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安倍さんが撃たれた瞬間に薄れゆく意識の中で思っていたであろうこと - 暇つぶし2ch100:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 12:02:11.15 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・2

 1476年、ディオゴ=カンがコンゴ王への、最初の西洋人の謁見が許され、以降ポルト
ガルとコンゴは、次第に、経済的・文化的・宗教的な 結びつきを強めていきました。
初期においてのころの、関係は対等で、大変良く、様々な技術者がコンゴに渡って技術
を伝授し、コンゴからは留学生が、ポルトガルで学習するなどしている。コンゴ王ヌジ
ンガ=ムベンバは、キリスト教の洗礼を受けたし、ドン=アフォンソ1世と称するほど
であった。しかしながら、欧州社会での黒人の地位は、当初からペットや家畜の位置付
けで、単にアフリカ社会に対して、猿の惑星同等に、家畜の社会に入った様相であった
事と同じに、へりくだっていたのみだった。このドン=アフォンソ1世のの洗礼を皮切
りに、ポルトガル商人による奴隷貿易がスタートした。西洋社会に黒人と言う人間が、
いる事が知れ渡った時であったのだ。当初は、試験的に始まった交流と奴隷商売だった
が、それが大きな富を生むことが分かると、ポルトガル商人は奴隷貿易目的でコンゴに
先を争う様に、来訪するようになっていった。ポルトガル商人達は、コンゴの商人に、
兵器・武器を売り捌き、商人は、傭兵を雇い地方の村落に攻め込ませて奴隷を確保し、
ポルトガル商人に売り渡すと言う蛮行が常態化する。この奴隷狩りによって地方は荒れ
放題、アフリカは混乱していき、事態を憂慮したドン=アフォンソ1世は、ポルトガル
王ジョアン3世に、たびたび奴隷貿易の中止を求めた。だが、そのたびに無視されてし
まった。当然であった。ポルトガル王もバチカンでも、この異種文化の破壊と、奴隷に
よる収益と人々の無償の召使いに、喜々として受け入れて、黒人=物言う家畜という、
設定が公然と宗教説明や国の法にのる環境にいたからだ。失意の中でドン・アフォンソ
1世は死去し、その後は、奴隷貿易は、ますます盛んになり、コンゴ王国は衰退の一途
を辿ることになっていった。実は、ザイールコンゴなどは、既にあったモロッコやガー
ナなどの先行奴隷の、後に浸食されて行く土地であったのだ。

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23/08/23 12:02:36.66 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・3

 19世紀後半になり、それまでよく分かっていなかったアフリカ内陸部の地理が明らか
になってくると、ヨーロッパ諸国では、これらの国々を領有して、積極的に未開発の富
を獲得する機運が高まってきた。時は折しも産業革命期であった。ベルギー王レオポル
ド2世は、隣国オランダにおいて、東南アジアや南米などで積極的に植民地獲得に乗り
出している様子を見て、触発されていた。まだヨーロッパの国々が、本格的に触手を伸
ばしていないコンゴでの領有化を目論むようになった。フランス、スペインなどと違い
、唯一の海外貿易拠点とも言えるものだった。1878年にレオポルド2世は、ヘンリー・
モートン・スタンリーという男を、コンゴに派遣して、コンゴ各地の 400以上の首長と
「保護条約」を、平和的に結んでいった。驚いたのはポルトガルで、民主的なレオポル
ド2世の行動に、抗議します。が、同じく中部アフリカ周辺地域の獲得を目指していた
、フランス・ドイツはレオポルド2世を支持した。またかねてより、ポルトガルの奴隷
貿易に反対していたアメリカも、レオポルド2世支持に周った。このレオポルド2世に
よるコンゴの主権は、1884年に列強がアフリカ分割について協議するベルリン会議でも
、正式に承認されました。小さな国ベルギーの正義の勝利と言えた。レオポルド2世は
この地を「コンゴ自由国」としますが、自由とは名ばかりで、事実上の支配は、商人達
の自由を規制した、レオポルド2世の私有地であった。しかしながら、これによって、
平和が築かれ、早速、コンゴ自由国政府は、コンゴの土地の経済開発に乗り出します。
まずは土地の確保からだtった。コンゴの人々は土地を占有するという考えを、そもそ
も持っていなかった。所有はあっても、公園の様に自由で、食糧調達のための飼育や、
農地や農園経営などが存在してなかったからだ。

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23/08/23 12:03:03.00 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・4

 政府は全ての土地は「無主地」と決め、これらの土地をいくつかの特許会社に分配し
ていく。本来の王の土地とすべきだが、それでは、レオポルド2世の物で政府は権限を
失うからだ。政府の土地、即ち公有地とし、そうした上で私有地を切り売りして作った
。コンゴ自由国政府は、こうして上コンゴと、下コンゴを貫く鉄道の建設に着手した。
全長 350キロにもなる鉄道インフラには、巨大な労働力を必要とし、コンゴ人だけでな
く、アフリカ各地から多くの労働者が、動員された。既に銅山が開発され、銅貨による
賃金労働者が存在し、貨幣経済の最初が出来たからだ。しかし、難所の多い中央アフリ
カでのこの工事は、過酷を極めた。最初の2年間で動員された7000人の労働者のうち、
3500人が、事故や病気や過労や乱闘や餓死で、死亡または逃亡した。1500人が負傷など
で送還、残ったのはわずか2000人だった。と言う記録が残る。こうした労働事情に次第
に西洋化の知識が芽生えてストや反乱が頻発するようになった。労働者の反抗はレオポ
ルド2世が組織した、自治組織や、公安軍によって厳しく弾圧された。公安軍は、ヨー
ロッパ系の白人の、将校・下士官と、雇われた現地の兵士からなる混成部隊で、コンゴ
自由国の、実質的な治安部隊の軍隊・警察として機能した。公安軍は徹底的な残虐さで
コンゴの人々を震え上がらせた。レオポルド2世にとっては、まさにコンゴ南部にある
銅鉱山鉱物の、豊かなカタンガ州経済と自国ベルギー経済の元となっていて、この併合
も目論み動いていた。当時のカタンガ州には、南からイギリス南アフリカ会社が進出を
目論んでおり、レオポルド2世は、カタンガ会社に特許状を与えて遠征隊を派遣させ、
カタンガの首長と保護条約を結び、コンゴ自由国の支配を確立・維持に力を注いだ。こ
の時にコンゴに組み込まれたカタンガが、後に勃発するコンゴ動乱の火種になった。

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23/08/23 12:03:52.39 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・5

 常に国際紛争の舞台裏は、富の収奪である。特にカタンガには、欧州人の欲しい物が
あった。コンゴ自由国での産物で、多額の利益を上げたのは「ゴム」と「象牙」でした
。政府は、住民を強制的にゴムと象牙の採集へと駆り出され、それぞれの地区にノルマ
が課せられた。達成できなかったら容赦なく公安軍によって手を切り落とされた。とも
言われている。ノルマ未達成の場合の罰は厳しく、住民だけでなく、集荷を担当する、
請負人もその責任を負い、鞭打ちの刑といった厳しい罰則を課せられた。さらに政府は
ゴムや象牙の拠出のみならず、政府の役人や、行政官が贅沢な暮らしをするための食料
や物品の拠出も求められた。それに加えて、4日に1度は「公的な仕事」に駆り出され
、公的施設の建設や、インフラのメンテナンス、果ては行政官の住居の掃除などに駆り
出された。王にはそうした強制は無くとも、次第に現地での私用の使用人化が日常的に
起こったのである。ピラミッド型の指令で多数の集団化支配は、時に厳しく見せしめが
行われて、威厳を保ち、原住民はその忖度をした。しかしながら、コンゴ統治の旨みを
知ったレオポルド2世の統治は、さらなる利益を求めて行く。レオポルド湖から、ルケ
ニア川流域の地域(ベルギー本土の領土の約10倍)を「王室直轄領」とし、1905年まで
の9年間の間に個人的に7100万フラン(約1千憶円)も蓄財した。こうした信じがたい
ほどの暴虐が行われていることを知った 欧米の世論は激しく反発。1903年にイギリス
政府は、コンゴ駐在のイギリス領事ロジャー・ケイスメントに命じて内陸コンゴの調査
報告書を作らせた。この報告書では、コンゴ自由政府の非人道的な行為に対する告発が
書き連なっており、イギリス政府はこれをベルギー政府ならびにベルリン会議加盟国に
送付する。その後、フランスやドイツ、アメリカといった列強もコンゴ問題のベルギー
とレオポルド2世の対応を激しく非難し、ベルギー国内でも政府と王室批判が上がった
。ここに至ってレオポルド2世も重い腰を上げざるを得ず、国際批判の下で動いた。

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23/08/23 14:00:54.66 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・6

 1905年に調査委員会を立ち上げて、上がってきた報告書を元にして、コンゴ人の土地
所有認可やゴムの強制集荷の禁止などの改革を実施することを定めた。しかし、イギリ
ス政府・アメリカ政府、さらにベルギー政府ですら、この改革では不十分であると通告
。この事態を収拾するには、ベルギー政府によるコンゴの直接統治しかない、とした。
これには、レオポルド2世は反発し強く抵抗しますが、1908年11月についに譲歩して、
コンゴ自由政府をベルギー政府の管轄に移管することになった。こうしてコンゴ自由国
は消滅し、ベルギー領コンゴが生まれることになった。レオポルド2世からのコンゴの
統治を移管されたベルギー政府は、それまでの、ダーティーなイメージを払拭すべく、
コンゴ人の商業活動の認可やゴム・象牙の強制集荷の廃止といった改革に着手していく
。しかしながら、時既に遅く、第一次世界大戦が勃発し、ベルギー本国は戦禍に見舞わ
れる事になった。戦時統制色の強い政策が実施され、コンゴ内でも、開発独裁主義が、
前面に押し出され「利益優先」策が採られた。大企業や特許会社が、最大限でコンゴで
利益を上げられるような制度が、そのまま据え置かれることになった。多数のベルギー
人の技術者や家族が、コンゴに移住し、彼らの居住用にエリザベートヴィル(現ルブン
バジ)や、レオポルドヴィル(現キンシャサ)といった都市が建設されていった。さら
には行政整備に必要な 人材を育成するために大学が建設され、ブリュッセルの大学と
併せて、植民地統治に必要な人材の育成が促進されました。その為に、教育の面では、
初等教育を中心に大幅な、発展がみられた。ベルギー政府は、教会の経営する学校に、
補助金を与える政策を打ち出し、これによって、コンゴ各地で初等教育のための学校が
数多く開かれ、当時のアフリカの基準から見ても進んだ教育水準のものとなる。ただし
これは初頭・中等教育に限ってのことで、高等教育は度外視され、1960年代の独立後に
大学を卒業した者は全国民のうちわずか2名という低水準であった。

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23/08/23 14:01:27.46 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・7

 世界大戦期に入って、コンゴ人のナショナリズムに大きな影響を与えた人物がいる。
シモン・キンバングーで、彼は一介の大工でしたが、ある時に神の啓示を受けたとして
、地元ヌサンバで死者を甦らせたり、人々の病を治すなどの奇跡を行い始めた。と言わ
れている。ここで、キンバングーは自らを予言者であると宣言し、人々はキンバングー
の説教を聞こうと続々と彼の元に集まり始めた。キンバングーはヌサンバの村を「イェ
ルサレム」と言い変えた、十二使徒を任命し、自らをキリストと見立てた組織の設立に
乗り出した。彼の興した教えは「キンバンギズム」と呼ばれて、キンバングーの教えに
よってコンゴ人は救済され、ベルギー人はコンゴから去る。と予言した。人々があまり
にキンバングーの教えに熱狂した為に、既存の教会は信者を取られてしまう。また労働
者が、キンバングーの元に大挙して参詣し、工場が操業できなくなったりして、コンゴ
経済の生産性が下落するほどになった。そこでベルギー植民地当局は1921年06月に、キ
ンバングーの逮捕に踏切った。キンバングーは、軍隊が少し目を離した隙に逃亡し人々
はキンバングーが再び奇跡を起こした。と信じ、彼の求心力はさらに高まってしまうの
ある。キンバングーは再逮捕され、1951年に獄中で死亡した。しかしながら、キンバン
グーが始めた運動「キンバンギズム」は、現在でもコンゴでも活動を行っており、同国
では、最大級の独立教会になっているそうです。この時期には、仏領コンゴのアンドレ
・マツワを信奉するマツワニズムなど、大衆レベルでの抵抗運動・民族主義運動が勃興
している。コンゴ自由国は20年あまりしか続きませんでした。が、この20年間の間に、
コンゴは信じがたいほどの暴政を経験し「それまでの 100年で奴隷貿易が与えた犠牲よ
りも、はるかに大きな人間を殺害した。」と言われる。

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23/08/23 14:01:48.83 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・8

