NHK、暴露 「戦後に改憲運動の中心に立ったのは、旧軍人や神社関係者でした」 あ、ふーん [989661427]at POVERTY
NHK、暴露 「戦後に改憲運動の中心に立ったのは、旧軍人や神社関係者でした」 あ、ふーん [989661427] - 暇つぶし2ch555:番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です
17/05/07 08:37:46.63RfQf7RZnM.net
政治活動に乗り出した宗教団体は、創価学会だけではない。生長の家は、吹き荒れる学生運動の嵐に立ち向かい、赤絨毯に議員を送り出して日本の“右翼運動”の一翼を担っていた。
昭和5年に谷口雅春が創始した生長の家は、「万教帰一」の思想のもと、神道や仏教をはじめ様々な宗教の教えを取り入れている。
戦後、宗教法人格を得た当時100万人弱だった公称信者数は、昭和40年代に急成長。ピークだった50年代には400万人に迫ろうかという勢いだった。
当時、生長の家が熱心に取り組んだのが愛国運動。生長の家政治連合(生政連)を通じて玉置和郎など自民党議員を選挙時に全面支援し、
靖国神社国家護持運動、元号法制化などで自民党に協力した。安保闘争で荒れる大学においては、生長の家学生会全国総連合(生学連)を結成して、
「学園正常化」を掲げる右派学生運動をリードした。信者として早稲田大学で生学連活動に携わったのが、現・一水会顧問の鈴木邦男氏だ。
「信者だった母の勧めで、学生時代は教団の“学生道場”で寮生活を送りました。当時の大学は左翼ばかりで右翼は少数派。
武器を持たない非暴力運動でしたが、私だけは全学連学生とよく殴り合いをしていました。大学ストを阻止する抗議活動で投石を受けケガ人が出たときは、
なぜそんな危険なところに信者を連れて行ったのかと、雅春先生にひどく叱られました」
この生学連には、現在の日本会議・常任理事の伊藤哲夫氏や事務総長の椛島有三氏など、そうそうたる顔ぶれが名を連ねていた。
 鈴木氏がキャンパス内で左翼学生相手に論争をしていた際、その場に居合わせて「そうだそうだ!」と鈴木氏を援護した青年がいた。
後に「楯の会」第2代学生長を務め、市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫とともに割腹自決をすることになる、森田必勝である。
「私は森田も含め、民族派学生を生長の家の練成会(合宿形式の勉強会)に連れて行きました。当時の生長の家では政治的な話題も多く、
森田は宗教の話よりそういった話を好んでいました。昭和45年の三島事件に加わった5人のうち、三島を除いた4人は2人が生長の家の信者でした」(同)
ところが生長の家は、昭和58年に突如、路線を変更。生政連の活動を停止し、政治活動から撤退する。
かつて生長の家を支持母体とし、後に「参院のドン」とまで言われた村上正邦・元労働大臣が教団の政治活動をこう分析する。
「昭和40~50年代は、生長の家だけではなく立正佼成会、霊友会、PL教団など、複数の教団がこぞって創価学会に対抗するための陣取り合戦を、布教と政治の両面で展開していた。
その先頭に立っていた生長の家も、勢いがあり、元号法制化はこうした背景で成立した。
政治活動からの撤退は、後に第3代総裁となる谷口雅宣氏の意向で、この頃から陣取り合戦は終わり、各教団とも守りに入った。
すると、全教団あげての躍動があって初めて勝てる政治活動からは、どうしても距離を置くようになり、念願だった優生保護法改正は実現できませんでした」


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