09/04/25 00:29:24 m40DlPFi
>>13
世の中夜勤帰りで朝から寝てる人だっているんだよ?
引っ越しの時ちゃんと挨拶行った?
顔合わせたら軽く会話するとかしてちゃんとコンタクト取り続けてる?
日頃からそういうコミニュケーションが取れてればいつ洗濯機を回していいのか
いつ静かにしなければならないのか
迷惑を掛けないように生活出来るはずなんだが
20:名前はいらない
09/04/25 00:50:04 x1I+WcsS
>>19
おろ。つまり俺みたいなつまらんガキを調子付かせたのが迷惑だってことですね。
この板過疎だから、レスが増えてるとすぐ目についちゃうわけやね。
ゴメンとしか言えないわ。
21:2
09/04/25 03:06:07 mdxSSVEC
もはや意味分からん
22:名前なし
09/09/29 00:55:46 B6IwJO6S
芸術も、宗教も、商業も、戦争も、そして睡眠までもがそうなのだが、科学もまた前提presupposittions(思考以前の思い込み)の上に成立している。
ただ科学の場合は、単に思考の道筋が前提によって決まるというだけではない。
現在の前提の是非を問い、非ならば破棄して新しい前提を作るところに科学的思考の目標があるのである。
この点において科学の営みはそれ以外の人間活動と大いに異なる。
前提の組み換えにあたっては、自分たちが如何なる前提を基盤としているかということを意識すること、
そしてそれを言葉で把握できることが、不可欠とは言わぬものの、望ましいことは明らかである。
また、科学的理論を立てる場合に、同じ分野を研究している学者たちが如何なる基盤の上に立っているか知っていることも、
便利でかつ必要なことである。とりわけ、科学書に接する時は、書き手の前提としているところに意識が及んでいることが肝心である。
学生たちの思考に何とも奇妙な穴があいているのを見せられることがある。それは彼らがある種の思考のツールを欠いているために生じた穴である。
この傾向は、初等、高等、文系、理系、男子、女子の区別なく一様に現れる。彼らに欠けているもの---それは前提の認識なのだ。
科学の前提のみならず、日常の暮らしを支えている前提についても彼らは盲目なのである。
23:名前なし
09/09/29 00:56:59 B6IwJO6S
面白いことに、全く正反対と見える二つのグループ---カトリック系の学生とマルクス主義の信奉者---には、比較的、この「穴」が認めがたい。
どちらの学生も、過去二千五百年間の人間の思想について自ら考えたり、他人から話を聞きかじったりした経験があるのだろう。
そして哲学的、科学的、認識論的な前提の重要性がある程度わかっているのだろう。彼らは教えにくい学生ではある。
異端の考えを持つことが「破門」に通じるほど、彼らにとって自分たちの信じる前提の"正しさ"が重要であるからだ。
異端を危険視する人間は、当然ながら、自分の立脚する前提に意識的であろうとする。そして前提一般に対しても自然と目が効くようになっている。
思考の拠って立つ前提自体が誤っていることがあるのだということの理解を欠いた人間は、ノウハウしか学ぶことができない。
今回は、宗教の核心にも科学の核心にも肉薄するような題材を扱う。大多数の学生が、
それが如何なるものなのかよく知らずにいる「思考の前提」というものを、はっきり提示していきたいと思う。
しかしここにもう一つ別な、問題が絡まってくる。彼らは自分たちの思考の前提にしがみつく頑固さの点では、世界のどの国民にも、負けはしない。
ところが、いざそれが言葉で明確に表現されると、彼らはある奇妙な反応を示すのだ。
「これこれを前提とすれば」という言い方をされると、彼らはそこに敵意と嘲笑と---そしてこれが一番厄介なのだが---"権威の響き"を聞き取ってしまうのである。
その結果、如何なる前提であれ、それを論理的に明確な形で口に出そうとすると、反論ではなく、もっとたちの悪い抵抗に出会うことになる。
聞く方の人間は、それに対抗する術を知らず、ましてや表現することなどできないために、
親や教師や牧師の説教に聞えないふりをして対抗する子供たちの戦術を使うのである。
24:名前なし
09/09/29 00:57:54 B6IwJO6S
それはそれとして、科学的諸前提の重要性はいくら強調してもしすぎることはない。科学理論を組み立てるにはよい方法と悪い方法がある。
悪い方が改善されていくためには、それが前提とするところを常に明確にしておくのがいい。この考えを私は固く信じるものである。
ここには種々様々な前提が並べられている。中には聞きなれたものもあるだろうし、
また(前提の中には根本的に誤っているものがあるという過激な議論から保護されてきた者には)奇妙に聞えるものもあるだろう。
思考のツールの中には、役に立たぬほど切れ味の鈍いものもあれば、切れすぎて危険なものもある。だが、賢人は両者を用立てる。
25:名前なし
09/09/29 01:01:59 B6IwJO6S
科学は何も証明しない
科学には仮説を向上させたり、その誤りを立証したりすることはできる。
しかし仮説の正しさを立証することは、完全に抽象的なトートロジーの領域以外では、おそらく不可能である。
純粋理論の世界では、これこれの仮定なり公理なりの下で、これこれのことが絶対に成り立つ、という言い方も可能である。
しかし"知覚される"事柄が知覚から帰納される事柄の真実性となると、話は変わってくる。
「真」であるということが、我々が行う記述とそれによって記述されるものとの間の厳密な一致を意味する、
或いは我々の抽象と演繹の全ネットワークと、外界に関する全理解との厳密な一致を意味するとしよう。
そのような意味における真実を、我々は決して手にすることができない。我々の記述が言葉や数字や図でなされるという状況を今仮に無視して、
血と肉と行為をもって記述することで記号化の壁を一応取り払い、さらに血と肉へ翻訳する際の障壁さえ無視することにしても、
絶対確実な知識を手にすることは、どんな事柄に関しても永遠に不可能なのである。
その理由を示すには、次の方法によるのが一般的である。まず私が一つの連続(シークエンス)---数列でも構わないし、
数以外の列でも構わない---を一部お見せして、それがある秩序に従っているという前提を与える。
話を簡単にするために、ここでは次のような数列を使うことにしよう。
2,4,6,8,10,12
この数列で次に来る数は何か? おそらくみなさんは「14」と答えるだろう。
26:名前なし
09/09/29 01:03:40 B6IwJO6S
そうしたら私はこう答える。「残念でした。次に来るのは27です」。
みなさんは最初の6例だけから得たデータに基づいて、これが偶数の数列であるという一般化を行った。
その一般化が誤りだった(或いはおよそのものでしかなかった)ことが、次に起こった出来事によって判明したというわけである。
この数列をもっと長く伸ばしていこう。次の例で私の言わんとするところを確認していただきたい。
2,4,6,8,10,12,27,2,4,6,8,10,12,27,2,4,6,8,10,12,27
ここで次に来る数を聞いたとすれば、皆さんはおそらく「2」と答えるだろう。2から27までの繰り返しが三度も続いたのだから。
「2」という答えが出てくるのは、みなさんが、すぐれた科学者の全てがそうであるように、<オッカムの剃刀>と呼ばれる前提に影響されているからである。
またの名を<節減則>というこの規約は、事実に適する諸設定のうち、最も簡単なものをベストとする規約である。
我々はこの単純化の原則に基づいて次に起こることを予測する。
しかし事実とは、まだまだ続いていくかもそれない連続の、既に与えられた部分の中にしか存在しないものだ。
みなさんは予知することが可能だと"思い込んだ"。実は私の方でみなさんをそういう前提に乗せたわけだ。
しかし実のところ、その根拠はといえば、より単純な答えを好む(よう訓練された結果できあがった)心理と、
私が慣例にならって未完結で、かつ規則的な数列についての問題を出したはずだという信頼だけなのである。