 レオポルド2世の強欲さなのか、ベルギーの守銭奴たる国民性なのか、良く判らない
が、西洋の植民地経営は、似たり寄ったりで時代や歴史が一番大きな原因でしょうか。
事実上の私有地という特殊な条件にかこつけて、政治家から一介のビジネスマンまでの
、あらゆる人が一攫千金を狙ってえげつない争いを演じ、歯止めをかけるシステムが、
全く存在しなかったことが大きいように思える。ともあれ、ベルギー領コンゴはとうと
う独立を果たしますが、ここからさらなる悲劇に見舞われることになる。コンゴ王国が
奴隷貿易によって国力を落とした後に、ベルギー王レオポルド2世の治世で、私領化し
た「コンゴ自由国」となり、非道な収奪で多くの犠牲者が出たが、ベルギー領となった
コンゴでも、ナショナリズムの高揚が始まる。しかし、ベルギー政府は暫くの間コンゴ
を手放す気はまったくありません。が国際的な時流は、アフリカの民族自決に傾いてい
き、その流れはコンゴにも押し寄せてきます。コンゴ国の不幸の一つは、ベルギー本国
の地政学にもある。第二次世界大戦が始まると、本国ベルギーは早々とナチス・ドイツ
によって占領されてしまう。しかし、ベルギー領コンゴは、本国の降伏後も抵抗運動を
続けていくことになった。コンゴ植民地政府は、コンゴ公安軍を強化し、エチオピアに
侵攻したイタリア軍の侵攻を撃退する。1941年5月にオーギュスト・ジリアールト率い
る、およそ 8,000人の部隊がイタリア軍を退却させた。また、コンゴは、連合国軍への
資源供給に重要な役割を果たしていた。オランダ領東インドや、イギリス領マレーが、
日本に占領されたことによって、コンゴは、連合国軍のゴムの重要な供給元となったの
である。また、核兵器を作る上でも、重要なウラニウムもコンゴで産出されたもので、
その他、木材、銅、綿花、パーム油、ダイヤモンドなど軍用の需要が急増。コンゴは、
急速に経済発展していくのだった。

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23/08/23 14:02:13.64 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・9

 戦後でも、資源に富んだコンゴは、高い経済成長を続け、ベルギー本国の戦災復興に
も、大きな貢献を果たした。ベルギー政府は、さらなる成長を見込んで10億ドル以上の
資金をコンゴに投資して、鉄道・道路・発電所といったインフラや、病院・学校・政府
施設などを次々に建設していきました。これに伴いコンゴの輸出総額は1953年には4億
ドルを超え、国民総生産10億ドルにも達した。この経済成長に伴い急激な都市化が進ん
で、多くのコンゴ人が地方から都市に移り住むようなって、学校が普及し高いレベルの
教育を受ける人が増えた。このことで近代的な考えや思想を持つコンゴ人が増え、その
ような人たちは1950年代から急速に広がる「アフリカの独立」の大きな潮流を敏感に感
じ取るのである。アフリカ各地で植民地独立の機運が高まり、イギリスやフランスなど
は、近い将来の独立や自治の検討や準備を始めていくが、ベルギーはコンゴを手放すつ
もりは毛頭なかった為に、長く放置された。1955年にアントワーヌ・ヴァン=ビルセン
という教授が、「30年後にコンゴは独立を果たすべきだ。」とする論説を発表し、今の
我々の感覚からすると、30年なんて遅すぎですが、当時はこの論説ですら「理想主義に
過ぎる。」とすら思われている。ところがそうした西洋人の感覚と裏腹に、コンゴ人の
間では、急速に独立への意識が高まっていく。所謂初期教育の壁である。アバコ党(バ
コンゴ族同盟)党首のジョセフ・カサヴブは、「30年など待てない。」として、政治的
権利、集会の自由、思想の自由、出版の自由を直ちに認めることを要求し、主張した。
この頃からアバコ党のカサヴブは、バコンゴ族の間で 急速に支持を広げていきます。
一方で、1958年10月に創設されたコンゴ国民運動(MNC)の党首パトリス・ルムンバは、
コンゴの早期独立を訴えて、急速に支持を広げていき、翌年に「単一国家コンゴ」独立
運動のリーダー的存在になっていた。

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23/08/23 14:02:41.19 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・10

 もう1つの極の動きとして、1958年にバルンダ族を中心とした 東部諸部族連合が、
コナカ党を設立。党首モイーズ・チョンベは東部のカタンガ州諸部族の連合体を率い、
コンゴを独立した連邦国家にすることを目指しました。そうした動きに対し、ベルギー
当局は、主要都市の議会に一部選挙を取り入れるなどの妥協策を採りはしますが、基本
的には独立は決して認めない立場で貫いた。しかし1958年、近隣の中部アフリカ諸国が
次々に独立を達成して、大いに刺激されたコンゴ国民の中では、独立の機運が大いに高
まっていく。アバコ党のカサブヴは、バコンゴ族の居住地域の独立を訴え、コナカ党の
チョンベはカタンガ州の自治権のある形での独立を訴えた。一方で、コンゴ国民運動(
MNC)のルムンバは、バラバラの部族を、強力な中央集権体制での統合すべく、大衆
運動の組織化に乗り出していきました。1959年1月、アバコ党大会の開催を植民地政府
が禁止したことに端を発した暴動が起き、これがきっかけとなり、ベルギー政府はとう
とう方針を転換し、コンゴ独立の検討をスタートする。こうして同月にアバコ党、コナ
カ党、MNCといったコンゴの党の代表を集めて会議を開き、なんとわずか5ヶ月後に
独立させることが決定された。これは、ベルギー政府が完全に引いた形だったからだ。
わずか5ヶ月の間に、新生コンゴは、独立後の国の形を決めなければならない。相当に
無理があるスケジュール設定である。特に厄介な問題が民族問題で、主要な部族だけで
も、バコンゴ族、バルンダ族、バルバ族、バモンゴ族などがいて、少数民族ともなれば
数えきれない。それぞれが独自に自分たちの主張をしていたので、わずか5ヶ月でまと
まるわけがありません。とはいえ、独立をすることになったので、1960年5月に総選挙
が行われ、投票の結果ルムンバ率いるMNCが第一党となった。しかし多数をとること
ができなかったので、アバコ党やコナカ党、他少数の党との連立政権が組まれることに
なる。そして1960年06月30日、コンゴ共和国が発足することになったのだが・・・。

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23/08/23 14:04:16.24 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・11

 初代首相となったルムンバには、形式的には、中央集権体制を敷くも、実質的に地方
の権限を、大幅に認めた体制を構築していくしかなく、連立を組む他の部族の党と妥協
を図るのみだった。と言えよう。そうした上で、国の統合のために強烈な民族主義・反
ベルギーの態度を採った。ベルギー政府は、こうしたルムンバの対応に警戒感を抱いた
し、更に鉱山の権益の攻防が控えていた。しかし、国民の反ベルギー感情は根強くあり
、コンゴ人兵士の、ベルギー人将校への反乱事件をきっかけに全国に暴動が拡大する。
ベルギー人と見るや略奪・暴行を加える事件が相次ぎ起こったのである。事態を重く見
たベルギー政府では、ベルギー人の保護を理由として軍隊を出兵させ、カタンガ州首都
のエリザベートヴィル、カサイ州首都のルルアブールに軍隊を送り込み、ベルギー人を
解放した。このようなベルギー軍の行動に対して、コンゴ軍が反発。各地でコンゴ軍と
ベルギー軍の衝突が始まるのである。そんな中、07月11日に突如としてコナカ党のチョ
ンベがカタンガ州の独立と、カタンガ共和国の独立を宣言してしまうのである。ここで
カタンガの分離独立闘争が起こるのである。カタンガ州は、天然資源が豊富な地域で、
コンゴの国民総生産への貢献も高くあって、チョンベはカタンガ州の豊富な収入を自分
たちで、敢えて独占することを目論んでいた。そんなカタンガを、ベルギーを始めとし
たヨーロッパ諸国は、密かに知り、支援していた。反ベルギーの姿勢を貫くルムンバへ
の対決姿勢を強めた。というのもありますが、カタンガ州には、自分たちの資本が入っ
た鉱山が多数あったため、利権絡みで州民も分離を望み、チョンベを支持したわけであ
る。ルムンバとカサブヴの両人は、ベルギー軍へ軍の撤兵を要求、ベルギー側は「法と
秩序が回復されない限り撤兵できない。」としてさらなる軍事介入を続けていった。

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23/08/23 14:04:40.56 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・12

 ここでコンゴ政府は、国連軍に介入を要請した。マリ、スーダン、アイルランドから
なる国連軍が、コンゴに進駐し、ようやくベルギー軍は9月初旬に撤兵した。しかし、
相変わらずカタンガは、独立の旗は降ろさず、独立した状態が続き、加えて8月には、
ジルバ族の住むカサイ州南部が「南カサイ鉱山国」として独立を宣言して、更に混迷の
道に進む。これ以上の分離は断固として認めない。という姿勢を見せるため首相ルムン
バは、国連事務総長ダグ・ハマーショルドに、国連軍のカタンガ攻撃を要請。そして、
コンゴ軍のカタンガ攻撃の検討を開始した。しかし、これを危険視した大統領カサブヴ
はルムンバを解任し、後継にジョセフ・イレオを任命する発表を行いました。一方で、
ルムンバもカサブヴを解任する声明を発表。コンゴ政府内での決定的な対立が生じて、
中央政府自体が混乱状態に陥っていった。 9月14日、陸軍参謀長ジョゼフ・モブツは、
クーデターを行い議会を停止させ、軍主導の暫定委員会を発足させた。カサヴブは暫定
委員会に協力しますが、ルムンバは反発し次第に孤立していき、本拠地のスタンレーヴ
ィルに逃亡しようとしたところを、軍によって逮捕された。これに対し、ルムンバを、
支持する勢力はスタンレーヴィルで新政府の樹立を宣言。ここにおいて、コンゴ共和国
はレオポルドヴィルとスタンレーヴィルの2つの政府の対立状況が発生した。スタンレ
ーヴィル政権は、軍をカタンガ州北部に侵入させルアバラ州として独立宣言する。など
混迷を極めていく。ここにおいて、レオポルドヴィル政権は捕えたルムンバをカタンガ
州のチョンベの元に移す決定をした。レオポルドヴィル政権とカタンガは対立していま
したが、当面の混乱を抑えるには、まずはルムンバのスタンレーヴィル政権を屠って、
それから話し合いで解決しようという目論見であった。ところが02月13日カタンガ共和
国は「ルムンバが殺害された」と発表。普通に考えたらチョンベの指示の元殺害された
と考えるのが筋ですが、公式発表ではカタンガからスタンレーヴィルへの脱走中に住民
に殺害された。とされた。つまり暫定軍事政府モブツ側がルムンバを殺した事になる。

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23/08/23 14:05:01.91 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・13

 この発表に国際世論はコンゴ政府、カタンガの両方に対して非難が集まり、各国政府
のみならず民間レベルでも抗議デモが発生し、中にはスタンレーヴィル政権を承認する
国までも現れ始めました。コンゴ問題の国際的な懸念が高まる中で、国連安保理事会に
おいて、コンゴ問題に関する決議を採択した。コンゴの統一状態の回復、治安の回復、
議会制の復活、軍隊の再編などが盛り込まれた。カタンガに 利権がある西側諸国も、
カタンガの分離独立を潰さなければ、コンゴの混乱は収まらないと見たことに加えて、
放って置いたら、カタンガがソ連の影響によって共産化してしまう、という恐れもあっ
たからだ。既にソ連側の影響も出始めていた。このような国連の動きに対し、レオポル
ドヴィル政権も、カタンガ政権も、「自らの問題はコンゴ自身で解決する。」として、
外部の介入を拒否し、安保理決議の無効を宣言した。カサブヴは各党を集めて特別国会
を開き、シリル・アドウラを首班とする挙国一致内閣を樹立させた。アドウラは一刻も
早い コンゴの統一の回復を訴え、国連もこれを支持した。カタンガのチョンベはこれ
を認めず、「全人民的抵抗」を訴えて、カタンガ憲兵隊と国連軍の衝突も発生するまで
事態は緊張した。ここで、介入しようとした国連事務総長ハマーショルドはカタンガ行
の飛行機で謎の墜落事故で死亡し、ますます国際社会と、カタンガの関係は冷え込んで
いく。12月15日、とうとう国連軍は、カタンガの首都エリザベートヴィルに侵攻して、
カタンガ憲兵隊を圧倒。チョンベは、アドウラ政府に「カタンガの分離の放棄」を認め
たキトナ協定を結びました。チョンベ側は、その後もあの手この手で カタンガの維持
を目論んだが、国連総長ウ・タントはチョンベに重大な警告を発した上で、制裁措置を
実施する。国連軍は、再度首都エリザベートヴィルを制圧し、チョンベはとうとう、カ
タンガの全域を国連軍に委ね、カタンガの独立消滅を宣言。1963年01月18日になって、
正式にカタンガは消滅した。こうしてコンゴ共和国内の混乱に国連の積極介入が功を奏
した形で終わった。

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23/08/23 14:05:25.59 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・14

 政治家同士の反目、部族同士の対立、諸外国の利権、イデオロギー対立などなどの、
色々な事情が絡み合った 結構複雑極まりない状況で進んだ内戦で、チョンベもルムン
バもカサブヴも、別に、混乱状態を望んでいるわけではなく、何とか必死に和平をしよ
うと画策していた。それでも、なにせ利害が麻のように絡まっており、一筋縄ではいか
なかったに違いありません。下手を打つと、自分のみならず、一族郎党、部族もろとも
抹殺される恐れがあるわけなので、何しろ産業も食糧も無いまま、鉱山や象牙という、
他国の干渉が詰まる特産物が豊富であった。ベルギーから独立したコンゴは、中央政府
の主導権争いと部族間抗争が内戦に発展して、東部が分裂し、カタンガ共和国を名乗る
など、国家分裂の危機を迎えた。国連を始めとした国際社会の介入で、なんとか内戦は
終結したが、相変わらず不安定な状態が続いた。再度の国家分裂の危機を迎えたコンゴ
を救うべくしてクーデターを起こした軍人モブツが、自ら独裁者となって、独自の改革
を進めていく。再度の分列の危機は、抗争に敗れたルムンバ派残党がゲリラとなって、
革命を目指した「シンバの反乱」が引き金となった。クーデターによって混乱の収拾に
当たった軍人モブツが、全権を掌握し独裁体制を築いていく。1963年にチョンベのカタ
ンガ分離政権の目論見が失敗に終わったことで、コンゴ動乱は終結し、再びにコンゴは
統一されたが、内乱によって、インフラは破壊され、経済はどん底状態であった。ここ
で、ルムンバ派残党が中心となり貧困農民を集め、ソ連や中国の支援も取り付けた上で
左派ゲリラ活動が展開される。彼らの目的は「コンゴを再び独立させる」事で、北東部
を中心にスタンレーヴィル、キンドゥ、アルベールヴィルなどの主要都市を「解放」し
ていった。左派ゲリラの兵士たちは自分たちのことを「シンバ(ライオン)」と呼び、
シンバの兵士たちは、入会に際し儀式を受けた。それは胸部と前額部に切り込みを入れ
、「ルムンバの水」と呼ばれる魔法の水をかけると無敵になり銃弾も跳ね返す、という
ものであった。

113:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 14:05:50.62 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・15

 彼らは、とうとう9月中旬には反政府勢力の頭領、クリストファー・グベニエにより
「人民革命政府」の樹立が宣言された。全くソ連・中国式である。再度の分裂の危機を
迎えて、アドウラ政権は、より中央集権的な憲法を定め、国名を「コンゴ民主共和国」
に改めるなどの改革を進めた。しかし煽られて中央政府内部の対立も高まっていくのだ
。そこでアドウラはスペインに亡命していたチョンベに帰国を要請した。コンゴ動乱で
カタンガ分離を企んで、コンゴ政府に弓を引いた張本人を、なんとコンゴ政府のトップ
に就任させることになってしまったのだ。復帰したチョンベは、左派ゲリラ勢力(ルム
ンバ派残党)を除く勢力と、挙国一致内閣を組閣し、コンゴ軍の立て直しや反転攻勢の
陣頭指揮を執った。加えて、アメリカ軍とベルギー軍がグベニエが占領するスタンレー
ヴィルに捕えられた「ヨーロッパ民間人解放のための軍」を派遣すると、チョンベも同
じタイミングでスタンレーヴィルへの侵攻を開始。とうとう シンバ反政府勢力を鎮圧
することに成功しました。これまでのカタンガの富の賄賂を充分持ち、他部族を衆知し
独立を謀ったチョンベの力量であった。左派ゲリラ勢力の鎮圧後、中央政府ではやはり
と、首相チョンベと大統領カサブヴの仲は、険悪化する。カサブヴは、チョンベの復帰
は国内再統一までの、あくまで暫定的な措置という考えで、チョンベは政権の長期化を
目指し始め脅威になるからだ。そんなチョンベを疎ましくカサブヴは、10月中旬にとう
とう大統領権限でチョンベを罷免。しかしチョンベが、トップのコンゴ国民会議派党が
主流の議会では、民主主義が動かず、議会はレームダック状態に陥った。1965年11月25
日、再び軍部がクーデターを起こし、政権を掌握。カサブヴは大統領から退けられ、代
わりに最高司令官モブツが大統領に就任した。モブツは憲法を停止し、国会も事実上、
解散。大統領選挙の延期や5年間の政党政治の停止などを宣言し、安定するまで軍部が
国をコントローする。とした。

114:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 17:07:47.71 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・16

 確かに、これ以上の中央政府の混乱は再びコンゴ動乱の悪夢を繰り返す可能性があり
、まずは政府を安定させることが一番大事ということは理解できた。しかしながらも、
モブツは、当初宣言していた共和制への復帰をいつまでも認めず、自らを絶対とした、
独裁化を進めていく。軍人モブツは、まず自らへの権力の集中を進めた。立法権を議会
から大統領に移管し、議会は、大統領の出した法案をただ承認するだけの機関とされた
。ライバルの粛清も進める。アバコ党のカサブヴは自宅軟禁され、チョンベは再び国外
に追放。その他の有力な閣僚経験者は処刑され、長年自らの右腕であったムランバすら
解任してしまった。その後は首相職を廃し、大統領の行政上の権限を強化して、さらに
権力集中を進めた。しかしチョンベは大衆を組織化するため、革命人民運動(MPR)を成
立させた。各州の労働組合・婦人団体・青年団体を束ねて州知事・市町村長に支部長と
して管轄させ、総裁としてモブツが君臨する。という体制になって、コンゴ国民全員が
MPRの指導下に入るという、巨大な体制翼賛組織である。これに抵抗する学生団体や
左派グループは強権的に弾圧され、容赦なく投獄された。こうしてすべての権限を手に
入れたモブツは、1967年6月に新憲法を制定し、国民投票で98%の圧倒的賛成で承認を得
た。次いで1970年11月に大統領選挙に唯一1人だけ立候補し、当選、そして議会選挙は
MPRが作成した420名の名簿リストを国民投票にかけ、98%の賛成でこれまた可決され
た。続いて行われた憲法の修正し、MPRは政党から国家機関に格上げされて、議会も
裁判所もすべてがMPRの一機関になり、また国民も全員MPRのメンバーということ
が法律で定められた。ここで、村民の若者が軍事訓練されて、更に、混迷の原因を作る

115:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 17:08:08.18 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・17 第一次シャバ戦争

 こうして、ヨーロッパ的なものを廃し、ザイール的なものに復帰するモブツは、自ら
提唱した「真正(オータンテイシテ)」という概念運動を具体化するために「ザイール
化政策」を進めた。これは、政治・経済・文化・社会のあらゆる事柄に存在する「ヨー
ロッパ的」な事物を捨て去り、先祖伝来の「ザイール的なもの」に復帰しよう。という
、中国の文化大革命の逆バージョンのような、韓国の反日政策のようなものです。国名
はコンゴから「ザイール」に変更され、町の名前もレオポルドヴィルは「キンシャサ」
に、エリザベートヴィルは「ルブンバシ」に、スタンレーヴィルは「キサンガニ」に、
変更された。また自らの名前もジョゼフ・モブツから「モブツ・セセ・セコ」と改め、
ザイール的な名前への変更を全国民に義務付けました。国民の服装は、ジーパンやシャ
ツのような洋風の服装は禁じられ、男性は「革命服」、女性は「伝統的な服」を着るよ
うに命じられた。イスラム式の外国依存脱却の「経済のザイール化」の美名の元、外資
企業が次々と国営化された。中小企業もすべてザイール人への売却を命じられた。さら
にマネージャーや経営者などの、知的労働者もザイール人に置き換えられるように指導
がなされて行く。その結果、技術的に未熟なザイール人が 経営や管理といった重要な
意思決定を行うことになって、外貨収入が激減する。一方で対外債務は、急激に増加。
1976年から1983年の7年間で債務が5倍以上に膨れ上がった。共産主義独裁に起こる中国
式の不良化である。こうして経済的な危機を迎え、モブツは経済の急激なザイール化を
諦め、投資法を改正し外資導入を図らざるを得なくなったのでありました。モブツ体制
は、国内では強固なものだったが、国外では、亡命コンゴ人を主体に反モブツ政治団体
・武装組織が、周辺各国の支援もあって多数生まれていた。ベルギーに拠点を持つ民族
主義団体・コンゴ復興行動運動(MARC)、フランスに拠点を持つ左派団体の、アフリカ
社会主義戦線(FSA)、スイスに拠点を持つコンゴ=キンシャサ解放民主勢力などなど。
次々に反政府支援組織が出来上がった。中でも最大の反モブツ武装勢力が、シャバ紛争
を引き起こすことになるコンゴ解放民族戦線(FNLC)である。

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23/08/23 17:08:32.06 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・18 第一次シャバ戦争

 このコンゴ解放民族戦線は、コンゴ動乱を戦ったカタンガ兵の残党のうちで、隣国の
アンゴラに逃れた連中で組織された。アンゴラの宗主国のポルトガルの支援を受けて、
組織した。アンゴラ独立後、コンゴ解放民族戦線(FNLC)はアンゴラの左派武装勢力・
アンゴラ解放人民運動(MPLA)と連携した。モブツは、この民族主義勢力の、アンゴラ
民族解放戦線(FNLA)とアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を支援しており、FNLC は
、MPLAと連携しアンゴラ革命を進め、1975年にはアンゴラ人民共和国が成立することに
なった。ポルトガル支援と、ベルギー支援が整って合併した形だ。アンゴラ人民政府の
ネト政権の支援を受けたコンゴ解放民族戦線は、反モブツの戦いに本格的に乗り出し、
1977年3月、ザイールのシャバ州(旧カタンガ)へと侵攻を開始した。つまり鉱山の、
利権奪取に動いたのである。1,500~2,000の部隊でアンゴラ国境の町ディロロを落とす
と、キセンゲ・カジ、サンドア・カパンガと「アンゴラ~ザイール」間を結ぶ鉄道沿い
に添って町々を、落としていきました。迷惑なのは住民である。家は焼かれ、反対派は
殺されて行った。コンゴ解放民族戦線が目指すのは、シャバ州南部の、鉱物資源のある
鉱山都市ルブンバシ(旧エリザベートヴィル)であった。ザイール経済の、中枢都市を
占領することによって、反体制派のモブツ政権を 崩壊せしめようという作戦でした。
一方のザイール軍の方は、大同団結したものの、防衛体制が全く整っておらず、シャバ
州全体の防衛には、わずか3,000~4,000名しか兵を配備しておらず、兵器や武器弾薬の
供給もなく、次々とコンゴ解放民族戦線軍に打ち破られていった。モブツは西側諸国に
当然支援を求めた。アメリカ、フランス、ベルギーなどの西側諸国は、アンゴラの共産
化の二の舞いを避けるべし。ということで、遅ればせながらも積極支援に乗り出した。
4月に フランス空軍の支援を受けたモロッコ軍地上部隊 1,500名がシャバ州に到着し
、ザイール軍と共に コンゴ解放民族戦線に攻撃を加え、ムチャチャ、ディロロ、カバ
ンガと主要都市を奪還。とうとうアンゴラ側に、追い返すことに成功しました。

117:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 17:08:58.64 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・19 第二次シャバ戦争

 こうして第一次シャバ紛争は終結したものの、ソ連中国の支援は続き、その1年後の
1978年5月に、再びコンゴ解放民族戦線の 約4,000名がアンゴラからザンビアを経由し
、再びシャバ州に侵入した。今度は、モブツは直ちに国家総動員体制を組むとともに、
アメリカ、フランス、ベルギー、モロッコ、中国などに軍事支援を要請しました。しか
し、この時のコンゴ解放民族戦線は用意周到で、わずか2日後に鉱業都市コルウェジ・
ムチャチャが占領されました。中国のソ連側へ内通でボロ敗けした。コルウェジ・ムチ
ャチャには、鉱山で働くヨーロッパ人技術者が多数駐在していて、コンゴ解放民族戦線
は、この情報によって、効率的に彼らを人質にとって、関係各国に妥協を迫る交渉をし
ました。こと自国の国民の人質解放の交渉である。西側諸国は、協議の上、フランス・
ベルギーが、降下部隊を出して人質の救出に当たり、アメリカ・イギリスは後方支援に
当たることに決定。05月19日にフランス軍とベルギー軍の特殊部隊が、コルウェジ・ム
チャチャに急襲し侵入し、人質を救出。しかし、既に200名もの人質が 殺害されていた
という結果になった。これにも中国の内通があったとされる。重要な人質を奪われた事
で、コンゴ解放民族戦線の兵はアンゴラ側に撤退した。それを見て、フランス軍ベルギ
ー軍も、怒りのままだったが撤退し、再度の軍事衝突を防ぐためにモロッコ軍を主体と
する、アフリカ多国籍軍の常駐が不可欠として、シャバ州に駐屯し、監視任務に当たる
ことになった。しばらくは ザイールとアンゴラの緊張関係は続きますが、コンゴ人民
共和国の仲介で和解し、ネト大統領がザイールを訪問し緊張緩和がなされた。モブツ側
は、多種多様な部族を統合するために、強権的な独裁体制を築き上るしかなく、国家の
統合の中心施策として「ザイール化」を進めようとした。ただし、経済も社会も文化も
全てを、ザイール化しようというのは、どだい無理な話で、欧州化を捨てたかなりラデ
ィカル方策は、経済的には低迷させることになってしまった。そして、国内を強権的に
締め付けたために、反体制勢力は国外に逃亡しこれは結果的に、コンゴの国内の争いを
、近隣諸国との争いにまで巻き込んで発展させてしまうことになった。

118:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 17:09:22.51 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・20  第二次シャバ戦争

 1990年代に入り 近隣諸国の紛争がコンゴに飛び火。悪夢の第一次・第二次コンゴ戦争
が勃発することになる。国内の安定を最優先に掲げた軍人モブツは、反対勢力や政敵を
徹底的に弾圧。行政・立法・司法組織を党の一部門にし、また国民全員を党のメンバー
として、自らをトップに据える独裁体制を構築した。一方で国外に逃れた反体制勢力は
、近隣諸国の政府などと結びついて、戦いの構図が、芋づる式に飛び火拡大。アフリカ
諸国を巻き込んでいく。1996年に発生したコンゴ戦争は、560万人以上の 死者を出した
最悪の戦争となった。このザイール化政策の失政、国際的な銅の価格の下落、そして、
シャバ戦争による混乱もあって ザイール経済は益々低迷を続けた。1983年以降IMF
の勧告による経済再建計画を実施して、また五ヶ年計画に基づく経済改革によってテコ
入れを図って、外資の導入に、本格的に着手し、一方で、1989年からは東側諸国の独裁
体制が、相次いで崩壊していき、国内外からザイールの独裁体制に対する批判が相次ぐ
ようになった。そこで、モブツは 1990年4月に一党制の終了と、複数政党制の導入を
宣言する。11月に憲法が修正され翌年2月には66もの新政党が登録された。又、一方で
モブツは、憲法で定められた大統領職の 三選禁止を無視して「民主化は受け入れるが
、かつてのような部族的派閥主義へ逆行することのないように。」と大統領職を、継続
することを宣言したのでした。しかし、この同時期に、ザイールの隣国のルワンダでの
部族同士の、反目を背景にルワンダ紛争が勃発していた。ルワンダの2大部族フツ系と
ツチ系の対立である。当時のルワンダ政府はフツ系で、モブツのザイールと良好な関係
にあった。これが一方で、フツ系が主導する政府に弾圧されたツチ系の一部が、隣国の
ウガンダに逃れて難民化する。

119:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 17:09:44.21 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・21   第二次シャバ戦争

 この時に、ザイールにも、多数のツチ系が逃れてきており、当時のザイールはツチ系
を「バニャムレンゲ(バニャルワンダ)」として国内で居住することを許可していた。
ウガンダに逃れたツチ系は、ウガンダ政府の支援を受けて、武装組織の「ルワンダ愛国
戦線」を結成したのである。そして、ツチ系のルワンダ帰還と、フツ系政府の打倒を、
掲げて闘争を開始した。ルワンダ愛国戦線の軍が、1990年10月に ルワンダに侵攻し、
ザイールのバニャムレンゲも、このルワンダ愛国戦線との連携を図り、フツ系の戦闘が
ザイール東部や国境地帯まで多発するようになっていった。こうして、暴虐のルワンダ
内戦は、ルワンダ愛国戦線が、フツ系の政府を打倒して終結した。しかし、内戦が終結
した後の1994年、政権を追われたフツ系の、旧政府関係者、旧ルワンダ軍は、イスラム
系母体の、過激派組織インテラハムウェ、さらには、ツチ系を憎むフツ系住民が、ツチ
系の根絶を目指して、更に大きな大虐殺を始めた。世に名高い、「ルワンダ虐殺」であ
る。この時の虐殺は100日間続き、80万人~100万人ともいわれるツチ系が虐殺された。
そして、ツチ系政府や軍、住民の報復を恐れたフツ系は、相次いでルワンダを脱出し、
ザイールに逃れ始めた。この難民の中には、フツ系の過激派組織インテラハムウェも、
多く含まれており、以前からザイールに住んでいた ツチ系住民を敵視し殺すなど乱暴
狼藉を働き始める。さらにはツチ系の、ルワンダ政府の打倒を掲げる目指す勢力まで、
現れた始めため、発足したばかりのルワンダ新政府にとっては、叩き潰しておかねば、
ないイスラム原理主義集団であった。ルワンダ政府は、ザイールに住む同族のパニャム
レンゲへの軍事支援と武装組織化を行い始めました。パニャムレンゲは「ムレンゲの人
達」の意味で境界周辺の人々を指した。インテラハムウェとはルワンダ語で「共に攻撃
する者」または「共に働き団結する者」と言うが、此の組織も一つでなく、軍事訓練が
起こった事で、その後難民キャンプの若者を引き抜き 多数の部隊が自衛の集団を作っ
ていた。

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23/08/23 21:44:05.35 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・22  第一次コンゴ戦争勃発

 1996年08月31日、ザイール東部にて、しばらくは沈静化していたものの、ザイール軍
とルワンダのツチ族との散発的な戦闘が発生すると、ルワンダ軍が組織した、パニャム
レンゲが一斉蜂起を開始した。このツチ系の反乱は、当初はフツ族過激派に対する戦闘
であったが、パニャムレンゲの蜂起が、ザイール国内外の様々な反体制派の一斉蜂起を
促す結果を掘木起してしまいます。反モブツの勢力は、ウガンダに拠点を持つ反体制派
で、盗賊の首領(ドン)のローラン・カビラをトップに据えて、「コンゴ・ザイール解放
民主連合(AFDL)」を結成した。このAFDLはウガンダ、ブルンジ、ルワンダの支援を受
けて、特にルワンダ副大統領兼国防相の、ポール・カガメはモブツ政権打倒のために、
主体的な役割を担う。もはや単なる部族間の抗争ではなく、国家間の戦争の様相を呈し
た。開戦後、しばらくは、東部とルワンダ国境付近で、このAFDLが、占領地帯を設け、
他国の支援を受け、一進一退の攻防を続けていた。この時占領地帯では、ルワンダ軍と
AFDLによるフツ系への虐殺事件も多発していた。この時、20万人のフツ系住民が虐殺さ
れた。と言われています。しかし、ここで、1997年、突如としてアンゴラ軍がザイール
に侵入。アンゴラはモブツ政権と連携している反政府右派勢力・アンゴラ全面独立民族
同盟が、ザイールでAFDLと戦っていることを名目に、AFDLやウガンダ、ルワンダ、ブル
ンジと連携してモブツ政権打倒の兵を興したのである。これによって均衡は破れた。ザ
イール軍は首都キンシャサに向かって、雪崩を打って逃げていく羽目になった。ここに
ソ連の国際旅団の南米からの支援があったとされる。1997年5月にはAFDLと連合軍は、
キンシャサを包囲。もはやこれまでとモブツはモロッコに亡命。キンシャサに入場した
ローラン・カビラは、自らの大統領就任と「コンゴ民主共和国」の設立を宣言した。
こうしてアンゴラの参戦し、モブツ政権の崩壊をみるのである。

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23/08/23 21:44:34.90 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・23    第二次コンゴ戦争勃発

 この後亡命したモブツは、疲労がたたってか、6月に死亡した。こうして第一次の、
コンゴ戦争は、フツ系パニャムレンゲが、主体のAFDLとして、近隣諸国の支援を受けて
勝利し、ザイール共和国を打ち倒すことに成功したのであった。しかし、共産国がわの
支援を受けた大統領であった。大統領に就任したローラン・カビラは、すぐさま「終身
大統領」を宣言する。自らが理想とする、資本主義と社会主義の融合の政策を実行して
いこうとしますが、発足当初から、カビラ政権は、彼を大統領に押し上げたルワンダと
ウガンダの影響が非常に強いものであった。カビラはコンゴ人でしたが、一般のコンゴ
人は、「まるで外国に占領されたようだ。」と反発を強めることになった。カビラは、
政権と国内の安定のために「脱ルワンダ・脱ウガンダ」を図り、コンゴ人による政権を
目指すようになる。1998年7月、カビラはルワンダ人の首相ジェームズ・カバレベを、
解任し、後任にコンゴ人であるセレスティン・キフワと置き換える人事を発表。さらに
2週間後、カビラは「ルワンダ軍とウガンダ軍のコンゴからの即時撤退」を要求した。
AFDLの尤も大きなパトロンであった ルワンダ軍とウガンダ軍の撤退は、それまで武力
でフツ系を押さえ込んでいたツチ系の身が、今後は危険になることを 意味したため、
パニャムレンゲは危機感を強めました。ツチ系を裏切るカビラを見て、ルワンダ政府は
、同族ツチ族が虐殺される可能性が高まったと見て、再度コンゴ東部に介入し、パニャ
ムレンゲの武装勢力を糾合してコンゴ民主連合(RCD)を結成させた。再度の ルワンダ
、ウガンダ、反カビラの軍を組織するのである。ウガンダ政府では、この頃油田が見つ
かり、中国資本のパイプライン構想が持ち上がっていた。それほど中国は肩入れしてい
た。

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23/08/23 21:45:21.91 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・24    第二次コンゴ戦争勃発

 ウガンダ政府側では中国資金を得て、コンゴ人の反政府勢力、コンゴ解放運動(MLC)
コンゴ民主連合解放運動(RCDーML)、コンゴ愛国同盟(UPC)といった勢力に、資金や
武力支援を行っていく。1998年8月に、緊張が続いていたコンゴ民主連合とコンゴ軍と
の間で、とうとう全面的な戦闘が、広域的に開始された。第二次コンゴ戦争の勃発です
。コンゴ民主連合を中心とする、反体制派は東部から首都キンシャサを目指して進軍を
進めますが、一方でコンゴ軍も東部地域で攻勢を強め、また、インテラハムウェを始め
としたフツ系勢力の武装勢力も根強く、全土で戦闘が起こりました。首都キンシャサに
反政府軍連合が迫り、カビラは、危機に陥りますが、カビラは今度は チャド、ジンバ
ブエ、ナミビア、アンゴラ、スーダンといったアフリカ諸国連合の支援を取り付けます
。こうして、コンゴを舞台としたアフリカ諸国の大戦の様相を呈してきます。1998年9
月、ジンバブエ軍が、首都キンシャサに到着し防御態勢を整え、アンゴラ軍は首都に迫
った反乱軍と、散発的な戦闘を行い、少し膠着した。首都近辺から、反乱軍が追い出さ
れ、戦線は一旦休止しますが、ウガンダとルワンダの軍が、介入に乗り出すとアフリカ
全土を巻き込む大戦に発展する恐れもあり、緊張状態が数ヶ月続いていく。1999年1月
、南アフリカのマンデラ大統領の仲介で、停戦合意がなされ、ルワンダ、ウガンダ、ア
ンゴラ、ナミビア、ジンバブエは撤兵に合意します。しかしこのサミットでは、コンゴ
民主連合や、カビラといったコンゴの当事者たちは、蚊帳の外で招かれなかったため、
アフリカ大戦という、最悪の事態は免れますが、コンゴ内では相変わらず戦闘が続く事
になりました。この親カビラ諸国連合軍の反撃が出来なかった事で大きな戦争にはなら
なかったが、その後、国連平和維持軍が派遣されて、紛争の終結を目指し、1999年7月
にコンゴ、ルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ナミビア、ジンバブエが「ルサカ協定」に
調印した。

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23/08/23 21:45:42.03 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・25   コンゴ戦争の停戦

 しかし、この協定にも ほとんどの反体制勢力が含まれておらず、国連安全保障理事
会が、24時間以内の即時停戦を訴えるも、散発的な戦闘は、全土で起こり続けていた。
加えて8月になって、ウガンダ軍・ルワンダ軍の、キサンガニ侵入にコンゴ政府は反発
し、両国軍に反撃を開始。ルワンダ軍は、首都キンシャサに迫り、コンゴ軍への反撃を
開始。協定は完全に反故にされ、戦闘が継続された。そんな中に、2001年01月16日の、
首都キンシャサで、カビラが大統領宮殿内の警備兵によって、暗殺されてしまいます。
こうして、コンゴ政府の権力の不在によって、再び近隣諸国や反体制派による介入が起
こることを恐れたコンゴ議会は、国際社会からの後押しもあって、29歳のカビラの息子
ジョゼフ・カビラを、大統領に選出し、指導者に据えた。再度の南アフリカの ムベギ
大統領の仲介で、2002年4月に南アフリカのサンシティで、各勢力による協議がなされ
ますが、結局は決裂した。しかし、07月30日、再度南アフリカのプレトリア市での平和
条約が調印されて、ルワンダとコンゴ間の問題の締結がなされ、コンゴからのルワンダ
兵の撤兵と、フツ族過激派インテラハムウェの軍備の 大幅解除などが盛り込まれて、
話し合いが進んだ。遂に09月06日に合意にまで及び、ウガンダとコンゴの平和条約が、
締結されるに至った。こうしてウガンダ軍の、コンゴからの軍撤退が締結されました。
そして2002年12月17日、コンゴ民主連合(RCD)、コンゴ解放運動(MLC)、コンゴ民主
連合解放運動(RCD-ML)の主要反体制派によって「プレトリア包括合意」が締結され、
これによって正式に第二次コンゴ戦争は終結しました。復讐が復讐を呼び、270万~540
万もの命が失われた、人類史の中でも最悪の部類に入る現代の戦争であった。

124:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 21:46:04.63 40bssV5UH
   ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・26   コンゴ戦争の停戦

 なぜこのコンゴ紛争は、周辺各国をも巻き込んだ大規模な戦争になり、停戦合意が守
られなかったのでしょうか。もちろん民族問題は大きな障害ではあったのですが、部族
としては小さい集団の集まりで、国力も無く他国を攻める程の力はない。しかし、その
より以上にも増して、各勢力が血眼になったのが「コンゴの豊かな天然資源の確保」で
あったのは、論を待たない。コンゴは金、ダイヤモンド、すず、銅、各種レアメタルが
豊かな土地で、レオポルド2世や、ベルギーがコンゴを手放すつもりがなかったように
、コンゴを抑えることは、富にダイレクトにアクセスすることになったからだ。目の前
に、誇れる豊かな資源があるのに、自分たちが採ることは禁じられて、その利潤が土地
のコンゴ政府にばかり持っていかれる。しかも、そのほとんどは分け前はもらえずに、
腐敗した中央政府の役人が、全て吸い取って贅沢な暮らしを謳歌している。ふざけるな
、政府をぶったおして全部俺たちが奪い取ってやる!・・とまあそう思っていても不思
議はありません。境界線が力で左右され、海外資本や東西勢力の囁きや扇動があれば、
尚更の事だ。しかも、この地の小民族は移動する狩猟民であったし、ここに民族問題が
絡んでくるので、もっとも厄介な問題となる。ルワンダ、ウガンダといった国が、特に
コンゴ東部に深く介入したのも、同族の支援ということもありますが、豊かな天然資源
による富の獲得が主眼にありました。そして、それをそそのかした東側の勢力が、あか
らさまに介入していた事が判っている。ロシアの混乱期を終えて、金鉱脈の廃土を回収
して、金を取り出す技術をスーダン国内に導入したと言われている。いったいどういう
ことなのか?金の行方を追いかけた。

125:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 21:47:35.01 40bssV5UH
   ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・27   コンゴ戦争の停戦

