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【詳細】
1967年の「ワンインチパンチ」や「教則本」(護身術)のデモンストレーションをブルースの死後に独自の研究で遡ったのがテッドや石井だが、元々ブルースはジークンドーや「ブルース・リー」という知名度を勝手な宣伝目的に利用されることを恐れ、テッドが出演した「教則本」をお蔵入りしそれ以降2人が共演した痕跡が無い。
(ブルース自身のワンインチパンチはジークンドーで生まれた技術ではなく、20代前半のジュンファングンフー時代から既に何度も行っている)
グリーン・ホーネットで既に知名度があったブルースは同年の空手大会で「オープンフィンガーグローブ」を使って継承者とのスパーリングや「ワンインチパンチ」の披露などで高評価を得て翌年から著名人との交流が始まる。
1968年からブルース自身はハリウッドのキャストやスタッフ向けの高額なレッスンを主に行い、前年に知り合った空手チャンピオン達や影響力のある格闘家やアスリートとの交流や合同練習も行う。(交流していた人物の何人かが後の映画の出演者になる) この頃のテッドはブルースの自宅のホームビデオで「決まった攻撃を受けるために立ってるだけ」の映像などがわずかに残っている。
石井は「ジークンドーは護身術、寝技にはいかない」 としているが、ブルースはこの頃すでに異種格闘技や後のMMAに関わるグラップリングの父と呼ばれる共演者から柔道柔術などを学び、以降は様々な寝技も当然研究している。