18/05/08 22:35:45.88 Af6sVTrL0.net
では、今の茶道に魂はあるのか。茶会を重ねるたびに疑問は深まった。特に一度に数十人の茶席を1日に十数回、計数百人を招く大寄せ茶会は客をもてなすどころか、さばくだけの場だ。
器に込められた意味や来歴を顧みることなく、「冬だからこれ」「これは夏に使えない」と全てがマニュアル頼みで整えられる。
「聖地」にいるうちに、自分たちを日本文化の聖人、真の日本人であるかのように勘違い。
他人を「書が読めない」「お花が分からない」「今の日本人は正座ができない」とあげつらい、「今の日本は文化度が低い」と嘆く。精神を置き去りにし、目線だけが高くなったようだ。
残念なことに「上から目線」は外国人にも向かう。「正座して」「頭を下げて」「2回回して」―訪日観光客の体験の場でそんな声を投げ掛け、たまに外国文化をけなしながら、
「茶の素晴らしさ」を講義する風景はよく見られる。だが外国人は単においしいお茶を飲んで、日本との一期一会を楽しみたいのだ。魂に触れ、
その空間を味わい、粗相にならない程度に作法を押さえたいだけだ。そもそも稽古の場と、素人をもてなす場は違うはずだ。
茶道が利休以来のもてなしの魂を失った転機は、明治維新と第二次大戦にあるかもしれない。
そもそも上層階級に支えられたお茶は、明治維新で封建制度という支援者を失った。その生存戦略として上層階級の趣味から、大衆にも分かりやすい「茶道」へマニュアル化。
それまでは武士があぐらをかいていたのが女性が主流となり、客でも正座が決まりとなった。
雇われて裏でお茶をたてていた家元などは表舞台で「先生」となり、「教授」などの免状もできた。
こうしてお稽古と化した茶道が迎えたのが、戦後の人口増加社会だ。家元を頂点としたピラミッドが膨張し、増加する弟子に対処するにはマニュアルでさばいて稽古するしかない。
大寄せ茶会のような光景は人口増がもたらしたものだ。今の茶人が総合芸術をかさに着て、お花、書、お香など本来深い文化をかじった程度であたかも達人のように自慢をする姿は見苦しい。
かく言う私自身も、偽物の書の前に深々と頭を下げたり、専門家に披露して恥をかいたりしたこともしばしばだ。
生存のため道を強調したのを忘れた、魂の宿らないマニュアル作法は総合芸術でも文化でもなく「緑の宗教」だ。
今の日本文化に関して危機感を感じるのは、あまりにも中身を伴わないことだ。「日本家屋がすごい」と言う人の家に畳もない。
「日本の神様がすごい」と言う人の家に神棚があるわけでもない。「伝統行事がすごい」と言う人は他国の宗教行事たるハロウィーンをやるが門松は飾らない。日本文化を知らないで自慢だけはやめてほしい。
自分は面倒だからやらないが、1億数千万人の誰かがやってくれる―。こんな他人任せも、人口増加社会の特徴だ。もはや人口減少でそんな時代は終わった。
日本文化を誇って発信したければ、自分でやるしかない。「すごい」と言うなら、自らの手で「すごいもの」を作り出す。そうしなければ、日本文化は自慢ばかりで誰にも担われないまま、衰退してしまう。
お稽古ではなく、日本文化を守るため真に極めるべき時代が来ている。