15/07/10 15:29:24.92 R+VhhF8v0.net
>>551
金先玉(忠北)は四二年二月に約四〇人の集団で端島へ連行された。六~七人が八畳ほどの部屋に詰め込まれ、豆かすやイワシの食事も次第に減らされ、体が動かなくなった。
一九四二年に端島へと連行された南武岩(慶北)によれば、徴用で二円、請けで十一時間働いて三円の賃金とされた。一年目は米飯が出たが、四三年にはじゃがいもや麦、うどんくず、大豆カスを丸めたものになった。
一九四三年に全羅北道金堤郡から端島へと連行された尹椿基は一七歳だった。金堤郡からは二〇〇人が連行され、釜山で計六〇〇人となった。
そのうち一〇〇人が長崎へ送られ五〇人が端島へ連行された。賃金の三分の一は強制貯金、三分の一は故郷への送金とされだが、帰国してみると全く送金されていなかった。
食事はさつまいもや外米飯と汁、イモをのぞくと飯はスプーン三杯程度。
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