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「89年天安門事件における『虐殺』説の再検討」 『東京大学教養学部外国語科紀要』第41巻第5号
6月4日未明の段階で、天安門広場には約3000人ほどの学生、市民らが居残っていた。
そこにはそれまでに鹵獲した武器や自分たちで製造した火炎瓶や煉瓦や石ころなどの抵抗用の武器が用意されていた。
戦車・装甲車などを動員した戒厳部隊が広場の学生たちを強制排除する際に、学生たちが用意したそれら武器類は、数や質の面からすればとるに足らぬものであったが、それでも彼らが手持ちの武器で応戦した場合には、戒厳部隊からの反撃を受けて死傷者が出る危険性があった。
現に西長安街では戒厳部隊の進軍にたいして石や煉瓦が雨あられのように投げつけられ、トロリーバスやバス、車道と自転車道を隔てる柵などがバリケードとして使われ、しかもそれらに火が放たれた。
戒厳部隊の進軍には投石などによる激しい抵抗が行われ、部隊のなかに死傷者、ことに多数の負傷者が出た。
戒厳部隊はやむなく催涙弾、さらには銃弾を発砲することで、定められた時間内に天安門広場に集結するよう、強行突破の措置をとった。
その過程で民衆の側にもかなりの数の死傷者が出た。街路上で空に向けて発砲して警告した際に、周囲のビルに実弾が当たり、無辜の民が死傷するといった事態も発生した。
また逆にビルの上から鹵獲した銃などで戒厳部隊の兵士にたいして狙撃がなされることもあった。
このような激しい戦闘が西長安街で展開されているとの情報は、天安門広場に居すわる学生たちにも伝わってきた。
柴玲ら学生運動指導者は、戒厳部隊の全面進駐を前にして、無用な抵抗をしても勝ち目がないことは明白なので、広場での武器を放棄して無抵抗のすわり込みを堅持することを主張した。
一方、当時広場でハンストをして居残っていた4人の知識人(劉暁波、周舵、高新、侯徳健)は、学生たちに武器を放棄させ、広場から撤退すべきことで意見が一致し、
周舵と侯徳健が戒厳部隊の現場の指揮官との交渉に当たり、劉暁波らが広場の学生たちへの説得に当たった。
この時すでに広場周囲は戒厳部隊によって完全に包囲された状況下にあったので、実際のところ他に選択の余地はなかった。
戒厳部隊は広場東南の方角に学生の逃げ道を当初から用意しており、そこから学生たちはインターナショナルを歌いながら隊列を組んで退去していった。
いわゆる天安門広場での虐殺とか、テントで寝ていた学生たちが戦車にひき殺された、と当時のマスコミで騒がれたような事態は発生しなかった。