19/03/10 12:19:21.41 rLI7CYbi.net
己と向き合い27歳で五輪へ練習の質追求、心身コントロール―福見友子さん
URLリンク(medical.jiji.com)
210:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/09 17:42:19.01 t9jOBkda.net
小川雄勢(男子100キロ超級の前回覇者が初戦敗退)「試合前の調整不足が大きな敗因。(代表について)今は何も考えられない。厳しいが、最後まで諦めず勝ちにいきたい」
原沢、気迫の復活 3年ぶり2度目V 男子100キロ超級
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)
211:名無しさん@お腹いっぱい。
19/11/13 08:16:34 hid/QJu+.net
女子柔道48キロ級には長い間、世界に君臨した選手がいた。「YAWARAちゃん」こと谷亮子(44、旧姓・田村)だ。世界選手権を7度制し、五輪では5大会連続で
メダルを獲得した。福見友子(34)は、その谷に2度勝利した唯一の選手だ。だが、ようやく出場した2012年ロンドン五輪は、「金メダル確実」と言われながらメダルに
届かなかった。翌13年に引退し、指導者の道に。結婚して母親となった現在、JR東日本柔道部、全日本女子代表でコーチを務める。五輪を経験したアスリートの
引退後をたどる「未完のレース」を、スポーツライターの増島みどりが連載する。
穏やかな小春日和、福見友子は天気と同じような柔らかな笑顔で道場「竢成館(しせいかん)」の扉を開けた。
「きょうはわざわざ取材に来て下さってありがとうございます。お世話になります」と、深く頭を下げる。横には客用のスリッパがすでに複数そろえられており、
掃除の行き届いたスタッフルームに案内されると同時に、道着姿のコーチが「よかったらどうぞ」と、香り高いコーヒーをテーブルに置く。
こうした一連の出迎え方にも、2015年からコーチを務めてきた女子柔道家の気遣いが隠れているのだろう。
JR山手線の大崎駅から線路に沿って10分ほど歩いた好立地に、15年、JR東日本は女子柔道部を創部し道場と選手の寮を完備した。道場にはまだ新しい、
国際基準の畳が2面敷かれ、寮は目の前にある。
週末に2020東京五輪の選考材料ともなる講道館杯を控えていた。
「私のほうがドキドキ、緊張してしまって……やはり特別な大会ですから」と、指導者として2回目、キャリアを通じて5回目の挑戦となるオリンピックを今も見上げるように、
目を輝かせた。
オリンピックという厚い壁に挑むたびに、辛い経験をかみしめて来た柔道家でもある。
高校2年生で女王・谷を破る
16歳、高校2年生だった02年の全日本選抜体重別選手権で、当時、シドニー五輪で金メダルを獲得するなど65連勝中と無敵だった48キロ級の女王・谷亮子
(当時田村)を破って大きな注目を一気に集め、重すぎる期待も同時に背負った。
そうして始まった五輪と歩む柔道人生は、5年後の07年、21歳で再び谷に勝ったというのに、一層難しくなってしまった。
08年北京五輪前年、07年ブラジルでの世界選手権(世界柔道)代表選考をかけた体重別選手権決勝で、福見は出足払いで有効を奪い、谷を下して悲願の
初優勝を果たす。北京を目指す上でも重要な国際経験になるはずが、全日本柔道連盟は選考会の直接対決の結果ではなく「海外勢に対しての実績は谷の方が上」
と判断。深い落胆が翌年の北京五輪選考会にも影を落とし、完治しないケガを抱え1回戦で敗退し、ブラジル世界柔道の優勝で勢いをつけた谷が5回目の五輪代表の
座を手にした。
02年に初めて谷を破ってから実に10年が経過した12年のロンドン五輪、3度目のチャレンジでようやく代表の座をつかむ。五輪の正式種目となった1992年バルセロナ以来、
谷が金メダル2つ、銀メダル2つ、銅メダル1つを獲得してきた日本女子柔道界の看板階級ながら5位に終わった。
谷に2度も勝ちながら、若さ、選考と様々な理由が絡み全盛期を逸した悲運の柔道家。そんな表現もされた。しかし13年の引退から6年が過ぎた今、敗戦、苦しかった
経験や後悔は、指導者としての福見を豊かに、たくましく支えているように映る。
「経験した全てが自分を高めてくれるものでした。谷さんの存在やオリンピックがもしなかったら、自分はここまで幸せな柔道人生を歩めなかったと思います」
そう言い切る姿に、夫や2歳の男の子とと過ごす、慌ただしくも充実した日々がのぞく。
引退して6年、結婚し子どもも生まれた
突然の出産、そしてママさんコーチに
212:名無しさん@お腹いっぱい。
19/11/20 07:41:26.47 JV6ov1Lt.net
15年に2つ下の柔道家と結婚し、17年1月出産した。入念な準備をし、相手を研究し戦略を立てて挑んだ大一番なら何度も経験してきたはずだったが、
「全く準備できないまま、突然母親になっていた」と笑う。16年リオデジャネイロ五輪翌年の年明け、ナショナルトレーニングセンター(NTC、東京・北)で女子強化
合宿が行われていた。東京五輪までを見据えた強化方針などを直接伝える大切な合宿を最後に、産休に入るつもりだった。合宿が終わったら、会社とも産休の
様々な手続きを本格的に進めようと考えていたところ、1カ月ほどの早産のためNTCで陣痛が始まってしまった。
女子代表監督の増地克之(49)に早朝「すみませんが、病院に行かせていただきます」と連絡を入れる。かかりつけの病院にタクシーで直行すると、「もう生まれますね」と