不幸にも(幸運にも、と言うべきか)、次に来る事実を前もって入手できるなどということは決してありえない。
我々に待つことができるのは、単純であってくれという願望だけなのだ。
そして次に来る事実は、いつも我々を一段と複雑なレベルへ押し上げる可能性を孕んでいるのである。
27:名前なし
09/09/29 01:28:33 B6IwJO6S
或いはこういう言い方も出来る。私が出すどんな数列の問題も、その簡単な記述方が必ずいくつかあるだろうが、
簡潔であることを重んじなければ、その記述法は無限にあるのだと。
ここで数を文字で置き換えた場合を考えてみよう。
x,w,p,n
これらの文字は、分数を含めた如何なる数字も代用することができる。この連続を私が言葉または視覚的手段、
或いは痛みとか筋感覚とかいう極端な例まで含む他の感覚手段で、三、四度繰り返し皆さんに与えるとすれば、
いずれ皆さんはそこにあるパターンを知覚し始めるはずだ。そしてそれは皆さんの精神の中で---私の精神の中でも---一種の音楽的テーマとなり、
美的価値を持つようになる。その限りにおいては、この連続を理解することも、それと親しむことも出来ると言える。
しかしそのパターンが、変化や破壊を蒙らないという保証はない。何か別のものが加わってくるかもしれないし、
何らかの理由で繰り返しに限界が来るかもしれない。またみなさんの側に、
そのパターンを新しいやり方で知覚することを強いるような出来事が起こるかもしれない。
いまだ起こっていないそうした変化を、絶対の確信を持って予言することは誰にもできはしない。
現在がいかにして未来へつながっていくかについて、我々の知識はあまりにも貧弱なのである。
「私の知覚と分析力を持ってすれば、この次、そしてその先に何が来るか、みんな分かってしまう」とか、
「次にこれらの現象に出会ったとき、それがどう進展するか予測がつく」とかいう大それたことを言うのは、
時代がいくら先に進もうと、端的に不可能なのである。
28:名前なし
09/09/29 01:30:32 B6IwJO6S
絶対確実な予測は決してありえない。したがって、科学は一般化された命題を決して証明することはできない。
記述された内容をテストしていくことによって最終的な真実に到達することはできない。
科学が何一つ証明しないということを、別の方法によって示すことも可能である。
今回論じられていること---これ自体、あなたの知っているところと合致した時に始めて説得力を持つわけだし、
また完全に論破されていたり、全面的変容を遂げていないとは言い切れないわけだが---は、科学というものが一つの知覚による方法である、
知覚から"意味"(と呼びならされているもの)を作っていく方法である、という前提の上に立っている。
ところが差異のない所に知覚は生じない。我々が受け取る情報は如何なる場合にも差異の知らせにほかならない。
その際の知覚は、しかし閾thresholdというものによって限定されている。
あまりにも微妙な差異や、あまりにゆっくり現れる差異は、知覚されない。それらは知覚の食物ではないのである。
科学の基盤をなす研究者の知覚にしても、常に閾によって限定されている点に代わりはない。
識閾下にあるものは、いわば我々のひきうすにかからぬ穀物である。
いつの時代でも、入手可能な知識の量は、その時代が持っている知覚手段に固有な閾によって決定されているのだ。
顕微鏡、望遠鏡、十億分の一秒まで測れる計測装置、百万分の一グラムまで計れる計量装置---これらの精巧な近く装置が明らかにしたことを、
以前の時代の知覚レベルから予測することは、全く不可能だった。
一瞬先のことが予測できないのと同様、知覚の届く一歩先にある極微の世界も、宇宙の彼方の出来事も地質学的に遠すぎる時代のことも、
要するに観察できないものについて前もって知ることはできない。
知覚による方法に他ならぬ科学には、真実かもしれないことの外在的で可視的なしるしを集め回る以上のことはできないのだ。
科学はprove(証明)せず。probe(探索)するのみ。
29:名前なし
09/09/29 01:33:15 B6IwJO6S
地図は土地そのものではなく、ものの名前は名付けられたものではない
アルフレッド・コーズィプスキーによって有名になったこの原則は、様々なレベルでの解釈が可能である。
「豚やココナツのことを考えている人間の頭の中に、豚やココナツはない」というのが一番常識的な解釈だろうが、より抽象的レベルでは、
「すべての思考、知覚、情報伝達において、報告されるもの(ものそれ自体)と報告との間に一種の変換、すなわち記号化が起こる」という内容も持っている。
"報告"と(あの神秘的な)"報告されるもの"とは、分類---物を類(クラス)に振り分ける---という性格を持った関係で結ばれる傾向にある。
名付けるとは、すなわちクラスに入れることだ。地図作りも、本質的には一種の命名にほかならない。
コーズィプスキーは、哲学者としての立場から、人間の思考に規律を持たせたいと願って、あの言葉を述べたものと思われる。
しかしそれは成功することのない企てである。彼の言葉を、人間の精神過程の自然史という視点から見てみると、事情はさほど単純ではないのだ。
ものの名前と名付けられたものとの区別、地図と土地そのものとの区別がなされるのは、
おそらく脳の優性半球だけであって、通常脳の右半をなす象徴的、情緒的な半球の方は、
ものの名前と名付けられたものの区別ができない---少なくとも、こうした区別を司っていない---ようなのである。
その結果、人間の生活は、ある類型に属する非合理的な行動に、常に、必然的につきまとわれることになる。
我々は事実として二つの半球を持っているのであって、この事実から抜け出ることはできない。
二つの半球がそれぞれ違った風に作用する以上、人間の行動に理にかなわぬものが生じることは避けられないのである。
30:名前なし
09/09/29 01:34:03 B6IwJO6S
例えば優性半球の方は、旗を、それが表す国や団体の一種の名前として、両者を区別することができる。
しかし右半球はこの区別を設けず、旗をそれが表すところと同一視し、旗をそれが表すところと同一視し、そこに聖なる跡を見てしまったりする。
かくして星条旗は"オールド・グローリー"と呼ばれて合衆国そのものとなる。国旗を踏みつける行為は愛国者の心の中に激怒の情を誘発する。
地図と土地の関係をいくら説明しても、この怒りが鎮まることはあるまい。
(国旗を踏みつけている男のほうも、結局、旗を国家と同一視しているわけだ)
ものの名前と名付けられたものとの間の論理的な区別を無視した反応は、いつの時代にも、必然的に、数限りなく、存在し続けるだろう。
31:名前なし
09/09/29 01:38:59 B6IwJO6S
客観的経験は存在しない
すべての経験は主観的である。
すべての知覚---意識されるすべての知覚---がイメージの特性を備えていることは重要な意味を持つ。
痛みは、必ずどこかに局地化されている。つまり始まりと終わりと痛い場所を持ち、背景から浮き上がっている。
誰かに足を踏まれたとき、私が経験するのは"彼による私の足の踏みつけ"そのものではなく、
踏まれてからややあって脳に届いた神経報告をもとに再構成された"彼による足の踏みつけについての私のイメージ"にほかならない。
外界の経験には常にある特定の感覚器と神経経路が介在しているのである。
その限りにおいて、ものとは私の創造物であり、ものの経験は主観的であって客観的でない。
痛みや、外界の視覚イメージなどの感覚データの客観性を疑う人間が、ほとんどいないというのは、やはり熟考に値する問題である。
我々の文明は、こうした客観性の幻想の上に深く根差しているのだ。
32:名前なし
09/09/29 02:16:53 B6IwJO6S
発散する連続は予測できない
一般の人が抱いている科学のイメージによれば、万物は原則において予測も制御も可能である。
現在は予測も制御もできないものであっても、もう少し知識、特にノウハウが増えれば、
