22/07/08 14:08:46 yuotYbU60.net
明治の人たちは狙う方も狙われる方も偉大というか、武士道があったな
明治時代、外務大臣だった大隈重信は、右翼の玄洋社の来島恒喜に襲撃され右脚を失った
来島恒喜は爆弾を投げつけた後、その場で短刀で喉を突いて自害
襲撃の理由は、大隈の外国人判事を導入するという条約案に反対してたから
来島の葬儀で、玄洋社総帥の頭山満は「天下の諤々は君が一撃に若かず」と弔事を述べている
大隈はその後、来島を褒め称えている
URLリンク(ja.wikipedia.org)
大隈はその後、来島について「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」
「華厳の滝に飛び込む弱虫よりは、よっぽどエライ者と思うておる」
「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている[4]。
小久保喜七は毎年来島のために年忌を行っていたが、大隈は毎年法要に代理人を送ってきたという。
大隈の没後も、養嗣子の大隈信常によって代理人の派遣は続けられた[5]。