18/01/17 11:03:09.70 .net
>>808
その辺の宮﨑さんの本音というのは、『カリオストロの城』にも表れています。
クラリスがカリオストロ伯爵と対決する時に、伯爵はクラリスの顎をガッと掴んで、
「さすが、血は争えんな。もう男を操ることを覚えたか」というふうに言うんです。
それを聞いた僕らは、ついつい「いや、それはカリオストロ伯爵の読み過ぎだろ! クラリスはそんな子じゃないよ!」というふうに思っちゃうんですけども。
でも、その言葉を全く否定しないクラリスを含めて、「これ、何回目にあったことなのか?」というふうに、ついつい考えちゃうんですね。
というのも、劇中の冒頭で自動車を盗んでガーッと走って来るあのたくましさと、
中盤以降のルパンの前で泣いてるだけのクラリスっていうのの辻褄が合わないんですよ。
つまり、クラリスはルパンが来たから弱い女の子になった。裏を返せば、ルパンが来る前は強い女の子だったはずなんですね。
他にも、ルパンが去る時に、「泥棒をやめて私と一緒に暮らしましょう」ではなく、「私もあなたと一緒に行って泥棒をします」と言いますよね。
その意味では、クラリスというのは、わりと“したたかな女”という部分もあるんですよ。
もちろん、「タイガーモスの厨房でシータは男どもを利用していた」と断言はしないんですけども。
宮﨑駿は、この後ろ姿だけを見せて表情を読ませないことを通じて、明らかに「女ってすごいよね」ということを表現しています。
『ラピュタ』について、ドーラのしたたかさはよく語られるんですけども。じゃあ、そのドーラから「あの子は将来、私みたいになるよ」
と言われたシータが本当はどんな女の子なのか?
それは、劇中におけるシータは、あくまでも観客の男の子たちがドキドキして、胸を焦がして憧れるような存在だから、はっきりとは描かない。
でも、「その後ろ姿だけはちゃんと描く」という意地悪さは持ってるんですね(笑)。
・・・
これが、“宮﨑駿の作劇法”というのかな? エロスに対する考え方なんですよ。
エロス自体は描きたい。パンチラも描きければ、女の子のおっぱいや太ももも描きたい。しかし、だからといって、エッチなシーンとして描きたくない。
昨今のアニメーターがやっているような、「こういうの、好きでしょ? 僕も好きなんですよ!」っていうやり方が一番下品だ、と。
宮﨑駿というのは“自分が好きなもの”は描かないんですよ。「『風立ちぬ』を見ろ! 俺はあんなにゼロ戦が好きなのに、ゼロ戦の戦闘シーンが1カットもない!
なぜなら、そこでゼロ戦を描いてしまうと、手塚治虫になってしまうではないかっ!」っていうのが宮﨑駿なんですね(笑)。
今回、僕がこうして連続して宮﨑駿の作品を取り上げるのはなぜかというと、もう、本当にね、みんなにもっと宮﨑駿を好きになって欲しいからなんですよ。
「なんであんなに作画スタッフの消耗が激しい現場なのに、誰も離れて行かないのか?」とか、「宮さんはすごいと言いながら、
ジブリを逃げていくような演出家がわりと多いのはなぜか?」とか、ここら辺も、宮﨑駿が持ってる魔力なんですね。
そういうところもあるので、そこら辺をもう少し理解していきたいなと思います。