09/10/28 12:16:03 7qTJeinT
「木枯らし」
木が狂つてゐる。
ほら、あんなに体を
くねらして。
自分の大事な髪の毛を、
風に散らして。
まるで悪魔の手につかまれた、
娘のやうに。
木が。そしてどの木も
狂つてゐる。
平岡公威(三島由紀夫)11歳の詩
3:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/28 12:17:22 7qTJeinT
「父親」
母の連れ子が、
インク瓶を引つくり返した。
インク瓶はころがりころがり
机から落ちて、
硝子の片が四方に飛び散つた。
子供は驚いた。
ペルシャ製だといふじゆうたんは、
真ッ黒に汚れた。
そして、破れた硝子は、くつ附かなかつた。
母の連れ子の
脳裡に恐ろしい
父の顔が浮び出た。
書斎のむち、
今にも
つぎはぎだらけのシャツを
脱がされて、
むちが……
喰ひ附くやうに、
母の連れ子の、目の下に、
黒いじゆうたんが、
わづかな光りに、ぼやけてゐる
平岡公威(三島由紀夫)
11歳の詩
4:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/29 10:36:12 KDNd1lTw
「蛾」
窓のふちに、
蛾がとまつてゐて、
ぶるぶると体を震わせてゐた。
私は、可哀さうになつて、
蛾を捕へようとした。
窓は、堅く、閉ざされてゐたので、
私は、窓を開けて、
放してやらうと思つた。
私は蛾にさはつて見た。
蛾は勢ひよく飛び出した。
私は、気が抜けた。
さつきの蛾と、
そして、
今の蛾と……。
平岡公威(三島由紀夫)
11歳の詩
5:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/29 10:37:11 KDNd1lTw
「凩」
凩よ、
速く止まぬと、
可愛さうな木々が眠れない。
毎日々々お前に体をもまれて、
休む暇さへないのだ。
凩よ、
お前は冬の気違ひ、
私の家へばかり、は入つて来ないで、
いつその事、雪を呼んでおいで。
平岡公威(三島由紀夫)
11歳の詩
6:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/29 10:37:56 KDNd1lTw
「斜陽」
紅い円盆のやうな陽が、
緑の木と木の間に
落ちかけてゐる。
今にも隠れて了ひさうで、
まだ出てゐる。
然し、
私が一寸後ろを向いて居たら、
いつの間にか、
燃え切つてゐて、
煙草の吸殻のやうに、
ぽつんと、
赤い色が残ってゐるだけだつた。
平岡公威(三島由紀夫)
12歳の詩
7:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/30 14:41:40 r/HgqYtE
「独楽」(こま)
(音楽独楽なりき。白銀なせる金属にておほはれる)
それは悲しい音を立てゝ廻つた。
そして白銀のなめらかな体を
落着きもなく狂ひ廻つた。
よひどれの様に、右によろけ、
左にたふれ。
それは悲しい酔漢の心。
踊るを厭ふその身を、一筋の縄に托されて。
唄ふを否み乍らも、廻る歯車のために。
それは悲しい音を立てゝ廻つた。
「静寂の谷」から、
「狂躁の頂」に引き上げられ、
心のみ、尚も渓間にしづむ。
それは悲しい酔漢の心。
そして白銀のなめらかな体を、
落着きもなく狂ひ廻つた。
平岡公威(三島由紀夫)
12歳の詩
8:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/30 14:43:05 r/HgqYtE
「三十人の兵隊達」
三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。
三十人の兵隊達。
銀流しの拍車があらはす。
銀と白の光の交叉。
三十人の兵隊達。
硝子の目玉。
極細の毛糸は、
漆黒の頭髪。
けれども、
八つを迎へた女の子は、
この兵隊を捨て去つた。
そして、女の子は、
赤ん坊の人形に、
頬すりする。
芽生えた、母性愛の
興奮。
三十人の兵隊達。
母性愛の為に捨て去られた、
兵隊達。
三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。
平岡公威(三島由紀夫)
12歳の詩
9:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/30 14:43:48 r/HgqYtE
「絵」
孤児院の片隅で、
幼い子が、大きな絵を眺めてる。
そこには、飴ん棒のやうな木が、
列を作つて並んで居、
木には、パン、草には、ビスケットが、
今を盛りになつてゐる。
口を開けて、夢中になる孤子に、
あたゝかい日差しがあたつてゐる。
しかし、入つてきた院長は、さつさ
と子供を引張つて外に出て来た。
「あんな絵は、目に毒ぢやてな」
平岡公威(三島由紀夫)
13歳の詩
10:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/02 16:39:16 7HU+KZuR
「誕生日の朝」
青と、白との光線の交錯のうちに、
身をよこたへつゝ、
その日のわたしは、生れたばかりの
雛鳥のやうだつた。
さて、細い一輪差まで
絶えいるやうな花の香に埋もれ、
太陽をとり巻く雲は、一片の花弁に見えた。
誕生日の贈り物がとゞいた。
美しい贈物の数々は、
石竹色の卓子の上に置かれた。
平岡公威(三島由紀夫)
14歳の詩
11:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/02 16:43:01 7HU+KZuR
「見知らぬ部屋での自殺者」
骨董屋の太陽のせゐで
カーテンの花模様も枯れ
家具は色褪せ 空気は
黄色くただれてゐたので
その空気に濡れた古鏡に
わが顔は扁たく黄いろに揺れた
……やがて死は蠅のやうに飛び立つた
うるさくかそけく部屋のそこかしこから
平岡公威(三島由紀夫)
14歳の詩
12:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/02 16:43:58 7HU+KZuR
「夜猫」
壁づたひに猫が歩む
影の匂ひをかぎながら
猫の背はなめらかゆゑ
光る夜を、辷らせる
ああ、蝋燭の蝋のしたたる音がする。
真鍮の燭台は
なやめる貧人のごとき詫びしい反射であつたから、
ふと、傾いた甃(いしだたみ)の一隅に
わたしは猫の毛をわたる風をきいた
影のなかに融けてゆく一つの、寂寞の姿をみた
平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
13:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/02 16:44:50 7HU+KZuR
「民謡」
夕ぐれの生垣から石蹴りの音がしてきた
微温湯をいれたコップの内側が、赤んぼの額のやうに汗ばんでゐた。
病気の子のオブラァトと粉薬が窗のあぢさゐの反射であをざめた
石竹色の植木鉢に、錆びた色ブリキの如露がよつかゝつてゐた
早い蚊帳がみえる離れで、小さな母は爪立つて電気を灯けた。
ねむつた子の横顔が 麻の海のなかに浮びあがつた
平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
14:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/02 16:45:45 7HU+KZuR
「夏の窗辺にくちずさめる」
雲の山脈の杳か上に
花火の残煙のやうなはかない雲が見えてゐた
サイダァのコップをすかしてみたら
やがて泡になつて融けて了つた
平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
15:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/02 16:49:10 7HU+KZuR
「幸福の胆汁」
きのふまで僕は幸福を追つてゐた
あやふくそれにとりすがり
僕は歓喜をにがしてゐた
今こそは幸福のうちにゐるのだと
心は僕にいひきかせる。
追はれないもの、追はないもの
幸福と僕とが停止する。
かなしい言葉をさゝやかうとし
しかも口はにぎやかな笑ひとなり
愁嘆も絵空事にすぎなくなり
疑ふことを知らなくなり
「他」をすべて贋と思ふやうに自分をする。
僕はあらゆる不幸を踏み
幸福さへのりこえる。
僕のうちに
幸福の胆汁が瀰漫して……
ああいつか心の突端に立つてゐることに涙する。
平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
16:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/02 16:50:20 7HU+KZuR
「アメリカニズム」 万愚節戯作
たるんだクッションのやうなスヰートピィ
もう十年代、流行おくれの色ですね
玉蜀黍の粕がくつついてる
赤きにすぎる口紅の唇。
ショォト・スカァトは空の色がみえすぎます。
歓楽は窓毎に明るく灯り、
スカイ・スクレェパァはお高くとまり、
鼻眼鏡で下界をお見下しとやら、
だが、ニッケルの縁ではね。
野蛮の裏に文化はあれど……
白ん坊の裡にも黒ン坊がゐる。
欧州向の船が出て、
髯なし共が御渡来だ、
カジノで札の束切つて
縄の御用もありますまい
レディ・メェドの洋服が船にのつておしよせる
あくどい洒落がおしよせる
自由とスマァトネスがおしよせる
「世界第一」がおしよせる
星のついた子供の旗をおし立てゝ。
平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
17:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/02 16:51:33 7HU+KZuR
「薔薇のなかに」
薔薇のなかにゐます。
わたしはばらのなかにゐます。
しつとりしたまくれ勝ちの花びらの
こまかい生毛のあひだに滲みてくる
ひかりの水をきいてゐます。
薔薇は光るでせう、
園の真央で。
あなたはエェテルのやうな
風の匂ひをかぐでせう。
大樫のぬれがての樹影に。
牧場の入口に。
大山木の花が匂ふ煉瓦色の戸口に。
わたしは薔薇のなかにゐます。
ばらのなかにゐます。
小指を高くあげると
虹の夕雲がそれを染め……
ばらはゆつくり、わたしのまはりで閉ざすのです。
平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
18:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/05 00:00:53 GDrlgICY
「私は学生帽です。」
私は平岡さんのお家の学生帽です。坊ちやんが一年生の時西郷洋服店から参りました。
私は喜ばしい事もあれば泣きたい事もあります。
いつも坊ちやんが学校へいらつしやる時に、おとなりのぐわいたうさんとが書生さんに昨日のごみを
取つてもらひます。私達はそれを毎日楽みにして居ります。
私はずい分古い帽子ですが、坊ちやんが大事にして下さるので、坊ちやんからはなれようとは思ひません。
私は何年と云ふ長い月日をかうやつて暮して来ました。
今迄の間にどんな事があつたでせう?私はそれを物語りたいのです。
(つい此間の事でした。坊ちやんがこはれた帽子を学校から持つていらつしやいました。
それは云ふ迄も無く私です。
坊ちやんは御母様に「之をぬつてね」とおつしやいました。
お母様は「ええ、え」とおつしやつて、ぬつて下さいました)
私は何と云ふ幸福な身でせう?