 灼熱の太陽が照りつける中、スーダンは、アフリカ有数の金の産地である。そこで今
金の採掘に集まる男たちに沸いている。アフリカンゴールドラッシュと言われて久しい
。その背後ではロシアが違法に金を買いあさっている。スーダンは、紅海に面し国土は
、日本の約5倍程、天然資源が豊富でアフリカとアラブ諸国を結ぶ要衝に位置する国だ
。昔からアフリカ有数の金の産地として知られていて、近年は新たにたくさんの金脈が
見つかり、金鉱が見つかった町は、時ならぬゴールドラッシュに沸いた。ナイル川沿い
のナイル合流州・アベディヤの小さな町で、広がるのは砂漠のみ。この砂漠の町では、
ゴールドラッシュに沸く1つで、いまスーダン中から大勢の男たちが一獲千金を夢見て
、集まっている。砂漠地帯を歩けば、いくつもの穴がある。それは金の採掘を行うため
に掘られた深い縦穴である。のぞいてみると、深さ70メートル以上もある穴に、男たち
が入れ代わり立ち代わり出入りしている。作業は、手作業のハンマーやミノを使った穴
掘りであった。内側を壁に削って、金鉱石を集める。穴のそばは、灼熱の太陽を遮る、
休憩用テントが設けられている。テントの中には、砂にまみれた男たちが休憩している
。全員が、家族を地元に残し、単身で出稼ぎに来ているのだ。いう。しかし、こうした
採掘の多くが、無許可に行われている「違法操業」の穴掘り。こうした事の横行でスー
ダンは、年間にどれくらいの金が生産されているのか、把握することはできていない。
ここで採掘された金鉱石の土片は、トラックに積まれて地元の粉砕工場に運び込まれて
いる。金鉱石は、直径約3mぐらいの小さな粉砕器具に入れられて、水と水銀を加え、
細かく砕かれて軽い土は上に浮き、重たい金は底に沈み、底にたまった金が砂金として
採取される。

126:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 21:47:58.50 40bssV5UH
   ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・28   コンゴ戦争の停戦

 この方法は、昔から行われてきた古典的な採取方法である、採取できる金は、金鉱石
が含む金の30%ほど。残りの70%の金は、細かく砕かれた土の中に残ったままである。
この残土が「カルタ」と呼ばれていて、スーダンの法律で、水銀などを含むので、産業
廃棄物として処分するか、スーダンの金製錬企業にしか売ることができない。しかし、
このカルタについて、取材で訪れた粉砕工場の責任者は、興味深いことを話してくれた
。粉砕工場の責任者笑いながら「ロシア企業がカルタを買っていくんだ。彼らは、一番
羽振りよくカネを払っていくよ。」と。その工場では、ロシアの企業にカルタは売って
いないと言ってが、本来は売ることができないカルタが、なぜかロシア企業の手に渡っ
ている。と言う。その企業の名前は「メロエ・ゴールド」メロエの地のロシア企業の名
だ、ワグネルの錬金術工場とされている。2017年にスーダンでの地質調査を名目に進出
し、金鉱がある町アベディヤに巨大な工場を作った。ロシアの民間軍事会社「ワグネル
」とのつながりからか黒い噂が絶えない。2020年に、アメリカ政府の制裁対象となって
いるのだがそんなロシア企業がなぜ、カルタを違法に購入するのか。ワグネルやロシア
政府とはどういう関係にあるのか。いろんな疑問に直接話を聞こうと取材を申し込むも
拒否される。「メロエ・ゴールド」からの返答がない中、カルタを密売のブローカーに
接触する。曰く、「商人として高いカネを払ってくれるところに売るのは当たり前の事
。『メロエ・ゴールド』というロシア企業が最もカルタを高く、多く買ってくれる。」
とあっけない。ブローカーが開口一番話したのは、「メロエ・ゴールド」のカネ払いの
良さである。カルタを購入する際は、すべて現金交換だった。ブローカーの方は、複数
の粉砕工場から大量のカルタを買い付け、違法に転売している。と言う

127:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 21:48:25.81 40bssV5UH
   ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・30   コンゴ戦争の停戦

 スーダンにおける金の生産をめぐっては、2019年当時、軍民共同統治の政府が、民政
への移管を目指す中、国の重要な資源の金を有効活用に、違法採掘や取り引きに関する
ルール作りを進めていた。しかし、2021年、スーダンクーデターで、軍事政権が誕生す
る。と、すべては白紙になった。スーダンの軍事政権は、ロシアからの武器の供与が、
期待できる。としてロシアとの結びつきを強め、違法な資源開発を、事実上 黙認した
。また、ウクライナへの侵攻直後、欧米からの経済制裁を受けているロシアでは、一時
ルーブルが急落しました。専門家は、ロシアがこうした事態を少しでも回避できるよう
に、スーダンでの違法生産した金を、ロシアに持ち込み、国内の金の保有量を増やす事
で、通貨ルーブルの価値を支えている。という話もあると指摘します。ロシアは、ここ
数年アフリカの、権威主義的な政権との関係を強化していて、そのスピードはウクライ
ナへの侵攻以降、いっそう加速している。2022年3月、国連総会でロシアを非難して、
ウクライナから、軍の即時撤退などを求める決議案の採決が行われた際、欧米や日本の
141ヶ国は賛成したが、 一方で5ヶ国が反対、35の国が棄権した。この棄権した国の内
おおくはアフリカの国々で、17ヶ国、半数近くを占めた。スーダンも、その国の1つで
ある。スーダンでは、今もクーデターに反発し、民主化を求める若者の声は、デモが、
連日行われている。本来は、こうした若者やスーダンの未来のために使われるべき金が
、軍事政権の下で 違法な開発が黙認され、それらはロシアなどに流出している実態が
明らかになった。ロシアは今、スーダンなど権威主義的な国々を踏み台にして、アフリ
カでの影響力をさらに拡大しようとしているように見える。アフリカ北東部にスーダン
は人口4500万あまり。世界最長のナイル川が中心を通る、国土はアフリカの中では3番
目に大きな国で天然資源も豊富。長年独裁政権が続いてきた。しかし、2019年4月に、
パンや燃料の値上げの抗議デモをきっかけに、軍のクーデターでバシール大統領は失脚
した。ブルハン氏をトップとする統治の正規軍と準軍事組織の即応支援部隊が対峙した

128:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 21:49:23.19 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・31   コンゴ戦争の停戦

 第二次コンゴ戦争でチャド、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラ、スーダン、といった
国々が参戦したのも、カビラ政権との間で、天然資源の利権融通の約束があったためで
あった。武装勢力が、これだけ長い間ドンパチやってこれたのも 天然資源による富が
そこにあったからで、あれだけ、広いコンゴの土地に 強く広く軍を展開できるのも、
カネの力で、兵器や傭兵が、世界中から集まり、買いあさったからでもある。そこに、
東側の世界、ソ連と中国、南米からと、裏の暗躍する国々が利権奪取に動いた為である
。また一方の、西側のベルギー始め、ふらんす、英国、米国が心配して防戦するのも、
そこに理由がある。また大規模な兵同士の戦争は少なく、戦線や領域は安定しており、
戦闘の大半が空港、港、要塞、鉱業施設といった施設の奪取と防衛に当たられたのも、
このインフラの施設を大事にしている為とも思われる。そのため、戦闘を主導したのは
、組織だった軍ではなく、統制のない民兵が主体で、彼らによって大規模な強姦、拷問
、民族浄化などの暴力が、発生したこともこの戦争の特徴である。余禄余得は小人数。
と言う訳だ。しかし、この末端の統制が取れてないために、停戦の試みは非常に難しく
、トップが例え和平合意しても、末端の兵士が平気で また銃をぶっ放してしまって、
直ぐにぶち壊しになることが。これまでもこれからも相次ぎ起こる。2002年の和平合意
以降も、ウガンダ、ルワンダ、南スーダンなど、近隣各国との戦闘は、頻繁に起こり、
反政府勢力の帰国は、遅々として進まず、また長く続いた内戦で広く普及し出回った銃
は、極度の治安の悪さと暴力の連鎖を引き起こし、2014年以降で 700名以上の民間人が
殺害されていいる。実は今ルワンダ国内には、ロシアのワグネルの圧力をうけて、国境
を越えイスラム系が大量にやって来て、キリスト系を村ごと殺害に及んでいる。ここに
国情や勢力より 宗教的な弾圧の姿がある。今年2024に竣工した大型収容船をスコット
ランド沖に浮かべて、こうしたイギリスにやって来た黒人信者収用を始めたが、これが
同じプロテスタント信者でも地元の反対にあっている。

129:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/23 21:50:00.95 40bssV5UH
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・32   コンゴ戦争の停戦

 2022年06月15日、イギリスで、欧州から英仏海峡を、命からがら渡ってきた亡命希望
者の一部を、ルワンダへ空路移送する第1便が、出発直前にキャンセルされた。移送を
差し止めるべきだ。とする欧州人権裁判所(ECtHR)の判断を受けてのものである。イギ
リス政府はこの日、最大7人をルワンダへ移送する予定だった。しかし欧州人権裁判所
(ECtHR)の介入によってフライトは停止された。プリティ・パテル英内相は、「がっか
りしている。」としつつ、計画が阻まれることはない。との姿勢を示した。「我々の、
法務チームは、このフライトをめぐる全ての決定を検証しており、次のフライトの準備
は今から始まる。」と話した。ボリス・ジョンソン首相は先に、この政策に躊躇(ちゅ
うちょ)することはない。とし、多くの法的申し立てを伴う「長いプロセス」になると
政府は常に承知している。と述べた。また、この政策を助けるために法律を、改正しな
ければならないことも「大いにあり得る」とした。英仏間のドーヴァー海峡では、イギ
リスに渡ろうとする移民らが、国境管理当局によって収容されている。英控訴院は13日
、ルワンダへ移送する計画の第1便の出発を許可した。その後、イギリス国内で、現代
における奴隷的待遇や人権の侵害を問題視する法的訴えが相次いだ。移送機は南部ウィ
ルトシャーの軍用飛行場を14日午後10時30分に離陸する予定であった。が、仏ストラス
ブールにある人権裁判所とロンドンの裁判所からの移送に関する多数の判断を受けて、
全ての乗客が機外へと出されキャンセルになった。出発時刻の数時間前に発表され、声
明の中で 裁判所は、イラク人男性(通称「KN」)のケースについて「緊急暫定措置」
を認める。とした。声明は、このような申請は「申請者が不可逆的な危害を受ける。と
いう現実的リスクに直面している場合」にのみ、「例外的に」認められる。と説明して
いる。これは、ルワンダに移送される人々には差し迫ったリスクはないとした英裁判所
の判断と矛盾する。

130:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/24 08:57:47.30 MmAjhALxB
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・33   コンゴ戦争の停戦

 中国・ロシア・インド・ブラジル・そして、南アフリカの、新興5ヶ国でつくられる
BRICS。この首脳らによる会議が、南アフリカで開かれ、中国の習近平国家主席は
、「BRICSの拡大のプロセスを 加速すべきだ。」と述べ、加盟国の拡大に意欲を
示しました。ロシアとともに 欧米への対抗軸としてBRICSの強化を目指す中で、
加盟条件などの議論の行方が注目されている。南アフリカの最大都市ヨハネスブルクで
22日から開かれていて、2日目は首脳らによる全体会議が開かれています。今回の会議
では、何といっても加盟国の拡大が大きな焦点となる。中国の習近平国家主席は、拡大
のプロセスを加速し、より多くの国を参加させて知恵を集め、国際秩序をよりよい公正
な方向に発展させていかなければならない。」と述べ、改めて加盟国の拡大に意欲を示
した。しかし、である。「より大きい声、より強い声、より威嚇の声の一部の声で世界
が乱されてはならない。」と言うのは、ちょっと筋論から言って違う。それを行ってい
るのは、むしろ中国であろう。また、対面での出席を、見合わせた ロシアのプーチン
大統領もオンラインで演説した「BRICSの戦略的な方向性は将来を見据えたもので
、世界の多数派の期待に応えている。」と述べ、BRICS各国と連携と枠組みの強化
を進めていきたい。との考えを示した。中国やロシアが欧米諸国への対抗軸としてこの
BRICSの強化を目指す中、これまでにイランやサウジアラビア、アルゼンチンなど
、20か国あまりが参加を希望していて、新規加盟の条件などをめぐる議論の行方が注目
されている。という。「おいおい!これでは烏合の衆ではないか。対G7で一致した。
あるいは反米国で一致した。とでも言いかねない話である。ロシアは「いかなる 覇権
主義も植民地主義も、これを許してはならない。」って、まるでロシアが他国占領を、
全くやってないか如くの言い分である。内情も思惑も意見もちがう同床異夢の世界で、
インドすらも、BRICS拡大に大賛成との、リップサービスの意見である。安い原油
で、国内を潤している事を、止めたくない事情はわかるが、この5ヶ国で何をする。

131:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/24 08:58:08.79 MmAjhALxB
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・34   コンゴ戦争の停戦