言われ、そのまま出産。早産で2500グラムの元気な赤ちゃんが無事に誕生したのはもちろんうれしかったが、何の準備もしないままNTCから病院に直行して出産するとは。
思いもよらなかった事態に、いい意味で力が抜けたという。
「引き継ぎや産休の手続き、出産の準備など残り1カ月で色々やろうと考えていたのです。計画通りにはいかなかったんですが、何だかそれがおかしくて。子どもが
213:名無しさん@お腹いっぱい。
19/11/20 07:41:54.40 JV6ov1Lt.net
生まれてからはもう必死ですよね。おばあちゃん(夫のお母さん)がいなければやっていけません」
そう言って、お義母さんに向ってなのだろう、頭を下げるしぐさを見せた。夫とともに、義理の両親も指導者を続けられるよう手厚いサポートを惜しまない。1歳で保育園に預け、
職場では監督・行徳祐二(51)の理解のもとコーチとして、女子代表でもコーチとして現場に復帰した。
取材の前日は、入園して2度目の運動会だったという。1歳での徒競走では、名前を呼ばれてもスタートラインに並べず、先生やママの手を借りて何とか走った。
しかし2歳の今年は、自分でスタートラインに立って走り切った。結果は3位。「それも3人中の」と笑い、「1年で彼は彼なりに大きく成長しているんだな、と感激しました」と、
母親の顔を見せる。
福見の出産と復帰は柔道界に好影響をもたらしたようだ
日本のトップだけが合宿を行ういわば強化の基地「NTC」からタクシーで病院へ。なかなかない状況下での出産だったが、結果的に現場に好影響をもたらしたようだ。
増地をはじめ全柔連も出産を控えたコーチに配慮し、道着ではなくジャージーを着用してのコーチ参加を提案し、選手たちに出産後復帰する姿を実際に示せる機会
にもなった。
福見に続いて、48キロ級のライバルでもあった浅見八瑠奈(31)も出産し女子代表のコーチに復帰。かつて、ロンドン五輪代表の座を激しく競い合った2人は今、
一緒にママさんコーチとして代表を東京に向かって引っ張っている。
「2人で手帳を突き合わせて、子どもの保育園の予定などスケジュールを相談したり、子どもの話をしてアドバイスし合ったりする。浅見さんと今こういう関係で仕事が
できるなんて現役の頃には考えられませんでした。本当にありがたいですし、経験を生かして選手を全力でサポートしたい」
女子選手が出産後も競技を続けられる環境を整備する重要性は、指導者にとっても同じだ。
息子は最近、「ママ、柔道に行くね」と言うと、寂しさをぐっとこらえて手を振ってくれる。
取材を終えるとふと時計を見た。保育園に迎えに行く時間なのかと聞くと、首を振った。
「いえ、試合への調整も兼ねてきょうはこれから高校に出げいこに行きます。夜は遅くなります」
もう一度深々とあいさつをすると、見送るために道場の外に出た。こちらの姿が見えなくなるまで、福見は立っていた。
講道館杯では3人が表彰台に上がり、東京五輪への道を指導者として走り出した。
ママでも五輪コーチ YAWARAちゃんに2度勝った柔道家
URLリンク(www.nikkei.com)
214:名無しさん@お腹いっぱい。
19/11/20 07:46:19.19 JV6ov1Lt.net
柔道女子日本代表でコーチを務める福見友子(34)が柔道に興味を持つきっかけは1992年バルセロナ五輪だった。女子の柔道を伝えるテレビの画面に目を奪われたという。
そこで最も輝いていたのは、その後幾度となく福見の前に立ちはだかる谷亮子(44、旧姓・田村)だった。今回は福見が、48キロ級で君臨し続けた女王・谷との関わりの中で
成長していく姿を描く。(前回は「ママでも五輪コーチ YAWARAちゃんに2度勝った柔道家」)
7歳の女の子は、テレビで見るオリンピックに夢中になっていた。まだ柔道を始める前のバルセロナ五輪であるから、他にも興味を抱く競技はいくつもあったはずだ。しかし、
しくもこの大会から正式に新種目となった女子柔道に、福見友子はくぎ付けになっていた。
「こんな舞台で、体の小さな日本選手たちが活躍するなんてすごいなぁ」
瞬く間に魅了されたオリンピックと、そこで躍動していた、まさに「もっとも体の小さな女子選手」谷亮子(当時田村)、その2つの存在が、20年にわたり、自分の人生に大きく
関わり、壮絶な戦いを繰り広げようと思うはずもなかった。
柔道に熱中していた様子に、母は翌年、「しつけや礼儀を覚えるためにも、武道を習うのがいいかもしれない」と、自宅近くの町道場へ娘を連れて行った。兄は
バスケットボールをし、姉はクラシックバレエを習っている。末っ子ならどちらかに付いていきそうなものだが、兄とも、姉とも違う柔道を8歳は喜々として選択した。
「母は、体を動かすのが得意だった私を見ていて、これはクラシックバレエ向きではないな、と思っていたようです。私も畳の上ででんぐり返しをしたり、マット
運動したりするのが楽しくって仕方ありませんでしたね。面白いことに、礼儀を身に付けるためにお稽古ごとに通っている感覚なのに、一方で、柔道でオリンピックに出て
絶対金メダルを取るんだ、と、何も根拠がないのに強く思っていました」
柔道は、お稽古ごととして始めたと、福見は笑って振り返る。
指導をした土浦体育協会柔道部の柘植俊一は、ほかの子どもとは少し違い、懸命に考え、熱心に稽古に臨む姿に将来を予見していたようだ。通い始めた頃に教えられた
技は背負い投げだった。
テレビで見た人の前に
地元土浦で進学した土浦第六中学校には柔道部がなく、母親が、同級生の母親と2人で校長に直談判し創部された。練習は、同級生の父親が監督を務めていた
土浦日大高校で積む。すぐに頭角を現し、2000年、大分で行われた全国中学柔道大会で初めて優勝を果たす(48キロ級)。