いずれはこうした気まぐれ者も予測し手懐けることが可能になるだろう、と考えている人が多い。
この見解は間違っている。原則において誤りである。予測も制御も原理的に
(非常に深いが、十分理解できる理由によって)不可能な現象の大集団を呈示することも可能なのである。
この予測・制御不能型の現象の中で最も日常的な例は、ガラス等、見たところ均質な物質の割れ方だろう。
液体分子や気体分子のブラウン運動も同様に予測不能である。
窓ガラスに石をぶつけたとする。ある条件の下では、ガラスは放射状に割れる(またはひびが入る)ことだろう。
投げた石のスピードが弾丸に匹敵するような時は、「衝撃円錐」と呼ばれる綺麗な円錐形をした破片が一個飛び出るだけかもしれない。
石が小さすぎたり、スピードが遅すぎたりした場合には、ガラスにはひび一つ入らないかもしれない。
このレベルでは、予想を立てることも、結果を制御することも可能である。
力の入れ方をはっきり三段階に分けることによって、三つ(放射状に割れる、衝撃円錐、割れない)のうちどの結果が生じるか、確信することができる。
しかし放射状に割れる条件下で、割れ目が走る方向を予測すること、
或いはまたある特定の割れ方をするように石のぶつけ方をコントロールすることは不可能である。
興味深いことに、実験の精度を高めていくにつれて、結果の予測不能度は高まっていく一方なのだ。
最高度の均質性をもったガラスを使い、その表面をできるだけ完璧に近い平面に磨き上げ、
石がガラスの表面に正確に九十度の角度で当たるようにコントロールしていけば、
その努力の分だけ、結果はますます予測不能になっていくのである。
33:名前なし
09/09/29 02:18:21 B6IwJO6S
逆にガラスに引っかきキズを作っておいたり、初めからキズの入ったガラスを使った場合(これでは不正実験だが)、
ある程度大まかな予測を立てることができる。理由は知らぬが、ともかく、ガラスの割れ目は、
キズから何分の一ミリか一方にはずれたところを、キズと平行に走る(破片の一片だけにキズが来るように割れる)と予測して、まず間違いない。
キズの終わりから先の割れ方は予測不能である。
鎖を引っ張ると、一番弱いつなぎ目から切れる。そのことは確実である。しかしどのつなぎ目が弱いかを、
鎖が切れる前に知ることは困難である。鎖全体の振る舞いは知れても、個に関する言明はできないのだ。
鎖の中には、ある一定の引張力がかかった時、あるつなぎ目から切れるように設計されているものもあるようだが、
良質の鎖は均一であるために、どこから切れるか、予測は全く不可能である。
そしてどのつなぎ目が一番弱いか分からなければ、どれだけの引張力で鎖が切れるのか、その正確な数値も分かりはしない。
清澄な液体(例えば綺麗な蒸留水)を、キズも汚れもない滑らかなビーカーで熱するとする。
最初の水蒸気の泡はビーカー内のどこから上がってくるだろうか? 何度で? どの瞬間に?
ビーカーの内壁に小さなキズがあったり、液体の中にホコリが混ざっていたりしない限り、これらの問に答えることは不可能である。
沸騰開始の核として働くものが明確な形で存在していない限り、予測は全く立たない。
どこで変化が始まるか分からなければ、いつ始まるとも言えない。何度で沸騰が始まるかも分からない。
34:名前なし
09/09/29 02:19:18 B6IwJO6S
もし実験が厳密な条件の下で---純粋なH2Oと、キズも凹凸もないビーカーを使って---行われたとしたら、水温は沸点を超えて上昇し続けるだろう。
が、いずれは沸騰を開始することになる。その時液体のどこかに、変化の核となる特異点(つまり差異)が生じ、
加熱状態にある液体はその点を"見つけて"、一瞬のうちに爆発的に沸騰を始める。そして水温は、大気圧によって決定される沸点にまで下降する。
液体が凍る場合も、過飽和水溶液から結晶が析出する場合も、事情は同じである。それらのプロセスが始動するためには、
やはり核---他との相違点、過飽和水溶液の場合なら極微の結晶---が必要となる。
一つの独立した個に関する記述と、それらをまとめた類に関する供述との間には、大きな隔たりがあるのだ。
両者は異なった論理階型に属するのであり、一方から他方を正確に予測することはできない。
「この液体は沸騰している」というのと、「この分子が最初に出て行く」というのとでは、互いに論理階型の異なるレベルの話なのだ。
35:名前なし
09/09/29 02:20:44 B6IwJO6S
今述べたことは、歴史を語る時、進化を語る時、或いはより広く、我々の生きるこの世界を理解しようとする時、様々な形で関わってくる。
例えばマルクス哲学の歴史理論は、トルストイの考えを受けて、社会の大変革とその変革の口火を切った人物との間、
或いは発明と発明家の間には、ある意味で、なんら関連はない、と主張する。
一八五九年時点の西欧世界では、産業革命の倫理を反映した、またそれを正当化するような進化理論の登場する機が十分熟していた
(または熟しすぎていた)のであり、そこに登場したチャールズ・ダーウィン自身は、見方によっては大して重要ではない、
つまりもし彼があの理論を打ち出さなかったとしても、以後五年のうちに、誰か他の人間が似たような理論を打ち出したに違いない、という主張である。
事実ダーウィン理論と時を同じくして、アルフレッド・ラッセル・ウォレスの自然選択説が登場したことを見る時、この主張は一見正しそうに思える。
私の見解によれば、マルクス理論の主張するところは、つまりこうだ。---鎖を引っ張れば、どこか一番弱いつなぎ目から切れる。
それと同じで、ある一定の社会的な力が働く時、ある趨勢の口火を切る個人が必ず現れるが、それが誰であるかは重要ではない。
しかしどうだろう、誰がその趨勢の口火を切ったかはやはり重要なのではないか。
もしあれがダーウィンではなくウォレスだったとしたら、今日我々は大分違った進化理論を持っているはずである。
ウォレスがガバナーつき蒸気機関を自然選択の過程と比較して論じたことの結果として、
サイバネティクスの動きがそのまま百年早く始まっていたかもしれないし、また十九世紀後半、
生体内の恒常性(後にホメオスタシスと呼ばれるもの)に着目したクロード・ベルナールの思い付きを核に、
進化理論がフランスで飛躍的展開をみたかもしれない。ベルナールは、内部環境milien interneが一定のバランスに保たれている、
すなわち自己修正的であることに注目していたのである。
誰が、如何なる個人が、変革の核になったか、それを重要でないというのは全くナンセンスである。
誰が核になるか分からないという正にそのことが、歴史の未来を予想不可能にしているのである。
マルクス理論の誤りは、個と類の混同という、論理レベルの単純な操作ミスにある。
36:名前なし
09/09/29 04:31:19 B6IwJO6S
収束する連続は予測できる
これは見てきた一般命題の逆をなすものである。両者の関係を考えるためには、発散と収束というワンセットの対立概念を検討する必要がある。
実は両概念の対照は、ラッセルの論理階型における一段階違ったレベル間での対照の特殊例---とはいっても非常に基本的な例---をなしているのだ。
発散する連続について抑えておくべきポイントは、その記述が個を、とりわけ個々の分子をテーマとする、という点である。
ガラスがどのように割れるか、沸騰がどの時点でどこから始まるか、といったことは、ある瞬間の少数の分子の位置関係によって決定される。
また分子のブラウン運動も、予測のつかない発散的連続である。たとえある瞬間におけるここの分子の動き方が正確に把握できたとしても、
そこから次の瞬間の動き方を予測することは不可能である。
これに対し、太陽系の惑星の動き、塩イオンを混ぜ合わせた時の反応の行方、玉突きの玉の衝撃力等では、億万の数の分子が一斉に関係する。
それらが予測可能なのは、それらの記述が、膨大な数のメンバーからなるクラスの行動についてのものだからにほかならない。