 南アフリカの政権与党であるアフリカ民族会議(ANC)は、かつてアパルトヘイト
(人種隔離政策)の、撤廃闘争の時に、当時のソビエトの支援を受けた経緯があった。
現在もロシアとの関係を重視する傾向がある。ロシアがウクライナに侵攻した後でも、
南アフリカ政府は、ロシアとの友好関係を維持していて、その姿勢をめぐっては、国内
でも意見が割れている。野党は「南アフリカはロシアと協力すべきではなく、首脳会議
を開くべきではない。」といい、市民は「ロシアとの友好関係を維持するのは疑問で、
欧米との重要な関係を損なうことになる。」などと否定的な意見も聞かれる。その一方
で「南アフリカとロシアは、長年友好関係で結ばれてきた。離れることはできない。」
と言い「アメリカだって イラクやアフガニスタンに侵略し、多くの市民を殺したこと
には、変わりない国だ。」など、ロシアとの関係を支持し欧米に反感を抱く声もある。
こうした中で、中国の思惑は、新通貨の発行だろう。と言う声も記者たちに上がった。
国際関係に詳しい経済学者は、「南アフリカには、ロシアへの長年の友好関係に加え、
欧米への不信感が今もあり、ロシアなどはそこを巧みに突いた外交を、展開している。
しかし、経済が著しく低迷する中で、欧米との関係も重要であり、南アフリカ始め中国
すらも、どちらかの陣営を選択するような余裕はない。」と指摘する。南アフリカ国際
関係・協力省報道官は「我々と、ロシアの間には、歴史的なつながりがある。ロシアが
ウクライナとの紛争を抱えているからといって その事実が変わるわけではない。我々
は国益に基づき、外交を展開する。」と述べて、ロシアとの関係の維持を正当化する。
経済界からは、今回首脳会議を、南アフリカで開くことでアメリカからの圧力が、益々
強まるのではないかとの懸念の声が出ている。

132:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:27:20.34 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・35   コンゴ戦争の停戦

 こうした南アフリカのみならず、大戦期や冷戦期を通じて、ロシアと友好関係を維持
している国の、こうした意見にアメリカなどは警戒を強めている。野党から、この政府
がロシアによる軍事侵攻を非難せず、友好関係を維持していることで、国際的な地位と
経済的な利益を損ねている。と非難する。事実、ことし6月に米議会の上院議員らは、
ロシアの軍事侵攻を事実上、支持している。後進国諸国の輸出輸入品への関税免除の、
見直しや優遇措置排除の声が上がっていると警告する。冷戦期に東西双方の陣営と距離
を置いた「第三世界」を表現されたグローバルハウスは、このBRICS加盟に200ほどの国
が加入要望をしている。と言う。今回の会議の焦点は「加盟国の拡大」であり専制主義
の軍事態勢にある軍人国家が 遥かに多い非文明的な地域にまでメスをいれる試みで、
これまでも、何回もの「欧米への対抗軸」を中国やロシアはやって来た筈で、その度に
冷笑と冷や水があった。こうした対抗意識で多くの紛争や戦争が行われたのは、過去の
歴史を見る限り、その例は膨大にある。目的意識も目標思想も、具体的戦略も方針も、
見当たらない。それぞれの国が、それぞれの思惑で、それぞれの事を言う。と米国学者
は鰾膠(にべ)もない。しかし、社会主義経済市場、とか、核心的利益だとか、中国式
民主主義とか 兎も角、学識のない、勝手な妄想貧民が言う 愛国無罪のような意味の
繋がらないような、スローガンの連呼で煙に巻いて、国際社会を牛耳る蛮行は歴史上も
、中国社会のきわめて汚い常道である。同床異夢と笑い飛ばしている間に、片方が眠り
から覚ます時は水上で、身包み剥され船は遠くある。という事も多々起こっているのだ
。あの大国アメリカすら手玉に取られている状態だ。あのバスチューユの前の民衆の様
に、烏合の衆の後進国が 唸り声を上げない事を願うばかりだ。

133:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:27:48.81 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・36   コンゴ戦争の停戦

ロシアのウクライナ侵攻を受けて、今年2~4月に開催された国連総会緊急特別会合は
、ロシアを非難する二つの決議の採決で、アフリカの多くの国が「棄権」や「不参加」
を選択した。国連人権理事会におけるロシアの理事国資格停止の決議の採決でも、同様
の現象が起きた。なぜ、多くのアフリカの国が、ロシアの侵略行為を正面から批判する
ことをためらうのか。ロシアは アフリカ諸国と どのような関係を築いているのか。
 ウクライナからのロシア軍即時撤退を求めた03月02日の決議案に対しては、141ヶ国
が賛成したが、5ヶ国が反対、35ヶ国が棄権した。反対5ヶ国はロシア、ベラルーシ、
北朝鮮、シリア、エリトリアだった。イサイアス大統領の強烈な反米主義で知られた、
アフリカ北東部のエリトリア他、共産圏の反対は当然だが、もう一つ棄権35ヶ国のうち
、17ヶ国が、アフリカの国だったのである。さらには、国連総会には「不参加」という
態度表明の方法もある。不参加は、「棄権」とは異なっていて、そもそも決議案の審議
に参画しなかったことを示している。3月2日の決議案の審議は、12ヶ国が不参加であり
、このうち8ヶ国がアフリカの国であったのだ。反対1、棄権17に不参加8を足すと計26
。つまり、アフリカ54ヶ国のほぼ半分は、ロシア非難に、加わらなかったのである。
つまり、国情や心情が反対を、戦争であっても許さなかったのだ。続く03月24日の総会
緊急特別会合では、ロシアが軍事侵攻によって 悲惨な人道状況をもたらしたとして、
民間人に対する無差別攻撃の停止や、人道支援強化を訴える決議案が採択された。ここ
でも、賛成140ヶ国、反対5ヶ国、棄権38ヶ国。反対5ヶ国は、前回と同じ顔ぶれであっ
た。棄権38ヶ国のうち20ヶ国がアフリカの国で、不参加10ヶ国のうち6ヶ国は、
アフリカの国であった。反対1、棄権20、不参加6を足すと27。アフリカ54ヶ国
の内、ちょうど半分が、ロシアを正面から非難しない。人道に目をつむる。という結果
だったのだ。

134:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:28:15.46 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・37   コンゴ戦争の停戦

 さらに、04月07日の総会緊急特別会合で、国連人権理事会における ロシアの理事国
資格停止についても、採決した際に、賛成93ヶ国、反対24ヶ国、棄権58ヶ国。反対24ヶ
国のうち、9ヶ国がアフリカの国々だ。棄権58ヶ国の内24ヶ国は アフリカの国。そして
、この時もアフリカから11lヶ国が不参加であった。反対9と棄権24と不参加11を足すと
44であり。なんとアフリカ54ヶ国のうち44ヶ国がロシアの資格停止には賛同しなか
ったのである。今日のアフリカが、経済の「ラストフロンティア」として、世界の政府
・企業から注目を集めていることは、よく知られている現実だろう。この アフリカ側
からみた景色で、対アフリカの投資の真っ盛りに、積極的な国の機嫌を損ねるような
投票行動は回避したいのだろう事はあろうが。だがそれにしても、ロシアとの経済面の
関係を理由に「棄権」や「不参加」を選択したアフリカの国々は、ほとんど存在しない
。と推測できる。理由は、国連貿易開発会議(UNCTAD)が毎年発行している「世界投資
報告書」の2021年版にも書かれている実態だ、19年時点の 対アフリカ直接投資残高の
上位10カ国にロシアの名はないからだ。つまり、公式貿易統計上あり得ない選択だった
のである。南部アフリカ諸国にはレアメタル、ギニアにはボーキサイト、アルジェリア
には、天然ガスを採掘しているロシア企業がいくつか存在するものの、UNCTADで
は、アフリカ全体に流入している直接投資のうちの、ロシア企業による投資額は、1%
に満たないと推計している。また、ロシアとアフリカの間の貿易(輸出+輸入)では、
アフリカ全体の貿易のわずか2%程度である。ロシアは、アフリカ経済においては、俄
然小さなマイクロプレイヤーで、メインプレーヤーではないのだ。強いて背景に強国が
あっても所詮バイブレヤーのわき役である。

135:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:28:39.34 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・38   コンゴ戦争の停戦

 そもそも、ロシアは、核大国ではあっても、経済大国ではないし、技術大国でもない
。国際通貨基金(IMF)の 世界経済見通しでは、22年04月版データベースを見ても、21
年のロシアのGDP総額(名目値、ドルベース)は1兆7755億ドル。これは世界最大の
米国の約13分の1だ。、第2位の中国の約10分の1、第3位の日本の約3分の1の規模
に過ぎず、韓国での 1兆7985億ドルよりも小さい。そうした、経済影響の国家なのであ
る。さらに言えば、ロシアで生産される工業製品の質が悪く、エネルギー分野を除いて
世界を相手に戦えるロシア企業は、ほぼ存在しない。アフリカの国々は、アフリカの、
発展に対するロシアの経済面での貢献に、ほとんど用をたさない、つまり期待していな
い、期待できない事がわかっている。そこで注目されたのが、アフリカ諸国に対する軍
事面、アフリカンミニタリーでのロシアの影響力である。英国のシンクタンク国際戦略
研究所(IISS)が公表した、ミリタリーバランス22年版によると、21年のロシアの軍事
費は 約622億ドルで世界第5位である。ソビエト連邦崩壊後に凋落(ちょうらく)した
とはいえ、ロシアは、今なお軍事大国の一つであり続けている。、東西冷戦時代にアフ
リカの様々な政府、反政府組織などに軍事支援してきた経験を有する過去を持つのだ。
一方、多くのアフリカ諸国の現代の為政者にとって、軍事力は政権維持のために死活的
に重要な要素であるようだ。旧宗主国が、植民地期に設定した境界線を引き継ぐ形で、
独立したアフリカの多くの国は、国内に様々な民族や宗教集団を抱え込んでいる。多様
性国家といえば、聞こえはいいが、異なる価値観、利益、歴史的記憶を有する集団同士
の共存は容易ではなく、現実には内戦やクーデターが発生しやすく、政情が不安定化し
やすい。

136:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:29:03.97 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・39   コンゴ戦争の停戦

 そこで、そうした中、内乱制圧と外襲防衛には、軍事支援を提供してくれるロシアは
重宝な存在で、ロシアに配慮し、国連総会でのロシア批判を控えるアフリカの国があっ
たとしても不思議ではない。最近のアフリカにおけるロシアの軍事プレゼンス拡大の、
特徴として、18~19年ごろから注目を浴びてきたのは、「ワグネル(Wagner)」という
ロシアの民間軍事企業の中央アフリカ共和国における象徴的活動である。ワグネル社は
ウクライナ、シリアへも派遣されたことで、残忍さでもよく知られる存在だ。プーチン
大統領と関係の深い政商で、「プーチンの料理人」の異名を持つロシアの実業家、イェ
フゲニー・プリゴジン氏が出資者とされていて、ロシアの、元特殊部隊員OBなどが、
中心メンバーと言われている。が実態には、ほぼほぼ不明な点が多く、掴めていない。
1960年にフランスから独立した 中央アフリカ共和国は、内戦、軍事クーデターの発生
など、長期にわたって混乱が続いていた。政情不安の中、2016年3月にフォース・タン
アルシャンジュ・トゥアデラ大統領が就任したものの、政権の実効支配は、首都周辺に
しか及ばずに、治安維持を肩代わりしてきたフランス軍の同年10月の撤収後には、いつ
政権が打倒されてもおかしくない状況であった。そこに登場したのがワグネル社である
。米国議会図書館の 調査報告書や複数の報道を総合しても、2018年の1月あたりから
、自動小銃、機関銃などのロシア製火器が、大量に中央アフリカ政府軍に供与されて、
ロシアの軍士官5人と、ワグネル社の精鋭170人が 軍事顧問団の軍事教官として政府軍
の兵士指導を始めた。とされる。同年8月にはロシア・中央アフリカ両政府間で正式な
軍事協定が締結されて後は、大ぴらにワグネル社による政府軍に対する訓練や、トゥア
デラ大統領の身辺警備が本格化したのである。その時点で、中央アフリカには およそ
1200人のロシア人が駐留していると推定されていた。

137:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:29:31.57 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・40   コンゴ戦争の停戦

 中央アフリカには、西洋人が大好きなダイヤモンドと金の鉱床があり、政府は採掘権
をロシア企業などに売却して、ワグネル社への支払いに 充ててきたという。18年7月
には、中央アフリカでのワグネル社を取材していた ロシア人ジャーナリスト3人が、
何者かに突然殺害されている。政府からの認可と警護があったにも関わらず殺されたの
である。ジャーナリスト協会では、殺害され国際問題になってもロシア側の批判はない
。とした思惑が動いたのだろう。と見ている。それにしても3人3組が それぞれに、
次々と、と言うのは解せない。中央アフリカ共和国以外のアフリカの国では、スーダン
、モザンビーク、マリでワグネル社の存在が確認され、このうちモザンビークでは、ワ
グネル社が、北部のイスラム武装勢力と戦う政府軍を訓練してきた。との情報がある。
最近では、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチが、今年4月に「西アフリカの
マリの中部で、マリ政府軍兵士と ロシア人とみられる外国人戦闘員が、03月27日に、
イスラム武装勢力との戦闘に際して、民間人 推計300人を殺害した。」との報告書を、
公表した。米国やフランスは、ロシア人戦闘員はワグネル社の傭兵(ようへい)だ。と
指摘している。マリでは、20年8月と21年5月においてクーデターの政権転覆があり、
最終権力を掌握した軍事政権は、「反フランス」を掲げてロシアとの関係を深めている
。マリには、既にワグネル社の戦闘員約1000人が 派遣されている。との報道もある。
国連総会における3月2日、24日の2件の、ロシア非難決議に対する投票行動をみると、
ワグネル社の存在が指摘される中央アフリカ共和国、スーダン、モザンビーク、マリの
4ヶ国とも、全て棄権している。4月7日のロシアの人権理事会の理事国資格停止決議で
も、中央アフリカ共和国とマリが反対、モザンビークとスーダンは棄権であった。政権
の安定や国内秩序の維持のためにロシアの民間軍事企業の力を借りている国々は、国連
の場でロシアを非難することを避けたようだ。

138:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:30:29.74 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・41   コンゴ戦争の停戦

