16/01/18 23:05:35.51 Ygch3oMG.net
いつか将来、インドの宗教に精通した聖書研究家があらわれて、キリスト教がイ
関係にあることをその特色をつうじて証明してくれるだろうという期待をさえい
が、さしあたって次のような点を注意しておこう。ヤコブの手紙(三の六)に見
)という表現は、昔から「解釈者にとっての十字架」つまり難問のひとつだっ
た。ところが仏教では輪廻の車輪はきわめてありふれた概念である。アベル・レ
二八頁には、「車輪は輪廻の象徴である。輪廻には円と同じように始めも終わ
の円のなかで、次から次へと移ってゆくということである」と見える。二八二頁
を悟らぬ者は、車輪の回転によって、生と死におちいるであろう」と述べてい
る。われわれはビュルヌフの『仏教史序論』第一巻四三四頁に、次のような重要
「彼は輪廻の車輪がどういう点にあるかを悟った。この車輪は動くと同時に動か
には五つの目じるしがあるのである。彼は世人がこの世にはいって行くあらゆる
り、この道に対して勝利をおさめたのであった」と。スペンス・ハーディの『東
ドン、一八五〇年)六頁には次のように読まれる。「車輪の回転のように、そこ
しい継起がある。その道徳的原因は物への執着であるが、それをひき起こす原因
同書一九三頁および二三三頁参照。ま、
「無知は、この死すべき存在の車輪をまわしている情念の源泉である」と見え不
世界の連続的破壊と再生は、大きな車輪に似ている。この車輪においては、わ
れわれは始めも終わりも認めることはできない」と言われている。(これより長
じ個所はサンジェルマーノの『ビルマ帝国解説』ローマ、一八三三年、七頁にも
ツ語では Hans がつくられる)という名前は Hansa という語(およびその砂漠に
仏教が外面的に、たまたまキリスト教と類似しているひとつの点は、仏教がその
ないことで、つまりどちらも「予言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言
のいろいろな教えと一致していることを説明するために、あらゆる推測をほしい
ままにするなら、エジプトへの逃避という福音書の覚え書の根底にはなにか史実
ンド起源の宗教をもつエジプトの僧侶たちによって教育され、彼らからインド的
けいれ、のちに故国に帰ってからこれをユダヤの教義に適合させ、古い幹に接木
ない。イエスは、自分が道徳的にも知的
47:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/18 23:06:13.38 wJNOvaSr.net
すでに日本の仏教が大幅な衰退の危機に
離れ」よりはずっとゆるやかなものだ。
News』は、既に日本の2万以上の寺院が住職のいない「空き寺」だとしている。
り、欧米では「禅」のイメージと重なるクール・ジャパンの危機を嘆いている。
「お寺の衰退は、地方の衰退の写し鏡だ」と、ガーディアンは指摘する。日本創生会議が昨年発表した報告書によれ、
若い女性を中心とした「地方離れ」が今のペースで進めば、2040年までに日本の地方自治体の半数近くが消滅するとい。
寺の運営が地元の檀家の寄付で成り立っティーの崩壊がそのまま「仏教の危だ。
氏の寺には約120人の檀家がいるが、生活を維持するには200人は必要だという。鵜飼氏はそのため、ジャーナリストという副業に精を出すことにしたのだという。
のは容易ではなさそうだ。寺の大きな収入源は1回何百万円ともされる葬儀代だ。
高齢化が進み、昨年は130万人近くが死亡した日本では、一見、成長分野のようにも見える。しかし、ガーディアンは「それすらも救いにはならない」と記す。
確かに葬儀件数は多いものの、社会全体が後退期にある中、既に伝統的な仏式葬儀にかかる予算を出せない日本人が大半
民間の葬儀場などで、より安価で簡素な葬儀を行う層が増えているという統計が
ントで対抗する動きはあるが、ことはお金や人口減の問題だけではなさそうだ。
ガーディアンは、「1700年代初め、日本の人口は今よりも1億人少ない3000万人だった。それでも4万6000の寺があった
同紙は、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件以来、仏教を含む組織的い、危険」だととらえる日本人が増え、
若い世代の宗教に対するイメージがかつてないペースで悪化していることを、仏教衰退の要因の一つに数えている。
大学のイアン・リーダー教授は、現代日本の仏教は“葬式仏教”だと指摘する。
神道と共存する独特のゆるやかな宗教観の中、日本人は「正月には神社で祈り、死んだら寺に行く」と、同教授は米ラジオ局「NPR」のインタビューに答え
一部の若い住職の間では、衰退を食い止めるためには、この「仏教=葬式」のイ
ボランティア活動や音楽会などの文化行事に力を入れる動きも出てきている。
特に、宗派を超えた若い住職たちがバーテンを務める仏教バー『坊主BAR』(東京・四谷)は、新しい動きの象徴として、複数の海外メディアに取り上げられ
48:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/18 23:06:48.29 jfz7cno4.net
とこころよい眺めをわれわれに見せてくれるのと同様に、インドの知恵に発したキ
とまったく異質的な荒けずりなユダヤ教の古い幹を覆ってしまったのだ。そして
されなければならなかったものは、キリたく別のものに、いきいきとした真実