翌01年にも、全日本ジュニア体重別で優勝。順調に戦績を重ね、48キロ級のホープとしても大きな注目を浴び始めるようになっていった。テレビの中の五輪に
ただ憧れていた少女は、バルセロナ五輪からちょうど10年後の02年、まるで運命の糸に導かれるかのように、谷亮子の目前に立った。
それも畳の上で。
02年の全日本柔道選抜体重別選手権(48キロ級)1回戦、土浦日大高校2年の4月、福見はシニア大会への出場をかなえ、1回戦で、当時00年シドニー五輪で悲願の
金メダルを獲得するなど65連勝中、日本人に12年間負けなしだった無敵の谷と対戦する。その時の喜びがどれほどのものだったかを示すように、今でも少し顔を赤くし、高
揚感を漂わせながら話す。
215:名無しさん@お腹いっぱい。
19/11/20 07:46:56.63 JV6ov1Lt.net
「まず、高校生で全日本に出られるだけでも難しいのですから本当にうれしかった。そして、世界一の谷さんと組める!と思っただけでもうドキドキしたのを覚えています。
私にとって、雲の上の存在でしたから。ドキドキとワクワクと、いろんなプレッシャーを感じて試合に臨みましたね。試合内容のほうは本当に覚えていなくて。無我夢中
だったんですね」
マスコミから注目、スランプに
ケガからの復帰戦となった谷に対し、大内刈りで効果を奪って勝利。しかし続く2回戦で敗れてしまった。本人は「ただ情けなかった」と、浮ついた気持ちなど一切
持たなかったが、マスコミの注目は次世代のホープに集中してしまう。
「女王を破った女子高校生」
「アテネ五輪代表に向けて名乗り」
「ポスト田村」
高校2年生で谷を破った福見はスランプに陥った
マスコミのこうした過熱ぶりに、高校2年生の生活は一変してしまった。自宅や学校にまで取材陣が押し寄せ、通学路に張りこまれる。
「勝ったからといって、谷さんの実力には全く追い付いていないのに」と、誰よりも自分の力を冷静に分析していた16歳にとって、大金星は自信になるどころか、
重い十字架のような存在に変わっていった。高校3年から筑波大に進学し約1年が経過するまでの時期、04年アテネ五輪は遠ざかり、高校生相手にも勝てず、
若手にも抜かれる深刻なスランプに陥った。
福見はこの時期を「低迷期」と表現する。
「自分の本当の実力以上に評価されてしまうプレッシャーで、あの頃は自分の柔道を見失ってしまったんだと思います。地力が足りないのは分かっていました。
自分よりも年下の選手にも抜かれていくようで、あぁ、自分はこのまま終わるんだろうか、と考えたこともあります」
ただし、五輪イヤーの代表選考会となる体重別選手権を経験するなかで、五輪選手だけが持っている「時計」の存在には気付いた。五輪に出場したい。
そう願ったとしても、オリンピアンだけに宿る独特な体内時計、4年をサイクルに時を刻む時計を操らなければ、そこには辿りつけない。低迷期を脱出し、4年後の
北京五輪を狙うため、福見は時計を動かした。
216:名無しさん@お腹いっぱい。
19/11/20 07:47:33.41 JV6ov1Lt.net
谷に勝つためではなく、世界への道筋を立てるためにまず日本一を目指す。国際舞台で活躍する選手を多く出してきた筑波大の環境も、柔道への
取り組み方を変えてくれた。日々の練習や体調についても、詳細にノートに記すなど、大学3年になり、長いトンネルを抜けたと感じた時、またも谷が目の前に立っていた。
北京五輪前年の全日本選抜体重別選手権(07年)、長男を出産し2年ぶりに復帰した谷と今度は決勝で対戦。出足払いで有効を奪って、目標とした初優勝を果たした。
やるべき練習をこなし、準備し、それらが形になった充実感は、5年前、1回戦で谷を破った時とは全く異なっていた。
大会はこの年秋に行われる世界選手権(リオデジャネイロ)の選考会でもあった。日本一で、初めて世界選手権の代表に選ばれれば、翌年の北京五輪に向けて貴重な
国際経験を積める。そして世界選手権で上位に入り、北京五輪代表の座をより優位にする絶好のチャンスを手にできる。
しかし、世界選手権代表に選ばれたのは谷だった。全日本柔道連盟は、2人の直接対決の結果ではなく、谷の実績をより重視。「海外選手に強いのは谷。
世界選手権では金メダルを取らなくてはならず、実績の谷を選んだ」(当時の全柔連強化委員長・吉村和郎)と、優勝者は選から漏れた。
選考会の、しかも直接対決で勝利しても選ばれなければ、どうすれば代表に選ばれるのか。北京五輪代表の座をかけた、翌年の08年体重別選手権で谷に勝ったとしても、
実績は比べようもなく代表に選ばれる可能性は低い。この選考方法をめぐって論議も巻き起こるなか、福見は別の階級の選手の付き人としてリオデジャネイロに同行する。
「田村で金、谷で金、ママでも(五輪で)金」と、3大会連続での五輪金メダルを公言していた谷だったが、出産後、トップ選手と育児の両立は想像以上に困難だった。
2年ぶりに復帰したばかりの年の世界選手権で、優勝のみを期待される。重圧とどう戦って畳に上がるのか。福見は、あこがれの柔道家の苦悩と、それを乗り越える
強さを初めて間近で見る機会を得た。
谷が2大会ぶり7度目の優勝を果たす様子を会場で見ながら、人目の届かぬ場所で号泣したという。感動しただけでも、悔しさからでもなかった。谷にあって、
自分にないもの。それが、目の前に突きつけられたように思えたからだ。
柔道のきっかけは谷亮子さん 20年続いた巡り合わせ
URLリンク(www.nikkei.com)
217:名無しさん@お腹いっぱい。
19/11/28 10:29:10.58 tLR+bMfE.net
