09/10/03 04:17:10 iMOnBdF1
考察の対象を、より複雑な、生きた世界へ広げていくために、一つ寓話をお聞かせしよう。
四倍体のウマの物語
四倍体のウマの話が出ると、ノーベル賞関係者たちは今も渋い顔をするという。
一九八〇年代後半、荷引きウマ(エクウル・カバルス)のDNAをいじくったエレホン国の大遺伝学者P・U・ポシフ博士にノーベル賞が授与されてしまったからである。
当時ニュー・サイエンスとして脚光を浴びていた運搬学に偉大な貢献をしたというのが受賞理由だった。
ともかく彼は、普通のクライデスデール種のちょうど二倍の体長をもつウマを創造する---神の領域にかくも大胆に入り込んだ
応用科学の成果を語るのに、これほど相応しい言葉はない---ことに成功したのである。
体長も、背丈も、横幅も、全て二倍というこのウマは、四倍体、つまり染色体の数が通常の四倍あるウマであった。
ポシフ博士はいつもこう弁明した---「子馬の時はちゃんと四つ足で立っていたんだ」それはさぞかし見事な姿だったろう。
少なくとも一般公開され、近代文明の粋を集めた情報伝達装置に記録された時には、あのウマは立たなくなっていた。
体が重すぎた。体重は普通のクライデスデールの八倍もあったのである。
見物客や報道陣に見せるときには、ホースの水を止めろ(哺乳動物としての正常な体温に保っておくために、
普段は四六時中、体中に冷却水を流していたのである)というのがポシフ博士の指令だったが、
体の中心からステーキになっていくのではないかと、見ている方は気が気ではなかった。
この哀れなウマは、皮膚と皮下脂肪との厚さが通常の二倍あった。表面積が四倍あるといっても、これでは耐熱の発散がうまくいかない。
毎朝このウマは、小さなクレーンの助けを借りて立ち上がり、車のついた箱の中に吊るされたバネに賭けられる。
バネは足にかかる体重が半分になるように調節されている。
51:名前なし
09/10/03 04:18:19 iMOnBdF1
このウマの知能は驚異的だというのがポシフ博士の自慢だった。確かに脳の総重量は八倍あった。
しかし、ウマにとっての関心ごと以上の事柄を考えている様子は見受けられなかった。何しろ命を保つことに追われてそれどころではなかった。
身体を冷やすためにも、八倍もの身体に酸素を供給するためにも、いつもハアハア喘いでいなければならない。
気管の断面積は普通のウマの四倍しかなかったのである。
それから食生活が問題だった。毎日毎日普通のウマの八倍の量を、四倍の広さしかない食道に押し込まなくてはならない。
血管も相対的に細いので、血液循環の抵抗も増し、心臓にも大きな負担がかかり続ける。聞くも涙のウマの物語……
この寓話が示しているのは、正比例の関係にない二つ以上の変数が、同時に進行したらどんなことになってしまうかということである。
「変数」対「許容」という相互反応を生むのがこの関係である。例えば交通量と交通状態との関係。
通行人と車数とが漸次増加していく時、ある所までは交通システムはなんら影響を受けない。しかしいつかは、許容の閾値が越えられる。
その時突然麻痺が生じる。一方の変数の臨界値が、もう一方の変数の変化によって明らかになったというわけである。
この種のケースでは今日最も有名なのは、原子爆弾中の核分裂物質の振る舞いだろう。
ウラニウムは天然に産し、自然状態でも常に核分裂を続けているが、反応の連鎖が確立されないために爆発とはならない。
各原子の崩壊時に放出される中性子が別の原子に当たって二次分裂を起こしても、
ウラニウム塊が臨界値より小さい時には、一回の分裂で出る中性子のうち二次分裂を起こすものの数が平均一個以下であるために、
連鎖はいずれ尻切れになる。塊を大きくすれば、二次分裂を起こす中性子の割合も増加し、
臨界点から先では、分裂プロセスが累乗的増大し、爆発となる。
52:名前なし
09/10/03 04:19:51 iMOnBdF1
四倍体のウマの不幸は、体長と表面積と体積(または質量)とのバランスが崩れてしまったことだ。
理由は、それらの増加曲線が相互に非線型の関係にあるという点にある。
長さが変化する時、表面積はその二乗に、体積はその三乗に比例して増減する。表面積は体積の三分の二乗に比例する。
あの架空のウマも全ての現実の生物も、生命を保持するためには多くの内的な身体活動を保持しなくてはならず、
それがみな綿密な計算の上に成っているから、事態はますます厄介である。