なものに変えられたのである。それは同じもののように見えながら、ほんとうは
離されていた無からの創造者は救世主と同一視され、またそれをつうじて救世主
を代表者とする人類とも同一視されたのだ。なぜなら、人類はアダムにおいて堕
堕落・苦悩・死のきずなに巻きこまれていたけれども、救世主において救われる
教におけると同様に、ここでもこの世は罪や堕落、苦悩や死としてその姿を示す
べてをたいへん良い」と見たユダヤ的楽天観の光は消えて、いまや悪魔そのもの
の三一)、文字どおりに世界支配者とよばれるのだ。この世はもはや目的ではな
く、手段となる。つまり永遠のよろこびの国は、この世の彼岸、死のかなたにあ
る諦念とあらゆる希望をよりよき世界へ向けることが、キリスト教の精神であ世
界への道をひらくのは、贖罪、すなわちこの世とその道からの解放である。道徳
かわりに、敵を愛せよという掟があらわれる。無数の子孫を約束することに取っ
束があらわれる。犯罪に対する神罰が四代の子孫にまで及ぶということにかわっ
新約聖書の教えによって、旧約聖書の教えが修正され、転釈を受けていることを
見いだす。このことによって旧約の教えは内面的・本質的にインドの古い宗教と
のだ。キリスト教のもっている真実な点は、すべてバラモン教や仏教にも見いだ
ら生命をあたえられ、しばしの時をおくのである人間が、歎きと不安と困窮にみ
ちたこのはかない生存をあたえられたことに対して、いくらへりくだって感謝し
く、そのためにエホバをどのように讃えても讃えきれるものではないというユダ
ドゥー教や仏教にこれを求めてもむだであろう。なぜなら、新約聖書には、イン
るかな熱帯の原野からいくたの山河を越えて吹いてくる花の香りのように感知さ
書では、インド的知恵に適合するものは人類堕落論以外にはなにものもないから
な有神論を修正するものとして、旧約聖書につけ加えられる必要があったのであ
書はこれを唯一の手がかりとして、堕落
49:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/18 23:07:23.38 i4tsWBKt.net
つまりは人間が自分の好き勝手なことを動物に加えていいというのである。さらに
人間を動物学の筆頭教授に任命し、これからさき動物たちのもつべき名称をそれ
権利をもたないということの象徴にほかならぬ。―聖なるガンジスの流れの母
よ! こういう造語がわたしに及ぼす影響は、べとつくアスファルトやユダヤ的
るのだ! これというのも、動物を人間の好き勝手に使える製品のように見るユ
しかしその影響は残念ながら現代にも及んでいることが感じられる。というのリ
スト教に移行したからだ。だからキリスト教の道徳がこの世で最も完全なものだ
は断然やめるべきだ。じっさい、キリスト教の道徳がその掟を人間だけに限っん
の権利ももたないものとして放置していきな欠陥であり、本質的に不完全な点で
ある。だから粗暴・冷酷な、ときには野獣にも負けぬような大多数の人間どもか
は、警察が宗教の役割を代行せざるをえぬのであり、それだけではじゅうぶんで
たとえばスラテの大きな家畜病院に見られる。この病院へは、キリスト教徒も回
かかった動物を入院させることができるが、治療がうまくいっても、まことに適
を返してもらえないのだ。同様にバラモン教徒や仏教徒は、自分の身に幸運が舞
場合はいつでも、「神なる汝を」などとわめきたてないで、市場に行って鳥を買
い、市門のまえでその鳥籠をあけてやるのだ。これはあらゆる宗教の信者が集ン
たこれに類することはいくらでもある。
われわれのキリスト教の賤民どもが動物を遇する、あの悪逆無道ぶりを見るがい
い。彼らはまったくなんの目的もないの
りする。そして自分たちを養ってくれた稼ぎ手の馬でさえ、老齢に至っても酷使
ばるまで、哀れにも骨の髄までもしゃぶ
る魂だ、と言いたいくらいだ。これこそエデンの園におけるあの任命の場面の結
おさえるには、暴力か宗教しかないのに、キリスト教は不名誉にもこの場する
のだ。確かな筋から聞いた話だが、ある
くれと頼まれたとき、宗教上なんの手がかりもあたえられていないので、どうし
という。この牧師は正直者だったのだ。彼の言うとおりなのだ。たいへん称
愛護協会が一八五二年一一月二七日付で出した告示は、すばらしいねらいで聖書
いている規定」を集めようと骨折ってい
50:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/18 23:08:00.02 ArHjUnBu.net
仏教徒については、この種の報告はなされていない。仏教がおおよそ西洋紀元第
地であるインド最先端の半島から、バラモン教徒によって追いだされ、その後ア
とは、われわれも承知していることだけれど、ぼくの知る範囲では、その普及に
争や残虐行為がなされたというような確たる報道はない。もちろんそれは、これ
に包まれているせいかもしれない。しかし、生きとし生けるものを愛護せよ説い
ているこれらの宗教が、きわめて温和な性格をもっていること、またバラモン教
にほんらい改宗者を認めないという事情などは、これらの宗教の信者たちが大規
の残虐行為を犯さなかったという期待をわれわれにいだかせるものだ。スペン著
『東洋の修道生活』四一二頁で、仏教徒が非常に寛容である点を賞賛し、仏教の
の年代記の場合よりも宗教的迫害の実例つけ加えている。じじつ、不寛容は一神
教にのみ本質的なものだ。唯一神というものは、その本質上、他のいかなる神を