柔道家、福見友子(34)は2007年世界選手権の会場で、ライバル・谷亮子(44、旧姓・田村)の優勝を見届け涙を流した。改めて谷の強さを感じ、オリンピックでの
金メダルを目指してさらに厳しい稽古に臨む。今回は若手の台頭で12年ロンドン五輪の代表争いが激しくなるなか、崖っぷちに追い込まれながらも夢を諦めない
日々をつづる。(前回は「柔道のきっかけは谷亮子さん 20年続いた巡り合わせ」)
代表選手ではなく「付き人」としてその場にいた福見友子は、人目の届かぬ場所で号泣していた。スポットライトを浴びる畳の上では、出産から2年ぶりに復帰し、
世界選手権(07年、リオデジャネイロ)で実に7回目の優勝を果たした谷亮子が歓喜の涙を流している。
当時、福見が所属していた了徳寺学園監督・山田利彦は、「普段は感情など絶対に表に出さないのに……」と、教え子が初めて見せた姿に変化を感じ取っていたという。
2人が同じ時に流していた涙の理由は、全く違っていた。
足りなかったものを突き付けられた
この大会の48キロ級代表の座をかけた選考会(全日本選抜体重別選手権)で、福見は決勝で谷を破って念願の初優勝を遂げる。翌年の08年北京五輪を狙うためにも、
リオの世界選手権で貴重な経験を積み、五輪代表へ弾みをつけたい。そう願う周囲も選出を確信していたが、代表に選ばれたのは「外国人選手に強く、結果を
出せる」(当時の強化委員会)谷だった。福見は別の選手のトレーニングパートナーとしてリオに入り、そこで、過去2度も勝利しながら越えられない、谷という壁と初めて
日々向き合う機会を得た。
「あれほど感情があふれ出して泣いたのは初めてでした」
福見は、号泣した理由をそう振り返る。選考されなかった悔しさを目の当たりにしたからでも、谷の優勝で自らの北京五輪出場が遠のいてしまった失望感からでもなかった。
「世界選手権の代表になれず落胆はしました。でも、現地で谷さんが稽古し、優勝するのを見て、自分も同じように優勝できたのか? と問いただした時、
自信を持って、できた、とは言えなかった。そんな弱い自分が代表としてここに立ってはいけなかったよね、むしろ自分を恥じようと思いました。足りなかったもの
を突き付けられ、涙があふれ出し……結局、あの選考は正しかったんです」
過去柔道界では例のなかった出産後の復帰に、谷もトップ選手としてまた苦しんでいた。そんななかにあって、「勝ちたい」ではなく「絶対に勝たなくてはならない」と、
218:名無しさん@お腹いっぱい。
19/11/28 10:29:37.45 tLR+bMfE.net
トレーニングから自らを徹底的に追い込み、すさまじいプレッシャーをあえて背負おうとする姿を知った。勝利を追求する強いメンタル、孤独感、常に世界を、
外国選手を見据えて行う高度なトレーニング。どれも自分には備わっていなかった。
同時にふと思い出したのは、世界選手権代表に漏れた時、筑波大学監督の岡田弘隆と、女子を指導していた山口香の2人が地元で慰労会を開いてくれた
夜のことだった。2人がまるで自分が落選したかのように失望し、泣いているのに、当の本人は「どうして私よりも、これほど悔しがって泣いているんだろう」と思った。
谷の優勝をリオの会場の隅で見ながら、改めて、自分に期待を寄せてくれる周囲の存在がどれほど大きいか、それに何としても応えなければという思いを
どこまで背負えるのか、世界の48キロ級で日本女子に義務付けられる勝利の重みや柔道への向上心、情熱、全てに取り組もうと心底思えた。流していたのは、
反撃の涙である。
08年の北京五輪代表の座をかけた全日本選抜体重別選手権では、ケガが完治しないまま臨んだために敗退。代表にはなれなかったが、ここから12年ロンドンへ、
激動の4年間が始まった。
常に世界を意識し、国際試合を増やし、大学に研修に来る外国選手たちとも積極的に稽古を積む。09年ロッテルダムで行われた世界選手権準決勝では、
北京五輪で谷を下したルーマニアのドゥミトルに一本勝ちをおさめ、決勝も優勢勝ち。世界選手権初出場、初優勝を果たした。国際柔道連盟は北京五輪後、
ポイント制を五輪出場資格のひとつに導入するなど選考方法も激変するなか、同じ階級には依然、谷が君臨し、浅見八瑠奈、山岸絵美が台頭し、ロンドンに
向かっての代表争いはし烈を極めた。
10年、東京で行われた世界選手権に臨むも、決勝で浅見に敗れる。この年の夏、北京後、去就を明確にしていなかった谷が、国会議員と競技との両立は困難として
引退を表明し、代表争いはいよいよ3人に絞られた。
11年4月、世界選手権選考をかけた体重別選手権準決勝で山岸に敗退。実績を買われてパリ世界選手権代表に選出されたものの、決勝で2年連続、浅見との
直接対決に敗れてしまった。
「もう(ロンドン五輪は)終わりましたよね」
パリの会場の外で、了徳寺学園監督・山田に向って、そんな弱気な言葉をこぼしたのを覚えているという。
勝負の相手はライバルではない
219:名無しさん@お腹いっぱい。
19/11/28 10:30:20.61 tLR+bMfE.net
ポイント制が加わったために、国内のライバルだけではなく常に国際大会で、外国選手を相手にする試合を想定してトレーニングをしなければならない。このため、
体への負担もより大きくなる。
起死回生を狙って11月の講道館杯に挑んだが、準々決勝で敗れたうえに負傷。4連覇をかけ、ライバルとの直接対決に勝ってロンドンへのわずかな希望をつなごうと
出場したグランドスラム東京大会で、またも浅見に決勝で敗れた。五輪を争う相手に直接対決で3戦連続敗退、しかもポイントが多く与えられるランキング上位の
国際大会で敗れたのだから、計算上、もう望みなどなかった。リオの世界選手権で号泣してから、自分と、柔道に真正面から取り組んできたはずだったのに、夢の前年、