科学において統計がある正当性を持ち得る理由はそこにある。もちろん、確率的な言い方が可能なのは、集団が問題にされている時に限られることを忘れてはならない。
この意味で、いわゆる確率の法則は、個の行動に対する記述と、大きな集団に関する記述との橋渡しを演じているのだと言える。
これは後に見ていくことであるが、個に関する記述と統計的な記述との混同が、ラマルク以来の進化論に延々とつきまとってきたのである。
もしラマルクが「環境の変化は種全体の一般的特徴に変化を及ぼす」と主張したのだったら、
その考えは、ウォンディントンによる遺伝的同化の実験等にもよって確立された現代遺伝学理論を先取りしていたことになる。
しかしラマルクにも、彼の後継者たちにも、論理階型を混同する思考傾向が染み付いていた。
(正統派進化論者とてこの混乱から抜け出ていたわけではない)
37:名前なし
09/09/29 04:32:22 B6IwJO6S
ともあれ、進化にせよ、思考にせよ、ストカスティックな過程の中では、新しいものはランダムに生じるものの中から引き抜かれてくるほかない。
そして新しいものが、ランダムな世界でたまたま姿を現したその時に引き抜かれてくるためには、
その新案が、以後も存続していくことを請合う何らかの選択機構が存在していなければならない。
何か自然選択のようなものが、その自明の理とトートロジーをもって支配していなければならない。
「新しいものが生き続けていくためには競争相手より強い耐久力を持っている必要がある」
「ランダムな現象の波の中にあって長く消えずに残るものは、より早く消えていくものより必ず長く生き続ける」---自然選択理論とは、
凝縮して言うならば、こんな理論なのである。
マルクス主義の歴史観は---ダーウィンが『種の起源』を書かなくとも、
他の誰かが五年以内に同じ内容の本を書いていたはずだという主張につながるあの歴史観は---社会全体の変転過程が収束的であるという見解を、
個々の人間が関わる出来事へ適応しようとした不幸な努力であったといえる。誤りはここでも論理階型の混同にある。
38:名前なし
09/09/29 04:33:16 B6IwJO6S
"無から有は生じない"
リア王のこの名言には、中世から近代にわたって人類が学んだ知恵が幾つも込められている。
a 物質保存則、及びその「逆」---実験室で新たな物質の出現は期待できない。(ルクレティウスは「天与の力をもってしても無から有は創造できぬ」と述べている)
b エネルギー保存則、及びその「逆」---実験室で新たなエネルギーの出現は期待できない。
c 実験室で新たな生命の出現は期待できない。これはパストゥールが立証した原理である。
d 新しい秩序またはパターンは情報なしに作りだせない。
この種の否定的な言は他にもいろいろ考えられよう。みんな自然界の法則というより、むしろ期待の規則とも言うべきものである。
これらの規則はあまりにも真実性が高いため、例外は非常な興味と関心を呼ぶ。
そしてこれら非常に深い否定相互の関係の中に、実に興味深い真実が埋もれている。
例えばエネルギー保存の法則と物質保存の法則の間には橋が架けられており、
物質がエネルギーへ変換され(こちらは実験的各章を欠くが)エネルギーが物質へ変換されることによって、どちらの否定も否定されるのである。
しかし、今回最も重要なのは、最初に掲げた「情報伝達、組織形成、思考、学習、進化の領域では、情報なきところに無から有は生じない」という命題である。
39:名前なし
09/09/29 04:34:42 B6IwJO6S
エネルギーや質量の場合と違って、こちらの法則では、情報(パターン、負のエントロピー……)は保存されはしない。
悲しいかな---だが喜ばしいことでもあろう---パターンも情報も、あまりにたやすくランダムな世界へと崩れ落ちていってしまうのだ。
秩序作りのメッセージやガイドラインは、いわば砂の塔、水面に描かれた紋様すぎない、
どんな小さな攪乱に会っても---ただのブラウン運動によっても---崩れてしまう。情報は忘れられ、或いはぼやけていく。
暗号解読表が失われてしまうこともある。古代エジプトの文書も、ロゼッタ・ストーンなしには、
パピルスや岩の上に描かれたただのエレガントな飾り模様でしかない。意味をなすためには---否、もっと広く、
パターンとして認識されるためには---それぞれの規則性が、それを助ける別の規則性(技量といってもいい)に出会わなくてはならない。
そしてこの技量もまた、パターン自体と同様、簡単に霧散してしまうのである。これもまた砂の上、水の上に描かれているにすぎない。
メッセージに反応する技量が生まれる過程が、進化の過程のもう一つの面を形成している。進化とは、常に<連係進化>co-evolutionなのである。
ところが情報と組織形成の世界では、「無から有は生じない」という深奥なる真理も、
ゼロ(情報となる出来事の欠如)もまた自体一つのメッセージになりうるという興味深い矛盾によって、部分的に否定される。
ダニの幼虫は木を登り、先の小枝にまとまって待機する。そこに汗の臭いが漂ってくると枝から落ち、うまくいけば哺乳動物の上にとまる。
何週間たっても汗の臭いがしてこない場合はどうなるか。この場合も、やはり落ちて、今度は別の木に登るのである。
手紙を書かないこと、謝罪しないこと、猫に餌をやらないこと---これらはすべて、状況(コンテクスト)次第で、十分かつ効果的なメッセージになりうる。
40:名前なし
09/09/29 04:36:26 B6IwJO6S
「ゼロ」もまたコンテクストに応じた意味を持ちうるのだ。しかもコンテクストを作り出すのは、メッセージの受信者である。
適切なコンテクストを備えておくことこそが、受信者の側の技量にほかならない。
この技量の獲得こそが、今触れた<連携進化>における彼の分担なのである。
彼は学習かラッキーな突然変異---つまりランダムな襲撃のまぐれ当たり---によって、その技量を獲得しなくてはならない。
受信者は、ある意味で、今後のしかるべき発見に備えて用意を整えておくことが必要なのである。
ここに「情報なくして無から有は生じえない」という命題の逆が、ストカスティックな過程に関して、
成立する---「備えがあればランダムな世界からしかるべきものを選択し、新しい情報とすることができる」。
ただしそこには、情報のいわば原料として、ランダムな様相の供給が常になされていなくてはならない。
ランダムさに対応する備えの有無、その違いが、組織形成---進化---成熟---学習を包み込む広大な領域を二分する。
一方にあるのがエピジェネシス、もう一方が進化と学習の領域である。
エピジェネシスepigenesisとは、C・E・ウォディントンが、彼の主要関心分野であった「発生」に、
旧来のembriologyという語を排してつけた名前である。ギリシャ語でepiは「……の上に」、genesisは「成ること」を意味するから、
エピジェネシスという語によって、「成る」という行為が発生の各段階で次々と新しく積み重なっていくことが強調されるわけである。
ウォディントンは発生(エピジェネシス)の各段階で"新しい"情報が沸き出ているとして、
そのような情報について何も説明することのない旧来の情報理論には軽蔑的な態度をとった。
事実、伝説的な情報伝達の図式からでは、発生のようなケースで新しい情報が発生すると考えるのは無理がある。
41:名前なし
09/10/03 01:12:01 iMOnBdF1
発生という現象のモデルとして、公理と定義さえ決まればその後は何も追加されないという、複雑なトートロジーの成立過程を考えてみてもいいだろう。
ピタゴラスの定理は、ユークリッド幾何学の公理と定義と公準の中に最初からたたみ込まれた形で存在している。
これを導き出すためには、ただ展開していけばよい。ただし人間がこれを行うには、開いていく手順に関する情報が必要となる。
しかしこの情報も、ユークリッドのトートロジーが、言葉やシンボルの中には時間もなく、展開も議論もない。
それが内包するものは、ただあるだけ---といっても空間のどこかにあるわけではないが。
