【絶縁した庵野くんに】岡田斗司夫605【また寄生】at OTAKU
【絶縁した庵野くんに】岡田斗司夫605【また寄生】 - 暇つぶし2ch599:おたく、名無しさん?
17/11/15 23:11:38.77 .net
>>598
 長々としんどい話をしたけれど、とりあえず笑顔で終わりますよというのが、
大衆演芸の世界では大事だと思うんだ。そこで与えられる“ご褒美”が
雪を見ながら死にゆくKの口角がうっすら上がっているというだけでは、
僕らは安心して家に帰れない(笑)。

【 Kとジョイが駆け落ちするラストで生まれる意味 】
 ラストシーンについてもう少し真面目な話をするならば、
ジョイとKが最後に駆け落ちすることでこの映画は
ようやくリドリー・スコットの支配から逃れられると思う。
リドリー・スコットの世界観におけるレプリカントというのは、
例外なく”逆フランケンシュタイン・コンプレックス”というのにかかっている。
 フランケンシュタイン・コンプレックスというのは、
アイザック・アシモフというSF作家が、戦後すぐに書いた小説の中で作った言葉で、
人間が作ったロボットなどというものを神が許すはずがない。
ゆえにロボットは人間に反乱するに決まっているという偏見を意味するものだ。
リドリー・スコットの世界では、この逆のコンプレックスが蔓延している。
 『ブレードランナー』シリーズにおけるレプリカント、
もしくは『エイリアン』シリーズのアンドロイドはなぜか必ず人間に憧れており、
人間になりたくて仕方がないというコンプレックスを持っている。
なので、『エイリアン:コヴェナント』に出てくるデイヴィットも新しい生命を作って
人間のまねごとを始めてしまう。この”逆フランケンシュタイン・コンプレックス”がある限り、
あくまでもリドリー・スコットの世界観になってしまうんだ。
 ところが、『ブレードランナー 2049』のラストシーンを、
Kとジョイが駆け落ちするというふうに変えるだけで話がぜんぜん違ってくる。
前作の劇場公開版『ブレードランナー』のラストで見せたデッカードとレイチェルの駆け落ちというのは、
キリスト教徒からすれば神に祝福された人間と、祝福されていないレプリカントが駆け落ちして、
果たしてそこに幸福があるんだろうかというちょっとショックな出来事だった。


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