平岡公威(三島由紀夫)
7~8歳の作文
19:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/05 00:03:11 GDrlgICY
「農園」
今週の月曜でした。
唱歌がをはつておべん当をいただかうと思つて、教室にはひつて来ました。
すると、おけうだんの上に大きなかごがあつて、その中にはたくさんそら豆がはひつてゐました。
僕はうれしくて、うれしくて、「早くくださればいいなあ」とまつてゐたら、おべんたうがすんだら、
皆のハンカチーフにたくさん入れて下さいました。
おうちへかへつて塩ゆでにしていただいたら、大変おいしうございました。
思へば、三年のニ学きでした。
おいしいみが、たくさんなるやうにとそらまめのたねを折つてまいたのでした。
果して、たねはめが出、はがでて、今ではおいしいみがたくさんなつて、僕たちがかうしていただくまでに
なつたのでした。
…又この間は五六年のうゑた、さつまいもの苗に水をかけました。
秋になつたらこのおいもも僕達の口の中へはひる事でせう。
平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文から
20:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/05 00:04:33 GDrlgICY
「ばけつの話」
僕はばけつである。
僕は大ていの日は坊ちやんやお嬢さんがきて遊ばして呉れるが、雨の日などは大へん苦しい。
ほら、この通り、大部分ははげてゐる。
又雪の日なんかは、ずいぶん気もちがいい。
あのはふはふしたのが僕のあたまへのつかると何ともいへない。
それから僕が植木鉢のそばへおかれた時、あの時位いやな事はなかつた。
となりの植木鉢がやれお前はいやな形だの、又水をくむ外には何ににも使へないだのと云つた。
あそこをどかされた時は、ほんとにホッとした。ではわたしの話はこれでをはりにする。
平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
21:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/06 11:52:57 w5OhsOSi
「夕ぐれ」
鴉が向うの方へとんで行く。
まるで火のやうなお日様が西の方にある丸いお山の下に沈んで行く。
―夕やけ、小やけ、ああした天気になあれ―
と歌をうたひながら、子供たちがお手々をつないで家へかへる。
おとうふ屋のラッパが―ピーポー。ピーポー ―とお山中にひびきわたる。
町役場のとなりの製紙工場のえんとつからかすかに煙がでてゐる。
これからお家へかへつて皆で、たのしくゆめのお国へいつてこよう。
平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
22:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/06 11:54:31 w5OhsOSi
「大内先生を想ふ」
ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。
どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。
その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。
ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。
まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。
七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。
それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。
むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。
そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。
あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。
僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。
平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
23:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/06 11:55:45 w5OhsOSi
「我が国旗」
徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に
朱の円がゑがかれて居た。
朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。
それは鹿児島の大大名、天下に聞えた島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、
是が我が国旗、日の丸の始まりである。
模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。
之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。
それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。
明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。
平岡公威(三島由紀夫)
11歳の作文
24:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/07 21:09:05 QH474UDq
三島由紀夫が詩人になっていたら…と今でも悔やむね。
彼の才能は詩人のそれだろう。本人は否定していたけど。
仮に金閣寺が散文詩集として出版されていたなららばどれだけ輝かしい傑作になったことだろう。
因みに若かりし日の三島の詩は早熟は感じさせるがそれ以上ではない。
傑作を書き始めるのは二十代後半くらいから、散文作品の中で。
25:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/08 10:52:47 zdpLtEyt
三島由紀夫が詩人だというのは正しいと思う。
仮面の告白も金閣寺もある意味、美しい一編の詩のようですね。
26:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/10 12:11:15 gGXhNdI4
「分倍河原の話を聞いて」
私達は早や疲れた体を若い小笹や柔かい青艸の上にした。
視野は広く分倍河原の緑の海の様な其の向うには、うつさうとした森があつて、
遥か彼方には山脈の様なものが長々と横たはつて居た。
白く細く見えるのは鎌倉街道である。
遠く黄色い建物は明治天皇の御遺徳を偲ぶ為の記念館であると、小池中佐はお話下さつた。
腰を下して、分倍河原の合戦のお話をお聴きする。
元弘三年、此処は血の海が、清き流れ多摩川に流れ込んだのだ。
今でこそ此の分倍河原は、虫の音や水の流れに包まれてゐるが、六百年前には静寂がなくて
其の代りに陣太鼓の音や骨肉相食む戦闘が繰り返へされたのだ。
《勝つて兜の緒を締めよ》この戦ひは如実に之を教へてゐる。
見よ。六百年の歴史の流れは、遂に此の古戦場を和かな河原に変化せしめたのだ。
其の時、足下の草の中から、小さな飛蝗が飛び出し、虫の音は愈々盛になつて居たのである。
益々空は青い。
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
27:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/10 12:13:23 gGXhNdI4
「菊花」
渋い緑色の葉と巧みな色の配合を持つた、あの隠逸花ともよばれるつつましやかな花は、
自然と園芸家によつて造られた。
園芸家達の菊は、床の間に飾られるのを、五色の屋根の下に其の艶やかな容姿を競ふのを誇りとし、
自然の造つた菊は、巨きな石塊がころがつて痩せ衰へた老人の皮膚の様な土地に、
長い睫毛の下から無邪気な瞳を覗かせてゐる幼児のやうに咲き出づるのを誇つてゐる。
前者は人の目を娯ます為に相違ないが、野菊の持つエスプリはそれ以上のものである。
荒んだ人の心の柔かな温床。
荒くれ男どもを自然の美しさに導く糧。
それが野菊である。
《鬚むじやらの人夫などが、白と緑の清楚な姿に誘はれて、次々と野菊を摘んで行き、
山の端に日が燃え切る頃、大きな花束を抱へて嬉しげに家路に着く》それは美しい風景ではあるまいか。
~~~~~~~~
時は霜月。
木々が着物を剥がされかけて寒さに震へる月であるが、彼の豪華な花弁が野分風も
恐れずに微笑む時である。
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
28:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/17 10:33:08 7+0U0Uoi
「支那に於ける我が軍隊」
七月八日―其の日、東京はざわめいて居た。人々は号外を手にし、そして河北盧溝橋事件を論じ合つてゐた。
昭和十二年七月七日夜、支那軍の不法射撃に端を発して、遂に、我軍は膺懲の火ぶたを切つたのである。
続いて南口鎮八達鎮の日本アルプスをしのぐ崚嶮を登つて、壮烈な山岳戦が展開せられた。
懐来より大同へと我軍はその神聖なる軍をつゞけ、遂に、懐仁迄攻め入つたのである。
我国としても出来得る限りは、事件不拡大を旨として居たのであるが、盧溝橋事件、大山事件に至るに及び、
第二の日清戦争、否!第二の世界大戦を想像させるが如き戦ひに遭遇した。
~~~~~~~~
(続く)
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
29:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/17 10:33:50 7+0U0Uoi
「支那に於ける我が軍隊」
飲むは泥水、行くはことごとく山岳泥地、そして百二十度の炎熱酷暑、その中で我将兵は、
苦戦に苦戦を重ねて居るのである。その労苦を思ふべし、自ら我将士に脱帽したくなるではないか。
たとへ東京に百二十度の炎暑が襲はうとも、そこには清い水がある。平らかな道がある。
それが並大抵のもので無いことは良く解るのである。
併し軍は、支那のみに止らぬ。オホーツク海の彼方に、赤い鷲の眼が光つてゐる。
浦塩(ウラジホ)には、東洋への銀の翼を持つ鵬が待機してゐる。
我国は伊太利(イタリー)とも又防共協定を結んだ。
併しUNION JACK は、不可思議な態度をとつて陰険に笑つてゐる。
噫!世界は既に動揺してゐるのだ!
~~~~~~~~
支那在留の将士よ、私は郷らの健康と武運の長久を切に切に祈るものである。
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
30:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/17 10:37:10 7+0U0Uoi
「三笠・長門見学」
船は横須賀の波止場へ着いた。ポーッと汽笛が鳴る。
私達は桟橋を渡つた。薄曇りで、また酷い暑さの今日は、海迄だるさうだ。
併し、僕達は元気よく船から飛び出す。三笠の門の前に集合し、そして芝生の間の路に歩を運ぶ。
艦前に来て再び集まり、三笠保存会の方から、艦の歴史やエピソォドを伺つた。
お話が終ると私は始めて三笠を全望した。
見よ!此の勲高き旗艦を。そしてマストにはZ信号がかゝげられてゐる。
時に、雲間を割つて出でた素晴らしき陽は、この海の館を愈々荘厳ならしめた。
艦頭の国旗は、うすらな風にひるがへり、今にも三笠は、大波をけつて走り出さうだ。
一昔前はどんな設備で戦つてゐたのか、早く見たくなつた。
やがて案内の人にともなはれて急な階段を上り、艦上に入る。よく磨かれた大砲が海に向つて突き出てゐる。
こゝで日本の大きな威力が世界に見せられたわけだ。
伏見宮様の御負傷の御事どもをお聴きして、えりを正した。其処此処に戦士者の写真が飾られてあるのも哀れだ。
(続く)
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
31:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/17 10:38:35 7+0U0Uoi
「三笠・長門見学」
私達は最上の甲板に登つて東郷大将の英姿を想像してみた。
手に望遠鏡、頭上には高くZ信号。……皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ……。
とは単なる名文ではなくて、心の底から叫んだ愛国の声ではないか。
士官の室が大変立派なのにも驚いた。又会議室へ行つて此処でどんな戦略が考へられたかと思つた。
艦の全体にペンキで戦痕が記されてある。
こんなに沢山弾を受けたのに一つも艦の心臓部に命中しなかったのは畏い極み乍ら、天皇の御稜威のいたす所であらう。
艦を出て、暫時休憩し、昼食を摂る。休憩が済むと、再び海に沿うた道を歩く。
そここゝにZ信号記念品販売所等と看板があるのも横須賀らしい。さうする中に海軍工廠の門内へ入つた。
…其の内にランチへ乗る。さうして五分も経たないで長門につく。
先づ此れを望んで、さつきの三笠と較べて見ると、余りにその設備の新式なのに驚いた。
艦上には四十サンチの素晴らしい大砲がある。
…あゝ日本の精鋭長門、こんな軍艦があつてこそ、日本の海は安全なのであらう。
平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
32:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/20 10:50:02 6H2A/Ysq
「東健兄を哭す」
十月八日の宵、秋雨にまじる虫のねのあはれにきこえるのに耳をすましてゐると、階下で電話が鳴つてゐる。
家のものがあたふたと梯子段をあがつてくる気配、なにがしにこちらもせきこんで、どこから?と声をかけると
「東さんが……お亡くなりに」「えッ」私は浮かした腰を思はず前へのめらせて、後は夢中で階段を駆け下り
電話にしがみついた。その電話で何をうかがひ、何をお答へしたか、皆目おぼえてゐない。
よみ路の方となられては、急いても甲斐ないものを見境なく、仕度もそこそこに雨の戸外へ出た。
渋谷駅までの暗い夜道をあるいてゆく時、私の頭は痺れたやうに、また何ものかに憑かれたやうに、ひたすらに
足をはやめさせるばかりであつた。さて何処へ、何をしに―さうした問は、ただ一つのおそろしい塊のやうになつて、
有無をいはせず私の心をおさへつけた。あらゆる心のはたらきを痴呆のやうに失はせてゐた。
平岡公威(三島由紀夫)
18歳の弔辞
33:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/20 10:53:27 6H2A/Ysq
「東健兄を哭す」
(中略)
兄の御寿(みいのち)はみじかかつた。おのが与へられたる寿命を天職に対して、兄ほどに誠実であり潔癖であり
至純であつた人を寡聞にして私は知らない。私は兄から、文学といふもののもつ雄々しさを教へられたのである。
文学は兄にとつてあるひは最後のものではなかつたかもしれぬ。しかし文学をとほしてする生き方が、やがて
最高の生き方たり得るといふ信仰を、身を以て示された兄の如きに親炙することによつて、わがゆく道の
さきざきに常にかがやく導きの火をもちうる倖せが、こよなく切に思はれるこの大御代にあつて、唯一の
謝すべき人を失ふとは。……兄は病床にありながら、戦に処する心構においては、これまた五体の健全な人間の、
以て範とするに足るものであつた。幾度かわれわれの、あるときなお先走りな、あるときは遅きに失した足取りは、
却つて病床の兄の決してあやまたない足取りのまへに、恥かしい思ひをしたのである。
せめて勝利の日までの御寿をとまづ私はそれを惜しんだ。
平岡公威(三島由紀夫)
18歳の弔辞
34:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/20 10:59:54 6H2A/Ysq
「東健兄を哭す」
(中略)
文学は兄にとつて禊であり道場であつた。文学のなかでは一字一句の泣き言も愚痴も、いや病苦の片鱗だにも
示されなかつた。平生の御手紙には尚更のことであつた。
そこに私はニイチェ風な高い悲しみを思ひゑがいたのであつたが、兄、神となりましし日、私は、つねに完全なる
母君であられ、今世に二なき悲しみにつきおとされになつた御母堂から、けつして愚痴を言はれなかつた四年間の
まれまれに、余人にとつてもおそらく肺腑をゑぐるものがあつたであらうそこはかとない御呟きを伝へ伺つて、
ふともらされたその御呟き―かうして治るのもわからずに文学をやつてゐるのは辛いなあ(誤伝なれば謹んで
改めまゐらせん)―といふ一句を、なにかたとしへもない真実が岩間をもれる泉のやうにのぞいたすがたと覚え、
かつはかく守られねばならぬたをやかさが兄の奥処にあり、守られたればこそ久遠に至純であつたその真実を思つて、
文人の志の毅さとありがたさも今更に思ひ合はされ、御母堂の御心事に想到し奉つても、暗涙をのまずには
ゐられなかつたのである。
平岡公威(三島由紀夫)
18歳の弔辞
35:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/20 11:02:28 6H2A/Ysq
「東健兄を哭す」
(中略)
初の御通夜、み榊、燭の火、虫のね、雨のおと、……私は言葉もなかつた。平家物語のあれらのふしぎなほど
美しい文章がしづかに胸に漣を立ててきた。……かくも深い悲しみのなかになほ文学のおもはれるのを、心の
ゆとりとしもいはばいへ。兄だけはあの親しげななつかしい御目つきを、やさしく私に投げて肯いて下さるであらう。
御なきがらを安置まゐらせし御部屋は、ゆかり深くも、足掛け四年前、はじめて兄におめにかかつた御部屋であつた。
そして今か今かとその解かれるのをこひねがつた永い面会謝絶のあとで、まちこがれてゐた再度の対面は、
おなじお部屋の、だが決しておなじになりえぬ神のおもかげに向かつてなされた。
私はなにかひどく自分が老いづいた心地がしてならなかつた。
徳川義恭兄、ありしままなるおん顔ばせを写しまゐらせ給ふ。感にたへざるものあり。
みそなはせ義恭大人が露の筆
道芝の露のゆくへと知らざりし
つねならぬ秋灯とはなかなかに
―昭和十八年十月九日深更―
平岡公威(三島由紀夫)
18歳の弔辞
36:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/01 12:52:22 Fv8/Q/wU
そこはあまりにあかるくて、あたかもま夜なかのやうだつた。
蜜蜂たちはそのまつ昼間のよるのなかをとんでゐた。
かれらの金色の印度の獣のやうな毛皮をきらめかせながら、たくさんの夜光虫のやうに。
苧菟はあるいた。彼はあるいた。
泡だつた軽快な海のやうに光つてゐる花々のむれに足をすくはれて。……
彼は水いろのきれいな焔のやうな眩暈を感じてゐた。
三島由紀夫
「苧菟と瑪耶」より
37:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/02 14:37:17 N7ebqJ3v
薔薇はリルケの美しい詩のなかで裏返されたいたましい喪失の存在に化した。
それは認識の手によつてではなく、運命を共有する一つの宇宙的な魂の手で、あばかれた羞恥と
苦痛なのである。苦痛の思ひ出は、微風のやうに繁みをゆるがした。
薔薇は詩人にその名を呼ばれたものの受苦の上に、詩人をも誘はうと試みた。
三島由紀夫
「薔薇」より
38:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/02 19:43:42 thHW3IuO
へたくそな散文詩だな。
39:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/03 10:06:50 k+FTm1vv
>>38
>>37は別に詩じゃないんだけど。
40:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/05 16:36:56 mZBPj2fj
偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、
近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。
彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。口のはじにはおしろいでもかくれない薄いヒゲがやはりあつた。
…彼女は前のやうな重つくるしい丁寧すぎる言葉遣いはなくなつてゐた。
(中略)
「さよなら…お大事に」……云ひちがへて「お元気で」
「ええ」彼女は背を向けた。
…その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
41:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/05 16:37:51 mZBPj2fj
前日まで何故といふことなく僕は、「ゲエテとの対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度も
よんでゐたのだつた。それは予感だ。
世の中にはまだふしぎがある。
そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか?書くなといふ暗示なのか?
