11/12/25 22:30:11.06 a2vytzDn.net
>>301で検討する必要が「有る」と言ったのに対し、誰かが「無い」と
言ったが、「無い」の根拠は示されていない。文末が「無い」でも
「有る」でも根拠の必要性に違いはない。(この人の左の腎臓は
「無い」でも、この人は左の腎臓が無いという障害が「有る」でも、
根拠の必要性の程度に違いがないのと同様。)
「検討する」必要が「有る」の根拠としては、一例に過ぎないが
藤原氏の著作を挙げた。ありふれた日本人的見解も含まれていて、
「体罰で善導した」と彼が言いたいらしい例が挙げてある。
「体罰で善導出来る」という主張と「体罰無しではもっと悪くなっ
ていた可能性が有るかもしれない」という主張は、同じではないが、
「風邪かどうか良く分からない体調の悪さが風邪薬で回復した」と
いう主張と「風邪薬で回復しなかったが、風邪薬無しでは体調が
もっと悪くなっていたかもしれない」という主張が必ずしも無関係
とは言い切れないのと同様に、関係が有るかもしれないから、検討
する必要は出てくるといえよう。
また、体罰の話の例だけでも、>>300の例と藤原氏の例では、そもそも
異なる複数の事案ではあったが、「体罰の効果」という意味では、
共通のテーマだから、学問的に探らなくては、>>300で言われた
「体罰を受けた人々が悪いままだった」ということから「体罰の
効果は無かった」という結論が出るという話は出来ないはずだ。
よって検討する必要が出てくる。そして非常に多くの学者が検討
して出した結論が一応の学問的結論になるのであり、それまでは、
結論は出ていないと言えよう。