妬ぶかい神だ。これにひきかえ、多神教の神々は、その本性上、寛容なものなの
分が生きると同時に、他の神々をも生か
間、つまり同一 宗教の神々をよろこんで
は他の宗教の神々に及んでゆく。だから、これら他 宗教の神々も客分として受
きとして市民権を得る場合だって出てくるのだ。それはローマ人の実例が示して
エジプトの神々をはじめとして、そのほか異国の神々もすすんで受けいれ、崇敬
したものだ。だから宗教戦争・宗教的迫害・宗教裁判といった芝居をわれわれに
像を破壊したり、インドの寺院や三千年ものあいだ天日をにらんでいたエジプト
た見物を見せてくれたのは、一神教的宗教にかぎられるのだ。というのも、一神
つくるべからず」といったためなんだ。
にもどすと、きみが人間の強烈な形而上学的欲求を力説するのは、たしかに正し
教というものが、その欲求の充足というよりは、むしろその濫用であるように思
われるのだ。道徳性を促進するうえで宗教が役立つかどうかは概して疑わしいの
もその害悪、またその結果として生じてくる残虐行為がかくれもない事実である
りだ。もちろん王位の支柱として宗教が有効であるという点を考慮にいれれぜな
ら、王位が神の恩恵によって授与されるかぎり、祭壇と王位は親密な近親関係に
51:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/18 23:08:37.08 nk2euuPl.net
貧困と奴隷とは同じ事態の二つの形式にすぎない。いや、ほとんど名前だけが違っているのだといい
たいくらいのものだ。その事態の本質がどこにあるかといえば、その人間の力が大部分は自分自身のた
めには使われないで、他人のためにふりむけられるということだ。このことから、労働の荷重というこ
とも起こってくるし、自分の欲求をみたすことが乏しいということにもなる。というのは、自然はよく
したもので、自分にさずかった力を適当に働かせて、自分の食いぶちを大地からかちとるだけの力しか
人間にはあたえておらず、だれでもありあまる余力などもって生まれてはいないからである。ところで
人類の相当部分のものが、人類が食ってゆかねばならぬという共同の重荷をまぬかれれば、それだけほ
かの人たちの荷が勝つことになり、悲惨になるわけだ。こうしてさしずめ、奴隷とかプロレタリアート
といった名のもとで、いつでも人類の大多数の者に重荷がのしかかるというあの禍が起こってくる。
その遠因は贅沢だ。つまり二、三の少数の者がなくてもすむもの・余計なもの・
ことができ、それどころか、ひとひねりしたような欲求を満たすことができるた
ている人力の大部分がそんなことにふりむけられ、したがって不可欠なものを生産するという肝心かな
めの必要なことには手をぬくということになる。何千という労働者が、自分のれ
ないのに豪荘な邸宅の建築に従事したり、自分や家族のために粗末な布地を織
ために精巧な絹のものやレースまで編むわけで、一般に彼らは富める者らを満足
さの贅沢品をつくっているのである。都会の人口の大部分は、こういう贅沢品の生産に従事する労働者
からなっており、百姓はためにこの都市労働者や、またこういう贅沢品を注文する連中の肩がわりをし
て、耕作したり、種をまいたり、放牧したりしなければならず、けっきょく自然がもともと彼に課した
以上の仕事をもつことになる。そのうえ彼はその力と土地を、穀物・馬鈴薯・牧
52:畜にふりむけるより は、むしろ葡萄・蚕糸・ホップ・たばこ・アスパラガスなどに割かねばならない。さらに、砂糖・コー ヒー・茶などを輸入するために造船業や航海に従事する要員をそろえる必要から、たくさんの人間が耕 作から引きぬかれてゆく。こういう余計な品物の生産は、何百万という黒人奴隷
53:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/18 23:09:16.38 oDLZT0i1.net
さてそこでわれわれが、私の全哲学の主たる帰結すなわち《世界の
現象を現示し維持するものは、各個体内においても生きて働く意思である》を回顧し、同時に人生
と夢が類似すると一般に認められていることを想起するならば、いままでのいっさいをまとめていう
と、《各人が自分の夢の隠れた舞台監督であるのと同じく、われわれの現実の人生行路を支配するか
の運命も結局はやはりなんらかの仕方で、われわれ自身のものたるかの意思から発しており、しかも
意志は、それが運命として登場する人生行路においては、表象する個体としてのわれわれの意識をは
るかに超えでた領域から作用することが可能だ》と、一般論としては考えられる。これにたいしてわ
れわれの意識は、経験的に認識可能な個人的意思を導く動因を提供し、したがって、この個人的意思
は、運命として現われるかの意志―われわれの導き手である霊、「われわれの外部に住み、かつそ
の座を上天の星辰中に置く霊」―とはげしく相争わねばならぬことが多い。霊は個人の意識を広く
見わたしたうえ、この意識に発見してもらうわけにはいかぬもの、さりとて見のがしてもらいたくも
ないものを、外部からの強制として、仮借なくこの意識にたいして用意し確立する。 以上の大胆な主張の有する奇怪な側面、否、度はずれた特質を緩和するには、まずなによりもスコ
トゥス・エリウゲナの一節が役立つかもしれない。そこで彼の《神》は認識を有せず、また時間・
空間や十個のアリストテレスの範疇を述語とすることができず、それには、意志という唯一の述語が
