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--- 筑豊にいこう!4 --- - 暇つぶし2ch122:列島縦断名無しさん
07/12/21 05:46:37 HyDd7k3h0
以下このサイトより
URLリンク(www.city.kitakyushu.jp)

吉田磯吉(1867~1936)は、川ひらたの船頭から身を起こし、明治・大正・昭和の3代にわたって、北九州の石炭業界に君臨しました。
のちに民政党代議士として中央政界でも活躍し、北九州の産業の発展期を代表する人物の1人でした。
吉田磯吉は、昭和11年1月17日に70才で死去し、同26日に若松市浜町小学校で葬儀が行われました。
この会葬には、降雪にもかかわらず2万名の参列者、供米1200俵、清酒20樽、花輪一千余と記録され、
筑豊線には会葬者のため、特に二等車を連結した空前の盛葬でした。

磯吉は、遠賀郡芦屋町に生まれました。生家は、代々松山藩士でしたが、父・徳平が、脱藩して諸国を流浪した後、芦屋に住みました。
16才のとき、元服して祖父の徳右衛門を襲名し、魚介や野菜の行商から身を起こしました。
当時、遠賀川を上下した石炭船の船頭として、ずば抜けた腕力と胆力が大衆を圧し、船頭仲間に頭角をあらわしました。
後に若松市に嫁いだ姉のもとで食客しながら、次第に人侠の世界に入り、他の人侠勢力を排除して名をあげました。
明治43年、大阪相撲協会の大関・放駒(はなれごま)が東京相撲協会に走り、両者が鋭く対立したいわゆる「放駒事件」を解決したことで全国に名をなしました。
その後、政治家をめざして衆望をにない、大正4年、衆議院議員に初当選しました。
大正10年には、政友会の日本郵船乗っ取りの策謀を封じるなどして有名になり、昭和7年まで議員として活躍しました。
一方、明治34年に八幡製鉄所が開設されると、景気の渦に寄せられて全国各地から、大小の会社、商店が進出しました。
これらに寄生しようと、多くの無頼の人々も入って秩序が乱れると、磯吉は前面に立ち、防衛するようになりました。
地元若松市では実業家として、石炭関係、若松魚市場、運輸関連企業の役員を務め、地元はもとより、北九州産業界の発展に大きく寄与しました。


文中に出てくる若松市は現在の北九州市若松区
筑豊の石炭の積出港として栄え、北九州市の中では最も筑豊と密接な関係であった町
まあだから吉田磯吉は筑豊・北九州の川筋ヤクザの大親分だったわけだ




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