血液と食物と酸素と排泄物との間に一つの記号論理学が存在し、また神経やホルモンのメッセージという形で情報の記号論理学が存在するのである。
ネズミイルカは、体長約一メートル、脂肪層の厚さ三センチ寂、表面積約0.5平方メートルで、
極北の海を泳ぐ時の熱の収支はこれで快適なバランスが取れることが知られている。
このイルカの約十倍の体長(一千倍の体積、百倍の表面積)を持つ大型のクジラには、
厚さ三十センチに達しようという脂肪層があるが、これでどう体温のバランスが保たれるのか、まったくの謎である。
クジラ目の動物は全て血液を背ビレと尾に送り込んで熱を放出しているのだが、
その際大型のクジラは、我々の理解を超えたすぐれた記号論理学を駆使しているに違いない。
生物の成長は、体の大きさという難問を、その生物にとって一段と込み入ったものにする。
成長とともに各部のプロポーションを変えていくべきか否か。成長の限界という問題への対処法は、種によって様々である。
ヤシの木の場合は単純で、高さが伸びてもそれに合わせて胴回りを調整するようなことはしない。
カシの木は成長の組織(形成層)を木部と樹皮の間に持ち、生涯にわたって高さも太さも増していく。
ところがココヤシの木では成長組織が幹の最先端にしかないために("億万長者のサラダ"と呼ばれているのがこの部分である。
ここを取ってしまうことは、ココヤシ一本を殺すことを意味する)ただ上に向かって伸びていくだけで、幅は幹の根元の部分が若干太くなる程度である。
ココヤシにとって、背丈の限界というのはニッチへの適応の問題であるに過ぎない。
太さを伴わずして高くなりすぎ、その物理的不安定さのゆえにかれるのが、ココヤシの正常な死に方なのである。
53:名前なし
09/10/03 04:21:14 iMOnBdF1
成長の限界から来るこのような問題を回避(解決?)するために、多くの植物は、固体の寿命を季節のめぐりや生殖のサイクルに合わせて限定している。
毎年新しい世代でスタートするという方法を取っているのが一年草である。俗に百年草と呼ばれているユッカ蘭は何十年も生きるが、
鮭と同様、生殖を行うと同時に死んでいく。最頭部に現れる花が細かく分枝する点を除けば、ユッカに枝はない。
その分枝した花がすなわち、ユッカの茎の先端なのだ。そこで生殖が行われれば、ユッカは死ぬ。その死はユッカの生の規範に従ったものである。
高等な生物では、成長がコントロールされている。ある一定な大きさ、年齢、段階に達すると、それっきり成長を止める。
(胎内組織からの科学的または非科学的メッセージが成長にストップをかけるのだ)細胞は制御の下で、成長と分裂を止める。
メッセージの発信または受信に障害が起こり、その制御がきかなくなった結果が癌である。
こうしたメッセージはどこに生じ、何が引き金になって発信され、いかなる科学的(と思われる)コードの中に込められているのか。
哺乳動物の体が、外側から見てほぼ完全な左右対称を成しているのは、いかなる制御の働きによるのか。
成長を制御するメッセージのシステムについて、我々の知識は驚くほど貧弱である。
生物界全体に広がるこの運動システムが、ほとんど研究されぬままになっているのである。
54:名前なし
09/10/03 04:33:19 iMOnBdF1
論理に因果は語りきれない
我々は論理的連鎖にも、因果関係の連鎖にも、同じ語を用いる。
「ユークリッドの諸定義と諸公理を受け入れるならば、三辺の長さが一人い二つの三角形は合同である」という一方で、
「温度が摂氏百度以下になるならば、水は凍り始める」ともいう。
しかし三段論法で使うような論理の「ならば」と、因果関係における「ならば」とは、まったく異質のものである。
コンピューターは、各トランジスタ類が連鎖的に作動していくものであり、この因果の連鎖が、論理の連鎖を装っている。
数十年前、研究者はコンピューターに全ての論理プロセスを装う(シミュレート)ことができるかどうか問うたものだ。
答えはイエスだったが、問いの方が誤っていた。むしろ、論理に全ての因果関係のシミュレーションができるかどうかを問うべきだった。
そうであれば答えはノーと出たはずである。
原因の結果の連鎖が円環(或いはそれ以上に複雑な形)をなす時、その連鎖を無時間的な論理に移し変えて記述しようとすると、矛盾に陥る。
純粋な論理では処理できないパラドクスが生じてしまう。生物界のいたる所に見られる幾百万ものホメオスタシスの例の一つ一つが、
この種のパラドクスを抱えているのである。今、ごく普通のブザー回路を例に、パラドクス発生の仕組みを見ていこう。