残されるだけである―、これはあきらかに私の場合の《生への意思》以外のなにものでもない、と
いうことが注意されねばならない。いわく、《神においては、またもう一種の別の無知がある。すな
わち、神が予知し予定したことも、現実の事物の過程において経験上いまだ現われぬかぎりは、神は
それを知らぬのだといわれる場合がそれである》(『自然の区別について』オクスフォード版八三頁)。
またそのすぐあとでいう。《神の無知の第三の種類とは、行為・行動という経験をつうじて、結果と
して明確に現われたのでないものは、たとい神が、見えざる根拠を自己自身のうちに―みずから造
り、みずからに熟知されたものとして
54:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/18 23:26:36.24 U1y3NoNm.net
かえてできたことではないからだ。どこでも王はひとりときまっており、しかも
通は王位は世襲的に継
承される。王はいわば全国民の人格化、あるいは頭文字であり、王において国民は個性をもつようにな
るのだ。この意味で王は「国家、それはわたしである」と言って当然なのである。だからこそシェーク
スピアの歴史劇においても、イギリス王とフランス王はたがいにたんに「フランス」あるいは「イギリ
ス」と呼びかけ、(『ジョン王』第三幕・第一場では)オーストリア公に「オーストリア」の一語で話し
かけているのが見られるのであって、いわばたがいに自分をその国民性の権化と見ているのである。こ
うして君主制はまさに人間の本性に適しているのだ。だからこそ世襲君主は、自己とその家族の安全を
国家の安寧と不可分なものと見るのである。これに反し選挙による首長の場合は、たいがい二つが分か
れるのである―教会国家を見よ。シナ人は君主制しか知らず、共和制がどんなものであるか、ぜんぜ
ん理解できないのだ。一六五八年、オランダ公使がシナに赴任したとき、オランイェ公をオランダ王と
して説明せざるをえない破目になったものだ。そうしないとシナ人は、オランダなど首長をいただかな
いで生活している海賊の巣とでも思いかねなかったからだ。(ジャン・ニュホフ著『シナ帝国派遣諸国
連合東洋商会の使節』ジャン・ル・シャルパンティエ訳、一六六五年ライデン発行、第四五章参照。)
―ストバイオスは「君主政体が最上のものであること」という見出しをつけた独特の一章で、古代人
が君主政体の長所を説明した最上の個所をいろいろと集めている。共和政体はまさに反自然的であり、
人為的にこしらえたもの、反省に由来するもので、したがって全世界史をつうじ
て出現するだけである。
すなわちギリシアの小型共和国、ローマおよびカルタゴがそれで、これらはす
べてその人口の六分の五、ひょっとすれば八分の七までが奴隷だったという特殊事情がつけ加わる。共
和国アメリカ合衆国も一八四〇年に一千六百万の人口に対し、三百万からの奴隷をかかえていたではな
いか。そのうえ、古代の共和国の存続期間は、王政のそれにくらべれば、非常に短かったのである。
一般に共和政体は打ち建てるのはやさしいが、維持するのは困難であり、君主政
55:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/20 21:17:50.38 zTeHsdE5.net
君主体制的本能が人間にもともとあって、ただひとりの人を自分たちにふさわしいものとして君主に
祭りあげるということは、もしなかったとしたら、何百万、いな億という人たちが、あらゆる時代に、
いたるところの国で、たったひとりの男に服従し、ときにはたったひとりの女性、暫定的にはたったひ
とりの子供にさえ唯々諾々として従うなどということが、どうしてありえようか。なぜなら、これは考
えてできたことではないからだ。どこでも王はひとりときまっており、しかも普通は王位は世襲的に継
承される。王はいわば全国民の人格化、あるいは頭文字であり、王において国民は個性をもつようにな
るのだ。この意味で王は「国家、それはわたしである」と言って当然なのである。だからこそシェーク
スピアの歴史劇においても、イギリス王とフランス王はたがいにたんに「フランス」あるいは「イギリ
ス」と呼びかけ、(『ジョン王』第三幕・第一場では)オーストリア公に「オーストリア」の一語で話し
かけているのが見られるのであって、いわばたがいに自分をその国民性の権化と見ているのである。こ
うして君主制はまさに人間の本性に適しているのだ。だからこそ世襲君主は、自己とその家族の安全を
国家の安寧と不可分なものと見るのである。これに反し選挙による首長の場合は、たいがい二つが分か
れるのである―教会国家を見よ。シナ人は君主制しか知らず、共和制がどんなものであるか、ぜんぜ
ん理解できないのだ。一六五八年、オランダ公使がシナに赴任したとき、オランイェ公をオランダ王と
して説明せざるをえない破目になったものだ。そうしないとシナ人は、オランダなど首長をいただかな
いで生活している海賊の巣とでも思いかねなかったからだ。(ジャン・ニュホフ著『シナ帝国派遣諸国
連合東洋商会の使節』ジャン・ル・シャルパンティエ訳、一六六五年ライデン発行、第四五章参照。)
―ストバイオスは「君主政体が最上のものであること」という見出しをつけた独特の一章で、古代人
が君主政体の長所を説明した最上の個所をいろいろと集めている。共和政体はまさに反自然的であり、
人為的にこしらえたもの、反省に由来するもので、したがって全世界史をつうじ
すなわちギリシアの小型共和国、ロー
56:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/20 21:18:32.46 Naur9wdq.net
そういうわけで、この地球の裏側における純粋な法形態の見本は、共和国の肩をもつものでなく、いわ
んやこれを模倣したメキシコ、グァテマラ、コロンビア、ペルーにとってはさらに黒星である。共和国と
いうものにつきまとうまったく特別な、いわば逆説的な不利のひとつは、共和国においては卓越した頭脳
の持ち主が高い地位につい直接政治力を及ぼすようになることが、君主国におけるよりは困難であるとい
う点だ。というのも、偏狭・薄弱・平凡な頭のやつらが、それこそ断然、いつもあらゆる場合に、そして
あらゆる関係において、卓越した頭脳に対して天敵同然に謀反をおこし、あるいは本能的に結託し、すぐ
れた人物に対するその共通した恐怖によって大同団結をむすぶからである。このつねに多数を占める馬鹿
者どもの集団には、共和体制の場合、卓越した人物たちを抑圧し閉めだし、これらすぐれたものたちに凌
駕されまいとすることは�
57:A容易に成功するであろう。なにぶんここではもともと同権で、しかもつねに五十 対一となるからだ。これに反し、君主政体では、どういう場合にも当然おこるこの団結、すなわち愚かな者 がすぐれた者に対して徒党を組むということが、あることはあるけれども、それはたんに一方的に、下から 起こるだけで、上からは理性と才能が自然なとりなしと保護者を見いだすのである。というのは、まっ さきに君主そのひとの地位はあまりに高くかつ堅固であるから、およそだれかと競争しなければならな いといった心配はいささかもいらない。そのうえ君主自身は国家に奉仕するにあたって、自分の頭だけ ではじつに多方面にわたる要請にとうていこたえることはできぬから、その頭脳よりもむしろその意志 を働かせるのである。すなわち君主はつねにひとの頭を使わねばならない。そして当然のことながら、 自分の利害が国の利害としっかりからみあい、不可分・一体となるように顧慮して、自分にとっていち ばん役に立つ道具である最上の頭脳を優先的にえらび、これに目をかけることになる。ただしそれは人 材を見つける能力あっての話であるが、誠実にさがせば、これはたいして困難なことではない。 同様に大臣たちも声望のある為政家たちをいちだんと抜いているゆえ、これを嫉視するはずもなく、君主
58:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/20 21:19:09.04 j4Fk1G/9.net
いったんなにかをこの頭に吹きこんでしまえば、どんな非行・犯罪もできないことはないではないか。
だからわたしは、出版の自由は危険のほうがその利点をうわまわることになりはしまいかと、非常におそ
れるものである。とりわけどんな苦情でも法的に訴える道が開かれているから、なおさらである。いずれ
にしても出版の自由は、いっさいの匿名を厳に禁止することを条件にすべきであろう。―
一般的に次のような仮説を立てることができよう。つまり法は、純粋に遊離して析出することのでき
ないある種の化学的物質と似た性質をもっている。この物質は、担体の役割をはたしたり、あるいは必
要な濃度をあたえてくれるごく微量の混ぜものを要するのだ。たとえば弗素、アルコール、青酸のたぐ
いだ。法もこれと同じことで、現実の世界に根をおろして支配しようとするからには、気まぐれや暴力
といったものをほんの少しつけ加えることがどうしても必要だ。法本来の性質は、純粋に理想的な、つ
まりエーテルのようなものだが、この現実の物質的世界に存立して作用を及ぼし、ヘシオドスに見られ
るように気化してこの世から天上へ飛んでいかないためには、その必要がある。すべての生得権・相続
特権・国教そのほか多くのものは、こういうやむをえない化学的塩基もしくは合金とみなすべきであろ
う。この種の恣意的にきめられた基礎のうえに立ってはじめて、法も流通し、矛盾なく施行できるであ
ろう。いってみれば、こういう基礎は法の「立つべき場所」であろう。
リンネの人為的な恣意的に選ばれた植物体系を自然の体系でとりかえることはできない。たとえ自然
の体系がどれだけ理性にかなっていようとも、またじつにしばしばそういう体系がこころみられたにし
ても、それはできないのである。というのは、自然の体系には、恣意的・人為的体系のそなえているあ
の概念規定のしっかりした確実さがないからである。同様に、右に示唆したような憲法の人為的・恣意
的基礎を純粋に自然的な基礎でとりかえることはできない。自然的基礎は上述の諸制約を非難して、生
得の特権のかわりに人格的価値こそ特権をもつべきだとし、国教のかわりに理性的探究の成果をすえよ
うなどとするものだ。
こうした言いぶんがどんなに理性にかなっていようとも、そこには国家共同体
59:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/20 21:19:49.43 rNJAw/Y2.net
もしこの世に正義が行なわれていれば、家を建ててしまえばそれでじゅうぶんで、明白な所有権以外
に、べつだん防衛を必要としないことになろう。ところが不法がまかりとおっているから、家を建てた
人はそれを守るだけの力をもつことが要求されるのだ。力がなければ、その人の権利は事実上、不完全
ということになる。侵略者は強者の権利をもっているからだ。強い者は暴力をふるう権利をもっている
