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壱岐を訪れた作家の司馬遼太郎は次のように書いている。
「壱岐の場合は、悲惨である。平戸島という農耕地として痩せた島が権力の中心になっ ているために、
壱岐農民は搾られるだけ搾られた。江戸後期には六公四民(松浦藩が六割 で農民が四割)という重税を課せられただけでなく、米の量り方に操作が加えられ、
事実 上はそれ以上に搾られた。(中略)平戸の役人の意識のどこかに、壱岐一円など植民地のよ うなものだという感覚が多少とでもあったのではないか」
こうして壱岐は、戦国時代末期から明治維新まで平戸藩の領地として搾取された。明治 に入ると廃藩置県により、平戸藩から平戸県へ、そしてその後成立した長崎県に所属した。
こうして壱岐の風土と歴史を概観すると、壱岐の豊かな自然と、大陸への架け橋という、 恵まれた条件が、逆に本土の勢力から目を付けられ、住民は平時は重税に、
そして戦いが 起きればその犠牲にと、苦しめられたのである。
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