 アフリカの国々の中で、ロシアの民間軍事企業と関係が確認されている国はごく一部
の少数派である。他の多くのアフリカの国々は、投票行動について、ロシアとの軍事面
との関係という観点からどこまで説明できるだろうか。東西冷戦の時代、ソ連はアフリ
カの多くの国、現政府の、反政府勢力に軍事支援を提供していた。1989~91年にかけて
冷戦は終結し、ソ連は消滅した。ロシアは、アフリカへの影響力をほとんど失った。と
観られていた。スウェーデン国防研究所(FOI)が2018年末に発表した報告書によると、
15年以前に、ロシアとの間に軍事協定を結んでいることを確認できたアフリカの国は、
アルジェリア、リビア、チュニジア、アンゴラの4ヶ国に過ぎず、他の国は政権転覆や
中国の台頭で消えて居た。ところが、ロシアは2015年4月のカメルーンを皮切りに、ア
フリカ諸国と、次々に新しい軍事協定を締結していく。2018年末までの、たった3年半
ほどの間に、アフリカの21ヶ国と軍事協定を結び、仲間としての盟友の関係を結んだ。
協定の内容は、ロシア製兵器の供与、アフリカ諸国の軍のトレーニング、対テロ戦争の
支援などであり、至って普通で、ロシア側の認可で動くシンプルな内容だ。ストックホ
ルム国際平和研究所の調査によると、ロシアの対外兵器輸出に占めるアフリカ向け兵器
輸出の割合は、12年の約19%から18年には約28%にまで拡大した。およそ倍増である。
ロシアは14年に、ウクライナのクリミア半島を 武力で一方的に併合し、これに反対し
た欧米諸国との対立は、決定的になった。翌15年以降、アフリカ諸国と矢継ぎ早に軍事
協定を締結した背景に、非欧米諸国との関係強化を急いだプーチン政権の思惑がある。

139:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:32:15.14 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・42   コンゴ戦争の停戦

 経済ではメインプレーヤーになれないロシアにとっては、軍事は国際社会に影響力を
行使できる数少ない領域だった。ここに、ロシアのソチで開かれたロシア・アフリカの
経済フォーラムの展示会場で、ロシア製の対戦車ロケットランチャーを持つ参加者写真
がある。アフリカ21カ国の、国連総会における投票行動について調べてみても、2015年
以降に、ロシアと軍事協定を締結したこの21カ国に、ワグネル社の活動が確認されてい
るので、民間軍事会社ワグネルとの接触と、投票行動との相関関係は間違いない。特に
、中央アフリカ共和国、スーダン、モザンビークの3ヶ国には明かにワグネルとの取引
が含まれていると思われる。結果03月02日の、ロシア非難決議案の採決では、棄権6、
不参加5。これに対し、賛成した国10であった。03月24日の決議案の採決では棄権9
、不参加3に対し、賛成9であった。つまり、ロシアとの間で、軍事協定を結んでいる
国は、ほぼ半分はロシアを非難することを避けたが、米国主導のロシア非難決議に賛同
した国も、相当数存在していた事になる。以上の事を見れば、多くのアフリカの国が、
ロシア批判を回避する理由について、「軍事」のみでは説明できない、国内情勢が少し
垣間見える。ロシアによる軍事支援が、アフリカ諸国の投票行動に一定の影響を与えた
可能性を、見い出したのであるが、ただ、それだけでは、簡単に説明がつかない問題が
残る。ロシアとの間で軍事協定を結び、国軍の訓練や兵器の提供といった支援を受けて
いるアフリカの国でも、国連総会で、ロシア非難決議に賛成した国も少なからず存在し
ているからだ。「軍事」は、国連におけるアフリカ諸国の投票行動を決定付ける一つの
要素ではあるが、全てではないのである。そこで、思い出して欲しいニュースがある。
ロシアがウクライナ東部のドンパス2地域の「独立」を一方的に承認した。このことを
受けて、開催された02月21日の国連安全保障理事会緊急会合では、ケニアのキマニ国連
大使は大きく演説した。キマニ大使は、かつて帝国主義によって分断されたアフリカの
苦難の歴史を踏まえながら、ロシアの行動を「正当化できない」と訴えて、非難した。

140:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:32:59.91 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・43   コンゴ戦争の停戦

 この演説には、ロシアを痛烈に批判したもの。として国際的に受け止められとりわけ
高い評価を受けた。日本のマスメディアや、SNS空間でも話題になったが、「ロシア
批判」だけでは、演説に込められたメッセージの、半分でしかない。演説全文をよく読
めば、キマニ大使はロシアを明確に批判しつつも、今回の、ウクライナ危機でロシアを
批判している欧米に対しても、「植民地主義や、独立後の経済的支配によってアフリカ
を、さんざん虐げてきた西欧が、いまさら人権や 非暴力の重要性を唱えることには、
偽善を感じざるを得ない。」とも、言いたかったことが分かる。この点を注視すべきだ
。2月から4月にかけて開かれた 国連総会緊急特別会合におけるアフリカ諸国の投票
行動について、もう一度みれば。3月2日のロシア非難決議で反対1、棄権17に不参加
8と、合計26ものアフリカの国が、ロシア非難を回避している。54ヶ国のほぼ半分が
ロシア非難を避けたのである。しかし3月24日の非難決議で、反対1、棄権20、不参
加6と、合計27のアフリカの国に、ロシア非難を回避した国が変わらない。この時も、
アフリカ54ヶ国の半分が、ロシア批判を避けた。ところが同じ、国連人権理事会におけ
る、ロシアの理事国資格停止を求めた4月7日の決議では、反対9、棄権24、不参加11
と、実に、44のアフリカの国がロシアの資格停止に反対だったのである。このロシアを
非難する3月の、2度の総会決議で、賛成票を投じた国の中からも、多数の国が反対・
棄権・不参加に転じたのであった。欧米発言が挫かれた瞬間である。あれほど熱烈に、
ロシアしたケニアすらも、そうした国の一つで、3月の2度目の総会決議には賛成した
。ロシアの理事国資格停止を求めた決議の、採択では一転して棄権。ケニアは普段は、
親欧米の外交路線を歩んでいる国だが、そんなケニアでも、欧米諸国が「人権」を争点
にした途端に態度を変えたのである。

141:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:33:40.60 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・44   コンゴ戦争の停戦

 キマニ大使の演説を聞いて、毎日新聞のアフリカ特派員だった本人として、南ア共和
国に駐在していた当時を思い出すと、同国のタボ・ムベキ大統領(在1999~2008年)が
公式の場で「人権や民主主義について欧州に説教などされたくない」という趣旨の発言
をしたことを、思い浮かべた。アフリカの国々の多くは、1960~70年代に、植民地支配
からやっと脱した後も、英仏をはじめとする  欧州の旧宗主国への経済的従属を強い
られてきたのだった。また、90年代初頭までアパルトヘイト(人種隔離)政策が続いた
南アフリカと、その南ア国の、白人政権を支えた周辺の 南部アフリカ諸国などでは、
人々が、欧州出身の白人支配層による、人種差別に苦しんできた経緯がある。南アの、
アパルトヘイトが終わって、初の全人種参加選挙が、行われたのは94年のことだった。
しかしして、当時は東西冷戦の時代、そんなアフリカの植民地解放・反人種差別闘争を
支援してきたのが、社会主義革命の、世界革命の普及を目指していた ソ連であった。
そうした歴史上の、支援を経験してきたアフリカの人々には、西欧諸国が「人権」や「
民主主義」の重要性を訴えることに対して、我々日本人が想像している以上にずっーと
根強い「不信感」と「偽善」を感じて止まない。アフリカ諸国が、今回ウクライナ危機
で、ロシアを正面から批判しようとしない問題を考えるためには、この点は、押さえる
べき大切な事なのである。冷戦終結から、30年以上が経過した現在、ロシアはかつての
ようには、アフリカに向けて社会主義革命の輸出などは、してはいないであろう。その
代わりに現代のロシアは、2014年11月に設立された 国外向け通信社スプートニクや、
SNSを駆使し、巧みにアフリカの人々の心の底に澱(おり)のように沈殿している、
反西欧感情を増幅し、プロパガンダ作戦でしばしばフェイクニュースを流布させながら
、「アフリカの人々の心情に理解を示す者」として自らを売り込んでいるのは確かだ。

142:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 18:34:39.19 etRg5YuWx
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・45   コンゴ戦争の停戦

 欧州議会や、欧州安全保障研究所(EUISS)が公表してきた 数々の調査報告書は、
ロシアがアフリカ各国で展開してきた、こうした「情報戦」の諸相について、言及して
いる。例えば、18年末に、コンゴ民主共和国で行われた大統領選では、「アフリック(
Afric )」と称するロシアングループが、このSNSを通じてフェイクニュースを流布
し、特定の候補者が、旧宗主国ベルギーやフランスの代理人であるかのような印象を、
有権者に与えながら、世論操作を展開し主導した。アフリックは、ドナルド・トランプ
氏が当選した、16年の米大統領選に介入した。として米国で起訴された「コンコード・
マネジメント・アンド・コンサルティング」の関連グループであり、「コンコード」は
ロシアの民間軍事企業「ワグネル」の出資者、プリゴジン氏がつくった企業であった。
日本人は猜疑心が低く騙されやすい。ここに国際ロマンス詐欺の中心にアフリカ機関が
いる。ところが騙されやすく冷めやすいが、逆にアフリカ諸国は騙されにくいが、それ
でも騙された後は、一心不乱に信じている集団作用がある。「コンコード」とは本来は
酸味の強いワイン用のブドウである。転じて熟成からかリクルートコネクターを指す。
また、隠語として米国マサチューセッツ州の町。ボストンの西にある街の名で。1775年
、独立革命発端の地。エマーソン、ホーソン、オルコットなど、文人の旧宅が多いので
革命の志士を指す。SNSによって「反西欧」の世論が醸成されたコンゴ大統領選では
、選挙管理委員会が最大野党の党首の当選を発表したものの、投票日に約4万人の選挙
監視団を展開した 同国のカトリック教会は、実際の勝者は別の候補だったと指摘する
。旧宗主国のベルギーやフランスも、同様の認識を示し、選挙結果の不正操作の疑いが
強まった。ここで、すかさず登場したのが、ロシアのラブロフ外相だった。英紙フィナ
ンシャル・タイムズの19年の取材に、「問題はコンゴの人々によって解決されるべきだ
」「フランス、米国、旧宗主国があれこれ押し付けないことが大切」などと欧米批判を
展開した。

143:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 21:51:30.23 Az15FdlaM
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・46   コンゴ戦争の停戦

 コンゴ社会には、苛烈(かれつ)な植民地支配を行ってきた 旧宗主国ベルギーと、
コンゴ経済に絶大な影響力を誇るフランスへの、潜在的な反感が沈殿している。ロシア
は、日頃は鳴りを潜めている人々の「反西欧」の感情にSNSによる発信でかき立て、
ロシアがコンゴの人々の「理解者」であるとのメッセージを発し、親ロシア世論の形成
を謀ってきた。アフリカ・マリで2021年5月に起きた軍部のクーデターを支持するデモ
には、ロシア国旗を掲げる人の姿もあった。スプートニク報道やSNSを駆使してまで
も、ロシアの作る世論形成は、マダガスカル、南ア、ジンバブエ、ザンビア、カメルー
ン、スーダン、コートジボワール、マリなど多くのアフリカの国で行われた。と指摘さ
れる。ロシアのウクライナ侵攻が始まった02月24日、アフリカ連合(AU)は、ロシアに、
国際法順守を求める声明を発した。アフリカ各国の為政者とて、子供を含む多数の市民
を無差別に殺害しているロシアの行為を、国際法的、道義的に容認しているわけではな
い。と言う姿勢を示している。しかしながら、アフリカ各国の上層部には、人々の中の
反西欧感情を、あおることで支持拡大を図ろうとする政治エリートが数多く存在する。
ウガンダでは、ムセベニ大統領の息子カイネルガバ将軍が「プーチンは完全に正しい」
などと、ツイートした。と、報じられている。我々の常識からすれば想定外の発言が、
社会的に許容され、場合によっては支持される。これは、ロシアのプロパガンダ作戦の
騙りに落ちたとして、歴史的過去と経済的現代と政治的生活に、今の人々にそれが思想
的源流として「反西欧」の感情と、巧みに結びついているからである。

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23/08/25 21:51:53.87 Az15FdlaM
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・47   コンゴ戦争の停戦

 各国の政権にしてみれば、そうした状況下で 欧米主導の国連決議に安易に賛成する
ことは、リスクの高い選択であるのも確かなことである。AU議長国としてロシア非難
声明発出を、触発主導したセネガルですらも、03月02日の国連総会でのロシア非難決議
の採決では棄権したのである。仏紙ルモンド紙は、外交筋情報として、①ロシアからの
サイバー攻撃を危惧、②セネガル国内の野党勢力から「西側追従」の批判、③国内動揺
とその警戒……という幾つもの理由を挙げている。こうした状況は、アフリカの多くの
国の国情に、ほぼ一定程度、共通している内情である。アフリカの多くの国が、ロシア
批判に 積極的になれない理由の根源に、植民地支配の記憶に由来する人々の 反西欧
の感情があり、それを巧みに利用してきたロシアの外交・情報戦略があり、ロシアには
複数いるそれぞれの諜報活動によって 増幅された国民の反西欧感情と政権批判が結び
ついている事が、危惧する為政者たちの政治的計算に働いている。更に最重要なのが、
「中国ファクター」の存在である。2007年にハーバード大学発表の論文に「アフリカは
何年もの間、グローバル化の蚊帳の外に置かれてきた。低所得でインフラがなく、政情
も、不安定な地域とみなされていた為だ。だが、のろまだが拡大を続けていた生産能力
でも、原材料とエネルギーが喉から手が出るほど欲しかった中国には、アフリカをグロ
ーバル化の流れの中に引き込む必要があった。中国政府の事業活動の優先順位において
、アフリカ大陸対策は、上海市のすぐ次に位置づけられた。アフリカは中国政府にとっ
て都合の良い高収益の投資先だった。そして債務の罠の簡単に狙える最初の標的だった


145:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 21:52:24.38 Az15FdlaM
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・48   コンゴ戦争の停戦

 中国指導部は何年も続けて、アフリカ地域の全ての国の首都に、財界の代表団を派遣
して模索した。代表団のメンバーは各地でインフラプロジェクトを受注する。アフリカ
にとっては第二の脅威だが、中国にとっても第2の大陸で、国内同様の開発独裁の容易
な国に変えていった。「中国企業は、労働力を搾取し、資源を奪うという単純な理由の
ために、アフリカに進出している。」「アフリカが持つ 全ての価値を搾り取り、アフ
リカを、もう一つの中国大陸に変えようとしている。重商主義の時代に、欧州からの、
入植者たちが行ったことと、同じことをしているのだ。違うところがあるとすれば、か
つての入植者たちより、さらにひどい、もっとひどい、経済至上主義だということだ。
」と国民は言う。又、アフリカの政治家の中には、中国をこのように見る人たちもいた
。ザンビアの故マイケル・サタ元大統領は、少なくとも2011年に大統領に就任する前に
、こうした考えを示していた。2007年にハーバード大学で発表した論文の中では、次の
ように言う。「植民地時代の 欧州による搾取は、今の中国の搾取と比べれば良性だと
考えられる……植民地時代には、社会・経済基盤のための投資が行われていた。だが、
今の中国の投資は、地元の人々の幸福を顧みることなく、アフリカからできる限りの物
を、奪い持ち出すことばかりに力を入れている。」と言う。ハワード・W・フレンチは
、2015年の「中国第二の大陸(China’s Second Continent )」の中で、当時の状況を
次のように説明した。「欧米諸国が冷戦後、アフリカに関心を向けてこなかったことを
察知した中国政府は、すかさずこの地域を、自国企業の国際ビジネスにおける、最初の
経験を積むのに最適な実験場だと考えていた。当然ながら、原材料の埋蔵量がアフリカ
に集中していることも、中国にとって損にはならないことだった。

146:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/25 21:52:47.05 Az15FdlaM
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・49   コンゴ戦争の停戦

 そうした欧州の資源の 発掘経験が跡として残っているので、満州での日本軍の石油
探査跡のような、大油田の様に簡単に搾取出来ると考えられた。」と言う。中国は当時
、自国とその“第2の大陸”である、アフリカの間の貿易額が、2015年には3000億ドル
(約44兆5000億円)近くに達するとの見通しを、既に示していた。投資額5兆をゆうに
超える、更に象牙や海産物のなどの密輸団の売り上げは、この数値には入らない。一方
で、アフリカの全ての人たちが、「中国が、アフリカを植民地化しようとしている。」
などと考えているわけではない。と、カリフォルニア大学の李(Ching Kwan Lee)教授
は反論している。中国が アフリカで行ってきた投資について、「帝国主義的」でも「
植民地主義的」でもない。と明言する。李教授によれば、中国企業は利益のために動い
ているのではなく、長期的な視野を持って投資を行っており、それらは地元市民の役に
立っているはずだ。と言う。教授は「アフリカで事業を行っている中国企業で働く人達
は、それぞれの住む国で 相応の額の税金を納めている。」と指摘。さらには中国企業
について、アフリカに植民地主義に伴う依存性をもたらすのではなく、主体性と自治を
促している。とまで、嘘の主張している。李教授が持つような考えは、恐らく中国流の
、中国に対して多額の債務を抱える、パキスタンやスリランカには伝えるべきではない
。嘘の話になる。明快に中国は、中国共産党の中国戦略に沿って動き、その指導の下で
、後進国の要望に応じて、有料の中国の借款、貸付けを起し、その回収に中国企業を、
侍らせて派遣する。その中で賄賂資金を得て、時の有力政治家や軍の指揮官を動かす。
「現代の植民地」が、過去の「中世型植民地」とは多くの事で違うのは確かだろう。が
、植民地同様に傀儡国家にされ、搾取され、動かされる危険性が最も高いのは、これら
の国だ。

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23/08/25 23:18:07.60 Az15FdlaM
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・49   コンゴ戦争の停戦

 最後に、国連におけるアフリカ諸国の 投票行動に対して、アフリカ経済に圧倒的な
影響力を持つ中国の存在が 如何に影響したかについて考察しておきたい。嫌われロシ
アによるウクライナ侵攻に際して、中国は、ロシアを積極的に支持する姿勢は示してい
ない様に見えるが、ある種の潜入諜報員は暗躍している。対ロ制裁に加わる気配はない
のは当然だが、ロシアも味方とはしていない国情を持つ。3月の国連総会においては、
ロシア非難決議の採決では「棄権」して、親ロシアの姿勢を鮮明にしている中国が、実
は、ロシアと競り合っている。経済分野で、強い影響力を有するアフリカ諸国に何らか
の圧力をかけた可能性は充分にある。中国は表向きは、「内政不干渉」を、外交の基本
方針に据えているものの、人権や民主主義の尊重を前提に開発支援する西側諸国とは、
全く異なり、アフリカ諸国の政策には、露骨に干渉するようなことはしないまま、裏で
も表でも明快に債務の罠を仕掛ける。この内政不干渉原則の顔がアフリカ諸国の為政者
に、大いに受けて 歓迎されるからこそ、騙されてしまう。中国はアフリカの経済分野
において、圧倒的なプレゼンスの確立に成功した。したがって、国連における投票行動
に関して、中国が、アフリカ諸国に露骨な圧力をかけた可能性は低いが、裏で仕切って
行動したものと思われる。南米交渉には一つの中国を明快に打ち出して資金提供し政権
と貿易活発となって突然台湾問題で貿易停止で政権転覆があった事例もある。アフリカ
では中国が、政府に対して直接的に「注文」をつけることはなかったが、先の軍事政権
に武器提供の資金請求とロシアの援護射撃で、WHOやWTO、ICPOなど国際機関
のシェア争いの得票作り精進にしている。最近に揚氏と王毅氏がバンクバーに乗り込ん
でまで、もう中国は欧米の決めた国際法や仕組みに従わない。と宣言した事は、記憶に
あたらしいインパクトである。

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23/08/25 23:18:37.02 Az15FdlaM
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・50   コンゴ戦争の停戦

 最後に、国連におけるアフリカ諸国の 投票行動に対して、アフリカ経済に圧倒的な
影響力を持つ中国の存在が 如何に影響したかについて考察しておきたい。嫌われロシ
アによるウクライナ侵攻に際して、中国は、ロシアを積極的に支持する姿勢は示してい
ない様に見えるが、ある種の潜入諜報員は暗躍している。対ロ制裁に加わる気配はない
のは当然だが、ロシアも味方とはしていない国情を持つ。3月の国連総会においては、
ロシア非難決議の採決では「棄権」して、親ロシアの姿勢を鮮明にしている中国が、実
は、ロシアと競り合っている。経済分野で、強い影響力を有するアフリカ諸国に何らか
の圧力をかけた可能性は充分にある。中国は表向きは、「内政不干渉」を、外交の基本
方針に据えているものの、人権や民主主義の尊重を前提に開発支援する西側諸国とは、
全く異なり、アフリカ諸国の政策には、露骨に干渉するようなことはしないまま、裏で
も表でも明快に債務の罠を仕掛ける。この内政不干渉原則の顔がアフリカ諸国の為政者
に、大いに受けて 歓迎されるからこそ、騙されてしまう。中国はアフリカの経済分野
において、圧倒的なプレゼンスの確立に成功した。したがって、国連における投票行動
に関して、中国が、アフリカ諸国に露骨な圧力をかけた可能性は低いが、裏で仕切って
行動したものと思われる。南米交渉には一つの中国を明快に打ち出して資金提供し政権
と貿易活発となって突然台湾問題で貿易停止で政権転覆があった事例もある。アフリカ
では中国が、政府に対して直接的に「注文」をつけることはなかったが、先の軍事政権
に武器提供の資金請求とロシアの援護射撃で、WHOやWTO、ICPOなど国際機関
のシェア争いの得票作り精進にしている。最近に揚氏と王毅氏がバンクバーに乗り込ん
でまで、もう中国は欧米の決めた国際法や仕組みに従わない。と宣言した事は、記憶に
あたらしいインパクトである。

149:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/08/31 05:25:29.84 hvew7XxxE
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・51   コンゴ戦争の停戦

 にしても、最近のアフリカを舞台にロシアと「共闘」する姿勢を見せている点には、
とても留意すべきである。混乱が続く西アフリカ・マリの情勢に関する中国の外交姿勢
は、ロシアとの「共闘」の典型例である。マリにおいてクーデターで実権を握った軍事
政権を起して、「反フランス」を裏で世論を装い盛り上げて、最後は掲げ、ロシアの、
民間軍事企業ワグネル社の戦闘員を、マリに派遣する片棒となって既成事実化している
との情報である。マリの軍事政権は、今や様々な口実を使っては民政移管を拒んでおり
、ロシアはその後ろ盾になっている。そのロシアの後ろで、共通通貨発行とグローバル
サウスを組んで、あたかも、後進国全体の意志かの様に装い、既存の仕組みを攻撃する
。とんでもない秩序破壊と自然破壊で、巨万の利益を企むのである。ここに中国が絡ん
でいるのは間違いないもので、ロシアにはびこる中国諜報員の活動の多さは、アフリカ
情報が、詳細に握られて居る事を裏付けるものである。西アフリカ15ヶ国で構成する、
西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は22年1月9日、マリの軍事政権の存在はアフリカ
の民主化を妨げるものだとして、マリ軍事政権に対して国境封鎖などの独自の経済制裁
を発動した。その直後、フランスはECOWASによる制裁を歓迎しする声明を出しECOWASを
支持する決議案を、国連安保理で採択しようと水面下の調整に入った。ところが、安保
理の非常任理事国であるケニアなどが、反対する。メディアなどが明らかにしたところ
によると、このフランスが草案を書いた安保理決議案に対しては、中国とロシアが拒否
権を行使する構えを見せたためだ。と説く、決議案は水面下の調整段階でも消えること
になったという。その活動に期待していた国連事務総長もガッカリであったと言う。

150:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/09/04 09:09:55.89 PttOhPLXU
  ザイール・コンゴの涙・・・・・・・・・・52   ワグネルグループ

 突然だが、アフリカで映し出されたフリゴジンの映像が日本でTv放映されて2日目
にエフゲニー・プリゴジン氏の自家用ジェットが落ちる映像と墜ちて燃えている映像と
共に、10人死亡者リストが映された。この中には、プリゴジンが会長となっている、
コンコルドグループとか、コンコルドチームとされる中の、私兵武装部隊ワグネル社長
兼このコンコルドの副総長、ドミトリー・ウトキン氏(53)も死んだらしいのである。
2023年6月ロシアのプーチン大統領は、27日にTV声明を出し、23~24日に武装蜂起し
た 民間軍事会社ワグネルを率いたエフゲニー・プリゴジン氏の、企業グループによる
軍への食料提供ビジネスで、国家が、年間800億ルーブル(約1350億円)を 支払ってい
たと明らかにした。その上で、「これらすべてを調査していく」と言明した。プーチン
氏は、モスクワで開いた軍人会合で、プリゴジン氏の、企業グループ「コンコルド」と
の取引問題を提起した。彼のコンコルドグループは、レストラン・ケータリングサービ
ス・クリーニング・建設などと、様々な事業を展開していた。その一つであった進軍へ
の兵站の、食料提供について「誰も何も盗んでいないことを期待する」と発言したのだ
。これは驚きである。ワグネルもコンコルド傘下の会社だ。ウクライナ軍事侵攻に参加
していたワグネルについて、プーチン氏は27日、国家が2022年5月からの 年間に862億
ルーブル以上を支払ったと明らかにした。この資金は、戦闘員の給与や成功報酬に充て
られ、さらに保険金として1100億ルーブルも支払ったと説明した。ワグネルが武装蜂起
した原因の一つは、ショイグ国防相が6月末までに雇い兵と直接契約を結ぶよう命じた
ことにある。とされた。ワグネルも対象とし、これにプーチン氏も支持したものと見ら
れている。これに対してワグネル側は契約を拒否した。この事で公・民対立が過熱した
ようだが、プリゴジンにしてみれば、戦場に砲弾不足は、致命傷である。これまでに、
2万人~5万人が、死亡や脱退してる。と言われるロシア兵達で多くが私兵団と言う。

151:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/09/12 09:06:18.75 1A4ITo6nk
モロッコ マラケシュ近くの オリンポス山麓で 地震が起こった。焼きレンガと言うよりは
石灰と泥で混ぜた作りの壁は そう大きな地震ではなくとも 大災害らしい。フランスには、大勢の人が
この支援に乗り出している。モロッカからの移民が多いからだが、フランスのマクロン大統領は、直ぐに
電話での 支援協力を申し出たようだか、 モロッコ政府は却下した。お隣のアルジェリア問題では、
モロッコとこじれているからだ。と言う。被災民たちには、つらい哀しい事だ。

152:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です
23/09/12 09:09:16.41 1A4ITo6nk
そのアルジェリアも この処の異常気象で、大洪水が 発生している。と言われる。
10月1日5:00頃(世界標準時)、アルジェの南500km、サハラ砂漠の北端の町Ghardaïaと
その周辺はいくつもの洪水に襲われていて、 少なくとも 33人が死亡、48人が負傷し、
50人が行方不明となっている。数千人が避難し、ほとんどの道路と通信手段が不通になっている。
とされている


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