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
42:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/05 16:39:09 mZBPj2fj
僕は婚約した彼女を一度誘い出して話したいという計画を抱いてゐた。
ところが突然別の僕がそれを気狂い沙汰だと叫び出す。向ふの家の父は吃驚して怒り出すだらう。
かりにも婚約した以上、ひとのものをと!
ところが「冷静な」僕がじつくりと別の僕をなだめてかゝる。一度位ゐそれも昼内一緒に出かけたつて
何の悪いことがあらう。まして昔は仲の好すぎた友達だつたのだもの。
向ふの家人も平気で彼女をだしてやるだらう。お前のやらうとしてゐることはひどく常識的なことにすぎないのだと。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
43:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/05 16:40:27 mZBPj2fj
彼女はレインコートさへ脱ぎたがらなかつた。まるでそれが下着ででもあるかのやうに。
だから僕の彼女の抱心地はゴワゴワした感触しか残らない。
それのみか彼女は、唇を吸ふにまかせて自ら吸おうとしなかった。
また抱かれるにまかせて抱かうとしなかつた。彼女はお人形のやうに強ばつてゐた。
そして戦争中の人目のうるさゝから殆どお化粧をしてゐなかつた。
そしていさゝか子供つぽすぎる横顔をますます子供つぽく見せてゐた。
―ところが彼女との間を第三者が隔てゝから彼女は急に美しくなり出した。
僕は彼女を真夏の薄着で、いささか厚化粧で抱きえなかつたことを後悔した。
彼女は今宵は頗る美しくみえた。彼女の白いレエスに包まれた胸のあたりに花房のやうに揺れるものを
今日ほど烈しく僕は欲したことがなかつた。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
44:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/06 22:26:58 p3nn4oAq
人々は又しても責めるだらう、僕の作品には時代の苛烈さがないと。
しかし評家はもう少し炯眼であるべきだ。全く平和な時代に仮託したこの物語で、僕はまざまざと戦争と乱世の
心理をゑがくことに芸術的な喜びを感じてゐる。
戦争時と戦後の心理のそのすべての比喩をよむ人はこゝによむ筈だ。芸術とはさういふものだからだ。
―昔ばく徒は外出するときは必ず新らしい褌をはいて出た。さういふ生き方は実に我々には親しいものに
なつてゐたのである。それは近代文学特有の不安と衰弱の心理とは別の、もつと張のある活々した心理だつた。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
45:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/06 22:30:15 p3nn4oAq
僕が心中物をデカダンスとしてでなく書かうとする気持にはこの根拠がある。
元禄期の近松西鶴の溌剌たる悲劇の精神(殊に前者の「堀河波鼓」後者の「好色一代女」の幻想)に僕は最も
大きな共鳴を感じて書いた。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
46:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/06 22:31:12 p3nn4oAq
我々がある思ひ出から遁れようとすると、その思ひ出自身が我々をはなれて激しく生きようと試み出すのを見ることがある。
このやうな時我々の生きる意味はいやでも思ひ出のそれと一致して了ふ。そして我々の死の意味も。
僕の作品は、それを成立せしめた凡ての条件への仮借なき復讐である。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
47:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/10 10:52:00 DFQtHimQ
堀辰雄は僕にシンプルになれと云つた。
しかしシンプルにならうとしてそれに成功するなんて、さうおいそれと出来るものぢゃない。
第一氏が例に引いた立原道造も僕はあんまり尊敬してゐない、ましてや氏自身の素寒貧な小説―すぐ微熱が出たり、
切なくなつたりする小説を書きたいと思はない。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
48:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/10 10:53:48 DFQtHimQ
作中の架空の事実と作者とどちらが不確定か?俗人は前者がさうだと考える。
そして目の前にある確実な「架空」はぼつぽり出して、血眼で不確かな、不必要な作者自身を作中から探り出さうとする。
この眼差が一部の批評家にも具つてゐることは驚異に値する事実だ。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
49:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/10 10:54:39 DFQtHimQ
僕は詩人だ。一皮剥けば俗人だ。
もう一皮剥けば詩人だ。もう一皮剥けば俗人だ。
もう一皮剥けば詩人だ。ぼくはどこまで剥いても芯のない玉葱だ。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
50:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/14 00:27:34 +GN6ZYuH
>>48
>作中の架空の事実と作者とどちらが不確定か?俗人は前者がさうだと考える
この辺の批評眼はさすがといわざるを得ないね。
書くという行為はまだかたちを持たない何かしらに言葉というすがたとかたちを与えて
その何かしらを具現化させる行為だからね。
51:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/14 00:42:11 uF09ADfc
>>47
>堀辰雄は僕にシンプルになれと云つた。
>しかしシンプルにならうとしてそれに成功するなんて、さうおいそれと出来るものぢゃない。
シンプルになるってのは三島にとっちゃあ最後まで出来ない難問だった。
あんまり多くの理想と欲望と困難を欲した彼にとっては。
>>46
この発言はよく分からないな。
「思ひ出」というよりも解決を得ていない、まだ問題を内包したままの記憶ということだろうか。
それが離れようとする時に問題を改めて突きつけてくるということだろうか。
しかしそうだとして「死の意味」まで一致するとは?
提示された問題の大きさが個人の大きさを越えた歴史だったということだろうか?
あるいは肉体的条件も合わせた、地上に降りるときに与えられた条件全体、
地上で与えられた条件全体という感じがするな。
しかしそれを「復讐」と呼ぶとは。
生涯にわたり自身を肯定したことの一度も無い人間だったとは思うが。
52:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/14 10:03:50 AqspF51b
>>51
この思い出は、邦子さんに失恋したことです。死ぬほど思い詰めていた頃の記述ですよ。
それを解決するために書いた「盗賊」「仮面の告白」の直前のノートですから。
53:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/14 12:40:55 uF09ADfc
>>52
なるほど、吹っ切れてない「思ひ出」が生々しくよみがえるというだけの話か。
そう読むとなんでもない記述だな。となると、
>そして我々の死の意味も。
なんていう記述は単なる趣味的なものか。
54:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/14 13:30:31 AqspF51b
>>53
三島は死ぬほど思い詰めて、生きるためにその二作を書いのだから、「趣味的」と軽々しく他人のあなたが言えるもんじゃないよ。
その時その時の人の想いや感情をバカにしすぎ。
55:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/14 19:30:14 jMpJwcch
へたくそな散文詩だな。
詩じゃないなら板違いだし
56:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/15 15:40:28 BM6iD9UF
「冬の夜」
火鉢のそばで猫が眠つてゐる。
電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。
けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。
おぢいさまが、
「けふはどうも寒くてならんわ」
とおつしやつた。
冬至の空はすみのやうにくろい。
今は七時だといふのにこんなにくらい。
弟が、
「こんなに暗らくつちやつまんないや」
といつた。
平岡公威(三島由紀夫)
8歳の詩
57:名無しさん@お腹いっぱい。
09/12/17 15:49:36 Q8Xu8MWs
あげます。
58:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/12 15:52:14 htAYzxyt
「朝の通学」
四谷西信濃町十六番地。
朝、おきて見ると、空は晴れて居たが、大へんさむかつた。
お祖母様がからだをこゞめて、あんかにあたつていらつしやつた。
お家を出る時、うちの小路を、外たうを着て皮手袋をはめた大学生が寒さうにポケットへ手を入れてゐた。
あめ売のおぢいさんも、ふところへ手を入れて、あたゝかい方へあたゝかい方へと歩いて行つた。
自動車屋の車庫では、子供が二人、たき火をして、手をあたゝめてゐた。
又、でんしやの中ではしやつを沢山きて洋服がふくれてゐる人や、顔や手を年がら年中まさつして居る人が大分あつた。
四ツ谷駅に下りて見るとみなポケットに手を入れてゐた。
学校へきて見ると、運動場一ぱいに霜が下りてゐた。
いつもはあんなにあつたかい御教場の中も、今日は何だか、寒くかんじた。
平岡公威(三島由紀夫)
8~9歳の作文
59:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/12 16:23:32 Qp/MTpT1
「朝の通学」
四谷西信濃町十六番地。
朝、おきて見ると、空は晴れて居たが、大へんさむかつた。
お祖母様がからだをこゞめて、あんかにあたつていらつしやつた。
お家を出る時、うちの小路を、外たうを着て皮手袋をはめた大学生が寒さうにポケットへ手を入れてゐた。
あめ売のおぢいさんも、ふところへ手を入れて、あたゝかい方へあたゝかい方へと歩いて行つた。
自動車屋の車庫では、子供が二人、たき火をして、手をあたゝめてゐた。
又、でんしやの中ではしやつを沢山きて洋服がふくれてゐる人や、顔や手を年がら年中まさつして居る人が大分あつた。
四ツ谷駅に下りて見るとみなポケットに手を入れてゐた。
学校へきて見ると、運動場一ぱいに霜が下りてゐた。
いつもはあんなにあつたかい御教場の中も、今日は何だか、寒くかんじた。
平岡公威(三島由紀夫)
8~9歳の作文
60:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/13 16:26:57 yGY619LT
三島由紀夫の噂
スレリンク(uwasa板)
「詩人の血」? 寒い日の話 平岡あみ
61:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/20 17:27:02 NSwQja8L
「松の芽生」
これはまだ僕が大森へ泊りに行かないまへの話です。
或る日お庭へ出て箱庭をなんの気なしに見たら、小さなざつ草を見つけたので、かはいい草だと思つて、掘つて
おばあさまにお見せしたら、「あゝこれは松の芽生ですよ」とおつしやつたので、僕は拾ひ物でもしたやうに
有頂天になつて、急いで、又元のところへ植ゑました。そしてもつと有りはしないかと方々をさがしますと、
その箱庭のすみの方にと、それから小さい箱庭とにありました。それから毎日たんねんに水をやつたのです。
そのうちに僕は大森へ行つて今朝かへつて来ました。
平岡公威(三島由紀夫)
年月未詳(推定は9歳)の作文
62:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/23 10:47:42 QTkC2tfC
つ 金閣寺箱庭
URLリンク(www.kawaihobby.co.jp)
63:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/24 10:24:32 FmTdfPiT
三島は自分で箱庭を作っていたんでしょうかね?