発生とトートロジーが反復と複写の世界を構成する一方で、創造、芸術、学習、進化からなる世界では、
変化のプロセスが、ランダムなものを糧として進展している。発生の本質は予測できる反復であり、学習の進化と本質は探究と変化である。
文化の伝達において、人間は常に複写を試みる。親から受け継いだ技術や価値を次の世代に写し伝えようとする。
しかしこの試みは常に、必然的に失敗する。それは文化の伝達がDNAによってではなく、学習によってなされるからだ。
文化伝達のプロセスは、二つの世界からの混成物と言えよう。そこでは、写し取るという目的のために、学習が試みられなければならない。
親が持っているものもやはり学習による習得物なのである。仮に、何かの奇跡によって、親の技術を伝えるDNAが子に受け継がれたとしても、
それによって伝えられた技術はやはり別物になってしまうだろうし、子の中に生き残ることもできないかもしれない。
これら二つの世界を結ぶものとして、<説明>という文化現象が存在するのは興味深い。
説明とは、見慣れない出来事に出会ったとき、その出来事の地図を---トートロジー体系の上に描き込むことである。
42:名前なし
09/10/03 01:13:04 iMOnBdF1
最後に、エピジェネシスの領域と進化の領域とがある深いレベルで、熱力学の第二法則を形作る一対のパラダイムに綺麗に従っているに触れておこう。
このパラダイムとは、(1)確率的な、ランダムな出来事によって、秩序、パターン、負のエントロピーは常に崩されるが、
(2)新しい秩序の生成には、ランダムな働き、つまり秩序に拘束されない側(エントロピー)の卓越が必要だ、というものである。
生物が新しい突然変異を集めるのはランダムな世界からであり、試行錯誤による学習が解答を集めるのもランダムな世界からである。
可能な限りの分化による生態的飽和をもって進化は終局相を迎える。
学習は精神の飽和へと至る。まだ何一つ学んでいない、大量生産で作られた卵に戻ることによって、種は繰り返し記憶の貯蔵庫を空にし、
新しい知識を受け入れる用意を整えて、さらなる前進を開始するのである。
43:名前なし
09/10/03 01:14:12 iMOnBdF1
数と量は別物である
行動科学においては、いかなる理論も数と量との峻別が基本となる。
生物間または生物内で起こることを生物の思考プロセスの一部として思い描く時、数と量の相違という問題が必ずその根本に関わってくる。
<数>は数えるという行為の産物である。<量>は測定するという行為の産物である。数を数える時、我々は各整数の間を飛び移っていく。
「二つ」と「三つ」の間には飛躍がある。隣り合った整数間のこの非連続が、数がきっちり正確たりうることの理由となっている。
ところが量の場合にはこのような飛躍は存在しない。そして飛躍が存在しないという理由から、いかなる量もちょうどぴったりということはありえない。
トマトがちょうど三個あるということはあるが、水がちょうど三リットルあるということはない。量に関して、我々はいつも、およその話ですましている。
数と量に加えて、数でも量でもない、もう一つの概念を峻別しておきたい。この新しい概念に対する言葉は、見当たりそうもないので、
通常"数"と呼ばれているものの中には実はパターンというまとまりの一つの類を構成するものがあるのだ、ということを銘記して満足するほかはない。
すべての数が数えるという行為の産物であるわけではない。小さな、ごく日常的な数は、一目見たときのパターンとして認知されることが多いのである。
「スペードの8」のカードを見分けるのに、八個のスペードを数える必要はない。"10"までのカードは、それ特有のパターンによって識別されているのである。
数はパターンとゲシュタルトとデジタル計算の世界に属し、量はアナログ計算、確立計算の世界に属す。
44:名前なし
09/10/03 01:15:23 iMOnBdF1
鳥の中には数を七まで識別できる種がある。これが数える行為によるものか、パターン認識によるものかは知られていない。
どちらの方法が使われているのか検証する今一歩のところまでいったのは、オットー・ケーラーがコクマルガラスを使って行った実験である。
この実験で、カラスは次の手順で繰り返し訓練された。蓋のついた数個の小さなカップを並べ、中に小さな肉の切れ端を一個から三個ほど入れ、
全然肉の入っていないカップも作っておく。次にカップから離れた位置に置いた一枚の皿の上に、カップに入れた肉片の総量より多い数の肉片を置く。
そしてコクマルガラスに一つ一つカップを開け、蓋をのけて、中の肉を食べることを学習させる。その肉片を全部食べ終えた時、
初めてカップから食べたのと同数の肉片を皿から食べることが許される。それより多くの肉片を食べた場合は罰が与えられる。
するとカラスは、きちんとその数でやめるようになる。
このときコクマルガラスは肉片を数えているのだろうか、それとも何か他の方法を使って数を認知しているのだろうか?
この実験は、カラスに"かず数え"をさせるよう、巧妙に仕組まれている。肉片を食べる行為の間には、
蓋を持ち上げるという別の行為が割り込んでいる上、一個のカップに入っている肉片の数が、ある時は二つ以上、ある時はゼロという事情がある。
つまりこの実験では、カラスがパターンやリズムによって数を認知することを食い止めようという意図が働いている。
カラスは肉片を数えるように、実験で可能な限り強く仕向けられている。
無論、カップの中から肉をつまむ行動が一種のリズミックな舞踏となり、そのリズムが皿から肉をつまむ際にも、
何らかの方法で繰り返されるということも考えられないではない。そういう弱みはあるものの、
この実験結果から、コクマルガラスが肉片のパターンまたは自身の行動パターンによってではなく、
<かず数え>によって数を知るとする仮説に大きな説得力が出来たことは確かである。
45:名前なし
09/10/03 01:16:47 iMOnBdF1
生物の世界に出現する種々の数について、それがゲシュタルトの例なのか、数えられた数なのか、それとも単なる量にすぎないのか考えてみると、大変に興味深い。
「この一重のバラの花は花弁を五枚、ガク片を五枚持ち、五方向への対称をなしている」というのと
「このバラの花は雄しべを百十二本、この花は九十七本、こちらの花は六十四本持っている」というのとでは、全く別の種類の話なのである。
雄しべの数を既定するプロセスと、花弁やガク片の数を規定するプロセスとは、はっきりと別物なのだ。
さらに興味深いのは、八重のバラのでき方である。観察によれば、発生の途中で雄しべの一部が花弁に変化していく。
ということは、八重のバラにおいては、花弁の数を決定するプロセスが、花弁を"五のパターン"に組み入れるという通常のプロセスではなく、
むしろ雄しべの量を決定するプロセスに近いということだろう。一重のバラでは、花弁の数は通常"五"であり、雄しべは"たくさん"ある、
そしてその"たくさん"とはそれぞれの花によって異なる量である---と言ってもいい。
この相違を頭に置いて自然を見渡してみると、生物の生長の過程で、固定したパターンとして扱える数の上限、
つまりそれを越えてしまったら量として扱わざるをえなくなるような限界はいくつだろうか、という問いが浮かんでくる。
私の知る限りでは、動植物が対称(特に放射状対称)をなす場合、二、三、四、五という"数"が最も一般的であるようだ。
46:名前なし
09/10/03 02:27:27 iMOnBdF1
皆さんも、自然界で数が厳密に規定される、またはパターン化される様々なケースをご自分で集めてみると、きっと楽しいだろうと思う。
比較的大きな数が規定を受ける場合、哺乳類の脊椎骨、昆虫の腹部体節、ミミズの前部の分節などの例にみられるように、直線的に連続した節をなすようである。
(ミミズの分節数は、"頭"から生殖器のついている文節までは、厳密な規定を受ける。
その数は種によってまちまちだが、多い場合は十五にのぼる。それ以降---尾---は"たくさん"の節を持つ)もう一つ興味深いことを付記しておこう。