「もう諦めよう」と考えた。
「思い切りは悪いんですが、でも……と踏みとどまった」と話す。
「でも諦めきれるのか。でも支援して下さった方々に、もう辞めます、と簡単に言えるだろうか。何より、でも、ここまでオリンピックを目指してやってきた自分に対して、
この最後の一年にチャレンジしないまま、ハイ、辞めます、だなんて理由を説明できるんだろうか、と。辞めたいと思っている自分の後ろには、勝っても負けても、
ケガをしても続けてきた柔道家の自分がいて……そういう自分に申し訳がない、そんな気持ちになったんです。ならば、最後までやり抜く道を選びました」
福見は負け続けても「最後まで諦めなかった」
その瞬間ふと、負ける覚悟が決まったと思えた。勝負の相手とは、ロンドン五輪でも、代表をかけたライバルでも浅見でもない。自分なのだ。どん底で初めて、
開き直るとはこういう感情なのだと知った。
それまでセルフコーチングとして、特定のコーチを持たなかったが、恩師である山口香から「1人で続ける限界もある。コーチを付けて客観的な目で力を貸して
もらったらどうだろうか」と、助言を受けた。
了徳寺学園の小川武志に「ここで自分を諦めたくない」と、指導を依頼すると、小川は「自分に何かできるならば付き合う」と引き受けてくれた。指導されたのは、
特別な技術ではなかったが、どれもシンプルで、欠点を見抜かれたような感覚を覚えた。特に、姿勢について指摘された。
重心が少し前に傾いているため、小川には畳に立った際の姿勢から不安定に見えたという。自分の態勢が安定していないため、技に入る際、視線が落ちてしまう。
それが正確性やパワーを奪う結果につながる。
「目からウロコ、といった感覚で、頂くアドバイスはどれもすっと入ってきました。あぁ、これだけ長く柔道をやってきた自分にも、もしかするとまだ伸びしろが
あるのかもしれないと思えましたね。浅見さんに負け続け、ロンドンの望みが消えたと思っていました。足元が見えているような恐ろしい崖っぷちにいるのに、
なぜか伸びしろを実感し成長している。崖っぷちが楽しいと思える不思議な感覚でした」
高校生で谷に勝った直後からの時期を「低迷期」と、表現する。一方、五輪の可能性はほぼ消えうせてしまっていたこの約半年間を、福見は「柔道人生最高の
充実期」と表す。常に何かを自らに問いかけ、答えを探ろうとするこうした探究心が、実は夢の流れを大きく引き寄せていた
負ける覚悟を決めた福見と、年明けからポイントを守って順当に代表権を獲得しようとしていた浅見も、流れの分岐点には気が付いていなかった。
同じ相手に3連敗 「負ける覚悟」から柔道伸びる
URLリンク(www.nikkei.com)
220:名無しさん@お腹いっぱい。
19/12/04 13:23:46 JZYqsube.net
柔道女子48キロ級の福見友子(34)は、崖っぷちからの大逆転で2012年ロンドン五輪の出場を果たした。だが、女王・谷亮子(44、旧姓・田村)が5大会にわたって
守り続けたメダルを逃してしまう(5位入賞)。翌13年引退し、指導者の道に進む。最終回は日本女子代表のコーチとして20年東京五輪を迎える福見の心情を届ける。
12年のロンドン五輪前年、48キロ級で代表の座を争うライバル・浅見八瑠奈(31)に3連敗を喫し、福見友子は追い込まれていた。ところが、五輪の望みが消えた、と
覚悟を決めたこの時期、深い充実感を噛みしめていたという。
「相手の対策を練り、勝負の裏の、さらに裏をかく、といった戦術の部分でいつの間にか苦しくなっていたんですね。それが、崖っぷちに立ったら柔道が純粋に
楽しくなってどんどん成長している気がしました。不思議な感覚でした」
土壇場ともいえる時期を、福見は今、つらい思い出としてではなくむしろいとおしそうに、笑顔でそう振り返る。
代表の座が遠ざかったがゆえに、柔道を純粋に楽しんでいた福見と、直接対決でライバルを破りポイントを順調に重ねていた浅見。五輪イヤーが始まると、
流れはゆっくり福見に傾き始めた。
1月、ワールドマスターズ決勝で浅見を破って初優勝を果たすと、浅見がケガで欠場したグランドスラムパリ大会でも優勝。代表争いは5月、最終選考会となる
全日本選抜柔道体重別選手権で決着する。優勝候補筆頭の浅見が、初戦で高校生・岡本理帆(藤枝順心高校)に敗れる波乱が起きる。一方福見は、浅見を破
って決勝に進出した岡本を判定(3-0)で下して大会4度目の優勝。大逆転で五輪代表に選ばれた。
02年、07年と、女王・谷亮子に勝ちながらその2勝とも五輪にはつながらなかった。7歳で初めて見たバルセロナから憧れ続けた五輪に、20年をかけ、ずい分と遠回りをしたが、
ようやくたどり着いた。北京五輪以降、外国選手に敗れたのはただ1回のみで、その戦績から金メダル間違いなし、と筆頭候補にあげられロンドンを迎える。しかし
準決勝で敗退し、谷がバルセロナから北京まで5大会にわたって死守してきた48キロ級のメダルも逃してしまった。平常心で挑んだはずだった。しかしその平常心
こそ反省すべきだったと敗因を見つめる。
「いつも通り臨もうと、冷静で落ち着いていたとは思います。でも、メダルを取れずに終わった時、4年に一度の舞台は、いつも通りといった精神状態で勝てる場所
ではないのだと分かった気がしました。いつも強い者ではなく、この日一番強い者が勝つ。一生悔いが残る試合をしてしまった」
3度目の挑戦でようやく出場した五輪でメダルを逃した柔道家は、ロンドン翌年の春、現役引退を発表する。全日本柔道連盟では同時期、日本のスポーツ界
全体を揺るがすパワーハラスメントや不透明な選考といった問題が表面化し、「アスリートファースト」の観点から改革が進められていた。福見は全日本の