というのが、ほかならぬスピノザの法概念だ。彼は他の権利を認めないで、「各人はその有する力の量
に応じて、それだけの権利を有する」(『政治論』第二章・第八節)と言い、また「各人の権利はその有
する力によって規定される」(『エティカ』第四部・定理三七、注一)と述べている。―こういう法概
念の手引きをスピノザにあたえたのは、ホッブス、とりわけその『市民論』第一章・第一四節であるよ
うに思われる。この個所でホッブスは、神さまが万物に対して権利をおもちなのは、なんといってもそ
の万能の力によるのだ、という奇妙な説明をつけ加えている。―市民社会では、こういう法概念は理
論面でも実践面でもすでに廃棄されたが、政治の世界では、理論的に葬られたとはいえ、実践面では
依然として通用している。現に最近、北アメリカ人のメキシコ掠奪行によって、この法概念は輝かしく
も実証されたばかりだ。もっともこれをはるかに凌駕するものに、フランス人が首領ボナパルトのもと
に全ヨーロッパを掠奪した昔の例があるけれども。ただこうした征服者は、掠奪行そのものよりもはる
かにしゃくにさわることの多い、例の公式の嘘で事態を言いつくろったりしないで、むしろ堂々と厚か
ましくマッキャヴェッリの学説を採用すべきであろう。というのは、この学説から引きだせることは、
個人どうしのあいだでは、また個人に対する道徳や法学では「他人が汝に加えることを欲しないことは
他人になすなかれ」という原則が通用するけれども、政治においては、その逆の「ひとが汝に加えるこ
とを欲しないことこそ他にむかってやるべし」という原則が妥当するからだ。屈服するのがいやなら、
機を見て、つまり相手の弱みにつけこんで、ただちに隣のやつを制圧しろ。
60:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/20 21:20:26.83 iN+RVW6y.net
昔ならほとんど手のとどかぬような品物が、今日では安く大量に手にはいる
し、最下層階級の生活もいちだんと快適さを増してきている。中世期ではイギリス王も、フランス大使
に謁見を給うさいに、貴族のひとりから絹の靴下を借りたものだ。エリザベス女王でさえ、一五六〇年
のお年玉に絹の靴下を一組はじめてもらったときには、びっくりしてひどく喜んだものだ(ディズレー
リ、第一巻三三二頁)。ところが今日ではそれくらいのものはどんな売り子でも持っている。五十年前
に貴婦人の着た更紗の服は、いまでは女中が着ている。この調子で機械がいましばらく進歩すれば、人
間が力を労することはほとんど完全にまぬかれるところまで行きつけるであろう。現に馬力の大部分は
すでにそうなっているのだ。そうなればもちろん、人類全体に精神文化が及ぶことも考えられよう。人
類の大部分の者が肉体的重労働に従わねばならぬかぎり、そういうことは不可能な話である。というの
は、つねにどのような場合にも、一般的にも個別的にも、刺激性の筋力と感受性の神経力は敵対関係に
あるからだ。つまり両者の根底にある生命力は一定しているためだ。さらに「芸術のわざは風習をやわ
らげる」と言われるとおり、やがて大にしては戦争、小にしてはなぐりあいや決闘も、おそらく完全に
この世から姿を消すっであろう。あと二つはすでに今日、はるかに珍しくなっている。しかしここでユ
トピアを描きだすことが、わたしの目的ではないのである。
しかしこれらの理由を別としても、贅沢を廃してあらゆる肉体労働を均等に分けるべきだという右に
述べたあの論拠に対して一考すべきことは、人類という大集団は、いついかなる場合にも、それぞれの
問題に応じて、さまざまな姿で、指導者、指揮者、助言者をかならず必要とするということだ。裁判
官・統治者・将軍・官吏・牧師・医者・学者・哲学者といった人たちがこれにあたる。こうした人たち
はすべて、大多数の、まったく能力のない、倒錯した連中を人生の迷路をつきぬ
したがってこうした人たちは、めいめいそれぞれその地位と能力に応じて、その
狭いはあっても、人生の見通しをもっているのである。こういう指導者が肉体労働から解放されるとと
もに、卑俗なことの欠乏や不便にわずらわされないということ、それどころ
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それゆえ、重要な事件の決定がその人の申し立ていかんで左右される場合、あるいはその約束を履行することが
重要な意味をもつ場合には、本人が正当防衛はこの場合存在しないことを承認すること、すなわち他から暴力を
加えられたり暴力でおびやかされることなく、正義が行なわれるということを洞察し心得ていること、同様に自
分に差しだされた質問がたしかに然るべきものであることを承認すること、最後にまた、この質問にかんする自
分の現在の申し立てですべてが左右されることを知っているということをまず力強く厳粛に宣言する必要がある。
この宣言は、そういう事情で嘘をつく場合には、はっきり自覚したうえで、不正を犯すことになるということを
含んでいる。なぜならその人が正直であると信頼されたうえで、正・不正いずれの場合にも使えるような完全な
権力を渡された人として宣誓者は立つからである。そうなってもまだ嘘をつけば、自由な権力を持っている場合
には、冷静に熟考したうえでも、その権力を不正なことに使うような仲間のひとりになるという明確な自覚を本
人はもっているわけである。偽誓はその当人に自分自身についてこういう人物証明書をあたえることになるのだ。