子供なのに、おつな渋い趣味だね。
64:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/01 16:44:30 3sH8TMSZ
「電信柱」
お家のお庭向きのへいの前に小さい道がある。
そしてそこに木でできた電信柱が立つてゐる。今日の噺はその電信柱の電線の噺である。
ある春の日、僕は縁側に座蒲団をしいて日向ぼつこをしてゐた。
その日は勉強もなかつたし、又遊ぶ事もなかつた。
それでなんの気もなくその電線をながめてゐた。するとそこへ、三羽の雀がさへづりながらとんできた。
三羽の雀はふとその電線の上へ停つた。そして鬼ごつこでもするやうに電線の上を飛び廻つたのだ。
その度に電線はゆらゆらとゆれた。そのとき電信柱は、
「雀さん、そんなに体の上を飛び廻つてはいたいですよ」
とでも云つたのだらう。三羽の雀は又話をしながらとんでいつた。
(続く)
平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
65:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/01 16:46:09 3sH8TMSZ
「電信柱」
それから月日はたつて八月になつた。
八月といへば暑いさかりである。
僕はハンカチーフで汗をふきふきシロップを飲んでゐた。
その時、僕の頭に浮かんだのは、あの春の日のことであつた。
今度は帽子をかぶり庭にでてその電線をみてゐた。
するとそこにはいつの間に来たのか沢山の小鳥が電線の上にとまつてゐて、大きな声をはりあげて歌をうたつてゐた。
あげは蝶や黄色虫が小鳥のまはりをとんでゐる。
樅(もみ)の木や杉の木や松などが歌に合はせて踊るやうに葉をうごかしてゐた。
お向ひの物干の青竹が笑ふやうにして云つた。
「電線さんおにぎやかですね」
平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
66:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/03 15:25:08 7kUfc1Nj
天才
67:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/08 14:40:21 qn3I1r5N
古代の悲劇のいみじさは、現代の神経では涙といふもので味はふことは出来なくても、それ以上の、おそらく
ギリシャ人たちが味はつた感動以上の、ほとんど神を見たやうな宗教的感動を以て味はふことができるやうに
思はれます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年5月1日、
東文彦への書簡より
68:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/08 14:41:17 qn3I1r5N
音楽部で例の「オルフォイス」のレコオド・コンサアトをやりましたのできゝました。
あのギリシャ的な晴朗さは日本の古代の晴朗さとまことによく似てゐると存じました。
新関良三教授から芸能の講義を演習の時間にうかゞつてゐます。能楽とギリシャ劇の比較など大へん面白いものです。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年5月7日、
東文彦への書簡より
69:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/08 14:47:26 qn3I1r5N
ニイチェの「ツァラトゥストラ」の中には日本のことをかいてゐるやうな気のするところもありますね。
そして超人の思想の根本なぞどうも私にはインド、又ひろく東洋全体の思想への接近より、ニイチェが自ら
意識するせぬに不拘(かかはらず)、日本への大きな意味があるやうに思はれてなりません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年2月15日、東文彦への書簡より
70:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/08 15:08:04 qn3I1r5N
―「真昼」― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。
真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、
日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、
そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。
我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる
姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年3月24日、東文彦への書簡より
71:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/08 15:13:07 qn3I1r5N
いやなことゝ申せば今度も空襲がまゐりさうですね。かうして書いてをります夜も折からの警戒警報のメガホンの
声がかまびすしい。一体どうなりますことやら。しかしアメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものに
まけてたまるかと思ひます。
―ニイチェが反理想主義であること、流石に確かな御眼と感服いたします。
ニイチェの強さが私には永遠の憧れであつても遂に私には耐へ得ない重荷の気がします。おそらくけふは
一人一人の日本人が皆ニイチェにならねばならぬ時かもしれません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月4日、東文彦への書簡より
72:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/08 15:19:11 qn3I1r5N
ニイチェについて、お陰さまでいろいろ新しいことを知りました。実はツァラトゥストラの登張竹風の跋文の外、
私にはニイチェに関する智識がございませんでした。ツァラトゥストラのあの超人の寂寥あれを私は平安朝の
女流たちにも感ずるのです。「古今の季節」といふエッセイのなかでその荒涼を語つたことがありますが、
ニイチェがあれら女人の深い寂寥にふれてゐたらどう思つたことでせう。
ニイチェの愛した東方ではなく、むしろニイチェ自身の苦しい影をみはしなかつたかとさへ思ひます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月11日、東文彦への書簡より
73:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/08 15:48:52 qn3I1r5N
ペルシャ人の、酒と逸楽の享楽主義は、おなじ享楽主義でも「トリマルキオーの饗宴」にみるやうな羅馬の
それとはちがひ、後者が機智と皮肉と退廃とのあらはれでしかないのに、前者には東洋的な深い瞑想がみられます。
前者は月夜のおもむき、後者はまひるのコロッセウムを思ひ出させます。
体骼なぞもずいぶんこの二民族の間にはへだゝりがあつたことでせう。
それにしても西洋人の享楽主義のえげつなさは、支那人はともかく、とても日本人の肌にはあひませんね。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和16年7月10日、東文彦への書簡より
74:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/09 11:19:02 QpYAg2m4
>>72の前述
―行詰り……実はこの文学上のデッド・エンドといふくせものに私は小説をかきはじめたときから始終頭を
ぶつけてゐたやうなわけで、その為に私の作品にはどこかに必らずデカダンスがひそむのですが、私は今度の
行詰りを自分では別に絶望的とも思つてをりません。いまの心境は、書けなくなつたらかけなくてもよい
(これはまあ一概にヤケッパチからでもないんですが)といふところ。しかし貴下のいはれる素朴さは実は
私のたつた一つの切ない宿願です。それを実現する手段として私は戦争や兵隊を考へてゐます。しかし果して
兵隊に行つて万葉的素朴さを得られるものか、この点は化学方程式のやうなわけにはいきますまいし、今のところ
永遠に疑問なのです。それにしても貴下の御忠告と御心やりは今の私には悲しいほど身にしみます。妙なたとへですが、
さんざん不埒なことをした不良少年が、物わかりのよい先輩にさとされるやうな気持とも申せませう。
文学といふ仕事、これは矢張、つらい死に身の仕事ですね。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月11日、東文彦への書簡より
75:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/09 11:22:32 QpYAg2m4
>>72続き
「世々に残さん」をかく用意に「平家物語」を何遍も繰つてゐますが、川路柳虹氏も名文だとほめてゐられる
あの文章、又あのむしろ宇宙的な末尾の哀切さ、あれを一篇の小説としてみてみると、大原の大団円は、私には
ラディゲのドルヂェル伯の大団円などよりこのごろではずつと身近に感じられます。
無常といふ思想は印度から来たものでもそれを文学の極致にまで詩の極致にまで高めたのは日本人の営為ですね。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月11日、東文彦への書簡より
76:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/09 15:01:21 QpYAg2m4
文学の上では日本は今こそ世界唯一であり、また当然世界第一でありませう。
ムッソリーニにはヒットラアより百倍も好意をもつてゐますので、一しほの哀感をおぼえました。ムッソリーニも亦、
ニイチェのやうに、愚人の海に傷ついた人でありませう。英雄の悲劇の典型ともいふべきものがみられるやうに
おもひました。かつて世界の悲劇であつたのはフランスでしたが、今度はイタリーになりました。
スカラ座もこはれたやうですね。米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでありませう。
俗な精神が世界を蔽(おお)うた時、それは世界の滅亡です。
萩原氏が自ら日本人なるが故に日本人を、俗なる愚人どもを、体当りでにくみ、きらひ、さげすみ、蹴とばした
気持がわかります。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年8月20日、東文彦への書簡より
77:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/09 15:12:46 QpYAg2m4
―国家儀礼と申せば、この間新(日)響へゆきましたら、たゞ戦歿勇士に祈念といへばよいものを、
ラウド・スピーカアが、やれ「聖戦完遂の前に一億一心の誓を示して」どうのこうのと御託宣をならべるので、
ヒヤリとしたところへ、「祈念」といふ号令、トタンにオーケストラが「海ゆかば」を演奏、―まるで
浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒涜も甚だしく、憤懣にたへませんでした。
国家儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、
本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく
是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年9月25日、徳川義恭への書簡より
78:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/09 15:32:37 QpYAg2m4
今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねば
ならぬことが沢山あります。
去年の戦果に、国外国内もうこれで大丈夫と皆が思つてゐた時、学校へ講演に来られた保田與重郎氏は、
これからが大事、これからが一番危険な時期だと云はれましたが、今にしてしみじみそれがわかります。
文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソハソハ、
鼠のやうにうろついてゐる時ではありません。この際、貴方下の御決心をうかゞひ、大へんうれしうございました。
たゞ、かういふ言葉の意味もお弁へ下さい。鹿子木博士の言葉、「今日大切なことは、億兆一心といふ事であり
総親和といふ事ではない。陛下が詔書の中でお示しあそばされてゐる億兆一心とは、億兆一心とは、億兆の者が
一つの心、国体の精神によつて一つになる事也」(ラウド・スピーカアのお題目も亦、億兆一心といふことばを
形式化し、冒涜するものでせう)。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年9月25日、徳川義恭への書簡より
79:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/09 15:42:50 QpYAg2m4
川端さんへは又いつかの機会に御一緒にまゐりませう。
あの眼だけでも見ていたゞきたいと思ひます。酷薄さと温情がいりまじつた鋭い眼、あそこに川端さんの文学の
象徴があります。川端さんといふと、芸だの感覚だの抒情だのといふ言葉しか知らない批評家に憤慨して、
川端康成ノートを作つてゐますが、二、三年たつたら書けると思ひます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年7月25日、徳川義恭への書簡より
80:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/14 11:40:56 9TNz+Mrp
>>67~>>79
こういうのは、本を見て入力?