女子コーチ就任を打診されていた。しかし縁あって、先に依頼を受けていたロシア女子代表の臨時コーチに就くため、モスクワへ単身で渡った。
毎日が新鮮だった。日本の柔道では「師弟関係」が基本で、指導はあくまで「受ける」もの。しかしロシアの選手たちは、稽古中も指導者と常にコミュニケーションを取ろうと、
積極的に質問をぶつけてくる。質問をする相手は内容によって変え、その時々でベストと思われる助言を自分から得ようとする。ロンドン五輪男子73キロ級で金メダルを
獲得したイサエフまでも、「組手をどう崩せばいいのか」と、率直に質問に来た。相手が女子コーチでも、48キロ級でも、柔軟に、どん欲に助言を求める姿に驚かされた。
「会話しながら、議論しながら関係性をつくりあげていくコーチングをロシアでの実践で学ばせてもらいました。彼らは、自分で強くなるために課題を見付け、質問する。
あの時期の経験は今、女子の指導をする自分の基礎になっています」と話す。暴力や立場の優位性で指導者と選手の関係を結ぶのではなく、相手が納得しているか、
そのための答えを自分が導き出せたか、それを考える。福見の指導法になった。
221:名無しさん@お腹いっぱい。
19/12/04 13:24:15 JZYqsube.net
ロシアで、世界で戦うトップレベルの柔道家を指導した後、15年から1年間、母校・筑波大学の教員交流として、英国の「ラフバラ大学」に留学した。ロンドンから列車で
1時間ほどのレスターシャー・ラフバラにある名門大は、ロンドン五輪・パラリンピックに90人もの代表を送るなどスポーツ分野でも高い評価を受ける。
ここで指導したのは、そうしたトップ選手ではなく、部員10人ほどの同好会だった。それも男子だけの。
日本では見たこともない古びた畳、とも呼べないようなマットレスを使い、柔道着は上下メーカーも色も違う。黒帯、茶色や黄色い帯を締め、突如やって来た
女子世界チャンピオンを喜々として迎えてくれた。
彼らの格好はユーモラスだったが、姿勢は真剣そのものだった。ラフバラ柔道同好会は、柔道を教える原点や喜びを改めて実感させてくれた恩人なのだという。
「金メダルが当たり前の競技生活で見ていた柔道とは、全く違っていましたよね。彼らは楽しいから続ける。エーッ、それ背負い投げだっけ?と、技も面白かったですし、
それをどう変えようかと工夫するのも楽しかった。まして私よりはるかに大きな男子ですから、余計に難しい。道着はバラバラ、畳もほこりまみれ。でもみんな柔道が好き
で練習に来る。地方の大会でしたが、勝った時には感激で胸がいっぱいになりました。柔道で初めて、違う景色もあるのだと見せてもらいました」
時に思い出し笑いをしながら振り返る様子に、どれほど楽しく充実した時間だったのかがうかがえる。留学中は、子どもたちの指導も経験した。コミュニケーション能力が
指導ではいかに重要な要素か、語学が完璧に操れないからこそ学んだものは大きかった。
ママさんコーチ、新たな道を切り開く
帰国し、16年秋に日本女子代表のコーチの依頼を受けた。妊娠していたため迷ったが、柔道界が選手と現場を第一に考える環境をより整備するためにも
「新たな道を切り開いてほしい」と後押しされた。これまでなら考えられなかった妊娠中の指導、それもトップレベルでコーチを続けるチャレンジは、女子選手、
代表の指導者だけではなく、選手を送り出す実業団の監督たちからも支持された。
福見の姿に、浅見も出産を経験して代表のコーチに復帰した。ママさんコーチ2人のタッグは、来年の東京五輪に向かって日本の女子柔道界の変化を象徴する。
2度勝ちながら破れなかった谷という壁、そしてメダルを手にできなかった五輪を、どう消化してきたのだろう。
福見は断言した。
「谷さんを、昔も今も変わらずに尊敬しています。谷さんがいて、自分は成長できたと思っています。もし同じ階級にいなかったら、今の自分もいなかったでしょう。
全力で挑んだ結果ですから、恨むとか、運がなかったとか、そんなことは思わない。力が足りなかったんです」
これが、柔道家としての答えだ。
谷に初めて勝った高校時代に、周囲の期待や、日常の激変に耐えきれず辞めてもおかしくなかった。2度目に勝利した07年は、世界選手権代表の座を譲る
結果に絶望しても不思議ではなかった。しかしいつでも愚痴や不満を胸にしまって、自らに「足りないものは何か」を問い続けた。
19年夏の世界選手権(東京)で、女子は個人戦で金メダル2つを含む8つのメダルを獲得した。東京を前に、選手に伝えたいのはひとつだけだと言う。
「日本柔道の代表選手である以上、勝利を求められるのは当然です。でもオリンピアンとして金メダルを手にできるのはたった1人。100人が挑んでも99人は敗れる側です。
でも力を出し切ろうと挑めば、負けてもまた立ち上がれる。それに尽きる。そしてそこからさらに伸びよう、自分を高めようと思える。私が五輪へのチャレンジで学べたのは、
そういう喜びだったのかもしれません」
山あり、谷ありの20年で見つけた、オリンピアンの答えである。
海外での指導で見つめ直した柔道 東京五輪に生かす
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222:名無しさん@お腹いっぱい。
20/03/17 07:28:55.06 miJAKfRi.net
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224:名無しさん@お腹いっぱい。
20/08/17 13:38:58.08 VI9lDuo+.net
