20/09/01 20:42:07.82 Yt2KTvNs0.net BE:898967234-PLT(13001)
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マズローの欲求階層と引きこもり
<中略>
人間は、グループに所属することによって、生理的欲求、安全欲求、承認欲求を満たすことが出来た。
数万年前の狩猟採集社会(バンド社会)から、農業生産社会や産業革命を経ても、人間は何らかのグループに所属することによって、
欠乏欲求を満たすことが出来たのだ。少人数単位の狩猟採集社会(バンド社会)であれば、集団に所属するだけで、
欲求は満たされた(所属欲求、生理的欲求、安全欲求など)。
しかし、農耕が発達し、集団が大きくなると、その集団自体では所属欲求は満たされなくなり(所属欲求を満たすには、
集団構成員が一定以下の人数でなければならない)、特定の宗教集団、もしくは地域集団に加わることによってアイデンティティを
満たすようになった。ところが近世になり、技術革新と民主主義によって、もはや、生理的欲求や安全欲求を満たすために、
必ずしもグループに所属する必要が無くなったのである。にもかかわらず、所属に対する欲求や承認欲求は、
それ自体が心理的に独立した欲求として認識されるようになった。
民族や地域によって、所属する余地がある場合と、既にその余地自体がなくなっている場合がある。
例えば、日本において、家族、地域、会社などの所属先の内で、近代になり社会が変化するに従って、地域への所属感が乏しくなると、
それに代わって会社が所属感を満たすための機能を果たすようになった。高度経済成長が終わると同時に、会社は所属先とは見なされなくなった。
地域もすでに多くのコミュニティは解体している。しかし、日本では現在でも家族を含め所属できる団体は、完全にはその機能を失っていない。
先進諸国では、コミュニティの最小単位である家族さえも次第に所属先とは見なされなくなっている。
日本では、会社と地域が所属先として不安定となったが、家族は引き続き個人の所属先になっているようだ。
その結果「引きこもり」があり、それは、家族内に逃げ込むことが出来る余地があるということだ。
コミュニティの最小単位である家族の位置づけは日本においてあいまいさを残しているし、それなりに機能もなしている。
所属先としての家族は今でも有効に作用していると考えられる。だが日本でも家族機能は次第に低下する宿命にある。
家族に引きこもることが出来る期間も、やがて限られるだろう。
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