この回路では、積極子がA点の電極につながった時電流が流れる。
ところが電流が流れると電磁石がはたらいて、積極子を引き離し、A点での接触が切れる。
すると電流が回路を流れなくなって、電磁石の働きは止まり、積極子はA点に戻って電極と接し、このサイクルを初めから繰り返すことになる。
55:名前なし
09/10/03 06:10:43 iMOnBdF1
このサイクルを因果の連鎖として一つ一つ記述してみれば、次のようになる---
A点で接触がなされれば、磁石は働く。
磁石が働けば、A点の接触は切れる。
A点の接触が切れれば、磁石は動かなくなる。
磁石が働かなくなれば、A点で接触がなされる。
ここで「ならば」という接続辞が因果的なものであるということがしっかりと了解されている限り、問題はない。
ところが、この因果的な「ならば」を、論理の世界で使われる「ならば」と取り違えてしまうと、とんでもない混乱を招く結果になる---
接触がなされれば、接触は切れる。
Pならば、Pではない。
因果関係を表す「……ならば……である(ない)」には時間が含まれているが、論理の「……ならば……である(ない)」は無時間的なものである。
この事実は、論理が因果関係のモデルとしては不完全なものであることを示している。
56:名前なし
09/10/03 06:11:53 iMOnBdF1
因果関係は逆向きには働かない
論理の世界では「逆もまた真」ということがよくあるが、結果は絶対に原因に先行することは出来ない。
プラトンとアリストテレスの時代から、この一般側が心理学と生物学の前に立ちはだかってきた。
古代ギリシャ人は、後に<目的因>と呼ばれるようになったものを信じる傾向にあった。
一連のプロセスの最後に生じるパターンが、何らかの意味で、そのプロセスの通る経路の原因たりうると、彼らは考えたのである。
以後脈々と続いていくこの思考形態は、総括して目的論teleology(ギリシャ語で出来事の道筋の「終わり」「目的」の意を表すtelosに由来する)と呼ばれる。
生物学者たちを悩ませたのが<適応>という問題だった。蟹のはさみはものをはさむためにある、と言ったのでは、
はさみの目的から始めて、はさみの発生の原因に論理を逆行させることになってしまう。
生物学は長い間、「はさみがあるのは役に立つから」式の考え方を異端視していた。
そこに目的論的な誤り---原因と結果の時間上の逆転---があったからである。
リニアルな思考は、いつの世も、結果にプロセスを決定させる目的論的誤謬か、さもなくば現象を操る超自然的存在者の神話を産むものである。
因と果のシステムが円環をなす時には、そのサイクルのどの部分における変化も、
そのサイクル上でそれより時間的に後で起こる全ての変化の原因と見なすことができることにも注意しておこう。
部屋の温度がサーモスタットのスイッチの変化の原因であると見なすことも、サーモスタットの働きが部屋の温度を制御していると見なすこともできるのである。
57:名前なし
09/10/03 06:14:03 iMOnBdF1
言語は通常、相互反応の片側だけを強調する
我々は通常、」ある一個の"もの"が、何らかの特性を"持っている"かのような語り方をする。
我々の話の中で、石は"硬い"、"小さい"、"重い(デンス)"、"密だ"、"壊れやすい"、"熱い"その他もろもろの特性を与えられる。
"moving"(動いている)"starionary"(止まっている)"visibile"(目に見える)"edible"(食べられる)"indedible"(食べられない)等々。
「石が硬い」(The stone is hard)---というような表現形式を取るように、我々の言語はできているのだ。
市場で使われるのであれば、これで十分間に合うだろう---「あれは新しいブランドです」「このジャガイモは腐っている」
「この卵は新鮮です」「この入れ物は壊れている」「このダイヤモンドは傷物だ」(is flawed)等々。
しかし科学や認識論においては、このような語り方では事は足りない。
理路整然と考えるには、何かが持つとされるいかなる「特性」も「属性」も、つまりどんな形容詞も、
時間上で起こる最低二組の相互作用の結果を根ざしているのだということを頭に入れておくことが望ましい。
「この石は硬い」というのは、(a)突いてみても凹まずに耐える、(b)石の部分(分子)間にある種の連続的な相互反応が、
部分同士を何らかのやり方でしっかり繋ぎ合わせている、という意味である。