“ヤワラちゃん”こと谷亮子が'92年のバルセロナ以降5大会連続でメダルを獲得していた柔道女子48kg級。その壁を乗り越えて五輪に初出場した世界王者は、
「いつも通りにやれば勝てる」と自分に言い聞かせた。
福見友子が初めてオリンピックの舞台に立ったのは、2012年7月28日のことだった。あの田村亮子に勝ってから10年が経っていた。
柔道・女子48kg級は準決勝を迎えていた。白い道着の福見は入場を待ちながら会場の照明を浴びていた。じっと宙を睨んだ視線は真紅と淡黄に染められた畳の色彩にも、
対戦相手にも、その場にある何にも向けられていないようだった。
《普段通りに、いつも通りにやれれば勝てるんだと自分に暗示をかけていました。世界選手権も優勝して、これ以上ないというくらい練習してきて、だからいつもの自分を出せば
勝てるんだと……》
その眼はあるべき自分だけを見ていた。27歳。オリンピックは初出場だったが、福見は同時に“世界王者”でもあった。
この4年間、外国人選手に1度しか負けておらず、直前の国際大会も制した。福見は圧倒的な金メダル候補として、段重ねになった多くの願いを背負い込んでいた。誰よりも
福見自身が自分に期待していた。
準決勝の相手は過去4度の対戦で一度も敗れたことのないルーマニアのドミトルだった。福見は畳に上がるまで宙を睨んだまま、横にいる相手を一瞥もしなかった。
ドミトルがちらちらと観察するような視線を送っていたことにも気づかなかった。
審判にも、自分にも納得がいかない。
「始め!」の合図とともに福見は前に出た。慎重に腰を引きながら、奥襟をつかもうと狙ってくるドミトルの組手をかわしながら攻めた。いつも通りに……。
だが、開始から30秒。主審の待ったがかかり、開始線に戻ると、なぜか福見に「指導」が来た。最少ではあるが、ポイントでリードされたことを意味する。それまで無表情だった
福見の顔がわずかに動いた。
《最初の「指導」は勝敗に大きく影響するので、それを取られないようにという対策はずっとやってきたはずでした。相手の審判への見せ方のうまさでやられてしまった……。
そのやり方にも、審判にも、自分にも納得がいかないという気持ちでした》
戦いはいつも通りではなかった。
外国人選手は多くの場合、前半に勝負をかけて後半は息切れする。だからたとえビハインドになっても、攻め続ければ最後には相手が折れる。そうやって勝ってきた。
だが、この日のドミトルの執着は断ち切れそうになかった。襟に食い込んだ指先からそれが伝わってきた。想像を超える相手の姿が、福見から冷静さを奪っていく。
たったひとつの「指導」が重くのしかかる。
このまま攻め続け、相手にも指導を受けさせて五分に持ち込むのか。有効や技あり、一本を狙って一気に逆転するのか。落ち着かない思考が早足で巡った末、1分30秒、
福見は得意の背負い投げや小内刈りではなく、どういうわけか大外刈りにでた。
《勝負技としてあまり使う技ではないんですが、なぜか反応したというか……。やはり、焦りがあったんだろうと思います》
次の瞬間、技を返された福見の体が宙に浮いていた。背中に畳の感触があり、天井照明が視界を横切った。
挑戦者の技あり。会場がどよめき、いつも通りの景色はどこにもなくなった。
一本を奪って勝つしかなくなった福見にとって、それからの3分半はおそらく人生で最も短いものだった。
終了のブザーが鳴った瞬間、福見は放心したように天井を見た。頭は真っ白だった。その意識の外で、ドミトルが「アーッ!」と何度も常ならざる叫びをあげていた。
3位決定戦も視線は宙を睨んでいた。
それからわずか1時間後、福見は再び入場口に立っていた。3位決定戦のためだ。
《準決勝で負けたあと、自分に言い聞かせて切り替えたつもりでした。でも、それができたかと言えば、あの時の私は勝ちたいだけ。相手がどうくるか、
自分がどう戦うかということは頭にありませんでした》
道着は純白から青藍へと変わっていたが、視線はやはり宙を睨んでいた。対戦するハンガリーのチェルノビツキ―過去3戦で負けたことのない相手―が
どんな顔でこの戦いに臨んでいるのかは映っていなかった。
勝負は延長に入った。そこから30秒が過ぎた頃だった。チェルノビツキの父でもあるコーチが再三の罵声によって審判から退場を命じられた。つまり彼女は独りで
戦わなければならない状況に追い込まれた。
ただ、福見はそのことを特段、意識することなくそれまで通りに向かっていった。そして、追いつめられた相手が必死に繰り出した小外刈りに、そろった足を払われた。
225:名無しさん@お腹いっぱい。
20/08/17 13:39:12.38 VI9lDuo+.net
気づいた時には天井を見ていた。その上で相手が両手を掲げていた。一本負け。福見のオリンピックは終わった。
《負けた瞬間はもう無ですね。何が起きたのかまったくわかっていない状況で、本当にもう……、真っ白だったと思います》
「一生悔いが残る試合でした」
チェルノビツキが泣いていたことも覚えていない。記憶は白い靄に覆われている。
ひとつはっきりしているのは、畳を降りてミックスゾーンまで歩き、報道陣に囲まれた時に、そこで周囲にとっても自分にとっても印象深い言葉を残したことだ。
「一生悔いが残る試合でした―」
後から振り返って、なぜあんな言葉を発したのか、世界中の子供たちも見ている中で、柔道家としてふさわしい言葉だったのかと考えたこともある。ただ、
490 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2020/08/17(月) 13:38:11
何度考えてもやはりあれは偽らざる本音であり、あの日、最も鮮明に覚えている感情だった。