生物のある部分が一定数の放射状対称をなす場合、それと同類の数が他の体部にも繰り返し現れることが多いのだ。
ユリはガク片が三枚、花弁が三枚、雄しべ六本、雄しべの子房が三室である。
我々人間も"かず数え"とパターン認識によって数を得、測定によって量を得ているが、そのような人間生活に特有の一種の奇癖とも思えるものが、実は宇宙の真理のごときものと相通じている。
コクマルガラスのみならず、バラにとってさえも---バラはその構造において、コクマルガラスはその行動において(そしてもちろん、脊椎の分節において)---数と量の間には深い相違があるのである。
この事実は何を物語っているのか? これは非常に古くからの問題である。ハーモニーをなす音の関係について、その規則性を発見したと伝えられるピタゴラスまでは遡るだろう。
47:名前なし
09/10/03 02:29:34 iMOnBdF1
量はパターンを決定しない
単一の量を持ち出してパターンを説明することは、原理的に不可能である。しかし二つの量の比は、既にパターンの始まりだということにも注意されたい。
言い換えれば、量とパターンとは論理階型を異にし、一つの思考の中に、両者はなかなかうまく収まりきらない。
一見したところ、量の作用でパターンが産み出されるかのように思えるケースがある。
しかしその場合、そのパターンは量的な働きかけを受ける以前から、システム内に潜在しているのだ。
例えば強い引張力を受けて鎖が切れるという場合。鎖の形態は確かにパターンの変化を被った。
しかしこの時鎖の切れた箇所は、引っ張る前から一番弱かったのである。
つまりこれは、あらかじめ潜在していた差異が、引張力の量的変化の下で顕在化したというだけの話である。
写真用語を使って"現像された"と言ってもいいだろう。ネガの現像も、露光度の差によって感光剤の中に既に潜在していた差異の顕在化に他ならない。
二つの山を持つ島を想像してみよう。海面の上昇という量的変化によって、この一つの島が二つの島に変わる。
この変化が生じるのは、海面の高さが、二つの山が作る谷の最高地点を上回った瞬間である。
この場合もパターンは、量的変化の作用を受ける以前から潜在している。そしてパターンが変わる時、その変化は瞬間的かつ非連続的である。
パターンの発生原因を説明する文の中に、「引っ張る力」や「エネルギー」など、量的な変化が持ち込まれる傾向が一般に強く見られる。
私はこの種の説明は、全て不適当か誤りか、どちらかだと考えている。
量的変化に拠ってパターンを変えようとする者の側から見れば、起こりうるパターン変化は、常に予測不能であり、発散的なのである。
48:名前なし
09/10/03 02:30:39 iMOnBdF1
生物界に単調な価値は存在しない
単調な価値とは、上昇または下降を続ける値を言う。その曲線にはこぶがない、つまり上昇から下降へ、下降から上昇へと転じることがない。
生物が欲求する物質、物体、パターン、或いは生物が何らかの意味で"いい"と感じる経験---食物、生活条件、温度、楽しみ、セックス等---に関しては、
多ければ多いだけいいというようなことは決してあり得ない。つまり物質や経験の最も好ましい量というものが存在する。
その量を超えてしまうと、毒性が生じ、その量から落ち込むと欠乏感が生じる。
この生物的価値の持つ特性は金銭には当てはまらない。金銭の価値は常に単調な関数をなす。多ければ多いほどよいとされている。
千一ドルの方が千ドルより常に好まれる。ところが生物学にこのような価値は存在しない。
カルシウムの量が多ければ多いほどいいということはない。各生物にとって、摂取すべきカルシウムの最適量というものが存在するのである。
この量を超えると、カルシウムも毒性を持つようになる。
どうように、われ我が呼吸する酸素の量も、食物及びその成分の量も、そしておそらく人間関係、生物関係のあらゆる構成要素についても、
過ぎたるは"十分"に及ばない。精神療法の施しすぎという場合さえ存在する。
戦いのない関係は生気がなく、戦いの多すぎる関係は毒性を持つ。望ましいのは、戦闘性が最適値にある関係だ。
金銭も、それ自体ではなく、それが所有者に及ぼす作用を考える時は、やはりある限度を越えると毒性に転じると言えよう。
いずれにせよ、金銭哲学---金は多ければ多いほどよいという答えをはじき出すような前提の場合---はまったくもって反生物学的である。
とはいえ、この哲学を生物が学習しうるということも、また事実ではある。
49:名前なし
09/10/03 02:31:41 iMOnBdF1
小さいこともいいことだ
生物的な変数のうち、体のサイズほど、生きていくことの問題を、明らかな形で見せてくれるものは恐らく他にあるまい。
象は大きいがゆえの問題をいろいろ抱えており、トガリネズミは小さいゆえの問題をいろいろ抱えている。
しかし、どちらにも最適の大きさがある。象が今より一段と小さかったとしても満足は得られまいし、
トガリネズミが一段と大きくなったとしても、それで救われるというわけではない。どちらも現在のサイズに、いわば耽溺しているのである。
サイズの大小からくる問題には、純粋に物理的なものもある。太陽系、橋、腕時計といったものが抱えているこの種の問題である。
が、これらに加えて、生命活動の集合体---一個の生物であれ一つの都市全体であれ---に特有の問題もある。
物理的な問題から見ていくとしよう。物理的不安定さが生じる理由の一つは、物体の結合力と重力による力とが同一の量的規則性に従わないことにある。
すなわち、大きな泥まんじゅうは、小さな泥まんじゅうよりも、落とした時に壊れやすい。
氷河は成長し、成長すれば溶けるとともに砕け始め、小さな塊りが崩れ落ちる氷崩という形に変化せざるをえなくなる。
逆に、物理的世界でも、小さいがゆえに不安定であるケースもある。表面積と重さが非線型の関係にあるためである。
どんな物質も、溶かす時は砕いた方が能率的であるが、それは小さな塊ほど体積に対する表面積の比率が大きくなり、それだけ液体からの働きかけを受けやすくするためである。
一番最後まで消えずに残るのは、一番大きな塊だ。
50:名前なし
09/10/03 04:17:10 iMOnBdF1
考察の対象を、より複雑な、生きた世界へ広げていくために、一つ寓話をお聞かせしよう。
四倍体のウマの物語
四倍体のウマの話が出ると、ノーベル賞関係者たちは今も渋い顔をするという。
一九八〇年代後半、荷引きウマ(エクウル・カバルス)のDNAをいじくったエレホン国の大遺伝学者P・U・ポシフ博士にノーベル賞が授与されてしまったからである。
当時ニュー・サイエンスとして脚光を浴びていた運搬学に偉大な貢献をしたというのが受賞理由だった。
ともかく彼は、普通のクライデスデール種のちょうど二倍の体長をもつウマを創造する---神の領域にかくも大胆に入り込んだ
応用科学の成果を語るのに、これほど相応しい言葉はない---ことに成功したのである。
体長も、背丈も、横幅も、全て二倍というこのウマは、四倍体、つまり染色体の数が通常の四倍あるウマであった。
ポシフ博士はいつもこう弁明した---「子馬の時はちゃんと四つ足で立っていたんだ」それはさぞかし見事な姿だったろう。
少なくとも一般公開され、近代文明の粋を集めた情報伝達装置に記録された時には、あのウマは立たなくなっていた。
体が重すぎた。体重は普通のクライデスデールの八倍もあったのである。
見物客や報道陣に見せるときには、ホースの水を止めろ(哺乳動物としての正常な体温に保っておくために、
普段は四六時中、体中に冷却水を流していたのである)というのがポシフ博士の指令だったが、
体の中心からステーキになっていくのではないかと、見ている方は気が気ではなかった。
この哀れなウマは、皮膚と皮下脂肪との厚さが通常の二倍あった。表面積が四倍あるといっても、これでは耐熱の発散がうまくいかない。
毎朝このウマは、小さなクレーンの助けを借りて立ち上がり、車のついた箱の中に吊るされたバネに賭けられる。
バネは足にかかる体重が半分になるように調節されている。