「この石は静止している」というのは、観察者または何か別の物体(動いていてもよい)に対するその石の相対的位置についての言及である。
そして同時に、その石の内的な事情---慣性の存在、内部に歪曲の力が働いていないこと、表面に摩擦がないこと等---に関する言及である。
58:名前なし
09/10/03 06:15:04 iMOnBdF1
言語は、主語と述語というその構造によって、"もの"がある"属性"を"持っている"のだと言い張ってしまう。
もっと精密な表現手段であれば、"もの"がその内的な諸関係、及び他の"もの"や語り手の関係の中での振る舞いから産み出され、
他の"もの"と区別して見られ、"実在"させられるのだという点をきちんと表現することもできるはずだ。
プレローマ的(グノーシス哲学で言うpleroma:生なきもの)もの的世界において"もの"がいかなるものであるかはさておき、
情報伝達と意味の世界には、"もの"はその名前と性質と属性(すなわち内的、外的な関係や相互反応の報告)によってしか参加することを許されない。
この普遍的事実を明確に把握しておくことが必要である。
59:名前なし
09/10/04 03:28:22 2dIwLLkB
"安定している""変化している"という語は、我々が記述しているものの部分を記述している
安定しているstableという語は一般に、ものに適用される形容詞である。化合物、家、生態系、政府等が"安定している"という形容を受ける。
それはどういうことか、さらに問い質せば、「何かしらの外的・内的な変数の衝撃あるいは緊張の下でも変化しない」とか「時間の経過に耐える」とかいう答えが返ってくるだろう。
一口に安定といっても、その背後で働いているメカニズムは様々である。もっとも単純なレベルでの安定は、物理的な硬度や粘性といったものに帰すことができる。
これらの性質は、その安定した物体と他の物体とがインパクトの授与という関係で結ばれる時のありようを記述するものである。
より複雑なレベルには、<生命>と呼ばれる相互運動プロセスの総体が働いて、変動状態が保たれ、それが体温、血液循環、血糖量、
そして生命自体といった必要な変数を安定的に保つメカニズムが存在する。
サーカスの綱渡りは、バランスの崩れを常に是正し続けることに寄って安定を保っているのである。
これら複雑な例からうかがい知れることは、生物や自己修正回路についてその安定を語る時は、
安定を作っている本体が示している手本に従う必要があるということだ。
サーカスの綱渡りの場合、重要なのは"バランス"であるし、哺乳動物の体にとっては、例えば"体温"が重要である。
これら重要な定数が刻々どのように変化しているかという情報は、体内の情報伝達網を通して報告されている。
その手本に倣うというのは、我々としても常に"安定"を何らかの記述命題が真であり続けている状態として見ていくということだ。
「軽業師は綱の上にいる」という命題は、(強すぎない)風の衝撃を受けても、綱の揺れという衝撃を受けても、真であり続ける。
この"安定"は軽業師の姿勢とバランス・ポールの位置についての記述が絶え間なく変化している結果なのである。
60:名前なし
09/10/04 03:29:31 2dIwLLkB
ということは、生命体について"安定"を語る時には、常に何らかの記述命題に照らし合わせ、
そこで使われる"安定"という語がどの階型に属すのか明確にしておく必要があるということである。
どんな記述命題も、その主語、述語、コンテクストは論理階型のあるレベルに振り分けられる。
変化に関する記述も全て同様の厳密性を必要とする。フランスに「変われば変わるだけ同じままだ」ということわざがあるが、
この種の味わい深い名言は、論理階型をごちゃまぜにしたところからその"知恵"を引き出している。
「……が、"変わる"」というのも「……が、"同じまま"だ」というのも共に記述命題であるが、互いに異なった論理レベルに属しているのである。
ここで今回検討した数々の前提について、若干コメントを加えておく必要があるだろう。
まず最初に、ここに並べた前提のリストはいかなる意味でも完成されたものではないということ。
真実とか一般即のとかいうものの全リストを準備することが可能だなどと私は考えていない。
この種のリストは常に限定されたものでしかない。そのこともまた、我々の生きるこの世界の一つの特徴ではないかと思う。
61:名前はいらない
10/05/25 00:48:05 Y+/h6eRo
A長方形
B三角形に近い台形
C誰もいない住宅街
D地蔵