハムウェの軍備の 大幅解除などが盛り込まれて、
話し合いが進んだ。遂に09月06日に合意にまで及び、ウガンダとコンゴの平和条約が、
締結されるに至った。こうしてウガンダ軍の、コンゴからの軍撤退が締結されました。
そして2002年12月17日、コンゴ民主連合(RCD)、コンゴ解放運動(MLC)、コンゴ民主
連合解放運動(RCD-ML)の主要反体制派によって「プレトリア包括合意」が締結され、
これによって正式に第二次コンゴ戦争は終結しました。復讐が復讐を呼び、270万~540
万もの命が失われた、人類史の中でも最悪の部類に入る現代の戦争であった。


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