51:名前なし
09/10/03 04:18:19 iMOnBdF1
このウマの知能は驚異的だというのがポシフ博士の自慢だった。確かに脳の総重量は八倍あった。
しかし、ウマにとっての関心ごと以上の事柄を考えている様子は見受けられなかった。何しろ命を保つことに追われてそれどころではなかった。
身体を冷やすためにも、八倍もの身体に酸素を供給するためにも、いつもハアハア喘いでいなければならない。
気管の断面積は普通のウマの四倍しかなかったのである。
それから食生活が問題だった。毎日毎日普通のウマの八倍の量を、四倍の広さしかない食道に押し込まなくてはならない。
血管も相対的に細いので、血液循環の抵抗も増し、心臓にも大きな負担がかかり続ける。聞くも涙のウマの物語……
この寓話が示しているのは、正比例の関係にない二つ以上の変数が、同時に進行したらどんなことになってしまうかということである。
「変数」対「許容」という相互反応を生むのがこの関係である。例えば交通量と交通状態との関係。
通行人と車数とが漸次増加していく時、ある所までは交通システムはなんら影響を受けない。しかしいつかは、許容の閾値が越えられる。
その時突然麻痺が生じる。一方の変数の臨界値が、もう一方の変数の変化によって明らかになったというわけである。
この種のケースでは今日最も有名なのは、原子爆弾中の核分裂物質の振る舞いだろう。
ウラニウムは天然に産し、自然状態でも常に核分裂を続けているが、反応の連鎖が確立されないために爆発とはならない。
各原子の崩壊時に放出される中性子が別の原子に当たって二次分裂を起こしても、
ウラニウム塊が臨界値より小さい時には、一回の分裂で出る中性子のうち二次分裂を起こすものの数が平均一個以下であるために、
連鎖はいずれ尻切れになる。塊を大きくすれば、二次分裂を起こす中性子の割合も増加し、
臨界点から先では、分裂プロセスが累乗的増大し、爆発となる。
52:名前なし
09/10/03 04:19:51 iMOnBdF1
四倍体のウマの不幸は、体長と表面積と体積(または質量)とのバランスが崩れてしまったことだ。
理由は、それらの増加曲線が相互に非線型の関係にあるという点にある。
長さが変化する時、表面積はその二乗に、体積はその三乗に比例して増減する。表面積は体積の三分の二乗に比例する。
あの架空のウマも全ての現実の生物も、生命を保持するためには多くの内的な身体活動を保持しなくてはならず、
それがみな綿密な計算の上に成っているから、事態はますます厄介である。
血液と食物と酸素と排泄物との間に一つの記号論理学が存在し、また神経やホルモンのメッセージという形で情報の記号論理学が存在するのである。
ネズミイルカは、体長約一メートル、脂肪層の厚さ三センチ寂、表面積約0.5平方メートルで、
極北の海を泳ぐ時の熱の収支はこれで快適なバランスが取れることが知られている。
このイルカの約十倍の体長(一千倍の体積、百倍の表面積)を持つ大型のクジラには、
厚さ三十センチに達しようという脂肪層があるが、これでどう体温のバランスが保たれるのか、まったくの謎である。
クジラ目の動物は全て血液を背ビレと尾に送り込んで熱を放出しているのだが、
その際大型のクジラは、我々の理解を超えたすぐれた記号論理学を駆使しているに違いない。
生物の成長は、体の大きさという難問を、その生物にとって一段と込み入ったものにする。
成長とともに各部のプロポーションを変えていくべきか否か。成長の限界という問題への対処法は、種によって様々である。
ヤシの木の場合は単純で、高さが伸びてもそれに合わせて胴回りを調整するようなことはしない。
カシの木は成長の組織(形成層)を木部と樹皮の間に持ち、生涯にわたって高さも太さも増していく。
ところがココヤシの木では成長組織が幹の最先端にしかないために("億万長者のサラダ"と呼ばれているのがこの部分である。
ここを取ってしまうことは、ココヤシ一本を殺すことを意味する)ただ上に向かって伸びていくだけで、幅は幹の根元の部分が若干太くなる程度である。
ココヤシにとって、背丈の限界というのはニッチへの適応の問題であるに過ぎない。
太さを伴わずして高くなりすぎ、その物理的不安定さのゆえにかれるのが、ココヤシの正常な死に方なのである。
53:名前なし
09/10/03 04:21:14 iMOnBdF1
成長の限界から来るこのような問題を回避(解決?)するために、多くの植物は、固体の寿命を季節のめぐりや生殖のサイクルに合わせて限定している。
毎年新しい世代でスタートするという方法を取っているのが一年草である。俗に百年草と呼ばれているユッカ蘭は何十年も生きるが、
鮭と同様、生殖を行うと同時に死んでいく。最頭部に現れる花が細かく分枝する点を除けば、ユッカに枝はない。
その分枝した花がすなわち、ユッカの茎の先端なのだ。そこで生殖が行われれば、ユッカは死ぬ。その死はユッカの生の規範に従ったものである。
高等な生物では、成長がコントロールされている。ある一定な大きさ、年齢、段階に達すると、それっきり成長を止める。
(胎内組織からの科学的または非科学的メッセージが成長にストップをかけるのだ)細胞は制御の下で、成長と分裂を止める。
メッセージの発信または受信に障害が起こり、その制御がきかなくなった結果が癌である。
こうしたメッセージはどこに生じ、何が引き金になって発信され、いかなる科学的(と思われる)コードの中に込められているのか。
哺乳動物の体が、外側から見てほぼ完全な左右対称を成しているのは、いかなる制御の働きによるのか。
成長を制御するメッセージのシステムについて、我々の知識は驚くほど貧弱である。
生物界全体に広がるこの運動システムが、ほとんど研究されぬままになっているのである。
54:名前なし
09/10/03 04:33:19 iMOnBdF1
論理に因果は語りきれない
我々は論理的連鎖にも、因果関係の連鎖にも、同じ語を用いる。
「ユークリッドの諸定義と諸公理を受け入れるならば、三辺の長さが一人い二つの三角形は合同である」という一方で、
「温度が摂氏百度以下になるならば、水は凍り始める」ともいう。
しかし三段論法で使うような論理の「ならば」と、因果関係における「ならば」とは、まったく異質のものである。
コンピューターは、各トランジスタ類が連鎖的に作動していくものであり、この因果の連鎖が、論理の連鎖を装っている。
数十年前、研究者はコンピューターに全ての論理プロセスを装う(シミュレート)ことができるかどうか問うたものだ。
答えはイエスだったが、問いの方が誤っていた。むしろ、論理に全ての因果関係のシミュレーションができるかどうかを問うべきだった。
そうであれば答えはノーと出たはずである。
原因の結果の連鎖が円環(或いはそれ以上に複雑な形)をなす時、その連鎖を無時間的な論理に移し変えて記述しようとすると、矛盾に陥る。
純粋な論理では処理できないパラドクスが生じてしまう。生物界のいたる所に見られる幾百万ものホメオスタシスの例の一つ一つが、
この種のパラドクスを抱えているのである。今、ごく普通のブザー回路を例に、パラドクス発生の仕組みを見ていこう。
この回路では、積極子がA点の電極につながった時電流が流れる。
ところが電流が流れると電磁石がはたらいて、積極子を引き離し、A点での接触が切れる。
すると電流が回路を流れなくなって、電磁石の働きは止まり、積極子はA点に戻って電極と接し、このサイクルを初めから繰り返すことになる。
55:名前なし
09/10/03 06:10:43 iMOnBdF1
このサイクルを因果の連鎖として一つ一つ記述してみれば、次のようになる---
A点で接触がなされれば、磁石は働く。
磁石が働けば、A点の接触は切れる。
A点の接触が切れれば、磁石は動かなくなる。
磁石が働かなくなれば、A点で接触がなされる。
ここで「ならば」という接続辞が因果的なものであるということがしっかりと了解されている限り、問題はない。
ところが、この因果的な「ならば」を、論理の世界で使われる「ならば」と取り違えてしまうと、とんでもない混乱を招く結果になる---
接触がなされれば、接触は切れる。