ここにさらに次の事態が結びつく。どのような人もなんらかの形而上学的欲求をもたないわけにはいかないから、
たとえはっきりしなくても、だれでもいだいている確信がある。それは、この世はたんに形而下的意味をもつば
かりでなく、同時に形而上学的意味をもつということだ。したがってわれわれの個人的行動はたんにその道徳
性による結果をもつばかりでなく、経験ぼす結果以上に、はるかに重要な、ぜん
ぜん別種の結果をもつのであり、したがって真に超越的な意味をもつというこ
んしては『道徳の基礎について』のわたしの懸賞応募論文の第二一節を指示するにとどめ、ただひとこ
と、自分の行為に対して経験界に限られる意味以上になんらの意味はないという
体にかならず内的矛盾を感じ、自分に強制を加えざるをえない羽目になるだろす
いの要請によってわれわれは、はっきり次の立場に立たされる。つまり自分が、
右に述べたような意味で道徳的存在であり、そういう性質のうえで自分のあたえ
とって非常に重要なものだということを自覚せざるえないということだ。誓いを
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16/01/20 21:21:42.63 ypr9MTtG.net
国家共同体に不正の残存することができるだけ少なくなるていどに、統治術が以上の課題を解決する
ならば、それだけでもつねにたいしたことであろう。なぜなら、不正が影も姿もなくなるなどというこ
とは、ただ近似的にしか達成できない理想的目標にとどまるからだ。というのも、一方で不正を片づけ
れば、他方からまたしのびこんでくるからで、不法ということは深く人間の本性にひそんでいるからに
ほかならぬ。われわれは憲法の人為的形式と法の完備によって、あの目標に到達しようと努めているの
であるが、これはしかし百パーセントには近づかぬ一種の漸近線にとどまるのである。というのも、法
律の条項の概念をどんなに確定してみても、個々の場合すべてをつくすことはできず、ひとりひとりの
個人的場合に及ぶことは不可能であって、それはいわばモザイクの石ていどに近づけられるものの、と
うてい絵筆のニュアンスまでは出すことができないからである。そのうえ、政治においては、すべて実
験は危険である。なにぶん相手はいちばん扱いにくい素材、すなわち人間であり、その取扱いは爆発す
る雷金の扱いとほとんど同じくらいに危険だからだ。この点で、出版の自由が国家機関に対してもつ意
味は、安全弁が蒸気機関に対するのと同様である。というのは、どういう不平・不満も、出版の自由が
ありさえすれば、ただちに言葉で発散させることができ、それどころか、材料があまりない場合には、
言葉だけで種切れになるからだ。しかし種が多い場合には、機を失せずそれを看破し、はけ口をつけ
てやるがよい。不平をむりやり閉じこめ、それが卵をかえし、発酵し、煮えたぎり、伸びほうだいに伸
びて、ついには爆発するよりも、このほうがはるかにうまくいくのだ。―他方、出版の自由は毒物販売
の許可のようなものとみるべきだ。毒物といっても精神と気分に対する毒物だ。というのは、知識も判
断ももたない大衆の頭にどんなことが浮
かぶか、わからないではないか。とりわけ目先に利益や儲けと
ったことをちらつかせる場合、なにを考えだすかわかったものではないからだ。
いったんなにかをこの頭に吹きこんでしまえば、どんな非行・犯罪もできないことはないではないか。
だからわたしは、出版の自由は危険のほうがその利点をうわまわることになりは
63:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/20 21:25:23.06 j6V1omt/.net
自分の足もとにあるようなものを雲の中に求めるのが、ドイツ人特有の欠点だ。哲学の教授諸公が
自然法を取り扱うやり方など、その尤なるものである。自然法の素材になっている単純な人間の生活関
係、すなわち正と不正・所有・国家・刑罰権などを説明するのに、およそ法外な、抽象的きわまる、つ
まり最も包括的で最も中身のない概念がもってこられる。そしてこの概念から、それぞれの教授の特殊
な気まぐれに応じて、あれやこれやのバベルの塔が雲のなかに打ち建てられるのだ。かくて、きわめて
明瞭な、単純きわまる、われわれに直接関係する生活の事態が、わけのわからぬものに仕立てあげられ
る。こういう学校で教育を受ける若者たちこそ迷惑だ。じつは問題そのものはきわめて単純・明快なの
で、それはこの問題についてのわたしの叙述(『道徳の基礎について』第一七節、『意志と表象としての
世界』正編・第六二節)によって納得できよう。ところが、ある種の言葉、たとえば権利・自由・財
産・存在(この無内容な不定形詞の連辞)といった言葉を聞くと、ドイツ人はすっかりめまいを起こし
て、たちまち一種の精神錯乱におちいり、最も包括的で最も空っぽな概念を技巧的にならびたてなが
ら、なにも言っていないくせに大げさな空言を弄しはじめるのだ。実際は現実にこそ着目すべきであ
り、これら抽象概念のもとになっている。したがってその真の内容をなす唯一のもの、事柄や事態を具
体的に見ればいいのに、ドイツ人はそれをやらないのである。
第一二一節
正あるいは権利と言う概念が積極的なものであるにちがいないといった先入見から出発して、これを
定義しようとくわだてる人は、失敗するだろう。つまりそれは影をつかもうとして亡霊を追いかけ、一
