15/06/17 16:35:18.23 aXBKMqhT0.net
>>236
もちろん。払われてない方の左足まで高く上がってるでしょ。
URLリンク(www.youtube.com)
柔道は原理的に体が大きい方が必ず有利になるスポーツ。
だから加納治五郎も、体の大きい子供をスカウトするのに奔走してた訳だ。
その一方で、西郷四郎みたいな伝説を作って
「身体が小さくても勝てる」って喧伝して門人を集めた訳だ。
体が小さいと勝てないって事がバレちゃうと門人あつまらないし。
加納はリアルとファンタジーをちゃんと分けてる。
西郷四郎がやたら大きな人間を投げたって話も
相当、八百長いれてたと思うよ。
↓この逸話もすごい八百長くさい。ようは戸塚派揚心流と話が着いてたんじゃないかと。
特定の流派とやけに当たる率が高く、片方が圧勝したなら
それ自体がブックの可能性が強い。たぶん、2~3の引き分けた面子は
戸塚派が面目保つための戸塚派の看板達なんだろう。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(昭和3年(1928年)『作興』に連載)に
>よれば、明治21年(1888年)頃、警視庁武術大会で主に楊心流戸塚派と
>試合し2?3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。
>また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は
>天神真楊流などの他流柔術出身の実力者であった。
>この試合の後、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として
>柔術世話掛を採用した為、全国に広まっていったという(なお該当の試合については
>日時、場所、対戦相手、勝敗結果について明白な史料はなく、山下義韶の回想記
>(雑誌『キング』1929年(昭和4年)10月号)では明治19年(1886年)2月に
>講道館四天王の西郷四郎(小説「姿三四郎」のモデル)が好地円太郎に山嵐で
>勝ったという他、明治18年5月、明治19年(1886年)6月、10月説などもあり、
>西郷四郎の相手も昭島太郎であったという説もある)。