それとも、データ在って、コピペ? どっちなんでしょ。
81:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/14 17:42:19 V01bCFHv
入力です。今回新たに加えたところもありますが、ほとんどは以前、他スレ過去スレで入力したもののコピペですが。
82:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/16 02:22:11 KTXl8eIB
>>81
レスどうも。
UPした他スレを、幾つかリンクしてもらえませんか。(もちろん気が向いたらで構いません)
83:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/16 10:17:53 ImCMHMhO
>>82
■■■■三島由紀夫の「檄」■■■■
スレリンク(jurisp板:114-120番)
三島由紀夫の社会学
スレリンク(sociology板:170-174番)
84:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/16 17:15:44 KTXl8eIB
ありがと。
85:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/22 13:15:46 ik85U6XO
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく
今、四海必ずしも波穏やかならねど
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦ひのみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をなりはひの糧となし
偽善の茶の間の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に、
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ
快楽もその実を失ひ
信義もその力を喪ひ、魂は悉く腐蝕せられ、
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
86:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/22 13:17:06 ik85U6XO
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し、
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
金を以てはからるる人の値打も、
金よりもはるかに卑しきものとなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰弱せる美学は天下を風靡し、
陋劣(ろうれつ)なる真実のみがもてはやされ、
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
87:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/22 13:17:56 ik85U6XO
人ら四畳半を改造して
そのせまき心情をキッチンに磨き込み
車は繁殖し、無意味なる速力は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
窓々は欲球不満の蛍光灯にかがやき渡り、
人々レジャーへといそぎのがるれど
その生活の快楽には病菌つのり
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り、
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に温存せられ
ほとばしる清き血潮はすでになし。
天翔(あまが)けるもの、不滅の大義はいづくにもなし。
不朽への日常の日々の
たえざる研磨も忘れられ、
人みな不朽を信ぜざることもぐらの如し。かかる日に、
―などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
88:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/22 13:22:25 ik85U6XO
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく。
かかる世に大君こそは唯御一人
人のつかさ、人の鑑(かがみ)にてましませり。
すでに敗戦の折軍将マッカーサーを、
その威丈高なる通常軍装の非礼をものともせず
訪れたまひしわが大君は、
よろづの責われにあり、われを罰せと
のたまひしなり。
この大御心(おほみこころ)、敵将を搏(う)ちその卑賤なる尊大を搏ち
洵(まこと)の高貴に触れし思ひは
さすがの傲岸をもまつろはせたり。
げに無力のきはみに於て人を高貴にて搏つ
その御けだかさはほめたたふべく、
わが大君は終始一貫、
暴力と威武とに屈したまはざりき。
和魂(にぎみたま)のきはみをおん身にそなへ
生物学の御研究にいそしまれ、
その御心は寛厚仁慈、
なべてを光被したまひしなり。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
89:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/22 13:24:13 ik85U6XO
民の前にお姿をあらはしたまふときも
いささかのつくろひなく、
いささかの覇者のいやしき装飾もなく
すべて無私淡々の御心にて
あまねく人の心に触れ、
戦ひのをはりしのちに、
にせものの平和主義者ばつこせる折も
陛下は真の人の亀鑑、
静かなる御生活を愛され、
怒りも激情にもおん身を委(ゆだ)ねず、
静穏のうちに威大にましまし
御不自由のうちに自由にましまし
世の範となりぬべき真の美しき人間を、
世の小さき凹凸に拘泥なく
終始一貫示したまひき。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
90:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/22 13:26:42 ik85U6XO
つねに陛下は自由と平和の友にましまし、
仁慈を垂れたまひ、諸人の愛敬を受けられ
もつとも下劣なる批判をも
春の雪の如くあはあはと融かしたまへり。
政治の中心ならず、経済の中心ならず、
文化の中心ならず、ただ人ごころの、
静止せる重心の如くおはし給へり。
かかる乱れし濁世(ぢよくせ)に陛下の
白菊の如き御人柄は、
まことに人間の鑑にして人間天皇の御名にそむきたまはず、
そこに真のうるはしき人間ありと感ぜらる。
されどこはすべて人の性(さが)の美なるもの、
人のきはみ、人の中の人、人の絶巓(ぜつてん)、
清き雪に包まれたる山頂なれど
なほ天には属したまはず。すべてこれ、
人の徳の最上なるものを身に具(そな)はせたまふ。
―などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
91:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 10:41:36 X1j9wX6u
かへりみれば陛下はかの
人間宣言をあそばせしとき、
はじめて人とならせたまひしに非ず。
悪しき世に生(あ)れましつつ、
陛下は人としておはしませり。
陛下の御徳は終始一貫、人の徳の頂きに立たせたまひしが、
なほ人としてこの悪しき世をすぐさせ給ひ、
人の中の人として振舞ひたまへり。
陛下の善き御意志、陛下の御仁慈は、
御治世においていつも疑ふべからず。
逆臣侫臣(ねいしん)囲りにつどひ、
陛下をお退(さが)らせ申せしともいふべからず。
大事の時、大事の場合に、
人として最良の決断を下したまひ、
信義を貫ぬき、暴を憎みたまひ
世にたぐひなき明天子としてましましたり。
これなくて、何故にかの戦ひは
かくも一瞬に平静に止まりしか。
されどあへて臣は奏す。
―などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
92:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 10:43:01 X1j9wX6u
陛下の大御代(おおみよ)はすでに二十年の平和、
明治以来かくも長き平和はあらず、
敗れてのちの栄えといへど、
近代日本にかほどの栄えはあらず。
されど陛下の大御代ほど
さはなる血が流されし御代もなかりしや。
その流血の記憶も癒え
民草の傷も癒えたる今、
臣今こそあへて奏すべき時と信ず。
かほどさはなる血の流されし
大御代もあらざりしと。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
93:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 10:44:49 X1j9wX6u
そは大八洲(おほやしま)のみにあらず
北溟(ほくめい)の果て南海の果て、
流されし若者の血は海を紅(くれな)ゐに染め
山脈を染め、大河を染め、平野を染め、
水漬(みづ)く屍は海をおほひ
草生(くさむ)す屍は原をおほへり。
血ぬられし死のまぎはに御名を呼びたる者
その霊は未だあらはれず。
いまだその霊は彼方此方(かなたこなた)に
むなしく見捨てられて鬼哭(きこく)をあぐ。
神なりし御代は血潮に充ち
人とまします御代は平和に充つ。
されば人となりませしこそ善き世といへど
―などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
94:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 10:48:20 X1j9wX6u
御代は血の色と、
安き心の淡き灰色とに、
鮮やかに二段に染め分けられたり。
今にして奏す、陛下が人間(ひと)にましまし、
人間として行ひたまひし時二度ありき、
そは昭和の歴史の転回点にて、
今もとに戻すすべもなけれど、
人間としてもつとも信実、
人間としてもつとも良識、
人間としてもつとも穏健、
自由と平和と人間性に則つて行ひたまひし
陛下の二くさの御行蔵あり。
(されどこの二度とも陛下は、
民草を見捨てたまへるなり)
一度はかの二、二六事件のとき、
青年将校ども蹶起(けつき)して
重臣を衂(ちぬ)りそののちひたすらに静まりて、
御聖旨御聖断を仰ぎしとき、
陛下ははじめよりこれを叛臣とみとめ
朕の股肱(ここう)の臣を衂りし者、
朕自ら馬を進めて討たんと仰せたまひき。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
95:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 10:50:54 X1j9wX6u
重臣は二三の者、民草は億とあり、
陛下はこの重臣らの深き忠誠と忠実を愛でたまひ
未だ顔も知らぬ若者どもの赤心のうしろに
ひろがり悩める民草のかげ、
かの暗澹たる広大な貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を見捨て玉へり。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまひしなり。
されど、陛下は賢者に囲まれ、
愚かなる者の血の叫びをききたまはず
自由と平和と人間性を重んぜられ、
その民草の血の叫びにこもる
神への呼びかけをききたまはず、
玉穂なすみづほの国の
荒れ果てし荒蕪(くわうぶ)の地より、
若き者、無名の者の肉身を貫きたりし
死の叫びをききたまはざりき。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
96:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 10:56:16 X1j9wX6u
かのとき、正に広大な御領の全てより、
死の顔は若々しく猛々(たけだけ)しき兵士の顔にて、
たぎり、あふれ、対面しまゐらせんとはかりしなり。
直接の対面、神への直面、神の理解、神の直観を待ちてあるに、
陛下は人の世界に住みたまへり。
かのときこそ日本の歴史において、
深き魂の底より出づるもの、
冥人の内よりうかみ出で、
明るき神に直面し、神人の対話をはかりし也。
死は遍満し、欺瞞をうちやぶり、
純潔と熱血のみ、若さのみ、青春のみをとほして
陛下に対晤(たいご)せんと求めたるなり。
されど陛下は賢き老人どもに囲まれてゐたまひし。
日本の古き歴史の底より、すさのをの尊(みこと)は
理解せられず、聖域に生皮を投げ込めど、
荒魂(あらみたま)は、大地の精の血の叫びを代表せり。
このもつとも醇乎たる荒魂より
陛下が面をそむけたまひしは
祭りを怠りたまひしに非ずや。
―などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
97:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 10:58:30 X1j9wX6u
二度は特攻隊の攻撃ののち、
原爆の投下ののち終戦となり、
又も、人間宣言によりて、
陛下は赤子を見捨てたまへり。
若きいのちは人のために散らしたるに非ず。
神風(かみかぜ)とその名を誇り、
神国のため神のため死したるを、
又も顔知らぬ若きもの共を見捨てたまひ、
その若きおびただしき血潮を徒(あだ)にしたまへり。
今、陛下、人間(ひと)と仰せらるれば、
神のために死にしものの御霊(みたま)はいかに?
その霊は忽(たちま)ち名を糾明せられ、
祭らるべき社もなく
神の御名は貶(へん)せられ、
ただ人のために死せることになれり。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
98:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 11:00:11 X1j9wX6u
人なりと仰せらるるとき、
神なりと思ひし者共の迷蒙はさむべけれど、
神と人とのダブル・イメーヂのために生き
死にたる者の魂はいかにならん。
このおびただしき霊たちのため
このさはなる若き血潮のため
陛下はいかなる強制ありとも、
人なりと仰せらるべからざりし也。
して、のち、陛下は神として
宮中賢所(かしこどころ)の奥深く、
日夜祭りにいつき、霊をいつき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りておはしませば、
いかほどか尊かりしならん、
―などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
99:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 11:01:39 X1j9wX6u
陛下は帽を振りて全国を遊行しし玉ひ、
これ今日の皇室の安寧のもととなり
身に寸鉄を帯びず思想の戦ひに勝ちたまひし、
陛下の御勇気はほめたたふべけれど、
もし祭服に玉体を包み夜昼おぼろげなる
皇祖皇宗御霊の前にぬかづき、
神のために死せる者らをいつきたまへば、
何ほどか尊かりしならん。
今再軍備の声高けれど、
人の軍、人の兵(つはもの)は用ふべからず。
神の軍、神の兵士こそやがて神なるに、
―などてすめろぎは人間(ひと)となり玉ひし。
三島由紀夫
「悪臣の歌」より
100:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/26 23:46:35 YZ41z8fB
古代の雪を愛でし
君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに
われ近代に遺されて空しく
靉靆の雪を慕ひ
その身は漠々たる
塵土に埋れんとす
三島由紀夫
昭和21年11月、蓮田善明への追悼の文
101:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/06 19:20:15 pJ+TXyZi
益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに
幾とせ耐へて 今日の初霜
散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて
散るこそ花と 吹く小夜嵐
三島由紀夫 辞世の句
今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の
思ひを知るは 野分のみかは
森田必勝 辞世の句
火と燃ゆる 大和心を はるかなる
大みこころの 見そなはすまで
小賀正義
雲をらび しら雪さやぐ 富士の根の
歌の心ぞ もののふの道
小川正洋
獅子となり 虎となりても 国のため
ますらをぶりも 神のまにまに
古賀浩靖
102:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/07 22:48:35 tHoOodgX
深き夜に暁告ぐるくたかけの若きを率てぞ越ゆる峯々 公威書
碑文
自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地、追悼碑
103:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:32:30 VBd6vHFm
大島正満博士の「修学院の秋」といふ文章を読んだことがありますか。
塩原太助の馬を舞台に観てふきだしたアメリカ少年が、秋たけなはの修学院を周遊して、ふと拾つた一葉の紅葉に、
日本の秋―日本の荘厳な美の真髄を悟るといふ美しい記録文で、今に忘れられません。
アメリカ人が六代目の鏡獅子を本当に味解しようとする努力、―と云ふより大国民としての余裕を持つてゐたら
戦争は起らなかつた。文化への不遜な態度こそ、戦争の諸でありませう。
日本の高邁な文化を冒涜する国民は必ず神の怒りにふれるのです。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年1月6日、三谷信への葉書より
104:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:32:57 VBd6vHFm
けふで丸五日間、丸つきり空襲がありません。不気味な不安。
そのなかにも駘蕩たる春の日は窓辺まで押しよせて来てゐます。(中略)
大学から、「肺浸潤でも何でもかまはんから出て来い」といつ呼出しがあるかわかりません。さうなつたら
さうなつた時のことです。
僕はこれから「悲劇に耐へる」というより、「悲劇を支へる」精神を錬磨してゆかなければ、と思ひます。
古代ギリシャ人にその範を仰がずとも、身近な巣林子の元禄時代は、我々に文芸復興が何であるかを、赤裸々に
教へてくれます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年3月3日、三谷信への葉書より
105:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:33:31 VBd6vHFm
佐藤春夫氏が近く疎開されるので、林さんと、大垣といふ陸軍曹長の詩人と、伊東静雄のお弟子の庄野といふ
海軍少尉と僕と四人でウィスキーを携へてお別れに行きました。
僕は短冊に佐藤氏の殉情詩集のなかにある詩「きぬぎぬ」の一節
「みかへりてつくしをみなのいひけるはあづまをとこのうすなさけかな」
といふのを書いていたゞき、嬉しうございました。僕は自分でその日の先生を、
「春衣やゝくつろげて師も酔ひませる」「澪ごとに載せゆく花のわかれ哉」
とうたひました。本当に美しい晩でした。佐藤春夫氏はたしかに第一流の文豪であると思ひます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月7日、三谷信への葉書より
106:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:33:56 VBd6vHFm
ルーズベルトが死にましたね、日本時間の十三日の金曜日に。新聞は良き敵将を失つて哀悼の意を表す、といふ
態度に出てゐて、結構だと思ひます。阿南大将が二年程前、アメリカの国旗をふみにじつて行進する日本軍を
写した劇映画をみて、「これでは国が危い。徳義の戦ひをやつてゐるのを忘れたのか」と嘆かれたさうですが、
この挿話をきいて、頗る阿南大将を尊敬しはじめました。軍人でかういふ立派な見識をもつてゐられることは
実にありがたいことです。
今は亡き帝大国家主義憲法学の泰斗上杉慎吉博士が大正十三年に著はした「日米衝突の必至と国民の覚悟」なる
警世の大文章をよみ、その史眼の卓越、見識の高邁に深く搏たれました。(中略)
―今日偶然地下鉄新橋駅で稲田さん(今海軍中尉です)にあひました。沖縄で、特攻隊と共に敵艦へ
肉迫したのださうです。「くはしく話して下さい」と云つたら「いやだ、ネタにされるから」とにげられました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月14日、三谷信への葉書より
107:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:34:23 VBd6vHFm
君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、
僕が地固めをしておく心算です。僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅―
すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、
カントの、エヂソンの、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは
一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。
「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、
今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な嫡子になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。
日本の全文化層、世界の全文化人が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、
神話の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月21日、三谷信への葉書より
108:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:38:04 VBd6vHFm
御葉書拝見。何はあれ、このやうな大変に際会して、しかも君とそれについて手紙のやりとりの出来るやうな
事態を、誰が予想し得たでせう。想像するだに、時代の異常さに想ひ到らずにはゐられません。かゝる事態は、
その型式や態様の如何はしばらく措き、夙に想像し得たところでした。今は何も語りたくありません。
これから勉強もし、文学もコツコツ落着いてやつて行きたいと思ひます。自分一個のうちにだけでも、最大の
美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけに及ばず乍ら全力をつくして
貢献したいと思ひます。(中略)
すべては時代が、我々を我々の当面の責務に追ひやります。僕は少なくとも僕の廿代を、文化的再建の努力に
捧げたいと思つています。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月22日、三谷信への書簡より
109:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:38:27 VBd6vHFm
君のゐる戦後の軽井沢が見せた変化よりも、ずつと激しい変化が東京の街にあります。
一寸用があつて尾張町へ出ましたら、その人通りの激しさは戦前と少しも変りません。と云つても日本人が
物を買へるやうな店はたゞ一軒もないのです。進駐軍人気といふか、たゞもう妙な人気で、カーキ色やモンペ姿の
貧弱な汚ない日本人が右往左往してゐるのです。(中略)
―東京が「世界の大東京」だとか、何とか云つて大見得を切つてゐた時はいつしか、それが汚いアバタの
地図になつて了つたのと同様、乙にすまして馴れない絹靴下にハイヒールを穿いたり、頭をテカテカ光らせて
レディ・メードの背広で夜毎に押し出した連中の化けの皮が見事にはげ、女は自堕落なうす汚いモンペ姿、
男は工員がへりらしいカーキ色の菜葉服姿で、彼等の痴鈍、醜悪、無智の本性を惜しげもなく、いやむしろ
快よげに、発揮してゐるのです。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
110:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:38:51 VBd6vHFm
進駐軍からの煙草漁りに眉をひそめて「日本人も堕落した」と慨嘆する人がありますが、これは些か見当外れな嘆息で、
現在の彼等の醜状は、彼等に何ものをもプラスせぬと共に、何ものをも彼等からマイナスしません。日本人は
何といふ下劣な卑賤な、しかし愛すべき国民でせうね!