種の「非存在」を求めているものだからである。正あるいは法の概念は、自由の概念と同様、否定的・
消極的概念であって、その内容はたんに一種の否定にとどまるからだ。不正あるいは不法の概念こそ積
極的概念であり、最も広い意味での損傷、つまり「侵害」と同義である。損傷は人にも財産にも名誉に
も該当する。―こう考えれば人権を定義することは簡単にできる。各人は、他の人を傷つけないかぎり
どういうことをしてもよい権利をもっている、ということになる。―
64:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/20 21:55:02.88 0oahNgNr.net
インドの四姓のうち上の三つがふたたび生まれた者とよばれる理由は、普通いわれるように、若者た
ちの成年式にあたって神聖な血統に従ってそれぞれの世襲階級に編入することが、いわば第二の誕生で
ある、ということから説明されるかもしれないが、じつは本当の理由は、前世において顕著な功績をあ
げた結果としてのみ、生まれながらにそのカーストに属するのであった、つまり前世でもすでに人間とし
て存在したのに相違ないのにひきかえ、最下層ないしは、もっと卑賤な身分に生まれた者は、前世では
畜生であったかもしれない、というにあるのだ。
きみたちは仏教の永遠であるカルパを馬鹿にしている! ―キリスト教のとった立場からは須臾の
時が見渡せるだけだが、仏教の立場からは、無限の時間と空間のうちにあらわれてきて、その主題とな
るのだ。―
ラリターヴィスタラもはじめは単純・自然なものであったのに、次から次へと宗教会議のたびごとに
新しく改訂されて、複雑にして驚異すべきものとなったのだ。同じことは教義自体についてもいえる。
単純・壮大なわずかな教説が、しだいに綿密に仕上げられ、空間的・時間的に叙述され、擬人化を受
け、経験的に制限されたりして、しだいに多彩・乱雑・複雑となったのだ。それというのも、それが大
衆の好みに合うからだ。大衆の精神は幻想的な仕事をほしがる。単純で抽象的なことには満足させられ
ないのである。
バラモン教のもろもろの教義、ならびにブラームとブラーフマー、パラマートとジーヴァートマ、
ヒラニヤ・ガルバ、プラジャーパティ、プルシャ、プラクリティなどの区別は(これらについての簡潔
な叙述は、オブリのすぐれた著作『ニルヴァーナについて』インド、一八五六年に見いだされる)、つ
きつめたところ、端的に本質的に主体的存在しかもたないものを、客体的に叙述しようとする意図から
なされた神話的虚構にすぎない。だから仏陀はこうした区別を捨てて、輪廻と涅槃しか認めなかった
のだ。なぜなら教義というものは、複雑・多彩になればなるほど、神話的になるからだ。この理を最も
よく理解しているのが、ヨーガ行者あるいは遁世者(サニアッシ)だ。彼らは方法論的に自己を正して、
外にむかっている感覚のすべてを内にひきもどし、全世界を忘れ、ついには自分
65:名無しさん@お腹いっぱい。
16/01/20 21:55:54.04 5QMqXerz.net
諸宗教の系譜を引く、クルド人の宗教と言われるが、元来山岳部が信仰の中心ということもあり、未だ明らかにされていない部分も多い。イラクだけでなく、
周辺のシリア、ロシア、アルメニア等にも見られる。イラクの中では、ニーナワー県に最も多くのィーの信者が住む。
ヤズィーディーは一神教であり、ゾロアスター教とメソポタミアの伝統儀式が入り混じるほか、キリスト教、ユダヤ教、スーフィー、イスラム教などの
影響を受けており、七大天使、就中、孔雀天使マラク・ターウースを信じ、太陽に祈りを捧げる[3]。一説にはミトラ教や古代ペルシャの宗教の影響も
あるとされ、様々な宗教の影響を受けたシンクレティズムと呼ばれるものの一つであり、12世紀にスーフィーの指導者アディ・イブン・ムサフィルが
作ったイスラム教とゾロアスター教の要素を合わせたコミュニティから、今の形になったという説がある[4]。 ヤズィーディーは、信者への改宗を
禁じるのと同時に、生まれた者しかヤズィーディーになれないという考えがあるため、他宗教の信者がーに入信する
ことも拒む。周辺のイスラム教徒やキリスト教徒と結婚することも禁じられている。布教活動も行われていない[1]。新年は1月ではなく4月に始まり、
元日にあたる日には墓参りを行う[1]。信仰や教義は、地域によって違うものが複数伝わっている
歴史的に見ればスーフィズムの影響から始まったように見られるが、輪廻転生やカーストを教義の根幹に持つなど、イスラムの教義体系からは
逸脱が目立ち、むしろバラモン教にも見られるようなカースト的な階級制度を持つ。ほかにも、天使マラク・ターウースの伝えられる描写は、
ムスリムからすると悪魔シャイターンに重なる部分も多い[4]。そのため、ムスリム(イスラム教徒)から邪教扱いを受けることがあるとされる。
イスラーム過激派は、キリスト教徒より、「邪教」である信者に激しい憎悪を向けるとされる[1]。過激派組織の1つISILは、ヤズィーディーは多神教であるとし、ジ
ズヤやイスラーム改宗の対象外とするなど、いわゆる啓典の民であるキリスト教徒やイスラム教徒とは
その扱いを差別化した。
クルディスタン地域の議会には、少数ながらディーの議員枠の割り当てがある。
にはバラモン教・仏教・拝火教・グノーシスの影響があるそうだ。
これは原始神道に通じるものがあるん。
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