Pならば、Pではない。
因果関係を表す「……ならば……である(ない)」には時間が含まれているが、論理の「……ならば……である(ない)」は無時間的なものである。
この事実は、論理が因果関係のモデルとしては不完全なものであることを示している。
56:名前なし
09/10/03 06:11:53 iMOnBdF1
因果関係は逆向きには働かない
論理の世界では「逆もまた真」ということがよくあるが、結果は絶対に原因に先行することは出来ない。
プラトンとアリストテレスの時代から、この一般側が心理学と生物学の前に立ちはだかってきた。
古代ギリシャ人は、後に<目的因>と呼ばれるようになったものを信じる傾向にあった。
一連のプロセスの最後に生じるパターンが、何らかの意味で、そのプロセスの通る経路の原因たりうると、彼らは考えたのである。
以後脈々と続いていくこの思考形態は、総括して目的論teleology(ギリシャ語で出来事の道筋の「終わり」「目的」の意を表すtelosに由来する)と呼ばれる。
生物学者たちを悩ませたのが<適応>という問題だった。蟹のはさみはものをはさむためにある、と言ったのでは、
はさみの目的から始めて、はさみの発生の原因に論理を逆行させることになってしまう。
生物学は長い間、「はさみがあるのは役に立つから」式の考え方を異端視していた。
そこに目的論的な誤り---原因と結果の時間上の逆転---があったからである。
リニアルな思考は、いつの世も、結果にプロセスを決定させる目的論的誤謬か、さもなくば現象を操る超自然的存在者の神話を産むものである。
因と果のシステムが円環をなす時には、そのサイクルのどの部分における変化も、
そのサイクル上でそれより時間的に後で起こる全ての変化の原因と見なすことができることにも注意しておこう。
部屋の温度がサーモスタットのスイッチの変化の原因であると見なすことも、サーモスタットの働きが部屋の温度を制御していると見なすこともできるのである。
57:名前なし
09/10/03 06:14:03 iMOnBdF1
言語は通常、相互反応の片側だけを強調する
我々は通常、」ある一個の"もの"が、何らかの特性を"持っている"かのような語り方をする。
我々の話の中で、石は"硬い"、"小さい"、"重い(デンス)"、"密だ"、"壊れやすい"、"熱い"その他もろもろの特性を与えられる。
"moving"(動いている)"starionary"(止まっている)"visibile"(目に見える)"edible"(食べられる)"indedible"(食べられない)等々。
「石が硬い」(The stone is hard)---というような表現形式を取るように、我々の言語はできているのだ。
市場で使われるのであれば、これで十分間に合うだろう---「あれは新しいブランドです」「このジャガイモは腐っている」
「この卵は新鮮です」「この入れ物は壊れている」「このダイヤモンドは傷物だ」(is flawed)等々。
しかし科学や認識論においては、このような語り方では事は足りない。
理路整然と考えるには、何かが持つとされるいかなる「特性」も「属性」も、つまりどんな形容詞も、
時間上で起こる最低二組の相互作用の結果を根ざしているのだということを頭に入れておくことが望ましい。
「この石は硬い」というのは、(a)突いてみても凹まずに耐える、(b)石の部分(分子)間にある種の連続的な相互反応が、
部分同士を何らかのやり方でしっかり繋ぎ合わせている、という意味である。
「この石は静止している」というのは、観察者または何か別の物体(動いていてもよい)に対するその石の相対的位置についての言及である。
そして同時に、その石の内的な事情---慣性の存在、内部に歪曲の力が働いていないこと、表面に摩擦がないこと等---に関する言及である。
58:名前なし
09/10/03 06:15:04 iMOnBdF1
言語は、主語と述語というその構造によって、"もの"がある"属性"を"持っている"のだと言い張ってしまう。
もっと精密な表現手段であれば、"もの"がその内的な諸関係、及び他の"もの"や語り手の関係の中での振る舞いから産み出され、
他の"もの"と区別して見られ、"実在"させられるのだという点をきちんと表現することもできるはずだ。
プレローマ的(グノーシス哲学で言うpleroma:生なきもの)もの的世界において"もの"がいかなるものであるかはさておき、
情報伝達と意味の世界には、"もの"はその名前と性質と属性(すなわち内的、外的な関係や相互反応の報告)によってしか参加することを許されない。
この普遍的事実を明確に把握しておくことが必要である。
59:名前なし
09/10/04 03:28:22 2dIwLLkB
"安定している""変化している"という語は、我々が記述しているものの部分を記述している
安定しているstableという語は一般に、ものに適用される形容詞である。化合物、家、生態系、政府等が"安定している"という形容を受ける。
それはどういうことか、さらに問い質せば、「何かしらの外的・内的な変数の衝撃あるいは緊張の下でも変化しない」とか「時間の経過に耐える」とかいう答えが返ってくるだろう。
一口に安定といっても、その背後で働いているメカニズムは様々である。もっとも単純なレベルでの安定は、物理的な硬度や粘性といったものに帰すことができる。
これらの性質は、その安定した物体と他の物体とがインパクトの授与という関係で結ばれる時のありようを記述するものである。
より複雑なレベルには、<生命>と呼ばれる相互運動プロセスの総体が働いて、変動状態が保たれ、それが体温、血液循環、血糖量、
そして生命自体といった必要な変数を安定的に保つメカニズムが存在する。
サーカスの綱渡りは、バランスの崩れを常に是正し続けることに寄って安定を保っているのである。
これら複雑な例からうかがい知れることは、生物や自己修正回路についてその安定を語る時は、
安定を作っている本体が示している手本に従う必要があるということだ。
サーカスの綱渡りの場合、重要なのは"バランス"であるし、哺乳動物の体にとっては、例えば"体温"が重要である。
これら重要な定数が刻々どのように変化しているかという情報は、体内の情報伝達網を通して報告されている。
その手本に倣うというのは、我々としても常に"安定"を何らかの記述命題が真であり続けている状態として見ていくということだ。
「軽業師は綱の上にいる」という命題は、(強すぎない)風の衝撃を受けても、綱の揺れという衝撃を受けても、真であり続ける。
この"安定"は軽業師の姿勢とバランス・ポールの位置についての記述が絶え間なく変化している結果なのである。
60:名前なし
09/10/04 03:29:31 2dIwLLkB
ということは、生命体について"安定"を語る時には、常に何らかの記述命題に照らし合わせ、
そこで使われる"安定"という語がどの階型に属すのか明確にしておく必要があるということである。
どんな記述命題も、その主語、述語、コンテクストは論理階型のあるレベルに振り分けられる。
変化に関する記述も全て同様の厳密性を必要とする。フランスに「変われば変わるだけ同じままだ」ということわざがあるが、
この種の味わい深い名言は、論理階型をごちゃまぜにしたところからその"知恵"を引き出している。
「……が、"変わる"」というのも「……が、"同じまま"だ」というのも共に記述命題であるが、互いに異なった論理レベルに属しているのである。
ここで今回検討した数々の前提について、若干コメントを加えておく必要があるだろう。
まず最初に、ここに並べた前提のリストはいかなる意味でも完成されたものではないということ。
真実とか一般即のとかいうものの全リストを準備することが可能だなどと私は考えていない。
この種のリストは常に限定されたものでしかない。そのこともまた、我々の生きるこの世界の一つの特徴ではないかと思う。
61:名前はいらない
10/05/25 00:48:05 Y+/h6eRo
A長方形
B三角形に近い台形
C誰もいない住宅街
D地蔵