僕は総じてこの妖精のやうな刻々変様する東京に甚だ愛着を感じてゐます。これは僕がたゞ東京で生れたから
といふだけではありますまい。祖母の先祖は旗本で江戸に永くをりましたから、亡くなつた祖母からきいた、
江戸―東京、明治―大正の東京の移りかはり、(おそらく祖母が生きてゐた頃は、東京はこれで一応完成して少くとも
二、三十年は目に立つ変化もないと思はれたのでしたが)それに加へて、僕がこの短い二十年に経験して来た
東京の変転、それが定めなく、うつろひやすいものであると思へば思ふほど、僕は東京を愛するやうになります。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
111:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:39:29 VBd6vHFm
東京を愛する人は、あるひは知つてか知らずか、その流転の美しさを愛するのではないでせうか。
歴史と時には不変と変様の二態があり、不変は変様によつてその刻々の意味を与へられ、変様は不変に基礎づけられて
はじめて変様たり得ます。日本で云へば、東京と田園、それが変様と不変でせう。
僕のやうな「せつかち」は、山野の不変を歌ふ余裕と胸懐に乏しく、ここにゐて終始変様に向ひ、それに耐へ、
この変様を、歌ひ疲れるほど歌つてゐる外はありません。我々の目は変様のかゞやきをとらへた。流れる目こそ
流されない目であり、変様に遊ぶ目こそ不変の目です。僕はこのやうに自負して自ら慰めてゐます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
112:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 16:59:56 gzH3sIXY
たゞいま午後七時半、マダガスカルとシドニイへの特殊潜航艇の攻撃のニュースをきゝをはりこのお葉書を書いて
をります。なんだか胸になにか閊(つか)へたやうで迚(とて)も並大抵のことばでお話できさうにもございません。
御稜威(みいつ)のありがたさに涙があふれおちるばかりでございます。同時に晴朗な気分は抑へがたく、
南方のまつ青な穹(そら)いつぱいに八百万神の咲(わら)ひ声をきくおもひがいたします。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年6月5日、清水文雄への葉書より
113:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:01:29 gzH3sIXY
この間の三里塚の行軍では「月かたぶきぬ」の情景を季節こそちがへ、目のあたりはじめて味はひました。正しく
土佐絵にゑがかれた大胆な霞のあちらに松林の、つらなる松かげはそのかなたから虹のやうな曙を、靉靆(あいたい)と
たなびかしてまゐる向ひの空には、月がしづかな煌めきをみせていまにもひらひらとおちてきさうでございました。
日本画はなにひとつ嘘はつかなかつたのでございます。そのゑがかれる絵具にひとつとして日本の土におひいでぬものが
ないやうに日本の風光を画絹にとゞめようといふ切ない意欲がかうまでたしかさをもつてゐるとは、私はいままで
心附きませんでした。写実を旨とする油絵も、いくら写実の枠をつくしたところで掴めないこの風土の秘密に狐に
つままれたやうな思ひがいたすでせう。この三日の式のあと、明治神宮に詣でてやはりそれを感じました。
畏(かしこ)くも御神殿のおんありさまは申すまでもなく、なんでもない風景、紅白の幕が万緑の松のあひだに
張りめぐらされた景色でさへ、そのあでやかさは桃山時代の屏風のやうでございましたが、そのなかゝら歌謡曲が
ちらときこえてきたのにはおそれいりました。浪花ぶしでないからよいやうなものゝ。
平岡公房(三島由紀夫)
昭和17年11月5日、清水文雄への書簡より
114:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:01:59 gzH3sIXY
この間徳川さんと志賀直哉氏の御宅にうかゞひ、意外なサッパリしたよい方で、御作の印象と比べふしぎの
感さへいたしました。
志賀氏はなにしろ大物にて、我々としても摂るべきところも多くあり、決して摂つてはならぬ所も多々あり、
こちらの気持がしつかりしてゐれバ、決して単なるわがまゝな白樺式自由主義者ではいらつしやらぬことを思ひました。
今の世の隠者の一模範とさへ思はれますが、仰言ることは半ばは耳傾けてうかゞつて頗る有益なことであり、
半ばは、我らの学ぶべき考へ方ではないといふことでございました。
平岡公房(三島由紀夫)
昭和18年7月29日、清水文雄への書簡より
115:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:05:03 gzH3sIXY
東京へ出ました序でに学習院へ立寄り、はじめて焼跡を見てたゞならぬ感慨がごさいました。萌え立つ緑のなかに
赤煉瓦の礎石のみ鮮やかに残つて、近眼の目には、遠くの緑の光にまばゆく立ち働らいてゐる人々が懐しい
後輩たちかと映り、近寄つてみると、それが見知らぬ兵隊たちであつた寂しさ。(中略)
中等科の校舎の中には、見知らぬ人々が往来し、事務室もザワザワして、昔のやうに温かく私を迎へては
くれぬやうに思はれました。「ふるさとは蠅まで人を刺しにけり」それほどでもありませんが、無暗に腹が立つて、
何ものへともしれず憤りを抱きながら門を出ました。
ふしぎな私の冷酷。昔、共に学んだ友人たちには、具体的に逢つてどうといふ感激もないのに、たゞ会はずにゐると
漠たる悲しみと孤独の感じに苛まれるのを如何ともなす術がございません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
116:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:05:33 gzH3sIXY
そしてそれは却つてなまじひに顔見知りでない後輩たちを、電車のなかに見出す場合、懐しさに胸がドキドキして、
用もないのに話しかけたくなり、しかも我ながら馬鹿らしい含羞で、話しかけることもできずにじつと見つめて
ゐるやうな時、私のなかに私の少年時代が俄かに蘇るやうな気がします。こんな初々しい清らかな興奮をどんなに
長い間忘れてゐたことでせう。新宿駅で私は汚ない作業服とキャハンを穿いた後輩を発見しました。彼は私が
彼の先輩であることもしらず、私を不思議さうに見てゐましたが、その目は学習院の学生によくある澄んだ、
のんびりした目付で、口は少しポカンと開いてゐました。私は所用で大塚まで行くので、車内で、目白駅に下りた
その小後輩を見送つたわけですが、彼は、そこで我勝ちに下りた乗客たちとは似てもつかない、実にオットリした、
少したよりない、少し眠さうな歩き方で、階段の方へゆつくり歩いて行きました。何故かそれを見ると、私は
ふと涙がこぼれさうになりました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
117:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:05:59 gzH3sIXY
ああした人種、ああした歩き方、あれがいつまでこの世に存続して行けるであらうか。私たちもその一員であつた、
閑雅なあまり頭のよくない、努力を知らない、明るい、呑気な、どこともしれず、生活からにじみ出た気品の
そなはつた学習院の学生たち、あの制服、あの挙止、そしてあの歩き方、そのすべてが象徴してゐたある美しいもの、
それ自身頽落を予感されてゐたもの(私の十数年の学習院生活はその予感のなかにのみ過ごされました。)が、
今や鶯色の汚れた作業服を刑罰のやうに着せられ、靴は埃にまみれ、トボトボと不安気に歩いてゆくのを見て、
私が目頭を熱くしたのも道理でございます。帰途学習院へ寄つてみて、あの焼跡を見、後輩たちをみて、
相似た感慨に搏たれました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
118:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:06:20 gzH3sIXY
(中略)かうした終末感を私は、徒らな感傷や、信念の不足からして感ずるのではございません。ある漠たる直感、
夢想そのもののなかに胚胎する覚醒の危険、凡て夢見るが故に覚めねばならない運命を感ずるのでございます。
現実に立脚した精神がわれわれの夢想の精神より更に弱体なものとみえる今日、われわれの夢想も亦凋落の決心を
必要とします。昼を咲きつづける昼顔の仄かな花弁は、昼の烈しい光のために日々に荒され傷つけられます。
何ものも神の夢想に耐へるほど強靭であることは出来ません。
しかし人の夢想の極限に耐へえた人は、その烈しさ極まる目覚めの失墜にも耐へうるであらうと思ひます。
ただ朝をのみ時めいた朝顔とはちがって、あの長い烈しい昼間をよく耐へた昼顔の夢想は、その後に来る長い
夜の烈しさにも耐へるでありませう。私共は今日ほど私共の生の強さと死の強さを感じることはございません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
119:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:06:45 gzH3sIXY
私共は遺書を書くといふやうな簡単な心境ではなく、私たちの文学の力が、現在の刻々に、(たとへそれが
喪失の意味にせよ)、ある強烈な意味を与へつづけることを信じて仕事をしてまゐりたいと思ひます。
その意味が刻みつけられた私共の時間は、永遠に去つてかへりませんが、地上に建てた摩天の記念碑よりも、
海底に深く沈めた一枚の碑の方が、何千万年後の人々の目には触れやすいものであることを信じます。
私共が一度持つた時間に与へた文学の意味が、それが過去に組入れられた瞬間から、絶対不可侵の不滅性を
もつものであると思はれます。
項日(けいじつ)、生じつかな名声は邪魔であるが、真の名声はますます必要であることを感じて来ました。
文学作品を本文とするなら、名声はその註釈、脚註に相当します。本文が死語に化した場合、この難解な
ロゼッタ・ストーンを解読しうるものは、たえず更新される註釈のみでございませう。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
120:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:09:38 gzH3sIXY
あれより二週間病床に臥り、つい御返事がおくれしままにかくの如き事態となりました。
玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられたる使命なることを確信しました。
気高く、美しく、優美に生き且つ書くことこそ神意であります。ただ黙して行ずるのみ。
今後の重且つ大なる時代のため、御奮闘切に祈上げます。
たわやめぶりを みがきにみがかむ
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月16日、清水文雄への葉書より
121:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:09:59 gzH3sIXY
大神々社への参籠は八月下旬と決め、その後、広島へ一寸伺ひ、そのあと、汽車で、(飛行機はイヤなので)、
熊本八代へゆき、神風連のことをしらべたい、などと、夏のをはりの旅をいろいろと計画してをります。いづれ、
間近になつて旅程がはつきりいたしましたら、御連絡申上げます。
「英霊の声」は文壇では冷たいあしらひで、かれらの右顧左眄(うこさべん)ぶりがよく見えます。
天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。
それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます。
三島由紀夫
昭和41年6月10日、清水文雄への書簡より
122:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:10:27 gzH3sIXY
「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。
小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、
かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあとで、
一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、
一ト並べされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。
それはさうと、昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、
と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失ったら
二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
123:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:10:48 gzH3sIXY
戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。良人といふ権威に去られ、よるべなく
身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。下品な比喩ですが、彼女はまだ若かつたから、日本の男が誰か一人立上れば、
彼女をもう一度女にしてやることができたのでした。しかし、口さきばかり巧い、彼女の財産を狙ふ男ばかり
周囲にあらはれ、つひに誰一人、彼女を再び女にしてやる男が現はれることなく、彼女は年を取つてゆきます。
彼女が老いてゆく、衰へてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。
このごろ外人に会ふたびに、すぐ「日本はどうなつて行くのだ?日本はなくなつてしまふではないか」と心配さうに
訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。「これでいいぢゃないか、結構ぢゃないか、
角を立てずに、まあまあ」さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
124:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/12 17:11:08 gzH3sIXY
スウェーデンはロシアに敗れて百五十年、つひに国民精神を回復することなく、いやらしい、富んだ、
文化的創造力の皆無な、偽善の国になりました。
この間もベトナム残虐行為査問会(ストックホルム)で、繃帯をした汚ないベトナム農民が証言台に立ち、
犬をつれた、いい洋服の中年のスウェーデン人たちがこれを傾聴してゐるのに、違和感を感じる、と書いてゐる人が
