15/12/04 17:09:33.22 RENKkLQm0.net
<悲劇的な天理教史の空白>
『稿本教祖伝』は明治20年、教祖が現身を隠された年の記述で終わっています。
それまでの数年の間に「講を結べ」との教祖のお言葉に従って各地に「講」が誕生していきました。小著『教祖ひながたと現代』68~69頁には次の一節があります。
<これらの「講」に関する史実には、明らかに二つの大きな特徴が見られる。
それは「講」が地域的な信者の集まりであり、
しかも並列的な組織であったことである。
これは「講」内部の人間関係が並列的であったということではなく、
当然「講元」「周旋方」などの役目の分担があり、
導く者と導かれる者の立場の違いはあった。
どんな組織でも上下の役割は必要である。人体にも頭脳があり手足があって、
各々の役目を果たしている。
企業でも社長・重役・部長・課長・係長などの立場がなければ事業を
経営することはできない。ただ、それらの立場に選ばれる人は流動的であり、
身分として定められたものではない。・・・>
実際、回り持ちで講元をつとめた場合もあったという記録も残っています。
「講」が教会へ発展したーーという一言で、
その後の歴史を説明することはできません。
明治20年以後の10年~20年間に、天理300万~500万にのぼる信者数に
飛躍したのは事実です。
初代の頃の天理教史は高野友治氏の筆で取材記録されていますが、
飯降本席亡き後の大正・昭和の時代、すなわち二代・三代以来の歴史の変遷、
とくに戦時中の改革については空白のまま教えられていないのです。
修養科の授業でも、教祖が現身をお隠しになった明治20年で終わり、
修了後はとつぜん現在の教会系統に組み込まれるのです。
しかも修養科のテキストとなっている教典には、
教会に関連して1頁分の記述も見当たりません。