DIR EN GREY京の詩を語るat POEM
DIR EN GREY京の詩を語る - 暇つぶし2ch384:名前はいらない
09/03/04 19:12:08 vlpxUmT0
さて高学歴の僕がさらっと解釈しますよ
歌詞を京の生い立ちから解釈するのは文学的にもう古いし、使われてない手法。
今はテクストそのものから解釈するのが主流。思考が言語を規定するのではなく言語が思考を規定する。
同時にバンドでの形式として内容としての思考は曲に規定される。京自身が曲を聴いてイメージが湧くとか言ってたしな。
ウロボロス
元来ニーチェの永遠回帰の意味。生が繰り返されるということは基本的にスピノザの神‐自然‐倫理の構造主義的な
決定論に合致する。マルクスの歴史認識やフロイトの無意識も同じ。自由な主体はないということ。
生が繰り返されることへの自覚こそがカント的な倫理であり、ニーチェのいう運命愛である。
それは逆に生の一回性の強調へと向かい、態度としては自己原因性を受け入れるというもの。
アルバムの筋として三島由紀夫の豊饒の海と似通ってくるのはそこから同じであると言える。
豊饒の海の人物と同じように天人五衰に至るまで生を自覚する態度が共通している。
ウロボロス的円環から外れた生の自覚に関すればメルロポンティの身体=自己というテーゼからも
ライブでの自傷が導き出される。フロイトによれば自己に対する攻撃欲動は自律的な倫理性を生む。
それがマロウやウロボロスでは際立っている。ライブにしても詩にしても。
ウロボロスが豊饒の海と似通ってくる点で秀逸なのはアルバムのイメージが同じく東南アジアだからだ。
三島が暁の寺でタイの仏教を描いたようにバンドも東南アジアも持ってきた点で、イメージとして。
アメリカ・ヨーロッパでの父系的(キリスト教的)社会でのツアー経験からアジアの母系性を見出したのだと言える。
この転回的な自覚は父系母系いずれの構造的決定論から逃れ世界性へと開かれている。
これはアメリカの小説家において第三世界出身者が強いのと共通している。
コンビニの「争い得たものそれは自由なのか」という疑惑は
ヘーゲル的な歴史発達において抵抗と同時に甘受する運命愛としての自我として機能する。


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