ゐましたが、日本が歩みつつある道は、正に、「犬を連れた、いい洋服の中年男で、外国の反戦運動に手を貸す
『良心的』な男」の道です。
どの社会分野にも、責任観念の旺盛な日本人はなくなり、デレッとし、ダラッとしてゐます。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
125:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/15 17:11:01 WhCvIeiG
遺言 平岡公威(私の本名)
一、御父上様
御母上様
恩師清水先生ハジメ
學習院並ニ東京帝國大學
在學中薫陶ヲ受ケタル
諸先生方ノ
御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ
友情マタ忘ジ難キモノ有リ
諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ル
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
御父上、御母上ニ孝養ヲ尽シ
殊ニ千之ハ兄ニ続キ一日モ早ク
皇軍ノ貔貅(ヒキユウ)トナリ
皇恩ノ万一ニ報ゼヨ
天皇陛下萬歳
三島由紀夫
「私の遺書」より
126:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/22 23:45:14 9XGBHIYR
学習院高等科(旧制高校)は文科乙類(ドイツ語)で、卒業の時は文科の首席だつた。(中略)
首席の賞品として、精工舎製銀メッキ懐中時計を宮内省から頂いた。裏に「御賜」と彫つてある。
又来賓のドイツ大使から乙類の僕に原書の小説を三冊、ナチのハーケン・クロイツが入つてるのをもらつた。
この後で宮中に御礼言上に、当時の院長山梨勝之進海軍大将と共に参内した。霞町の華族会館で謝恩会があり、
これで学習院の卒業行事が終つた。
三島由紀夫
「学習院の卒業式」より
127:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/23 14:22:35 tpb6+WRv
板違いにつき誘導します。
ガチホモ
URLリンク(schiphol.2ch.net)
128:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/24 20:17:11 8Tgba502
>>126
徴兵は何だかんだでお逃れあそばしましたのですよね?
129:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/24 22:05:23 txbPg+An
僕は今この時代に大見得切つて、「共産党に兜を脱がせるだけのものを持て」などゝ無理な注文は出しません。
時勢の流れの一面は明らかに彼らに利があり、彼等はそのドグマを改める由もないからです。しかし我々の任務は
共産党を「怖がらせる」に足るものを持つことです。彼等に地団太ふませ、口角泡を飛ばさせ、
「反動的だ!貴族的だ!」と怒号させ、しかもその興奮によつて彼等自らの低さを露呈させることです。
正面切つて彼等の敵たる強さと矜持を持つことです。ひるまないことです。逃げないことです。怖れないことです。
そして彼等に心底から「怖い」と思はせることです。
(中略)貴族主義といふ言葉から説明してかゝらねばなりません。
学習院の人々に貴族主義を云ふとすこぶる誤解されやすく、それはともすれば今までの学習院をそのまゝそつくり
是認する独善主義の別語とされる惧れなしとしません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
130:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/24 22:05:43 txbPg+An
(中略)
明治以来、「華族」とは政治的特権を背景にもつた政治的な名称であり、文化的意義は頗る稀薄にしかもつて
をりません。新華族が簇生(そうせい)した所以です。―貴族主義とはプロレタリア文化に対抗すると同じ
強さを以てブルジョア文化(アメリカニズム)に対抗するといふことを知つていたゞきたい。この意味で
政治的意味の貴族主義は無意味です。なぜなら世界史の趨勢はアリストクラシイの再来を絶対に希みえず、
現今までわづかに残された政治的特権も過去の特権の余映にすぎぬといふ理由が第一、もう一つは、ブルジョア文化が
今では貴族社会一般を風靡し、単に華族を集めてみても貴族主義は達成されぬといふ理由が第二です。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
131:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/24 22:06:04 txbPg+An
―それでは文化的貴族主義とは何でせうか。それは歴史的意味と精神的意味と二つをもつてゐます。
…後者はあらゆる時代に超然とし、凡俗の政治に関らず、醇乎たる美を守るといふエリートの意識です。
(これは芸術からいふので、倫理的には道徳を守るエリートたりともある人はいふでせう)
…しかもその効果は美的標準に於て最高のものであらねばならぬ点で明らかに貴族主義的です。向上の意識、
「上部構造」の意識、フリードリヒ・ニイチェが貴族主義とよばれる所以です。
第二に、唯美主義は本質的に反時代性をもつといふ点で貴族的です。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日付、神崎陽への書簡より
132:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/24 22:06:23 txbPg+An
われらの外部を規制する凡ゆる社会的政治的経済的条件がたとへ最高最善理想的なものに達したとしても、
絶対的なる「美」からみればあくまでも相対的なものであり、相対的なものが絶対的なものを規制しようとする時、
それは必ず悪い効果を生じます。いかによき政治が美を擁護するにしろ、必ずその政治の中の他の因子が美を
傷つけることは、当然のことで仕方ないことです。したがってあらゆる時代に於て美を守る意識は反時代性をもち、
極派からはいつでも反動的と思はれます。すなはち、彼らのいはゆる反動的なるがゆゑに貴族主義的です。
―「中庸」といふ志那クラシックのいかにも睡つたやうなこの言葉がやうやう僕には激しい激越な意味を以て
思ひかへされて来ました。中庸を守るとは洞ヶ峠のことではありません。いはゆる微温的態度のことではありません。
元気のない聖人気取ではありません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
133:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/24 22:06:50 txbPg+An
「中庸」の思想こそ真に青年の血を湧かせる思想なのです。それは荊棘の道です。苦難と迫害の道です。
漢籍に長ずるときく山梨院長が、戦時中の輔仁会で翻訳劇を上演しようとした僕の意図を抹殺し、戦争終るや
「モンテ・カルロの乾盃」を手もなく容認するやうな態度を、人々はいはゆる「中庸」の道だと思つてゐます。
これは思はざるの甚だしきものです。これこそいはゆる論語よみの論語知らずです。
右顧左顧して世間の機嫌をうかゞひもつとも「穏当な」道を選ぶといふ思想こそ、孔子が中庸といふ言葉で
あらはしたものと全く反対の思想です。
中庸といふこと、守るといふこと、これこそ真の長い苦しい勇気の要る道です。
このやうな時代に、美を守ることの勇気、過去の日本精神の枠、東洋文化の本質を保守するに要する勇気、
これこそ真の男らしい勇気といはねばなりません。
学習院は反動的といふ攻撃の矢面に立ち、真の美、真の文化を叫びつゞけねばなりません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
134:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/24 22:08:17 txbPg+An
(中略)
君は大東亜戦争を何と考へてゐられますか。
僕らはあの戦争の中で育ち、その意味であの戦争を僕らは生涯(いや子孫代々)否定することはできません。
あの戦争が間違ひだつたのどうのといふことでなしに、人間の成長と形成の「過程」として否定したくもできない
一個の内面的事実なのです。我々が以て恥とすべきは戦争に協力したとか、戦争目的に盲目であつたとか、
為政者にだまされたといふことよりも、あの戦争から「我々が何も得て来なかつた」といふことではないでせうか。
何らわれらにプラスするものを得てこなかつたといふ痛切な恥ではないでせうか。この点は僕も省みて面を
赤くせぬわけにはゆきません。
しかし今日の輔仁会、といふよりはその背後にある昨今の学習院学生の気風にこれに対する反省がみられるでせうか。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
135:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/31 15:15:52 jQfUkJTa
非小説家の文壇への御戦に、私はいつも胸のすくものを感じてをります。そしてこれほど健康な「自明の理」が
今更力説されねばならぬ日本文壇の頽廃を併せ考へます。貴下の御説がユニークなものであるといふ一事ほど、
日本文学の悲しむべき現状を象徴してゐるものがございませうか。大前提が欠けて小前提ばかり発達してゐる
哀れな国状です。大前提を言ひ出す人は白眼で見られるのです。小前提ばかりバカの一つおぼえでくりかへして
ゐれば身の安全が保てるのです。(中略)
実に美を罵倒し、日本の伝統をののしり、舌を犬のやうにふるはせる芸当を心得、「歯ぎしり」といふ奴を
ハミングの代りに用ひ、それはそれは賑やかで、しかもしんみりした、何が何だかわからない、西洋料理と
中華料理をまぜこぜにしたやうな西欧人文主義的・レアリズム的・サルトル的・ドストエフスキー的・万能薬
ヒューマニズム宣伝的、あやしげなものであります。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
136:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/31 15:17:01 jQfUkJTa
(中略)今日「群像」十一月号が届き、高見、中島、豊島氏が僕を寄つてたかつてやつつけてゐる大人げない
継子いぢめの光景を見(この速記はもつと猛烈だつたさうですが)、鬱勃たる闘志を湧かせました。(中略)
「生きるために必要な、といふギリギリのところで已(や)むに已まれず生み出される文学」とは何でせうか。
今までの日本の告白小説家のやうな泣きっ面を、―男子としてあるまじき泣きっ面を―小説のなかで存分に
演じてみせることが、即ち「生きるための文学」であるといふ、さういふ滑稽なプリミティーブな考へ方に
僕は耐へられません。僕にはわづかながら遠いサムラヒの血が、それも剛直な水戸ッ子の血が流れてゐます。
僕の文学は、腹を狼に喰ひ裂かれながら声一つあげなかつたといふスパルタの少年に倣ひたいのです。その
少年の莞爾(くわんじ)とした微笑に似た長閑(のどか)な閑文学(とみえるもの)に僕は生命を賭けます。
僕は「狼来(きた)りぬ」といふあの臆病な子供になりたくありません。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
137:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/31 15:18:12 jQfUkJTa
もつとよい比喩がここにございます。我子の死に会つて数分後に舞台へかけつけなければならなかつた喜劇俳優が、
その時示した絶妙の技、さういふものにこそ僕は憧れるのです。(文学を芝居にたとへるなんて、旧文壇の人に
とつてはおそらく冒涜的な言動でせうが、文学といふものに対する自堕落な信念はそろそろ清算してよい時では
ないでせうか。僕は最後のところ、いつもギリシャ悲劇を考へます。作者が一言の思想の表白もさし控へた
純粋な技術と形式の精神がそこにあります。ギリシャ的単純さが最後の目標です。勿論これは志賀直哉氏の
単純さとは全く別個のものです)。
話をあとに戻りまして、ではその時、その喜劇俳優にとつて、喜劇といふ芸術は何ものでせうか。
逃避でせうか。自嘲でせうか。僕には彼の悲しみの唯一無二の表現形式として喜劇があるのだと考へられます。
彼は悲しみを決して涙としてあらはしてはならなかつたのです。それを笑ひとして示さねばならなかつたのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
138:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/31 15:19:03 jQfUkJTa
文学における永遠不朽な「情痴」の主題、僕はそれをこの「笑ひ」だと考へます。「戯作」と云つても同じこと
でございませう。もちろん僕としてもヒューマン・ドキュメントを書きうるゲエテ的作家の幸福を考へます。
しかしメリメのやうな「自己を語らない作家」の最も不幸な幸福をも考へます。作品の世界に凡(あら)ゆる
「日曜日」を託けて、永遠にウィークデイの累積をしか持たなかつた作家のおそるべき幸福を考へます。それを
高見順氏などは、ウヰークデイの匂ひのしない文学はディレッタンティズムだと仰言るのです。
日曜日は僕にとつて逃避の場所ではありません。そこにこそ僕は生涯を賭け、ギリギリ決着の「生活」を賭けて
ゐるのです。それこそ僕の唯一無二の喜劇の舞台なのです。僕はそこを掃除し、つやぶきんをかけ、花を飾り、
恋人を迎へ、おしやべりをし、……といふ比喩は甚だ皮相的ですが、その日曜日に、僕は自分の悪と不徳と
非情と侮蔑と残忍と犯罪とのあらゆる装ひを期待するのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
139:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/31 15:20:00 jQfUkJTa
あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません。
僕はかうして、僕の生にとつて必然的であつた作品からそのあらゆる窮屈な必然性をぬがせてやつて、
くつろがせてやるのです。僕は作家の歯ギシリなどといふものを書斎の外へ洩らすことを好みません。僕の
作品はそれでも尚、僕の本質的な生活だと思はれるのですが……
尤もこんなことは口で言つてもはじまらないことでございます。作品で証明する他はありません。
しかし僕は決してひるみません。負けません。書き続けて、御期待にそむかぬ人間になることをお誓ひします。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
140:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/08 12:46:50 t9V+HuP+
私はそもそも天に属するのか?