そして自分に突き立てたナイフは、その後もずっと心に刺さったままになった。
ようやくあの白い靄の中を覗いてみようと思えたのは、半年が過ぎた頃だった。
《自分としてはやるべきことをやって臨んだのに、結果として何が足りなかったのか、それを振り返る作業です。そうしないと、次には進めないと思ったので》
福見は書き続けてきた柔道ノートを前に記憶をたどった。あらためて、ロンドンまでは鮮明なのだが、あの日のことは切れ切れにしか残っていないことに気づいた。
その中でドミトルが腹の底から絞り出すように叫んでいた姿は残っていた。
《オリンピックで勝つ選手には戦いの中にドラマがあります。だから本能の叫びが出るんでしょう。私は……、普段通りにということばかり考えていた気がします》
チェルノビツキに投げられる直前、彼女の父親が退席となったシーンも浮かんだ。
《後から考えれば、あの退場で彼女はひとりでやらなきゃと腹が据わったはずなんです。心の駆け引きがあったはずなのに、私は相手のことなんて見ていなくて、
ただ、勝ちたいというだけでした》
そうやって断片的な記憶を繋いでいくうちに、思い至った。
《オリンピックはその日、一番強い人が勝つということです。私は世界大会に勝って、世界ランクもあって、普段通りの力が出せれば勝てると思っていましたけど、
その日に一番強い人でなくてはいけなかったんです。100%じゃなく、120%を出そうとする。そうやって自分の可能性を超えてきた人が勝つんじゃないかと。
私は自分を信じきれず、自分で自分の可能性を潰してしまったのかなと思うんです》
田村亮子に釘づけになった少女が。
勝負とは過去や未来によって決するのでなく、今、眼前の一瞬によって決まる。
振り返れば、福見自身がそうやって柔道人生を切り開いてきた。
茨城・土浦の活発な少女は7歳の時、テレビに映る小さな柔道家に釘づけになった。自分より大きな相手を投げ飛ばし、キラキラしたメダルを首にかけて笑っている。
バルセロナ五輪の田村亮子だった。
それから福見は道場に通い始めた。
226:名無しさん@お腹いっぱい。
20/08/17 13:39:30.95 VI9lDuo+.net
憧れの人と初めて戦ったのは16歳の春だった。当時、公式戦65連勝中、無敵の王者だった田村を全日本の舞台で倒した。
《目の前の相手を倒したいということだけ。無心です。その結果、練習してきた技で勝つことができたんです》
あのヤワラちゃんを倒した高校生”として突然、世に知られるようになった福見は、しかし、それから同じ年代の無名選手にすら勝てなくなった。
逆にロンドンの選考レースでは、ライバルの浅見八瑠奈に連敗してほぼ絶望という状況になったが、残り半年となった土壇場で浅見を倒し、代表の座を勝ち取った。
田村に勝ったから強いわけではなく、無名選手に敗れたから弱いわけでもない。目の前の一瞬に没頭し、制する。福見はそうやってあの舞台に辿り着いたはずだった。
それなのに、「いつも通りに、普段通りに」と考えた時点で、ロンドンの自分は負けていたのかもしれない……。答えかどうかはわからなかったが、福見は紙とペンによって、
そう自分を納得させた。
だが、ひとつだけどうしてもできないことがあった。客観的に、あの日の自分の外形や有り様を直視することだ。
《映像は見ることができませんでした。それだけは遠ざけていて……》
2013年に引退した。結婚して人生の節目を迎えた。2015年にはJR東日本女子柔道部のコーチとして指導者の道をスタートさせた。人生が進んでいく中で、ただ、
あの日の自分だけは、あの場所に置き去りにしたままだった。
そんな福見に、この逃避を終わらせなければならないと決心させたのは、やはりオリンピックだった。2016年の夏、女子日本代表のコーチを打診されたのだ。
《選手とともに東京オリンピックに向かうにあたって、自分が逃げていてはいけないのではないかと思ったんです。だから、東京五輪の1年前になったら、あの日の
映像を見ようと、自分の中で決めたんです》
それは2019年7月のある平穏な日だった。まだ新型コロナ・ウィルスが東京から五輪を遠ざけてしまう前のこと。本大会の1年前、福見はひとり、自宅で画面と向き合った。
自分との約束を果たすために。
今、代表コーチになった意味。
真紅と淡黄が鮮やかな畳の上に27歳の自分がいた。どこか初めて見る光景のようにも思えた。1回戦から全ての試合を見た。ドミトルに大外刈りを返される瞬間も、
チェルノビツキに足を刈られるシーンも、目を逸らさずに見た。そして気づけば、自分を許すことができていた。
《意外と頑張っていたんだなと思えたんです。頭が真っ白で、投げられたシーンくらいしか覚えていなかったので、ダメな自分だと思い込んでいたんですけど、
イメージしていたよりも練習してきたことを全力で出していた。冷静に見れば技術的に足りなかったんです。そりゃあ負けるよなと、それがわかって納得できたんです》
あの日、福見友子はきちんと敗けていた。
それは「一生悔いが残る」と発言した柔道家にとって、7年越しの決着だった。
東京オリンピックを待つ今、福見は自分が代表コーチになった意味と向き合う。
《私はあの経験を伝えるために、ここにいると思っています。それをどう解釈するかは選手それぞれですが、私が負けた経験は全て隠さずに伝えていきたいです》
オリンピックは勝者とは何かを冷徹に映し出す。一方で、強者とは何かを問いかけもする。もし、それが自分との戦いにおいて決するものだとすれば……、
そういう意味においては、福見は紛れもなく強者だ。
あの頃も、今も。
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