さうでなければ何故天は
かくも絶えざる青の注視を私へ投げ
私をいざなひ心もそらに
もつと高くもつと高く
人間的なものよりもはるか高みへ
たえず私をおびき寄せる?
均衡は厳密に考究され
飛翔は合理的に計算され
何一つ狂ほしいものはない筈なのに
何故かくも昇天の欲望は
それ自体が狂気に似てゐるのか?
私を満ち足らはせるものは何一つなく
地上のいかなる新も忽ち倦(あ)かれ
より高くより高くより不安定に
より太陽の光輝に近くおびき寄せられ
何故その理性の光源は私を灼き
何故その理性の光源は私を滅ぼす?
三島由紀夫「イカロス」より
141:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/08 12:50:19 t9V+HuP+
眼下はるか村落や川の迂回は
近くにあるよりもずつと耐へやすく
かくも遠くからならば
人間的なものを愛することもできようと
何故それは弁疏(べんそ)し是認し誘惑したのか?
その愛が目的であつた筈もないのに?
もしさうならば私が
そもそも天に属する筈もない道理なのに?
鳥の自由はかつてねがはず
自然の安逸はかつて思はず
ただ上昇と接近への
不可解な胸苦しさにのみ駆られて来て
空の青のなかに身をひたすのが
有機的な喜びにかくも反し
優越のたのしみからもかくも遠いのに
もつと高くもつと高く
翼の蝋の眩暈と灼熱におもねつたのか?
三島由紀夫「イカロス」より
142:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/08 12:54:24 t9V+HuP+
されば そもそも私は地に属するのか?
さうでなければ何故地は
かくも急速に私の下降を促し
思考も感情もその暇を与へられず
何故かくもあの柔らかなものうい地は
鉄板の一打で私に応へたのか?
私の柔らかさを思ひ知らせるためにのみ
柔らかな大地は鉄と化したのか?
堕落は飛翔よりもはるかに自然で
あの不可解な情熱よりもはるかに自然だと
自然が私に思ひ知らせるために?
空の青は一つの仮想であり
すべてははじめから翼の蝋の
つかのまの灼熱の陶酔のために
私の属する地が仕組み
かつは天がひそかにその企図を助け
私に懲罰を下したのか?
私が私といふものを信ぜず
あるひは私が私といふものを信じすぎ
自分が何に属するかを性急に知りたがり
あるひはすべてを知つたと傲(おご)り
未知へ
あるひは既知へ
いづれも一点の青い表象へ
私が飛び翔たうとした罪の懲罰に?
三島由紀夫「イカロス」より
143:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/18 23:18:37 40xRJ5n8
○偉大な伝統的国家には二つの道しかない。異常な軟弱か異常な尚武か。
それ自身健康無礙(むげ)なる状態は存しない。伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。
○承詔必謹とは深刻なる反省の命令である。戦争熱旺(さか)んなりし国民が一朝にして
平和熱へと転換する為に、自己革命からの身軽な逃避が、この神聖な言葉で言訳されてはならない。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
144:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/18 23:19:19 40xRJ5n8
○デモクラシイの一語に心盲ひて、政治家達ははや民衆への阿諛(あゆ)と迎合とに急がしい。
併し真の戦争責任は民衆とその愚昧とにある。源氏物語がその背後にある夥しい蒙昧の民の
群衆に存立の礎をもつやうに、我々の時代の文学もこの伝統的愚民にその大部分を負ふ。
啓蒙以前が文学の故郷である。これら民衆の啓蒙は日本から偉大な古典的文学の創造力を
奪ふにのみ役立つであらう。―しかしさういふことはありえない。私は安心してゐる。
政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆をおそれてゐる。
この畏怖に我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来デモクラチックである。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
145:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/18 23:19:49 40xRJ5n8
○日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。
○ナチスもデモクラシイも国の伝統的感情の一斑と調和するところあるために取入れられ
又取入れられ得たのであると思ふ。これを超えて、強制的に妥当せしめらるゝ時、
ナチスが禍(わざはひ)ありし如く、デモクラシイも禍あるものとなるであらうと思ふ。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
146:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/18 23:20:23 40xRJ5n8
○偏見はなるたけない方がよい。しかしある種の偏見は大へん魅力的なものである。
○芸術家の資質は蝋燭に似てゐる。彼は燃焼によつて自己自身を透明な液体に変容せしめる。
しかしその融けたる蝋が人の住む空気の中に落ちてくると、それは多種多様な形をして
再び蝋として凝化し固形化する。これが詩人の作品である。
即ち詩人の作品は詩人の身を削つて成つたものであり、又その構成分子は詩人の身に等しい。
それは詩人の分身である。しかしながら燃焼によつて変容せしめられたが故に、それは
地上的なる形態を超えて存在する。しかも地上的なる空気によつて冷やされ固められ乍ら。
○人生は夢なれば、妄想はいよいよ美し。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
147:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/18 23:26:35 40xRJ5n8
○退屈至極であつた学習院の学友諸君よ。
諸君らに熱情ある友情の共感をもちつゞけることができるほど、僕は健康な人間ではなかつた。
君らがジャズを愛好するのもまだしも我慢できた。君らが一寸も本を読むといふことを
しらないで、殆ど気高くみえるほど無智なことにも我慢できた。
だが僕には我慢ならなかつた。君らと会ふたびに、暗黙の内に強いられたあの馬鹿話の義務を。
つまり君たちが、おそろしく、さうだ慶応年間生れの老人よりも、もつとおそろしく
退屈であつたことを。―戦争が僕と君らを離れるやうに強いた。今では、昔より、僕は
君らを愛することができるだらう。尤も君らが僕の目の前にゐないことを前提としてだ。
―なつかしい「描かれる」一族よ。君たちは君たちの怠惰と、無智と、無批判の故に、
描かれるべく相応に美しくなつてゐる筈だ。僕には「桜の園」の作者となる義務があるだらう。
(君らがゑがかれるために申分なく美しくなつた時代に)
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
148:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/18 23:27:10 40xRJ5n8
○流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。
わたしはかゞやく変様の一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして
永遠にわたしに寄添うてあれ。
○神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは注目すべき事実だ。
○どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。
それを書いた瞬間に、すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝警笛や
荷車や鈴や軋(きし)りやあらゆる騒音が活々とゆすぶれだし、約束のやうに辷(すべ)り出す、
さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや恵まれずとも怨まない。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
149:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 11:15:14 86nt7uFZ
「端午の節句」
四月の始から、もう端午の節句のセット等を、デパァトは店頭に飾り出す。四月の半ばになると、電車の窓から
見えるごみごみした町にも、幾つもの鯉のぼりが立てられる。腹をふくらまし尾を上げて、緋鯉ま鯉は
心ゆくまで呼吸する。彼等は町の芥を吸ひ取り、五月の蒼空を呼んで居るかの如くである。
かうして五月が来るのだ。
私の家も例年の様に五月人形を床の間に飾つた。いかめしい甲は最上段にふんぞり返つて、金色の鍬形を
電気に反射させてゐる。よろひも今日は嬉しさうだ。今にも、あの黒いお面の後から、白い顔がのぞき側にある
太刀を取つて……然し、よろひは矢張りよろひびつの上に腰掛けてゐる。松火台の火は桃太郎のお弁当箱を
のぞいて見たり、花咲爺さんのざるの中を眺めたり、体をくねらして、大変な騒ぎである。
平岡公威(三島由紀夫)
12歳の作文
150:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 11:16:07 86nt7uFZ
「端午の節句」
神武天皇の御顔は、らふそくの光が深い陰影を作り非常に神々しく見える。
金太郎は去年と同じく、熊と角力を取り乍ら、函から出て来た。よく疲れないものだ。お前がこはれる迄
さうして居なければいけないのだ。
さうして、人形は飾られた。白馬は五月の雲。
そして紫の布、それは五月の微風だ。
白い素焼のへい子(し)。
その中には五月の酒が満たされてゐる。
五月が来た!
それは端午の節句が運んできたのである。
平岡公威(三島由紀夫)
12歳の作文
151:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 13:05:39 86nt7uFZ
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。
平岡公威(三島由紀夫)16歳
「惟神(かんながら)之道」より
152:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 13:07:38 86nt7uFZ
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡―天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。
平岡公威(三島由紀夫)16歳
「惟神(かんながら)之道」より
153:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/27 11:24:03 jLy9eEux
○森を切り拓いて一本の道をつけることは、道そのものの意義の外に与へるのみでなく、
その風景、大きくは自然、全体の意義をかへる。風景(万象)は、道の右、道の左、
道の上方、道の下方といふ観念を以て新たに認識され、再編成される。預言並びに
unzeitgemaβな仕事の意味は茲(ここ)にある。預言とは、「あるがままの変革」である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
154:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/27 11:24:47 jLy9eEux
○人が呼んで以て無頼の放浪者といふ唯美派の詩人たちは、俗世間の真面目な人間よりも、
更に更に生真面目な存在である。
いかなる荒唐に対しても真面目であるといふ融通のきかぬ道学者的な眼差を、道徳をでなく
美を守るためにもつ人々である彼等は、また真の古代人たりうる資格を恵まれた人等である。
○微妙なのは恋愛でなくて男女関係なのだ。
平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
155:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/27 11:25:29 jLy9eEux
○近代人にとつては、虚心坦懐に真情を吐露せよと命ぜられるほど苦痛なことはない。
それは苛酷な殆ど不可能な命令である。近代人は手許に多彩な百面相を用意してゐるが、
そのなかのマスクの一つに、自分の「真情」が入りこんでゐることは確かだが、おしなべて
マスクと信ずることの方が却つて容易なので。即ち真情を吐露することの困難は
選択の困難にすぎない。
しかし一方確固たる「真の」マスクをかぶる者たることも近代人には不可能になりつゝある。
私はむしろ古代の壮大な二重人格を思慕する。
平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より